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65粒目

しとしと小雨は降り続き、2日ほど、この小さな穴で過ごした。

雨が上がった3日目の朝、狸擬きが、少し離れているけれど、小さな滝壺を見付けたと伝えてきた。

「ふぬ?」

一緒にとせがまれ、まぁ用もないしのと、狸擬きの案内で、山を歩き、山を登り、横断と言えばいいのか、峰を越えていく。

楽しそうに山を跳ねる狸。

小さな気配は数えきれぬ程、大きな獣の気配はしない。

ひたすら、歩き、歩き。

「休憩にするの」

「フーン♪」

ちゃぷりと音を立てる炊飯器に小豆を落としてスイッチを押すと、狸擬きは隣に身を寄せて丸くなる。

狸擬きに凭れて目を閉じ、こちらを遠巻きに窺う小さな獣たちをじっと意識していると、

ピーッ

と炊飯器が音を立て、飽きもせずこちらを見ていた獣たちが、ビクッと跳ねた。

狸擬きも、もぞもぞ起き上がり、

「熱いの」

大きめに握り渡してやる。

「ふぬ、美味の」

狸擬きもふんふんと貪っている。

「……」

長く長く生きている間、特に「後悔」と言うものは、感じたことはなかった。

けれど。

今は少し。

(付いて行けば良かったかの……)

そんな事を思う。

一緒にでもなくても、後からのんびり向かい、戻る男と合流すれば良かったのかもしれない。

そんなことも、考えるけれど。

何なら、今からでもと。

「……」

(のの……)

それは。

(……違うの)

男の尻など追って何が楽しい。

男もそれを望んでないからこそ、出発の際、一言も言わなかった。

休憩を終えると、微かに春めく山を歩きながら、こちらを窺う小物の獣たちを、反射的に狩ろうとしてしまう。

「ぬ……」

狩っても、今は無駄な殺生になるだけ。

先へ先へ、上がったり下がったり、方角的には少しばかり東よりの北へ進んでいる。

狸擬きがふんふんと鼻を蠢かし、

「の、どこまで行く?」

そう訊ねる程には歩いた頃、ふと開けた岩場に、小さな小さな滝壺があった。

流れる滝も短く受け止める壺もまた小さい。

小さな獣たちが水を飲むのにはうってつけの場所。

(のの……)

狸擬きが、その場でくるくる回りながら休憩を、正確には握り飯をねだってきた。

滝のすぐ側にある、平らで大きな岩を椅子代わりにして、炊飯器のスイッチを押し、滝壺で水を汲み湯を沸かしていると。

(……?)

不意に、離れた場所で、人間の気配がした。

こんな所に?

気づくのに遅れたのは、どうやら相手も気配を消していたらしい。

(……狩りをする人間かの)

しかし、気配を消しているのは、こちらに対してではなく、どうやら獣に対して。

気付き逃げている獣、追いかける人間。

重い足音の割りに、

(足が早いの……)

山道に慣れた走り方。

それは、

「……」

こちらへ向かってくる。

(ぬぬ……)

炊飯器は片手で持ってどうにかなるけれど、沸かし始めた火の点いた湯沸かしコンロはどうにもならぬ。

別にやましいことをしているわけではなく、ただ、この見た目故、必要以上に訝しがられるのは面倒ではある。

しかし開けた空間、逃げ場もなく、たっと木々の間から抜けてきた若鹿が、まずこちらに気付きビクッと固まった。

「……」

そして、ほんの数秒こちらを凝視した後。

スタコラスタコラこちらへやってくると、若鹿は岩に腰掛ける我の背後に隠れた。

「の……?」

正確には全く隠れて居ないのだけれど、盾にされているのは確かで。

「……ふっ……ふっ……!」

と、息を切らせて若鹿を追って森を駆け抜けてきた人間は、見た目からして猟師以外の何者でもない格好の男だった。

しかも。

(のの、洋弓銃の)

最近の言い方だと、なんだったか、クロスボウとやらを持ってる。

その男、猟師は我に気付き、

「……!?」

息を乱したまま、分かりやすく驚き、ギクッと足を止めたけれど。

「……っ?」

見開いていた目をすがめ、何度も目を瞑っては開き。

どうやら、

「夢か?」

とでも疑っているらしい。

「鹿、お主、話は出来るかの?」

背後にいる若鹿に、振り返らずに問いかけてみるも、返事はない。

「駄目かの。たぬぞう……ぬ、どこいった」

狸擬きがいない。

少し離れた場所にいる猟師の男は、あの男より少しだけ年上に見える。

肌は日焼けで浅黒く、髭も濃い。

体格もとてもいい。

毛の付いた帽子を被り、この時期でも着ているものも、だいぶ厚手なまま。

「ほれ、鹿。あの男が我を見て阿保面をかましてる間に、お主は逃げるの」

振り向いて手を若鹿をシッシッと払うと、若鹿はピクッと跳ね、小気味よく地面を蹴り、山の奥へ逃げて行く。

男は、鹿の気配がなくなった頃、やっと気を取り直したのか、片手で帽子を取りながらこちらへやってきたけれど、髪は案外ボリュームがある。

「……◯✕□?」

何やら話しかけて来たものの、当たり前に通じない。

黙ってかぶりを振ると、猟師はなぜか片手を胸に当て、長いこと頭を下げられた。

「……なんの?」

と問うても言葉は通じない。

代わりに、狸擬きが、鹿の逃げていった辺りからトコトコと戻ってきた。

どうやらどこかに生えていた山苺を見つけ、枝ごとわさわさと咥えて持ってきてくれた。

狸擬きは食べないと言うのに。

どうやら狸擬きなりに、我を案じてくれているらしい。

「ありがとうの」

猟師は狸擬きを見て目を見開いているけれど、狸擬きを獲物としては見ておらず、武器も構えないため放っておく。

しかし。

(あぁ……)

それでは駄目である。

我は、この猟師の獲物を逃がした。

「……」

猟師をこいこいと招くと、猟師は少し躊躇した足踏みをした後、こちらへやって来る。

立ち上がり足許に敷物を広げそこに男を座らせ、ピーッと鳴る炊飯器の音に、ザッと飛びずさる男に、つい笑ってしまいながら、赤飯を握り、男に差し出す。

「鹿の詫びの」

若鹿1頭に比べたら、これっぽっちの詫びにもならぬ量だけれど。

狸擬きにも与え、2つしかないカップのお茶は、狸擬きと男に与える。

狸擬きが、我の隣で、フンフンと握り飯を食むのを見てから、男も握り飯にかぶりつき、不思議そうに首を傾げつつも、あっさりと3つとも食べ切った。

その間に、我は狸擬きが見付けてきてくれた山苺をもぎ。

(ふぬふぬ、甘いの)

口許が弛むも。

男に、口に山苺を運ばれた事を思い出し。

「……」

なぜか咀嚼した山苺が、喉に詰まるような感覚。

そして、猟師がまた何か話しかけてくるけれど、全く通じない。

狸擬きもなぜか黙っているし、猟師をじっと見つめていると、猟師は小さな滝壺の方を指差し、何か言葉を発している。

どうやら一緒に来いと誘われている。

何かあるのだろうか。

(まぁ、良いの)

鹿を逃がした詫びも済んでいない。

狸擬きから感じるのは、猟師に対しての警戒ではなく、我がおにぎりを食さずに、山苺だけを食べたことへの懸念のみ。

何とも主人思いの狸である。

(我は大丈夫の)

諸々を片付けてから、立ち上がった男に付いていく前に、どうにも目に惹かれる洋弓銃を指差し、見せてもらう。

「ほぉぉ……」

小振りながらもガッチリと重量があり、これで頭を貫かれたら大抵の獣は一撃で死ぬ。

「勇ましいの」

言葉は通じずとも感嘆は通じたのか、猟師が照れ臭そうにはにかんだ。

猟師に続き滝を大きく回り込み、少しばかり斜頸のある獣道を上がっていくと、滝の音が徐々に小さくなり、やがて我の耳ですら聞こえなくなった頃。

「の……」

小さくはない山小屋が見えた。

掘っ立て小屋ではなく、しっかりほどほどの大木が組まれたもの。

年期は入っているけれど、手入れはなされている。

窓はほぼなく、中に入り男が指先でランプの幾つかに灯りを付けると、水場、使い込まれた鍋や皿が棚に並び、それぞれ2人分。

1人分はしばらく使われていない。

立派な木のテーブルに木の椅子は2脚。

端の棚に狩りの道具が積まれたり、壁に掛かっている。

反対側にはドアが2つ。

風呂場と寝室か、雪隠か。

今はもうここには存在していない1人の気配は希薄。

どれも無骨な名残に、父親か兄弟か伴侶か、誰だろう。

男は作り付けの棚を開き眺め、今度は雑に詰められた食料棚らしき引き出しから、木箱を取り出しテーブルに置くと、椅子を勧めてくれた。

その厚手の布を重ねてくれた椅子に座ると、男が我の隣に、高さの空き箱を重ねて置き、狸擬きの椅子にしてくれる。

テーブルに置かれた木箱を勧められ開くと、木箱の中には、木の実の、胡桃のビスケットが詰められており、

「のの、良いのの?」

首を傾げると、男は初めて少し微笑み頷いた。

「ぬ、美味」

狸擬きが、自分にも寄越せと前足を出してくるため持たせてやると、サクサクと小気味よい音を立てて食べている。

(小麦粉、砂糖、バター、卵も、どれも随分と質のいいものを使っているの……)

これは、店で買ったものではない。

文字を書いてみせたものの、男は両手を振って読めないと身振りで教えられる。

狸擬きがまた前足を出してきたため、いいのかと男を見ると、君のものだと言うようにこちらに手の平を見せてくれるため、狸擬き共に遠慮なく頂く。

男が立ち上がり、水場に立ち、棚からカップを取り出していると、遠くから土を踏む足音がする。

「……」

こちらへは来なれた者の軽い足取り。

人の男、身体は身軽、その男の身体自身が軽いけれど、骨も若干細くなっている足踏み。

我が外を気にしているのことに気付き、男も水場からドアに視線を向けていると、少しして軽いノックの音。

男が返事をするとドアが開き、ひょいと顔を覗かせたのは、地味だけれど明らかに身形のいい、スーツにも似たきちりとした服を身に付けた初老の男だった。

少し白髪の混じった灰色髪を撫で付け、髭もしっかり整えられている。

初老の男は猟師に挨拶しかけ、我と狸擬きを見て、

「……っ」

言葉を止めた。

(なぜこんな場所に……)

と思ったのは、しかしお互い様だろう。

我も初老の男も、山いるには違和感しかない。

狸擬きが、もっとビスケットを寄越せと巫女装束の裾を引っ張ってきた。

「……」

猟師と初老の男が何か話だし、猟師が我を連れてきた経緯を話しているのだろう。

そして肩を竦め苦笑いしているのは、狩りの失敗の話か。

初老の男が、我の前にある紙に気付き中に入ってくると、書かれている文字を読み、持っていた質の良さそうな手帳を開き、さらさらと書くと、

「私は読み書きが出来ます」

見せてきた。

(の……)

とりあえず、この男の獲物を逃がしてしまった、詫びをしたいと書くと、灰髭男、おじじは、ふむと白い手袋の手を顎に当て、考える顔をし、

「私もこの男も、この先の屋敷に仕えている者です」

「屋敷の主に挨拶していただければ、それで事足ります」

と。

「……」

(ぬぅ……)

非常に面倒だけれど仕方ない。

茶は屋敷で出すとでも言ったのか、猟師も共に山小屋を出ると、屋敷へ向かう高さのある階段で、猟師が振り返り、我に両腕を伸ばしてきた。

「……」

こちらも両腕を伸ばすと、軽々と抱き上げられ、視界が高くなる。

ふぬ。

この猟師からは、

(森の匂いがするの……)

厚手の上着には、獣の血の臭いも微かに混じっている。

圧倒されるするほどに、肉厚な身体。

おじじの言うその「屋敷」とやらは、斜面を上がっていくと唐突に現れ、別邸にしては小さく、別荘にしては、本館のような重めの佇まい。

どこかの金持ちの妾の館かと邪推してみるも、あまりに不便すぎる場所。

その「わけあり感」にまた若干逃げたくもなるけれど、借りは返さねばならぬ。

大きな大きな扉の中は、期待を裏切らない、また大きな広間と二手に別れた階段。

灯りは煌々と点き、1つの部屋の広さを予想すると、住まう人数はそう多くなさそうで、人の気配も少ない。

使用人含め、最低限の数しかいない。

物音に気付いたのか、左手の奥のドアから女が出てきた。

赤く長いボリュームのある髪が印象的な色白の丸顔に、ボリュームのある緑色のドレスを身に付けているけれど、そぐわないのは首から掛けている庶民的な前掛け。

女は猟師を見てパッと顔を輝かせたけれど、自分の前掛けに気付き、慌てて取り外している。

若い、まだ成人前だろう。

そして遅蒔きながら、猟師が片腕に抱いたままの我に、驚いた顔をしながらもやってくると、笑みを見せて膝を折り、丁寧に挨拶してくれる。

けれど。

(言葉は解らぬ)

どうやら執事らしいおじじが何か伝え、女は口に手を当てて不思議そうに我を見上げてくる。

大事に育てられたであろう、人を疑わない、初夏の葉の様な翡翠色の瞳。

どうぞと言うように、出てきた扉よりも大きな隣の扉へ手の平を向けた女は、今度は猟師の隣にもさりと佇む狸擬きに目を見開き。

「あらあら?」

と言わんばかりに近づき、大層興味深げに眺めて狸擬きの顔を覗き込んでいる。

執事の男が女を促し、我は猟師に、降りたいと身動ぎで床に下ろしてもらい、高い天井を眺める。

建物の空気は柔らかい。

この若い女が、屋敷の主だ。

目に柔かいクリーム色に塗られた客間の壁に、大きな窓から、春が始まろうとしている森がよく見える。

我は猟師と並んで猫足のソファに座ったけれど、狸擬きは1人掛けのソファに、短い後ろ足を投げ出し、すっぽり収まっている。

女が少し遅れてやってくると、多分、こことはまた別の国の言葉で何か話しかけてきたけれど。

やはり全く伝わらず、更に遅れてきた執事の持ってきた大きめの紙とペンで、自分の名を書き、ここの主だと教えてくれた。

(我に名前はないしの)

名は書かずに、わけがあり少しの間、1人と1匹で旅をしていると書くと、女と執事はお手本のように驚き、女から聞いたらしい隣の猟師も、少しばかり眉を上げたものの、驚きは2人ほどではない。

メイドがやってきて、紅茶と、皿の上にクリームと、アップルパイともまた違う、林檎が鍋の形に固まったケーキ?が置かれ、ソファでうとうと微睡んでいた狸擬きも、匂いに釣られ、むくっと前のめりになる。

(のの、これは予想外の御馳走の)

逃げなくて良かったと自分を褒めていると、

「の?」

メイドに背後から首許に布をゆっかり巻かれ、平たい木の盆に皿を、食べやすいように膝に置いてくれた。

「すまぬの」

狸擬きは、後ろ足で立ったまま脚の短いテーブルの前に陣取っている。

女の手振り身振りで、女も作るのを手伝ったのだと、ほんのりと頬を高揚させ、猟師に伝えているらしい。

(おやおやの……)

それに対し、猟師は美味いとでも言ったのだろう。

女の、ふわりと花の咲くような微笑み。

けれど、猟師は気付いていないのか、胸から使い古された、ハンカチとは到底言えぬ手拭いを取り出すと、

「ぬぬん」

我の唇の端を拭ってくる。

(この世界の男は世話焼きが多いの)

そして女、いい年して羨ましそうな顔をしてくるな。

嬉しい不意打ちの甘味の後に、女は、自分は静養中で、少し離れた実家から離れて暮らしていること。

先にこの森にいたのは隣の猟師で、男は狩りで生計を立てていたけれど、今はその一部をこの屋敷に卸すことや、薪割りや屋敷の修繕などで、この屋敷の働き手として出入りしていることなどを教えてくれた。

(少し離れた実家……)

装いの華やかさと優雅さからして、花の国の貴族か何かの娘だろうか。

たまに家には帰るし、帰った時に街へ行くのが楽しみなのだと、女は教えてくれる。

どこからと聞かれ、青のミルラーマと答えたけれど、女は勿論、猟師も執事も知らないと言う。

「ど田舎の里の」

こんな狸擬きがいるような田舎だと教えると、猟師と執事は納得したらしい。

どこの世界も、田舎ほど獣は多い。

ここらはいても鹿で、普段は小物ばかりだと、女伝に男から教えてもらう。

我のいた山には熊がいたと話すと、猟師の食い付きが俄然よくなり、女も驚きながらも楽しげに、我の書いた拙い文字を男に伝えてくれる。

あの男と違って我には絵心はなく、熊は入道雲にしか見えず、試しに狸擬きにペンを握らせてみたものの。

「我とどっこいどっこいの」

わりと器用だし案外上手いのではと、狸擬きに過剰に期待をし過ぎた。

狸擬きが我の言葉に、短い前足を振り回しプンスコ怒っている。

そんな狸擬きの姿を、女はまたおかしそうに笑い、

「でも、遠い所から1人で旅なんて凄いのね」

と我を見つめてきた。

(1人……)

「狸擬きもいるし、1人になったのはごく最近の」

すぐに合流すると書くと、女と男のあからさまな安堵の気配。

「ね、こんな所まで迷い込んで来るくらいなのだし、まだ宿も決まっていないのでしょう?よかったら、今日は泊まって行って?」

と書かれ、無論、遠慮はしたけれど。

「そうね。……ねぇ、シュークリームって知ってる?」

の文字に、

「ふぬっ?」

まんまんと釣られてしまった。


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