第35話『あなたは思いのままにならない』
後半第3者視点です。
私はため息交じりにリビングへと戻ったが――
「あれ。なんか人少なくない?」
「タニさんは風呂。上延さんと吉室さんと野田は煙草。青原さんと林と菜々緒さんはコンビニで追加の酒買いに行きました。安井さんは知らんっす」
「あ、安井君はトイレ……って買い出し組は大丈夫?青原君と林君飲んでたっけ」
「林は飲んでません。あいつが車運転してるんで大丈夫っすよ」
――そこには島永君しかいなかった。
私はそっかと頷いて彼が座っているソファーの端に座る。ふと先程の会話が思い浮かんだ。
「島永君とまともに話したのは4月だけど……入学前研修で私が落とした名札拾ってくれた……よね?」
「え」
「あれっ……やっぱり違った?」
「……覚えてたんすか。や、今まで聞かれなかったんで……」
「あの時は初めてのイベントでバタバタしてたし。こっちもうろ覚えで自信無かったからなんか言う機会逃して……」
私はバツが悪そうに肩を落として飲み物を探す。使い捨ての紙コップに飲料水を注ぎ、ついでに島永君の分も入れた。
「島永君でよかった。ありがとね」
「いえ」
私は紙コップを両手で包み、背筋を真っすぐ伸ばした。去年の記憶なのでざっくりとだが残っている。主にオープンキャンパスなど公的なイベントで使用する、SIGメンバーを識別するための吊り下げ名札。私は受付のテーブルにうっかりそれを置いたまま会場内を右往左往していた。そして沖谷君と進行について話していた時、島永君が置きっぱなしだった名札を届けてくれたのだ。
『すいません。これ先輩のすか?』
『えっ……あ!ありがとう!』
『いえ』
これだけの会話だった。でも注目すべき部分はその後。
『やべ。俺も班の机の上に置きっぱじゃった』
『ちゃんとかけとかないとー』
当時はすぐ入学前研修が始まったのでこの違和感に気づけなかった。微かに震える手を寒さの所為だと誤魔化す。私は水をひと口だけ飲むつもりが、気づけば全て飲み干していた。
「あの時、隣にいた沖谷君も名札つけてなかったんだよ」
「……で?」
「目の前で落としたワケでもないのに。どうしてその名札が私だと分かったの?」
「えぇー。当てずっぽうっすけど?たまたま一番近くにいた名札ない先輩が幸生さんで……」
「私の記憶では、名札を持った島永君の目は私だけを見てたように思えたけど」
「出た自意識過剰。フルネーム書いてあったらタニさんが隣にいても……」
そう。SIGの名札は漢字フルネームで書かれている。島永君が口を噤んだのは、彼もメンバー入りして名札を持っているからこそ気がついたのだろう。
「確かに自意識過剰の部分は否めなくて、当てずっぽうと言われたら苦しいけどギリギリ通る。けれどあの名札、フリガナは併記してないんだよ。どうして『沖谷幸生』が女性名だと思ったの」
「…」
「あの時、誰が名札をつけ忘れてたかまでは分かんないけど……スタッフ7人中女子は私とななちゃんだけだったよ。島永君が沖谷君と同じ班だったら顔見知りとかの言い訳が立ったけど、安井君の班だったんだね……。ならもう沖谷違い以前の話で、島永君は……」
「一目見て話せればそれでよかったんですよ」
彼は私の言葉に被せ、すぐ隣に移動する。声を出せば聞こえる距離に人がいることもあって、すぐには身構えられなかった。
「名前がそんなややこしい呼びだったのも、近くに同じ苗字の他人がいることも知りませんでした」
「……知ってたの?私のこと、前から……」
「今日でちょうど1ヶ月っすね。あんなことがあったらインフルエンザ以降も寝込むのが普通じゃないんすか?まぁ幸生さんにとって禄でもない母親だったからそんなに引きずってないかもしれないですけど」
島永君は隠すことを止めたのか、この世にいる人間で私しか知らないであろう情報を吐露した。
――私にお母さんがいることを知ってるのは、私だけのハズじゃ……。それに1ヶ月って……。
「島永君……君は一体」
言葉を浴びた瞬間、思考と感情が止まる。そしてその数秒後に遅れて恐怖が押し寄せてきた。瞬きを忘れて硬直している私を見て、島永君はもう言ってるじゃないですかと零した。
「俺は幸生さんだけの芹生っすよ」
誰も気づかないくらい些細な揺れだが、その言葉に痛みとも呼べる悲しみが宿っているような気がした。
(=^・^=)
楽村君はべったりというヒントから即座に気に喰わない人物の姿を思い浮かべた。
「1年の島永ですか」
「あー島永って細い眼鏡の?なんか沖谷さんと雰囲気似てるよな」
片井先輩の発言を聞いて、楽村君は複雑な心境を表情に出した。
「あいつは……人を煽ることで満足感を得る虫みたいな生き物です。沖谷とは全然違う」
「ぶふっ!」
「めっちゃ言うが」
「腹立ちますけど……本当に沖谷のことはただの先輩として接してるみたいです。だからまぁ……」
「本当かぁー?」
片井先輩も割と人の反応をおやつ感覚で味わえるタイプの人間だった。
「後輩なら猶更……沖谷さんみたいな人は油断して心を許しがちじゃと思うけどな」
(=^・^=)
そこまで昔でもない話。鯉川に住む4人家族の家に1匹の黒猫が迎えられた。父と母と2人の娘。そして1匹の老犬がどこか誇らしげに先輩風を吹かせている。そんなありふれた家庭環境――ではなかった。少なくとも黒猫にとっては。
臆病な気質の黒猫は触れられることを嫌い、無遠慮に近づく姉妹や父母によく攻撃していた。飼い主が触ろうとしたら噛みつき、写真を撮られることを察知すれば逃げ出す。爪切りや病院に連れて行くのにも一苦労。食事以外で滅多に姿を見せなかった。
一番の問題はトイレだった。粗相が多く、家族皆で黒猫を責めたてたことでますます怯えてしまう。飼い主一家がそんな一向に懐かず可愛げのない黒猫に愛想を尽かし、ペットショップで購入したことを後悔するのも時間の問題だった。
『――もう君が来てから2か月も経つのに。全然馴染めとらんワン』
黒い老犬は黒猫が来た時から日当たりが悪く、人目に付かない裏庭に外飼いされており、長い間洗われていないのか体臭が酷かった。傍に置かれている水入れも全体的に汚く、とても飲みたくはない。
『知っとる?俺がもうすぐ死ぬからキミを迎えたらしいワン。キミも自分の気質くらい痛感しとるじゃろ。このままやと捨てられるワン』
黒犬はめやにが溜まった目を細め、こっそり家の中から抜け出した新入りに助言する。黒猫は口を開くたび年齢マウントを取ってくる黒犬をうざったく思っていたが、先輩が置かれている状況が日に日に悪化していくのを見るにつれ――
『……いっそ、捨てられる方が幸せにゃんじゃと思うにゃー。先輩はどうにゃ?』
――己の未来を危惧すると共に、目の前の黒犬に対して同情に近い何かが湧いた。
『ハハハ。どう考えても捨てるべきなのはあの一家の方だワン』
『ニャ?』
『キミはまだあの家族の真の恐ろしさを知らん……おっと車の音だワン。脱走したことがバレる前に早く戻るワン』
そう促す黒犬の口から欠けた歯がちらつき、黒猫が思わず視線を下げると――爪を噛んだ痕跡が見られた。口調こそ落ち着いているが、言葉は健康時の牙のように尖っている。
色々と我慢の限界が近いのかもしれない。黒猫は他人事のようにぼやき、素早く家の中に戻った。
『――あー!ママー!パパー!また■■が畳の部屋でウンチしてるー!』
『えー!?もう嫌や……』
『……っ!何でパパとママの言うこと聞かれへんねん!』
『ギャン!!』
黒猫の体が飛び、腹部に鋭い痛みと衝撃が走る。追い打ちが迫る前に、震える足を何とか動かして隠れ場所を探す。カーテンの裏に身を丸めて耳を伏せ、できるだけ存在を消すように縮こまった。
――痛い痛い痛い痛い痛いどしてどしてどして……。
尻尾は身体に巻き付き、全身の毛が逆立つ。全ての感覚が『怖い』に集中していたかのように――底知れぬ恐怖に怯える子猫の姿がそこにあった。
『……とうとうやられたのかワン』
黒猫が声がした方向に顔を上げると、窓ガラス越しに澱んだ瞳の黒犬と目が合った。警戒心と恐怖を露わにしている新入りを見て、先輩はそっと耳を伏せる。
『今さっきキミが受けたのは暴力というものだワン。暴れる力と書くそれは、一度振るってしまえば常習化するワン』
『じょ……?』
『これから毎日、あの家族はキミに似たような危害を加えるかもしれんということだワン……俺がされたことと同じようなことだワン』
『…!!』
黒猫の心の奥に潜む明確な恐怖を刺激するかのように、黒犬は更に毒々しい言葉を重ねる。
『新入りには同じ目に遭って欲しくないワン。今からでも間に合う……2匹で外の世界で暮らさんかワン?』
『……でも、追いかけてきたらどうするんだにゃー』
『大丈夫だワン。こうすればアイツ等は二度と追いかけて来られんワン』
黒犬が練った闇の思惑は黒猫にとって非常に恐ろしく背徳で――けれど魅惑的に響いた。




