第30話『無気力症候群』
お母さんのこと。大金の用途。篠木の記憶。楽村君との関係――そして昨日、新たに『君』についての問題が増えた。
しかし、現在私を苦しめている悩みはこのどれでもない。
――おなか減ったのに……どれ食べたいのかが分からない……。
バイト終わり。佐古近くの図書館に寄った私は、今日開いた小説を読みきってから他の本と一緒に返却しようとした。読了後、空腹と疲労ですぐ立ち歩く気分になれず……ぼんやりと頭の中で料理を唱えては斜線を引く。
だだ今の時刻は19時30分。閉館まであと30分しかないが……後にすることを決めてからここを出たいものである。
――外……でもこの時間だと人いっぱいいるよな。カウンター席でも前に人がいるのが見えるタイプや隣に他人が座ってる状況も嫌なのに。
テイクアウトという方法も浮上したが、特にコレといった品が出てこない。私は諦めて返却予定の本と予約した本を交換し、雨の匂いが残る緑道公園を歩いた。
――もう大人しく家で作り置きの野菜炒めとお茶漬けにするか……昨日も食べたけど。
左に曲がればバイト先に続く道に差し掛かると、不意にある店が思い浮かんだ。
――アシカさんが働いてるBar……サラダとかピザとかご飯系のメニューも豊富だったよな。
バイト先近くにあるBar『Ermite』。一応オーセンティックバーらしいが、もう私の中ではダイニングバーである。だってご飯美味しくて……。
何の気なしに店の前まで近づき、バーランプを憂いた目で見つめる。すりガラスの扉では中の様子が全く掴めなかった。
いくら1人が平気でも、この店だけは覇弦さんがいないと入りづらい。静かに方向転換して帰宅しようとしたその時。
「沖谷サン?」
「っ!?」
急に裏声で名前を呼ばれ、肩がビクッと跳ねる。なんと私が店の前をうろついているタイミングで路地にいたアシカさんに見つかってしまった。
「覇弦イナイノ?」
「あ、私だけです。たまたま通りかかっただけで……」
「今日オ客サンアマリイナイカラ。沖谷サンガヨカッタラ……」
そしてあれよあれよとカウンター席に通され、私は人生初1人Barに挑戦するハメになった。
――バーテンダーの人と知り合いじゃなかったら一生しなかっただろうな……。
「今日モバイト?」
「はい。食欲はあるんですけど、何の気分でもなくて。ボーっと歩いてたらこんな時間になっちゃいました」
アボカドとサーモンのサラダとトマトマティーニを待っている間、壁にかかっている絵に注目する。私はふと財布を取り出して『ホシトキコ』の名刺を指でつまんだ。
――確かこの写真で撮った絵が神京のオークション会場に出品されるんだっけ……。
神奈浜で出会ったトナという女性。彼女の正体は超有名画家『ホシトキコ』だった。私は思い付きで真作を買い取りたいと打診してみたのだが――答えはまさかのOK。しかも快く。事が上手く進みすぎて偽物を疑った程だ。
トナさんに教えてもらった会場名を念入りに検索した結果、どうやら架空の会社が主催しているワケではなさそうだった。しかしまだまだ安心できない。
――ただ名前を借りている可能性。この絵自体、赤の他人が描いたモノである可能性……でっち上げを疑い出したらキリがないな。
画面の明るさを上げて『LXXXの窶れ』を凝視する。柔らかな黄色で彩られた老婆の背中と金盞花には、長寿の未来とそこまでに至る時間の影響が強く印象に残った。
――服が黄色だから女性に見えたけど……もしかして老爺?後ろ姿が小さいからよく分からない……。
「あっその絵」「わーっ!」「ヒッ……うぅ……」
急に背後から声をかけられ、私のリアクションで驚いた店長を泣かしてしまった。すみませんすみません。
「あっサラダありがとうございます。店長お久しぶりです」
「はい……今年お会いするのは今日が初めてですね。息災でお過ごしですか」
「いやあんまりですかね」
「……ごめんなさい……」
「いやお腹減ってただけですから!こちらこそすみません」
これは店長を泣かす為にワザと言った。実は泣き虫……じゃなくて彼の泣き顔は地味に好きだったりする。悪趣味だから誰にも言えないけど。
「店長、もしかしてこの絵ご存じなんですか?」
「え?ホシトキコの……今SNSやアートニュースで話題になっている作品ですよね?」
「ア、ソレ覇弦ガ話シテタ絵ダ。数年ブリノ新作ラシイネ」
アシカさんもカクテルと一緒に参加し、店長と『LXXXの窶れ』について会話を弾ませる。私もサラダを頬張りながら話に耳を傾けると――どうやら正真正銘、本物のホシトキコさんの作品であり、日本国内での出品は4年ぶりだとネットニュースが報じていたらしい。当然ファンやコレクターは大騒ぎ。『老人と花』というシンプルなモチーフは人々の目に残りやすく、予告の段階で非常に注目されていることが伝わってきた。
――本物……本人だったんだ。
こんな形で話題に上れば、流石の私も信用せざるを得ない。激しい動揺が体内を駆け巡り、思考が一瞬停止した。すぐ意識を予備に切り替え、機械的に口を動かしてサラダを食べる。カクテルグラスを持つ手が震えそうになるのを抑えるあまり中の液体を一気飲みしてしまった。くえぇウオッカ……!
「……っ凄いですね。どれくらいの値がつくんだろ」
「いやー。世界的評価が確立されてますからねー。この絵画サイズであれば最低でも1億前後……」
「え!?」
「海外コレクターが参加すれば更に跳ね上がるやも……」
「数億円モ……ソンナ入札スル人イルンダ」
店長はまるでニュースコメンテーターのような口調で己の見解を述べる。ただのBarのお爺ちゃん泣き虫店長でも、年相応の風格がこのコメントに信憑性をもたらしていた。
「絵ッテ凄イネ」
「ですねーー」
――凄いのはホシトキコさん……いや、ホシトキコ様だからだけど。
家に買ったらすぐオークションの日とネットニュースを漁ろうと決めた。
「沖谷サン……何カアッタ?」
「え」
「威弦ノコトトカ、最近……」
歯切れの悪い質問に何て返答すべきか悩む。彼のことだ。きっと本気で心配してくれているに違いない。
「篠木は多分避けられて……じゃなかった。私から距離を置きたい的なことを言ったのでしょうがないです。もう私に恋愛は無理だなーって思ったので」
「ソ、ソッカ」
「私の所為でアシカさん達に迷惑かけて……ますよね絶対」
「イヤッ。威弦ノ情緒ガ変ナノハ毎日ダシ大丈夫」
「そうですか?でもすみません。じゃあ注文――」
追加で頼んだローストビーフのカナッペでお腹を満たし、ホットアマレットティーで心を落ち着かせる。ホシトキコ様のことは一旦脇に置いて、今はアシカさんとの会話に集中しなければ。
――まぁでもアシカさんは最初の方からあまり篠木と関わって欲しくなさげだったし。そこまで気を張らなくても大丈夫かな。
「威弦ガ何カシテキタラ言ッテネ」
「ありがとうございます」
「無理ニ覇弦ノ言ウコト聞カナクテイイカラ」
「本当に嫌だったらちゃんとそう言いますよ」
「じゃあ何で浦本淳と遊園地行ってるの」
「ゑ?」
違うベクトルで動揺が走る。バッと後ろを向くと、店内にいる客は私だけだった。だからいきなり地声に戻したの!?
「まさか好きで行ったとか?」
「いや……ホワイトデーだそうです。アシカさん何でそれを」
「アイツ普通に喋ってたよ」
「そうですか……」
実家に泊まったことまではバラしていないっぽかったのでセーフとしよう。
「もっと拒まないと駄目だよ。付け入る隙があるくらい優しいから……勘違いするんでしょ。威弦がずっとあのままでいる訳ないから」
アシカさんの言うことはもっともだ。私の好きなド正論。
――分かっているんだけど……。
「ただ逆らえなかったのも、年上相手に強い言葉が出せなかったのも、人として当然の行いをしたつもりだったのも――全部、優しいで括られるんですかね」
「うん。最後は違うけど、前2つは沖谷さん全然出来るじゃん」
「ぐっ。あ、あれはまぁ色々あって……」
身に覚えがありすぎた。篠木の事務所に強襲した時とかね……。
「確実に傷つけるから、離れたかった。でも彼等の本気には到底叶わなくて……いつも妥協で尊重してしまうんです。楽村君にも同じこと言ったんですけど、結局駄目で……。ただ人として嫌われなければ、それで十分だったのに……」
意図的に自虐を多く含ませる。アシカさんは他の人より共感してくれるだろうという願いを込めて。
「それでもさ……」
アシカさんは言葉を詰まらせ、逃げるように裏へと引っ込んでいった。酔いもオブラートが剥がれるくらい回り、空腹も収まっている。もう潮時だろうか。
俯いて札を数えていると――コトン、と小さな音を立てて何かが置かれた。
「……沖谷さんなら変えられるよ。自分にとっての嫌な部分も、きっと良いように変えられる」
『Ermite』客A「(扉にかかっている札を見て)あれ?『臨時休業』……マジか」




