第1話『篠木威弦は邂逅する』
――はーーだりぃ。
篠木威弦は会計事務所があるビルを見上げて紫煙を吐く。時刻は午後18時。事の発端は所長兼、実兄の覇弦からの着信だった。
――俺だって向こうで仕事振られてんのによぉ。あーうっぜ。何でそっちの仕事も手伝わねーといけねんだよ。
威弦が超絶不機嫌であることを隠さずにいることで兄をビビらせようと考えたその時。
「!」
ビルのドアから1人の少女が飛び出してきた。
「…」
眼鏡の奥にあるくりっとした瞳を潤ませ、溢れ出た雫が頬をつたう。彼女は威弦がいることに気づかず、泣きながら別の道――佐古駅がある方角へと走っていった。
――あ?
暫くの間その場に立ち尽くし、先程の少女を脳内で再生する。威弦にとって女性の泣き顔など只々面倒で煩わしいものだったが――彼女、沖谷幸生の泣き顔だけは一目見ただけで脳天が痺れ、心がざわついた。
――は?いや……なんだアイツ。
能面が張り付いたような顔から一切の感情が読み取れず、涙を流しているのに「こいつは悲しんでいる」とは思えなかった。一体何故だろうか。
――って、んなのどーでもいいだろ。
威弦は我に返り、不明瞭な少女を頭から追い出す。5階建ての雑居ビルには3階から5階まで会社が入っており、電気がついているのは覇弦の会社と最上階だけだった。
4階の階段に置いてある灰皿にほぼ吸えていない煙草を捨て、仕事をするだけの機械と化す。威弦はふと彼女を思い出しては隅に追いやるを繰り返した。
――上って確かコールセンターだったか。
2階はデイサービス事業所。3階は柳下組の支部。消去法で幸生はコールセンターの従業員だと推測した。
「――よし。来週までこの調子で頼む」
「……今日より早く来んのはいいだろ?」
「は?」
「あ?」
「いや……大丈夫だ」
――普段なら悪態吐いて抵抗するところなのに何も言わねぇ……大丈夫か?
兄の覇弦は来てからずっと心ここにあらずの弟に疑問符を浮かべる。いつもなら終始文句を垂れつつ仕事を進めるが、今日は彼がどれだけタスクを積んでも素直に従った。それもその筈。
――明日も見れっかな。
威弦は自覚が無いまま、漠然と幸生という存在に囚われていたのだから。
(=^・^=)
そして運命は威弦に味方する。次の日、たまたま彼が通りかかったタイミングでビルのエレベーターが閉まりかけた。
――ラッキー。
ボタンを押して滑り込むと、古く小さな箱には先に乗っている人間がいた。
「!?」
威弦は目を見開き、幸生の後姿を凝視する。彼女は静かに彼が行き先ボタンを押すのを待っていたが、すぐに振り返って口を開いた。
「……何階で……」
威弦は即座に反応し、幸生が言い終わる前に後ろから手を伸ばす。彼女に覆いかぶさるような体勢はエレベーターが動き出すと同時に解いた。
――すっげぇいい匂いする……やべぇ。
荒くなりかける呼吸を宥め、香水とは違う香りに没頭する。視界が幸生の髪と首に絞られて本能が嗅いで舐めて噛みたいと叫んだ。
――香水特有のキツさじゃねーな。甘ったるいのは吐き気するけど。何でコイツのは……。
最低限手入れされたサラサラの髪、無防備な首、耳も小さくて可愛い――と威弦が思ったところでエレベーターが4階に到着した。開いた瞬間足を動かせたのは奇跡に近い。
――あっぶね。意識が吹っ飛びかけた……てかアイツ、俺が近づいても顔色一つ変えなかったな。
威弦は幸生が驚きのあまり微動だにできなかったと解釈する。彼女が彼に一切の興味を向けなかったからという答えは捨て、その日は大人しく兄の仕事を手伝った。
――目も全然合わねぇし。まぁ次会ったら俺から話しかけてやっても……。
面倒で窮屈な事務作業も、幸生のことを考えている間は嫌悪感が薄れていった。
「…?」
――昨日に続いて今日も?流石に変だな。でも指摘して戻んのも怠いか……。
覇弦は明らかに態度が変わった弟を凝視し、好奇心とリスクで内心頭を抱えた。
そして数日の間、威弦は何回か幸生を見つけて盗み見た。エレベーター内で鉢合わせするような奇跡は訪れなかったが、横顔や後ろ姿を見るだけで割と心が満たされていくのを感じる。
――なんでいつも虚無顔っつーか……今にも死にそうなんだよ。
血圧低めの顔色に色々な要素が混在した雰囲気。足取りは確かだが、そのまま帰ってこれない場所まで独りで行ってしまうかのような危険性を帯びている。威弦の肩にギリギリ届かないくらいの身長、平均以下の体重、中学生でも通るくらいの童顔――沖谷幸生にはどこか危うげで庇護欲をそそられる要素がたっぷり詰まっていた。
――流石に成人はしてるよな?学生か……20超えてないんじゃね?
調べようと思えばいくらでも調べられたが、威弦は敢えてそれをしようとしなかった。まだそこまでの興味を持っていないと自分に言い聞かせていたからだ。
――はぁ……もう秋って呼べなくなっちゃったのかな。
幸生が威弦を認識しないまま日数が経過し、ついに彼女がスタートラインに立った場所は――肌寒い深夜の駐車場だった。
(=^・^=)
幸生が親友の小野光はるまの家に遊びに行った帰りのこと。アパートの横にある駐車場にて座り込んでいる男性を発見。一瞬幽霊かとギョッとするも、見ただけで彼の意識がまだこの世にあるということが確認できた。
――ぱっと見憔悴してるっぽいな。手でお腹抑えてるってことは……結構危ない状態?
いつもなら見て見ぬふりをして帰宅するところだったが、今日の幸生は機嫌がすこぶる良かった。夕食にはるま母の手料理を食べ、お土産に作り置きのおかずまでもらったからである。
――まぁ救急車呼ぶくらいだったらしてあげてもいいかな。
幸生は傷だらけの男性――威弦の前にしゃがんで紙袋からペットボトルの緑茶を差し出す。
「お茶飲みますか?」
「あ゙?」
――は!?何でコイツが……。
威弦は月明りに照らされた幸生を認識し、驚きのあまり言葉を失う。その一方で幸生は新種の敵意に怯んでいた。
――年上……の男性に殺意を向けられたのってこれが初めてだな。同性は腐る程あるけど。
「……とっとと失せろ」
「…」
幸生はお茶を威弦の前に置いて大人しく立ち去ろうとしたその時、彼の腹が大きめに鳴った。
「…」
――こ、これは恥ずかしい。てか空腹なのかこの人。
「チッ。早く行けっつってんだろ!」
――あーー。まぁいいか。
更に怒り出した威弦を横目に、幸生は諦めて幸せを譲渡することにした。許可なく座り、紙袋から使い捨て弁当箱と箸を出す。
「良かったらこれどうぞ。まだほんのり温かいですよ」
「は?」
幸生が輪ゴムを取って蓋を開けると――ふりかけご飯、ナポリタン、きゅうりの漬物、唐揚げ、メンチカツ、卵焼き等がコンビニ弁当のような容器に詰められていた。全てはるま母の手作りである。
――明日食べるの滅茶苦茶楽しみにしてたのに……はぁ。
断られたら即帰ると決意し、若干の期待を向けるが――幸生の予想を裏切って威弦はゴクリと唾を呑み込む。彼は午後から珈琲以外何も口にしていなかった。
「味は保証します。どうぞ召し上がってください」
――は?めっちゃ美味そう……何で深夜にこんなの持ち歩いてんだよ。
急に湧いて来た食欲に耐えられず、目の前の弁当に手を伸ばした。威弦は宝石箱のようなラインナップに目が眩んだ後、恐る恐るメンチカツをかじる。
「!」
――うまっ!!まさか全部手作りか!?
そして我に返ると――手の上にある弁当は綺麗に食いつくされていた。
幸生は彼が夢中で食べる姿をまじまじと見つめ、良きタイミングでお茶を差し出す。
「食べるの早いですね」
「見てんじゃねぇ。何でまだいんだよ」
「いやぁ……誰かと一緒に食べるご飯って、実は楽しいんですよ」
「は?」
幸生は夜空を見上げて追体験する。それは彼女が一度失い、存在自体を忘却していたものだった。
「私もご飯は1人で食べるのが好き派なんですけど……誰かが傍にいるのも悪くないんだなって、今日気づいたんです」
そう呟いた幸生の瞳は、暗く柔らかな熱を灯していた。威弦はその様をぼんやりと見つめ、自分は今夢を見ているのかと疑う。現実だと証明するため、彼が何かを言う前に幸生が動いた。
「ゴミは私が捨てとくのでください」
「……手作りか。これ」
「そうです。美味しかったでしょ」
――なんてったってはるまのお母さん作だからね。メンチカツは夜私も食べたし。
「まぁ……」
ペットボトルの蓋を閉め、威弦はそっぽを向いて腫れた顔を隠す。今更、仕事で多勢を相手にした直後だったことに恥ずかしさを覚えた。
――カッコ悪ぃ。何でよりによってこんなダセェとこ見られんだよ。
今すぐどこかに消えたい。消えて欲しい。もっとこの時間が続けばいいのに――微睡む意識の中で、威弦はそんなことを思った。




