94粒目
「のの、今日は牛肉の」
「牛肉もいいな、多めに仕入れておこう」
「の」
宿の夕食は牛肉の煮込みだった。
「とても美味だけれど、煮込むのに時間が掛かるから外では向いていないの」
「早めに寝床を確保してしまえばいい」
煮込むのに火を灯す石の数も馬鹿にならないだろう。
「君が美味しいと言うのなら、大したことではないな」
もう迂闊に男の前で美味しいと言えない。
旅人は、顔見知りの行商人が来たらしく、カウンター席で知らない人間と食事をしている。
パンも今日はふわふわパン。
「んふー」
バターも美味。
パンの追加を運んできた青年に、多分、美味しいか的なことを聞かれ、
「美味の」
答えてパンにかぶりつくと、ニコニコして厨房へ戻っていく。
「よし、俺もパンを焼こう」
男の強い決意の言葉に。
「お主は、料理人にでもなるつもりかの……」
呆れつつも、この男が流浪の料理人かと想像してみるものの。
「似合わぬの」
「そうか?」
「の、我だけの料理人が良いの」
「……あぁ、もっと頑張るよ」
眉が寄っていた男にやっと笑みが戻る。
目の前の狸擬きが、無意識におにぎりを探して、テーブルに視線を彷徨わせている。
「んの」
なぜか、それを見て思い出した。
「どうした?」
「大爪鳥に、午後に2頭が帰ってくるから話を聞いてくれと、頼まれていたのをすっかり忘れていたの」
「なら、明日行かないとな」
青年の好意で今日もアイスクリームをデザートで出してくれ、男が、酷い作り笑顔で礼を述べている。
「ぬふん♪」
夜は今夜も風呂に浸かり、髪を乾かされ、梳かれ。
「くふふ」
男に指を咥えられ、くすぐったいと笑い。
夜に、雨が降り。
「……?」
遠くで、微かな地響きの音と振動で目が覚めた。
男は我を抱いたままぐっすり眠っていたけれど、狸擬きもむくりと顔を上げて我を見ている。
「……きっと、地滑りが起きた山の」
大丈夫のと伝えると、狸擬きはまたくるりと丸くなって眠る。
(しかし山はしばらくは危ないかの……)
地滑りが起きていない場所も、多少は弛んでいそうだ。
他に道はないものかと、地図を思い出しながら男の胸に額を当てる。
(まぁ、急ぐ旅でもないけれどの……)
翌朝、先に起きて飽きもせず、笑みを浮かべて我の寝顔を見ていた男に、寝ぼけ眼で、夜中にまた土砂崩れが起きたようだと話すと、男は真顔になり、
「村長に伝えてくる」
服を手早く身に付けて部屋を出て行った。
(のの?他の行商人への注意喚起かの……)
椅子を窓際に運び外を眺めていると少しして、小鳥が数匹弾丸の様に低い山の向こうに飛んで行くのが見えた。
確認と、山を越えた向こう側の行商人や組合などに告げに行くのだろう。
少しして、更に数匹が飛んでいく。
「ののぅ」
(我は自分等のことしか考えないからの……)
他者を慮る男の、人間たちの行動には、未だに驚かされる。
目を覚ました狸擬きが、朝食にはまだありつけなさそうだと察し、我に櫛を見せてくる。
背中の毛を梳いてやっていると、男は、案外早く戻ってきた。
「鳥たちの様子だと巻き込まれた者やそれっぽい残骸も見えていないらしい」
「の」
数人いた行商人も、とうに山の向こうの宿に付き、夜を過ごしていたため巻き込まれていないと。
男に地図を広げて貰う。
山自体は大きくないけれど、低い山が列なり、低いとは言え、人にはそれなりの高さと距離はあるらしい。
「こっちの北の端のこれは川の?」
「いや、深い崖の印だ」
「のの」
地図の端の北側、長い線が引かれていたけれど、のどかな清流などではないらしい。
(の、あれの、崖と濁流に繋がっているのかの……)
部屋のドアがノックされ、青年が朝食が出来たと伝えに来た。
旅人はもう呑気な顔で席に腰掛け、こちらに向かって手を上げてくる。
旅人はもう数日様子を見て、大きく迂回して帰るつもりだと。
我等も、それに合わせて出発するか決めなければならない。
朝食は、潰した卵と多分マヨネーズに近いものと思われる、酸味のある黄色いソースを和えたもの。
もう1つは薄く切って焼いた薫製肉に葉物野菜とトマトのボリュームあるサンドイッチ。
それに玉葱のスープ。
食後に甘いカフェオレを飲んでいると、いち早く食事を終えた狸擬きは、
「また狼たちの所へ行ってくる」
と、トテトテ食堂を出ていく。
そんな姿を、他のテーブルにいた行商人が物珍しげに眺め、男に話しかけて来たけれど、男は肩を竦めて俺も良く分からないとでも答えている模様。
すると、同じテーブルに座る旅人がその行商人に話し掛け、
(ぬぬ)
明らかに、我に関心が向く前に、行商人が我に話し掛けない様に先手を打ったのが分かり。
ほうほう。
(ま、それなりに気が利く人間ではあるの……)
残りのカフェオレを飲み干す。
同席を許しているのだから、それくらいの働きはして貰わねば困ると言うもの。
「それで、我たちは、これからどうするのの?」
「そうだな……」
アイスクリーム屋の前の小さなテーブル。
対面で煙草を吹かす男を見上げると、男は空を見上げる。
良い天気。
空が濃い。
「の、土砂崩れ様子を見に行って行ってみたいの」
「んん?」
「狸擬きなら少し様子も分かるかも知れぬ」
今日もアイスクリームはやはり美味で、新作のチーズアイスクリームは、
(これは午後にも、ねだることにするの)
駄目なら男の目を盗んで勝手に食べよう。
ふと思いつき、木の器に小さく匙を当てて、コツコツ鳴らしてみる。
すると、小さな音にも関わらず、狼舎の方から、
バビュン!!
と狸擬きが飛んできた。
狸擬きへのアイスクリームへの執着は、狂気の域に達する。
空も飛ぶ勢いだ。
「これから山の方へ行くの、お主も一緒にの」
アイスクリームは、狸擬きはチーズは好かぬ故にバニラを2つ。
「山がどんな感じか様子も見たいからの」
「フーン」
狸擬きなら瞬きの距離でも、人の足ではさすがに遠く、馬車を出すか借りるか話していると、通りすがる村の人間の男たちも、どうやら土砂崩れの様子を見に、山の麓へ向かうと言うため。
ならば一緒に馬車に乗せて貰おうかと、村の端に向かうと、村長と、村人の男たち数人。
我と狸擬きの姿に少し驚いた顔はするものの、にこりと笑みを浮かべて、挨拶的なものを口にしてくれる。
場違い感に嫌な顔をされるのは覚悟していたのだけれど、
「あぁ、君から土砂崩れのことを聞いたと伝えたから」
のの、そうなのか。
男に頭を撫でられ、男のシャツの裾を摘まむ。
馬車は、男のものと同じ規格ではあったけれど、抱き上げられて乗せられると、
(ほほぉ、荷物がないとこんなに広いの……)
荷台に上がった狸擬きもキョロキョロしている。
数人の村人に混ざり、我は男の膝の中に収まり、村の敷地を抜けて先へ進むけれど、北側はやはりどこまでも草原が広がり、崖の気配など、欠片も感じない。
山の崖崩れはすぐに分かり、
(の……)
馬車が通る脇に流れる川に、土砂が紛れ込んでいる。
狸擬きも、馬車の開いた幌の前方をじっと山を眺め、
「……」
崩れるものは全て崩れた、雨さえ続かなければ、もう崩れ落ちるものは当分はなさそうだと振り返って伝えてくる。
(ふぬん)
しかし、結構な大木が土砂に埋まり、
(のの……?)
手前で馬車を停めると、男が先に降りて我を抱っこするため、
「の、川に転がり落ちた岩が少し大きいの」
妙に丸いのが災いし、ここまで転がってきてしまったらしい。
今は大丈夫だけれど、この川幅のない場所では、そのうち小石や土砂が溜まり塞き止められてしまいそうだ。
村の端に続く川であるし、ここに留まるのはあまり良くなさそうなのは、我でも感じる。
男に伝えると、男は立ち止まったまま、川に鎮座した岩を眺める。
大きさからして、だいぶ労力を食うと思われる。
そして。
「……君なら、何とかできるか?」
「ぬ、人為的に川幅を広げればいいのかもしれぬけれど、まぁ、割って崩してやれば早いの」
それだけで水は流れる。
「簡単に言う」
男が小さく笑う。
しかしそれには。
「……お主の許可が必要の」
獣使いである男の命令が。
「……」
男はちらと眉を上げると、
「頼むよ」
我を抱く手に少し力を込める。
「の」
(岩の芯はどこかの……)
真下でなければ良いのだけれど。
じっと目を凝らすと、そこかと思える岩の軸が、お誂え向きにこちらに向いている。
男の腕の中で、手首から先に滅法力を込めて、2発。
「のぅ、さすがに堅いの……」
5発目でやっとヒビが入り、ズズッと音がし、岩は気持ちいいほどに、綺麗に3つに割れた。
岩の崩れる音と、水飛沫に村人たちが驚いて振り返ったけれど、我等はただ離れた場所から眺めていただけ。
代わりに、駆け寄ってきた村人たちは、
「大丈夫か、岩の欠片が飛んでいないか」
と我の心配をしてくれているらしい。
「可愛い顔に傷でも付いたら大変だ、と言っているよ」
「のの、我は可愛いかの?」
幼子は無条件で愛らしい、それを含んだ言葉と分かっていても、悪い気はせず、ホクホクとして男に訊ねると。
「……いつも可愛いと伝えているはずだが」
男の眉が不本意そうに寄る。
「お主の言葉は、日々の挨拶のように聞こえるの」
「ぐ……」
男が顎に手を当て長考に入ると、山の向こうから飛んできた小鳥が、村長の伸ばした腕に留まり、金具の筒を開いている。
「反対側は大丈夫だそうだ。
『行商人が運べない物資は大爪鳥と中鳥に少し負担してもらう、助けが必要ならいつでも連絡を』
と書いてある」
と読み上げた村長の言葉を、男の代わりに狸擬きが伝えてくれる。
その村長は、腰の小さな鞄から布に包んだビスケットを、小鳥に与えている。
狸擬きがそれをじっと眺め、我を見上げてきた。
「お主には後でアイスクリームの」
「……♪」
ご機嫌で尻尾を振る狸擬き。
こちらにやってきた村長が、深刻そうに長考してる男に話し掛けてきた。
村長は、男が行く先のことを考えての悩みに、眉を寄せているように見えているけれど、実際は、我へのお決まりの愛情表現からの打破。
男はハッとした顔で、大丈夫です的な仕草をし、村長は、川の崩れた大岩を見て、男に、また何か問うている。
狸擬き曰く、花の国へ続く、草原の話らしい。
(ほうほうのほう?)
馬車に戻り、男と村長が話をして、それを村人も聞いている。
たまに村人の男と目が合うと、にかりと微笑んでくれ、何だかむず痒くて男の膝の上で、男の腕にしがみつく。
男たちは帰りは泥塗れの靴やブーツを脱いで、荷台の外に引っ掻けて馬車に乗ったけれど、狸擬きは泥塗れの足では馬車に乗らずに、すったかすったか馬車の後ろを着いてくる。
ひたすら、
「アイスクリームアイスクリーム」
と呪文のように唱えており、お陰で男たちが何を話しているか全く分からない。
村に戻ると、建物の前で、姉と狼2頭が待っていてくれた。
村長はデレデレしているけれど、姉が手を振るのは我と駆けてくる狸擬きにで、村長が肩を落とし、皆が笑いを堪えている。
姉が溜めていた雨水の樽から水を掬い、狸擬きの足の泥を落としてくれる。
男は村長にもう少し話したいと言われたらしく、集会所へ行くと言う。
「何の話の?」
「花の国とこちらの村の草原の途中に、中継地点、組合を作れないかという話だ」
おやの。
「まぁ組合は、こちらから口に出したのだけれど」
なんと。
では。
「我も行くの」
「つまらなくないか?」
「お主と一緒の」
首筋に頬を擦り付けると、
「んん、くすぐったい」
男の身体が揺れる。
狸擬きが、
「アイスクリームは、まだですか……?」
とスンスン訴えてくるけれど。
「すまぬ、どうやら話し合いが終わらないと無理そうの」
「……フーン」
耳と尻尾が下がる。
「話し合いが終わるまで、狼たちと遊んでくるかの?」
「フンフーン」
おや、通訳をしてくれると。
集会所へ行くと、村に残っていた旅人もやってきた。
土砂崩れは、
「俺が見に行っても何もならないから」
と言ったらしく、まぁその通りではある。
村長も旅人も、組合的なものがあるのは知ってる、街へ向かう山の中に、中継地点的な建物はある。
けれど、そこは組合と言えるほどの力はないと。
やはり花の国を境に、組合の影響も大きさもだいぶ変わるらしい。
ここの村に組合を置き、中継地点の着手にも取りかかりたいと言う。
そして、花の国の組合との連携も欲しい。
それは、まだまだ先の話だけれどと村長は笑う。
そして、
「第一歩として、あの川の大岩を、草原の更に向こうに置き、道標の1つにしたいと思ってる」
と声を上げる村長の言葉に、
(ぬ……)
男の膝の上でギクリと固まる。
(砕き過ぎたの……)
これは悪いことをしたと思ったけれど。
「いや、人と馬が運ぶには、崩れたあれが目一杯の大きさだ、君が崩してくれたお陰だよ」
男に後で大丈夫だと教えられた。
長めの話し合いの後、誰かが村の昼時の鐘を鳴らすと、姉が大きな四角い籠を両手に抱えて現れた。
中身は具沢山のサンドイッチ。
狸擬きがちらちらと我を見てくるけれど、それはアイスクリームではなく、おにぎりの催促。
(おにぎりは、おやつにでも握るかの)
そして姉の作るサンドイッチは。
(ぬぬん、パンに胡桃が混ぜこまれて、とても美味の♪)
食後にアイスクリームを食べたいと男にせがむと、姉が、
「一緒に行きましょうか」
と申し出てくれたらしく、男が、助かります的なことを言いながら、硬貨を渡している。
が、それはあくまでも表面的。
我を離したくないのは、狸擬きの呆れた視線からもよく解る。
その男達は、食後の珈琲と煙草休憩。
煙い事務所になる前に姉と集会所から出ると。
「ののっ?」
アイスクリーム屋の、隣の甘味屋が開いていた。
隣と言っても、アイスクリーム屋と繋がっており、閉まっていた内側の仕切りとなるドアが開いている。
甘味屋の方は奥行きを使い中も広く、円いテーブルが並び、メニューはチーズケーキ、バニラアイスクリーム、日替わりはチーズアイスクリーム(どちらもビスケット付き)。
それに、各種飲み物。
狸擬きは、バニラアイスクリームの絵をタシタシ叩き、
(ぬぬ……)
我は悩んだ末に、チーズケーキは、男と一緒に食べる時に、多分男が頼み、更に半分は我の口に運ばれるはずと、我ながら実にせせこましい予測をした上で、チーズアイスクリームにする。
姉はカフェオレを頼んでいる。
道路沿いの大きく開いた扉から、宿の青年が荷物を抱えて通りすぎて行く姿。
こちらに気付くと、笑顔で手を振って通りすぎて行く。
姉は、我が、言葉がなんとなく通じているのは分かっているのか、淡々と、村のこと、自分のこと、狼のことを話してくれる。
家族は5年は帰ってこないことは覚悟しているけれど、村の人たちが、家族みたいな部分もあるから、思ったよりは寂しくなくて、それに姉自身も驚いていること。
たまに狼と一緒に旅をしている人が来て、そんな日は、自分が狼と旅をしたらどうなんだろうと、想像すること。
あの2頭の狼の気持ちは、本当に聞けてよかったことなど。
頷きも否定もせず聞いていると、不意に、
「『旅は楽しいか』と聞かれています」
と狸擬きが小さく鼻を鳴らして教えてくれる。
「……」
我は、じっと姉の薄茶色の瞳を見つめる。
この世界での旅は、我の本音は。
(とても、とても、楽しい)
そして、この女は、姉は、この村にいることに満足している。
2頭の狼たちも、ここにいることを選んだ。
だから。
「ふぬ、とても楽しいの」
と頷けば。
姉は、そう、目を伏せた後、
「私の家族も、あなたみたいに、楽しいって思っていればいいな」
と、ふわり笑顔を見せてくれた。




