61粒目
山を下り始めると、すぐに下の方に人間の気配がした。
「……?」
狸擬きに偵察を頼むと、小鳥と共に駆け降りていく。
「どうした?」
「人の気配がするの」
「怪我人か?」
「のの、もっとこう、馴染んでいる気配と匂いの」
なぜ、山の麓で。
狸擬きはあっという間に戻ってきたけれど、フンフン尻尾を振っている。
「食堂?」
すぐ下に人間の経営する食堂があると言う。
男も知らないと答えたものの、
「たった数年で随分変わっているっぽいな……」
降りてみると、山道は明らかに人の手によって広げられ、
「凄いな」
行商人や旅人用の食堂、簡易の馬用の馬舎などもできており、
「山の麓からすでに栄えておるの……」
山の兎擬きの主達がピリピリもしているわけだ。
いずれ人が我が物顔で山を闊歩するのではと。
その予感は大当たりであろう。
それでも、冬は閑古鳥が鳴くのではと思ったけれど、
「これからは冬も行商人が増えるだろうから問題ないと思いまして」
朝は赤飯おにぎりどころか、我が山苺を摘まんだだけなことを男が酷く気にしており、夫婦が開いている食堂で、肉と野菜を煮込んだスープを食べながら聞いてくれた。
小鳥はパンだけを啄んでいる。
「暖かくなると街中に花が咲き乱れ、それはとても美しい。春までゆっくりしたらいい」
とも。
今はまだだけれど、このあたりも花を、球根を植えており、更に賑やかになると夫婦はニコニコしている。
「学校を作るなんて話もあるんですよ」
我がいるためか、そんなことも教えてくれた。
学校。
またとんと馴染みのない単語である。
まだ寒いから、宿はどこも空きはあると聞き、先へ進むとちらほらと、道の両脇に花壇が作られている。
先には石ではなく木の建物が多く、家に沿うように、窓の外にも四角い植木鉢が並んでいる。
家は長細く縦に長い。
どの家も三角屋根が童話ちっくで、これで花が咲いたら、確かに見映えはするであろう。
道は広く、街中に川が流れ、小舟に人や荷物を乗せているけれど。
(……小豆は研げぬの)
「春には、川に花や花びらを流す祭りもあるらしいよ」
それはまた、花の国の名に相応しい、若い娘たちが喜びそうで華やぎそうなお祭りである。
徐々に店や人が増えてきたけれど、歩道と馬車の道がしっかり別れ馬車が進みやすい。
しかし。
ふと、何か。
「……?」
(の……?)
ほんの一瞬、微かな、何かが、鼻孔に届いた。
あの黒い城などとは違う、逆に、とかく秘した馨り。
「?」
何か閃くものがあるかと記憶を辿るも、しかし特に浮かばず、隣に座る狸擬きも、特に何の反応もしておらず、小鳥も同様。
2匹共に、街中を好奇心いっぱいに眺めているだけ。
(ぬぬん?)
狸擬きが反応しないならば、それは、我の元いた世界の記憶からの反応でしかない。
それでもあまりに希薄過ぎて、鼻先を掠めたその馨りすら、ただ記憶から生まれたものに思え、府に落ちぬまま、諦めて街を眺める。
隣の男は迷うことなく、街の端をなぞるように進み、裏に馬舎が作られた、大きくはないけれど放牧場もある、主に旅人、行商人が泊まるであろう宿に着いた。
他の民家と作りは似ているけれど、建物は当然、何倍も大きい。
裏に回ると、大きな宿へのドアが開いており、裏の方が客の出入りの多いせいか、立派な作りになっている。
馬に労りの声を掛けていた男は、短い四つ足を伸ばして伸びをする狸擬きに、見知らぬ土地に、首が飛んでいくのではと危ぶむ程に周りをキョロキョロ眺める小鳥に笑ってから、我に両手を伸ばしてきた。
「荷物もあるから歩くの」
と言ってみたものの、抱き上げられれば反射でぎゅむりとしがみついてしまう。
「この宿は獣は平気の?」
清潔そうな宿だけれど。
「荷馬車が泊められる宿は、平気な所が多いな」
夕食時の中途半端な時間のせいか、受付のある広間には人はおらず、伽藍とした空間に、革張りのソファたちが人に座られるのを待っている。
離れた食堂から、ざわめきと料理の匂い。
ふと、あの古着屋の娘と姉は無事に街に着いているだろうかと思い出す。
「先に行ってる」
と手を振ってたけれど、もう特に会う気はなく、会う理由もない。
男が、受付の人間に、あの行商人の持つコインを見せている。
身分証に近いものだろう。
受付の人間が奥へ消えていき、分厚い紙の束を持って戻ってくると、紙を捲り、男が書いていた紙の文字と合うものを探しているらしい。
すると、そうそう待つ間もなく見付かったらしく、受付の女が初めて笑みを浮かべ、歓迎してくれた。
未払いで逃げる輩でもいるのだろうか。
食事は的な事を聞かれている雰囲気。
男はかぶりを振り逆に女に何か訊ね、女は何か答えている。
荷物を一緒に運んでくれるらしく、そこで初めて馬も解放され、水や食事も含め、馬舎の管理者に任される。
ザルはともかく、炊飯器だけは風呂敷に包んで片手に持ち、今度は男と手を繋いで部屋へ案内された。
3階の端の部屋は、古さはあるけれど、居心地は悪くなさそうだ。
窓の外の柵には、今は土だけの植木鉢が並び、窓を開ければ外の賑やさがここまで伝わってくる。
ベッドは2台、少し幅が広く、風呂もある。
「もうすぐ夕食が終わって、食堂が酒を出す時間になる。その時に酒を飲まない客用に、甘いものも出すと聞いたから、行ってみようか」
「のの、それは行きたいの」
男は受付で、甘味の有無を訊ねていたらしい。
風呂はその後にしようかと、部屋の壁に沿って置かれるソファに座り煙草を吸う男の膝によじ登り、男の胸に凭れていると、小鳥が窓際のベッドの枕の上で、うつらうつらと船を漕ぎ出した。
生まれて初めての旅立ち、初めての山、初めての街。
小鳥が疲れないわけがなく。
狸擬きは窓際に置かれた椅子に飛び乗り、小首を傾げながら、外を眺めていたけれど。
「今日は甘いものはお預けの」
「フン?」
我の言葉に、ぐるんっと振り返る。
「部屋の中とは言え、小鳥1匹にするわけには行かぬだろうの」
狸擬きは、
「フーン……」
と鼻を鳴らし、しょんぼりと耳と尻尾を下げている。
男が、我の言葉で大体を察したのか、
「部屋に持ち帰れないか頼んでみるよ」
煙草をテーブルの灰皿に押し付け、我をソファに座らせると、たっと部屋を出ていく。
狸擬きは椅子から飛び降り、テコテコこちらにやってきた。
「の?」
「フーン」
そして、撫でて欲しい、とソファに座る我の隣に飛び乗ると、身体を擦り寄せてきた。
珍しい。
慣れない小鳥の世話で、狸擬きなりに色々気を張っていたのだろうか。
その小鳥も、わりとうるさくしているのに、全く起きない。
狸擬きの背中を撫でてやっていると、ほどなくして男が戻ってきた。
片手には布の被せられたカゴと、片手には浅い木の盆に、カップや茶葉の入った皿などお茶の用意がなされたもの。
部屋でお茶を嗜むための一式。
男が持ち込んだコンロで湯を沸かしている間に、カゴの布を剥がすと、
「のの?」
(……これは、見たことはあるの)
名が勇ましかった記憶がある。
薄く長細い筒のような生地に、これはちょこれーとではなく砕かれた木の実が、砂糖か何かで絡められ乗せられているけれど。
そう、
「エクレアの」
とても食べてみたかった菓子の1つ。
確か、稲妻、だったか。
「君の言っていたクレープもあったけれど、畳んだものが皿に置かれソースが掛けられたもので、この間のものとは形もだいぶ違っていた」
「ふぬ?」
そういうクレープもあるのか。
いや、むしろそれが本来のクレープなのだろうか。
紅茶を淹れつつ、
(そういえば、手持ちの茶葉も心許なくなってきていたの……)
男に頼んで店を探して貰おう。
匂いに釣られたか、小鳥が目を覚まし、
「ピチチ……」
と狸擬きの頭に飛んできた。
小鳥は焼き菓子に興味を示して、テーブルに降りる。
「あむん」
我はお目当てのエクレアを囓ってみたけれど、味のあまり感じない薄い粉が膨れた生地の中に、とろりとしたくりーむが口いっぱいに溢れ。
「ぬふん♪」
これは、大変に美味。
そして、とろりとした中に木の実の食感が点々と現れ、
「んん、これはとても好きの」
あむあむとまた夢中になって食べてしまうと、男がまだ手を付けていない、エクレアの乗った皿を我の前に差し出してきた。
「の……」
良いのかと思いつつも、手が勝手に伸びてしまう。
「ありがとうの」
男はどういたしましてと目を細めてから煙草を取り出す。
「んふー♪」
甘味のためだけでも、この国に来たのはやはり大正解である。
そう。
「……」
正解の解らない、狸擬きですら気付かない、微かな、
「何か」
から目を背けさえすれば。
(……)
夜に、とても珍しく、夢か何かを見た。
大きな花弁が一面に咲き乱れている。
薄い四弁は洒落た椀の様な形をし、風に艶かしく揺らめいている。
その花たちが、城を越えて、山を越え、2つの国を花で埋め尽くしていく。
花は、さらさらと細かく散り、おしろいのように舞い、雪景色のように、2国を塗り替えていく。
そんな、ただの、とりとめもない、夢。




