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奈落の僕らは頭がおかしい

作者: 亞沖青斗

 正午前の穏やかな斜光が辺りを包む、三月上旬。晴れ間は覗くも薄雲のはった淡白な空だった。三階教室の窓から真逆に視線を落とせば、感動的なシーンが有り難みも無く垂れ流されている。

 同じ高さから飛び降りた保谷慎也は、この眺めに絶望しなかったのだろうか。そんな事情を知ってか知らずか、昇降口から続々と溢れ出した生徒らの中には、この瞬間を別の意味で惜しんで咽び泣く者までいた。

 見知った顔ぶれを探す。大勢なる友人らと記念撮影にいそしむ陽気な男子生徒、特に親密でもないのに担任教師へ涙ながら頭を下げる真面目な女生徒。はたまたは愛の告白でも受けているのだろうか、手を差し出す男子生徒を前に、身を硬直させる金髪の女生徒。

 カシャッと、本日に限っては珍しくもないシャッター音がそう離れていない場所から聴こえた。

「はーい、添田。なに黄昏てんの」

 廊下側からスマートフォンを操作しながら現れたのは、胸花が似合う制服姿の女生徒だった。彼女は、派手な寄せ書きで飾られた黒板前を素通りする。

 一年間、同じクラスでも会話の機会はほぼなかったが添田大樹は改めて、清楚系だな、と実感した。快活明瞭、博愛主義、温厚篤実、年末には不審火からの自宅全焼と不遇な立場ながらも持ち前の根性から再起を果たしたというそんな好評判ばかり耳にする人とも、残念ながら今日でお別れ。

 もっとも彼女の声は柔らかいのに、大人向けの笑顔は張り付いたようでいて、目もどこを見ているのかわからない。賞状筒もかたく握り締められていた。

「添田ひとり? さみしそー」

「べっつにい、腹が痛かったらトイレ行って戻ってきたとこ。高校最後の脱糞は、思い出に残る素晴らしいひとときだったよ」

「あんたサイテー」

 彼女の笑顔が、凋落したのも無理はない。この卒業式という祝いの瞬間であるからこそサービス精神を引っ張り出して話しかけただろうに、無神経極まりないジョークで返されば気分を害すること間違い無し。顔を強張らせる東垂水紗栄子。普段から忙しく表情を変える女生徒だ。学業も優秀で、校内随一と呼び声高い人気もうなずける美貌である。日本屈指の超一流と謳われる大学に合格しただけあって、このままいけば四月から予定する新生活も華々しく飾られるのだろう。

 こいつに、僕の気持ちなどわかるまい。そう睨みを効かせたくなったが、ここは我慢した。数秒間たっぷり大きく伸びして、大樹はまだ立ち尽くしたままの東垂水に向き直る。

「なあ小林先生、見かけなかったか。校庭にはいなさそうなんだよなあ」

「小林先生、さあ?」

 東垂水は、斜光の注ぐ頭髪を揺らす。期待されていると勘違いでもしたのだろうか真剣そうな愁眉で考え始めて「職員室か、音楽室か、音楽準備室かな?」と勿体振った仕草の割には、誰にでも思いつきそうな助言を並べた。

「だろうね」

 顔面をバチンとはたいた大樹を見て、東垂水が身を引く。

「なに? 刺し違えに行くの?」

「まあ、そう思ってもらって差し支えはない。じゃあな、もう二度と会うことが無いと思ってるから、どこかで見かけても気安く話しかけてくるなよ。じゃないとビックリして、思っているより早く心臓止まっちゃうから」

「口悪いクセに気が弱い、って良いとこないね」

「まあ、よく言われるよ」

 帰り支度していると、まだ何か用があるのか彼女は逡巡しながらも、窓際席までさらに接近してきた。大樹は思わず身構える。

「なに?」

 彼女は少し照れ臭そうに俯く。

「あのさ、これからみんなでカラオケ行くんだけど」

「行ってらっしゃい。無事は祈りません」

 背を向け教室を出ようとしたころで、意外や剽悍な動きで袖を掴まれた。

「そうじゃなくて、添田も一緒に行かないかってことよ」

「行かないよ。洋楽しか聴かないし」

「マジで? あたしも洋楽好き! 何聴くの?」

「断るために言った嘘だよ」

「さいてーか」

 そんな彼女に向かって、大樹は侮蔑色満載で鼻を鳴らす。「じゃあ今度こそさようなら、良きリミテッドライフを」

「あたしは添田を呼んできてって頼まれたから、わざわざ探しにきたのよ」

「誰に?」

「二組の連中、とみちゃんとか知らない? アブトラとか、添田がいつもつるんでる、あいつも」

「僕は小林先生に用事があるから、行かん!」

「ちょっと」

 それでも食い下がらんとするものだから、逃れるために大樹は廊下へ飛び出した。

「みんな添田を待ってるんだよ!」

 既に無人となった三年生の教室脇廊下を、勢い殺さず駆け抜ける。二つの建物を渡り廊下で繋ぐ、カタカナの『エ』の字型をしたシンプルな校舎。そのちょうど渡り廊下へ、大樹が差し掛かったところだった。

「走ったら危ない!」

 渡り廊下側へ繋がる曲がり角から現れた一つの人影を脇にして通り抜けた瞬間、大樹は急ブレーキののち振り返った。

「小林先生」

 中庭側の窓ガラスから陽光浴びる黒髪ショートヘアが、異様なくらい似合っている正装のフォーマルスーツで、これまでの学校生活では見慣れなかった赤いルージュを引いている。年齢二十六才の八面玲瓏なる音楽教師は、町をあげて祝いたくなるほどに本日も美しかった。

「先生、ちょっと待って下さい」

 小林もまさか大樹に呼び止められるとは、露にも思っていなかっただろう、逆方向へ歩く姿勢のまま振り向いた。

「小林先生のことが好きです。付き合ってください」

 廊下の隅々まで響き渡る声量で、大樹は叫んでいた。この瞬間を逃してなるものか、と。

 しつこく着いてきた東垂水が「はあ?」と仰天する。

 小林光惠はいかにも異風を前にした反発心旺盛な眼差しで、上履き用のパンプスの踵をカツカツ鳴らしながら、大樹に歩み寄った。なんとお美しい御尊顔だと、圧倒されて仰け反る大樹は、次に浴びせられる言葉さえも想定済み。

「考えてあげてもいいんだけどね。君さ、卒業前に色々あったみたいだけど、解決したの? ほら、アブミさんをストーカーしていたとかいう」 

「もちろん、解決しましたよ。もしよければ、詳しくご説明します。今から生徒指導室など如何でしょうか」

「いいわよ。ひとりだけ、校長室で卒業式を迎えた添田くんの内情、興味あるから」

 歳上女性の余裕たっぷりという手招きに、冷や汗を隠す大樹は、薄っすら笑みを浮かべた。


「じゃあ、二週間前のはなしからね。トレイシー鐙ケ谷のこと。それからさっきの返事してあげる」

「わかりました。この添田、尽力かけて説明致します。ことの発端は、今も昏睡状態である保谷慎也くんの、二週間前のいじめ自殺未遂事件にまで遡ります」

 手狭な四畳半程度の生徒指導室の簡素な会議用長机を挟んで、大樹は光惠と相対していた。三階角部屋で全開にされたカーテンの窓からは、卒業生の賑わう声がまだ聴こえてくる。大樹は、本日を最後にして使用の機会がなくなる学校鞄から一冊のノートブックを取り出し、光惠との間に置いた。

「まだ犯人も特定できていないあれね。で、これに関連性が残されていると」

「こうやって、部外者に説明しなければならない機会が訪れるのではないかと、予測していましたからね」

 光惠は納得しきれない様子で、こめかみ部分を掻いていた。いじめ事件が関係すると知れば、立場上、冗談半分に揶揄できないだろう。

「そういえば、君は就職だったかな。それで報告に凝ってるとか」

「コネ入社させてくれる叔父の方針ですね。馬鹿にでもわかるように説明できる能力をつけておけば、馬鹿は馬鹿なりに評価してくれるらしいので」

「私のこと馬鹿にしてる?」

「とんでもないです。馬鹿は僕です。先生、大好きっす!」

「それはわかったから、じゃあ説明してくれる。教師の立場としても興味があった案件でもあるから」

 最後のページを開いた大樹は、そこに記された一人の生徒の名前を無言で指し示した。それまで期待に満ちていた光惠の目つきが、にわか険しくなる。

「どういうこと?」

「まず最初に、僕はアブミなんざあ、好きじゃござあせん。誰があんな自己中で、自分の目立つ容姿をひけらかすような、恋多き節操の欠片もない女なんか。ついでに言うなら、あいつはさっき校庭でどこぞの男子に告白されていましたよ」

「それを黙って眺めてたの?」

「当然です」

 大樹は毅然と胸を張った。光惠が未だに疑わしい眼を向けて来るので、焦らすのもここまでにして早速ノートを開ける。

「では事件勃発から初めます。あれは、僕たち今年の卒業生が自由登校になっている期間でのことでして、今から二ヶ月前、このノートには一月十二日と記されています。その火曜日、唐渡武雄を呼び出して登校してきた時に聞いた、ある噂から始まります。武雄のことは先生もご存知ですよね」

 光惠は、神妙な面様で首肯した。

「まず、僕がアブミと初めて知り合ったのは、高校一年生の時です。きっかけは、僕と中学の頃から友人である唐渡武雄にあります」

「私が、添田くんを個人認識していた理由もある意味、あの唐渡くんと常に一緒にいたからかもね」

 酷い言われようだ、と大樹は苦笑するも否定はできない。唐渡武雄は、中学生の頃から友人関係を継続している、大樹にとって貴重な存在である。常から余裕ある態度で、一片のストレスも垣間見せない彼は、自分の限界や実力をある程度把握した上で、活躍の場を見つける要領の良いタイプだ。人当たりもよく、勿体ぶって親切心を出し惜しみするほど器量は小さくない。

 異性にも人気はあった。明るいだけではなく、機転も利く。四年前の中学生時代、特別課外授業でのオリエンテーション時に、元は仲の良いクラスメイト同士がちょっとした諍いから暴力を伴う騒動にまで発展した。そのとき武雄は、驚いたことに割って入って二人を殴った。文句があるなら俺に言え、と自らが悪者になり喧嘩の矛先を無理矢理自分へ向けさせて、事態を収束させるという、かなり荒い強行策に打って出た。

 結局、武雄がそんなことを言うなんて深い理由があるはずだと、周囲の生徒から教諭にまで庇われあっさりと問題は解決。普段の信頼性が直結したとまで云える。僕ならできない、と大樹は当時思った。仮にやれば、悪者扱いのまま周囲の人間関係までを木っ端微塵に破壊する自信がある。

「武雄は、強力な磁石みたいなやつです。僕は砂鉄の一砂に過ぎません」

「君が砂鉄かどうかなんて、今はどうでもいい」

 ますます鋭利となる光惠の眼差しが、元より強くもない心臓にまで刺さってくるようだった。貧弱を自認する大樹は生唾を飲み込む。つい先程の校長や教頭と同じ──しかし、負けじと立て直す。

「アブミも御存じの通り、武雄と同じ強力な磁石」

「その二人が惹かれ合ったと?」

「敢えていうなら、それに関しては反発し合う性格だったんです。ただまあ、友人同士なら上手くいった」

「それは交際していたけど、結果的に破局したということね」

「三ヶ月も、もちませんでしたね。僕とアブミが交友関係だったのも、その間だけでした」

「だから、アブミさんに執着心が無い、という証明にはならないわよね。まさか、君も実はアブミさんと付き合っていたとか」

「それは無いです。目立つ女は嫌いですから」

「でも、尾行はしやすい、と」

 ようやく色恋沙汰から話題が逸れたので、大樹は黙って次ページを捲った。

「アブミと久しぶりに会話したのは、一ヶ月以上前です。ストーカーだのと、噂が立ちだした時ですね」

「噂では、君は常時、ロープを持ち歩いているそうね。校長と教頭からも聞き取りがあったみたいだけど、他教員には詳細が知らされていない現状よ。しかも、アブミさんは頭に怪我をしていたわ」

 ノートには「アブミのひたいに怪我」と記していた。つまり、大樹による暴力行為だと学校関係者から疑われ、尚且つ生徒や保護者にまで広く伝播してしまったわけである。

「おかしいわよね。心配した教員からの質疑でアブミさんは、犯人を見ていない、と答えた。でも、正面から殴られた。もしかして、アブミさんは犯人を庇ってるんじゃないの?」

 だから、大樹とアブミが過去に交際関係があったのではないか、と疑いかけた。光惠が冷淡に指摘する。

「角で待ち伏せされていたなら別だけど、場所は階段だったらしいわよね」

「どこの階段だったかご存知で?」

 光惠の顔が更に険しくなった。大樹は咳払いして続ける。

「保谷くんの住むアパート近辺ですよ。ここにも書いています」

「アブミさんが殴られたのは、一ヶ月以上前。保谷くんの飛び降りが」

 ノートのトップページに戻る。それは本日の卒業式より二ヶ月前にまで遡る一月十二日。もっと以前から発生していたのだ。発端となる事件は。

「もうお気づきでしょうから、ここではっきり言います。保谷くんの、いじめ飛び降り自殺未遂事件に、アブミらが関わっていると確信したから、僕はアブミを尾行していたんです」

 大樹の指先は、ノートの文章をなぞる。

「保谷真也くんは、近隣の東小学校に通う三年生。家族構成は父母含めた三人で、一人っ子です。保谷くんが塾に通う日は、週に二回。月曜日、金曜日、の午後四時から五時までで、帰宅後も共働きの両親はアパートに不在。自宅から徒歩十分の場所にあることから、一人でいかせていたそうです」

 最後に両親が保谷真也の元気な顔を見たのが、一月十二日、月曜日の朝八時。彼は、その日の十七時半頃、自宅アパート三階のベランダから飛び降り、直後を近隣住民に発見された。直下が自転車置き場のポリカーボネート素材屋根だったことから、飛び降りた衝撃で天板が割れ、アスファルト地面に落下したときは多少の相殺効果もあって、なんとか一命だけはとりとめた。

「派手に割れた音を聞きつけて、近隣住民がすぐに救急車を呼んだことも助かった一因です。で、大事なことはここから……その同じアパートに、唐渡武雄が住んでいるんです」

「なるほどね」光惠は深く頷いて先を促す。

「事件の翌日、その日のことを興味本位で武雄に訊いたんです。どんな感じだった、と。すると、部屋にいたけど詳細は知らない、と言うんですよ」

「それはおかしな話しね」

「そうでしょう。疑って足りるわけですよ。大騒ぎになっているのに、武雄が何もしなかった? それで、独自で調べたわけです」

 光惠が、若干こちらへ身を乗り出す。

「意味深い言葉ね。それが、卒業式を校長室でひとり終わらせた添田くんの秘密にも直結するということかしら。今も唐渡くんや、アブミさんを避けている理由。続けて」

「保谷くんの顔から下の身体に継続的な暴力の痕があったことから、いじめと断定されました。今も、小学校で第三者委員会が設置されて調査がなされています。第三者委員会メンバーには、この高校の校長、弁護士会から選抜された大山という男、スクールソーシャルワーカーの日比谷という女、そこに精神科医である武雄の親父が入った」

「ほう」

「その頃から、武雄はアブミともう一人の富平という女生徒の三人だけで集まり会話することが増えました。何故か? 破局の過去がある武雄とアブミにまた交流ができた。そのタイミングが、保谷くんの事件後。つまり、アブミになにかしら、事件の関わりか重要な情報の保有がある」

「あるいは?」

「周りにちょっと訊けば簡単にわかりました」

 ノートに視線を促す。

 アブミには歳の離れた弟がいる。東小学校に通う三年生。大樹が実際に偵察して確認したところ、身の丈およそ百六十七センチと三年生にしてはかなり身体が大きい。リーダー格で仲間も多い。その彼も、春休みに突入するまでのここ二ヶ月間、家からまったく出てこない。


 次のページへ進む。

「富平の父親は警察官です。警部だったかな」

「警察か……唐渡くんは、警察官の親を持つ富平さんだから仲間に引き入れた?」

「富平が唐渡とつるみ始めたその一週間後、アブミが例の怪我をした。頭にメッシュの網と包帯を巻いていました」ページを戻す。下手な似顔絵には赤文字の丸。「患部はひたい。打撲と裂傷、診断では全治一ヶ月」

「それってまさかだけど、本人に訊いたの?」

「はい。一人のときに、まさか僕に話しかけられるとは思っていなかったのでしょうね。びっくりしていましたよ。その怪我、いじめ事件と関係あるんじゃないか、って訊いたから余計にね。アブミはこう答えました。逃げた犯人は男だった。おかしいですよね。突然の急襲で、頭部への攻撃、意識は朦朧、視界は二重三重とぶれて白濁状態であるのに」

「というか、それだけで無事だったの?」

 訝しげに光惠が眉をひそめる。それはそうだろう。美人の部類である女性が一人のところを、男に襲われたのだ。

「僕はなんとなく直感で嘘だ、と思ったんです。だから、別で武雄にも訊いてみた。お前のアパート近辺でアブミが被害にあったらしいな、って。あの武雄が慌ててこう言いました」

 大樹は再びノートの最後ページ、ある名を指差す。

「俺がやった、秘密にしてくれ、と」

「そう、なるほど」

 光惠の目線が、ある今も賑わう屋外運動場へと傾く。

「そこで、僕は次の動きに出たわけです。事件が起こったアパートを偵察に行きました。保谷くんの住んでいるアパートは三階の五部屋入る右から二番目で、下には自転車置き場」

 そこで、ノートのページをめくりまた指差す。唐渡武雄の住む部屋、二階の右から二番目。

「おかしいですよね。保谷くんが、三階ベランダから落下したなら、直下の武雄が部屋にいて気付いていながらベランダに出て確認もしなかった。なぜ?」

「もしくは、出られなかった理由があった」

「そうなりますよね。それはさておき、次に保谷くんがアパートから通う塾への道順を調べました。アパートは、周辺の旧住宅街よりちょっと高台の丘にあります」

 次のページを捲り、糊付けした拡大マップの印刷を指し示す。高台のアパートから塾に行くには、南方角にある五十段ほどの階段を降りて、最短で目抜き通りに出るか、北方角にある九十九折りの車道をくだって旧道に出てから、南側まで迂回するかの二通りのみ。

 東方角は絶壁になっていて、十メートル直下は新興住宅街予定の分譲更地が広がる。西方角は、高台から旧住宅街まで針葉樹のが林が群がり、穏やかな角度で下る。

「もう一度言います。事件後、アブミは、富平とこのアパートにしょっちゅう来ていました」

 大樹は、この林に身を潜めて、辺りの様子を調べていたのだ。

「で、塾に行く場合、最短距離なら南側の階段から主要道路に出て、それから塾がある駅前のほう、西のほうに徒歩で向かう。ただ、保谷くんは帰りだけ北側を使っていたそうです。ご両親から訊きました」

「そこまでしたの」

「塾の帰り、保谷くんは旧住宅街の駄菓子屋によってお菓子を買っていたんです。学校に行く時も南側の階段を使っていたとも言っていました」

 要点は、週に二回、塾からの帰宅時のみ北側の坂道を使っていた。大樹はノートの文章を指差す。逆にその時しか、駄菓子屋の店主である老婆は、保谷真也を見かけていなかった。

「だから、塾の曜日だけに何かがあると、君はふんだわけね」

「そうです。駄菓子屋は、近場に住む多くの小学生が利用しています。アブミの弟もね。駄菓子屋は昔ながらの長屋で、建物の奥には土間があって、コマ回しやカードゲームやら、今どきのポータブルゲームやら、雨の日でも自由に遊べるスペースまで設けられているんです。さしずめ、子供たちからすれば、親の目を気にせず遊べる秘密の場」

 光惠があからさまに顔をしかめる。

「いじめをするなら、かっこうの場ね。その説明じゃ、保谷くんは塾の帰りに、駄菓子屋でいじめを受けていて、耐えられなくなって飛び降り自殺をはかったということになるけど」

「待って下さい。まず、僕が思うに、自殺じゃないんです」

「自殺じゃない、とするなら、じゃなあなんで飛び降りたか……まさか」光惠がノートを最終ページまで飛ばす。「これから逃げるため?」

「そうです。昏睡状態なんでまだ調書はとれていないでしょうが、警察も薄々気づいていますよ。自殺なら、自転車置き場の屋根があると分かっているベランダから狙ったように飛び降りるわけがない。保谷くんは、助かりたい一心で僅かな望みにつなげたに違いない」

 光惠が鼻を鳴らす。さっきから、妙に臭うな、と。

「まさか、強盗とか?」

 大樹も微かな刺激臭を認めていた。

「いや、いじめです。さっきも言いましたが、古い暴行痕はあったんです。保谷くんが、独りと知ってる時間を狙った、誰か。親にも言えないとてつもない恐怖を、前々から植え付けられていた」

「飛び降りなければならないくらい」

「加えて暴行だけではなく、もっとこう、恐ろしいもので脅されたらどうでしょう。たとえば?」

「たとえば、あ、なるほど、たしか、そういえば」

「そう、噂では年末の」

 僕みたいにロープを常備していなければ、飛び降りざるを得ない。とのノートの一文を目にして、光惠はようやく意味を理解したようだった。断片的に伝えなければならない状況にも、そろそろ気づく頃だろう。

「保谷くんが飛び降りてしまったことから、犯人は必死に逃げたでしょうね。アパートを出て……どうすると思います?」

 光惠がノートのマップを指差す。アパートの西側。

「私なら、この林に逃げ込む」

「でしょうね。で、そこからどうするか。勿論、家に逃げ帰るわけですが、大人が林から出てきたらちょっと不審ですよね。通行人に目撃されかねない。だって、救急車がサイレンを鳴らすという、大騒ぎの真っ最中ですから」

「そうか」光惠の指が、林から隣接する旧住宅街側へとずれる。「逃げ込んだ場所は、駄菓子屋だった。でも、疑われないかしら。そんな事件があったのに」

「簡単ですよ。犯人は、駄菓子屋の身内だった」

「それで、長屋の奥で、おそらく常態的に小学生らを」まさかアブミの弟まで、と小声で青ざめる光惠。「それで、エスカレートして愉快的にアパートまで乗り込んだのね。その駄菓子屋、店の名前が」

 大樹は、最後のページを再度開けた。

「東垂水商店」

「なるほど、犯人を追い詰めるために、君は私に告白したというわけか」

 深く頷いた光惠は、組んだ腕をほどく。

「僕は出頭させたかったんです。あとは、叔父に僕の解決能力を納得させるに、おあつらえ向けの事件だったというとこですかね」

 大きく嘆息した大樹は、生徒指導室出入り口扉へ無表情の顔を向ける。

「東垂水、聞いてるんだろう。出てこいよ。その賞状筒に、アブミを殴った特殊警棒が入ってるんじゃないか。さっき、僕をもそれで殴って脅そうと目論んでいた」

 がたり、と扉面が揺れた。大樹と光惠が、ゆっくり椅子から立ち上がる。

「さっきも校長や教頭に説明したけど、東垂水は微塵も疑われていなかった。日頃の行ないのおかげだな。僕の頭を疑われたくらいだ。で、ここからは、頭のおかしい僕の想像だ。二ヶ月前、アパートにいた武雄は、保谷くんの投身直後、林に逃げ込む東垂水を目撃して追いかけたんだ。だから、真相を知っていた。それともう一つ、アブミの弟はいつも駄菓子屋で優しく遊んでくれる東垂水が、保谷くんを警棒でいじめる姿を目撃してショックで引き籠もってしまった。保谷くんの飛び降り後、アブミは弟からそれを聞いて、直接、お前に問い詰めた。お前は怒ってアブミを殴った。なのに、アブミはお前を庇った。武雄の、出頭しろ、という意向まで抑えつけるために、警察官の親を持つ富平まで、知恵を借りるために連れていった」

 光惠が、大樹の弁を引き取る。

「その三人のおかげで、東垂水さんは無事に卒業、か」

「ちなみにまあ、僕は許さないけどな。ちなみに、お前の婆ちゃんからも証言は得ているからな。ちなみに、お前がここで引火性液体をばら撒いて火をつける危険性も鑑みて、生徒指導室からの脱出準備もしている。ちなみに、お前をお縄にする準備もな」

 心臓の激しい拍動とは裏腹、不敵を演じて笑う大樹は、制服の懐から五メートル弱あるロープの束を取り出した。かたや光惠は、音もなく扉の取っ手に指先をかける。合図と同時に開く準備は万端。

「僕が、武雄との友情を破綻させてまで、いじめ犯人を追うとは思っていなかったんだろう。八方美人の甘ちゃんどもが」

 ダダダ、と激しい足音が廊下側から聴こえた、と同時に光惠が扉を開き切り、部屋から飛び出した大樹がすぐさまに女生徒の背中を追走した。

「廊下は走るな!」

 出入口前の廊下は、透明の液体で濡れていた。光惠が足を滑らせ派手に転倒する。かろうじてまぬがれて追う大樹は、たなびく長い黒髪と右手の特殊警棒にひやりとした。廊下の奥、階段方向へと彼女は逃走する。と思いきや、踵を返して三年生の教室へと突入していく。

「待て!」

 じりじり追い詰める大樹。窓際の東垂水紗栄子は、美しかったが泣いてもいた。

「私、狂ってるの」

 掴んだ椅子で窓ガラスを割った彼女は、窓枠に足をかけるや大樹の手をすり抜け、破れた穴から飛び降りた。ガラス破片と落ちる東垂水めがけて、大樹までも飛び降りるその間際、直下へと手を伸ばし食い止まった。

 東垂水の足首を左手で掴んでいた。重力に引っ張られ右肩関節がゴギリと鳴る。窓枠を掴んだ左手からは、割れた窓ガラスの破片が刺さり、えぐれた肉からは夥しい量の血液が流れ出ては、めでたいこの日のために汚れを落とした校舎の白い壁を縦模様で染めていく。

 宙吊りになった東垂水の顔面は、片手で必死に窓枠を掴む大樹からは見えない。地表から、わっと大勢の卒業生が声を上げる。

「大丈夫! 二人とも」

 かけつけた小林光惠の声も、もはや大樹の耳には届かなかった。「今助ける」光惠が、窓から身を乗り出し、東垂水と大樹を教室内に引き上げた。卒業生の一部、のみならず校長や教頭ならびに他教員までもが、教室に殺到する。しかし、ただならぬ雰囲気に圧されてか、倒れたまま泣き咽ぶ東垂水を介抱する者はいない。大樹の右肩関節は脱臼していた。激痛に耐えながらも、震える口から唸りを上げる。駆けつけてきた友人ら三人に対して。

「武雄、お前らはクソだ。絶対に許さねえ。今の見てでも、保谷真也がまだ意識不明状態のことを無視できんのか」

 金髪の女生徒は、呆然自失と青ざめる。「サエは、受験でストレスが」その手は、ひたいのガーゼに添えられる。

「自己犠牲精神か、馬鹿か」

 吐き捨てた大樹は、東垂水に顔を寄せた。

「逃げんな。このままじゃ、お前はまた同じことを繰り返す屑になる。法的罰を受けて償え。それでまた戻ってきたら、話しくらいは聞いてやる」

 肩を微震させる東垂水の黒髪は地に落ち、その表情は周囲から隠されていた。

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