プロローグ『涙の理由とは』
――今日もアポ取れなかった……明日もシフトなのに。
2日連続で仕事が上手くいかず、沖谷幸生は肩を落としていた。そこに追い打ちで母親から着信が入る。
「…」
幸生は階段の真ん中で立ち止まり、諦めの心で電話に出た。
「はい」
「サチ?今日アンタの机とか布団とか全部捨てたから」
事後報告に一瞬視界が眩むが、さしてダメージはなかった。
――別に。要るものは全部新居に持っていったし。
「制服も卒業アルバムもないから。アンタとナルの部屋はもうナルの1人部屋にしちゃったからね」
――つまり、もうあの家には私物も部屋も全部……。
「分かりました」
幸生は冷静に自分が今置かれた状況を理解して淡々と返事をする。母は他人行儀な敬語が気に喰わず、ただ幸生を傷つける為だけの台詞を吐いた。
「もうアンタの分の食器もタオルも無いからね!泊められないの分かってる!?」
「はい」
「バイトで学業疎かにしたら承知しないから!」
幸生が言葉を発する前に電話が切れ、母が家電でかけてこなかったことに安堵する。
――あの『ガチャン』って勢いよく切られる音、好きじゃないんだよな……。
幸生は今年の夏から一人暮らしを始めた。それはずっと彼女が夢見ていたことであり、家族と向き合うことから逃げた証でもあった。
――私から捨てたんだ。もうあの家には二度と帰りたくない。
スマホを握りしめ、ゆっくり息を吸って吐く。幸生にとって家族と実家は決して心休まる居場所などではなかった。
――だから……別に。部屋が無くなろうが私の分の食器が無くなろうが……要るモノは全部運んだし。大丈夫……。
ポタッ…と熱い何かが流れる。電話の内容に心を痛めたのか、バイトでのストレスが零れ落ちたのか、母親の怒声に恐怖を感じたのか――全部かもしれないと、幸生は悲し気に目を伏せた。
「…っ」
――帰ろう。早く早く。私だけのしあわせな家に……。
幸生は腕を振って走り出す。歯をキツく食いしばり、溢れて滲む視界のまま絶望を振り払った。




