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46粒目

雪の中から、山の中腹に、小さな湖と、せいぜい2階建て程度の、しかしどの部屋からも湖を一望できるであろう長細い建物がちらちらと見え隠れし始めたのは、あの落石を落とした日から何日経った後だろうか。

猛吹雪で進めず、一昼夜荷台にいた日もあった。

ひたすら文字の勉強をし、男にスケッチされ、狸擬きに簡単な折り紙を教え、男がナイフで爪を器用に切るのを眺め。

「あれの?」

「……ん?」

男にはまだ見えないらしいけれど、多分あれだろう。

ぐるりと大きく迂回しつつ近づいて行くと、

「あぁ……」

男の、大きな安堵を含む溜め息。

「長い道程だったの、お主には心より感謝するの」

「こちらこそ、君が居なければ、辿り着けるのはいつになっていたことか」

裏手から敷地に入るけれど、大爪鳥もいるせいか、宿の何倍も広い敷地に、馬舎や牛舎も建っている。

宿の表まで馬車で向かうと、晴れている日は外で食事でもできるのか、木のテーブルが等間隔に並び、雪掻きもされている。

大きな扉の前に馬車を停め、男に抱き上げられていると、内側からドアが開き、若い女が2人、女中、ではなくメイド服の女たちが笑顔で出迎えてくれた。

男を見て、少しばかり浮き足立つ気配、そして腕に抱かれた我を見て少しガッカリし、荷台から寝癖を付けながら、もたもたやってきた狸擬きを見て、なぜか少し笑いながら中に案内してくれる。

「のの、立派の……」

まだ、陽の当たらぬ宿の裏側は氷柱と日陰でよく見えなかったけれど、漆でも塗られているのかどこも艶々しており、重厚感がある。

広間、ロビーは湖畔に向かって大きく贅沢な硝子窓が嵌められている。

大きな扉から右手の窓際にはカフェテラスにある様な、丸い小振りなテーブルが並び、そこに置かれるであろう紅茶のカップとケーキを想像すると、男に抱かれたまま、足をぶんぶん振ってしまう。

窓際でない空間の続く奥には、ソファとローテーブルが均等に置かれている。

受付を挟んで左手は、今はドアの閉じられた、多分食堂の観音扉と思われる。

メイド服の女と、男がなにやら話しているけれど、やはり聞き取れない。

男の声は、我に話し掛けている時でないと理解できない、摩訶不思議な現象。

身振りと仕草でメイド服の女たちが馬車の荷物を運び、馬車を移動させてくれると伝えているのは解る。

宿への土産物もあるし、荷物を持つなら我も降りようと思ったけれど、男が降ろしてくれない。

「ぬ?」

「君を抱っこ出来るのは久しぶりだからな」

「お主の……」

人の女ならきっとイチコロであろう微笑みに半ば呆れていると、分厚い雪雲がほどけ、晴れ間が見えてきた。

風呂敷に包んだ炊飯器とザルだけは持たせてもらい、メイドに案内されて、幅広く、よく磨き上げられた手摺の、ぐねりとうねる階段を上がり、2階の客室へ。

(……話に聞いていた印象とだいぶ違うの)

もっとざっくばらんな宿かと思ったら。

客室のドアの鈍い銀色が並んでいる。

ドアの間隔からして、部屋は狭くはなさそうだ。

土足禁止の文化は素晴らしい。

段差があり、男に草履を脱がせて貰う。

が、上がってすぐにまた斜め前にドア。

その奥に部屋があり、

(なるほど、廊下からは部屋が直接見えないようになってるの……)

中に入ると、

「……のぉ」

部屋も大きな観音開きの格子窓から、湖がよく見えた。

ベッドは左側に頭を壁にして2台。

格子窓の前に、一人がけのソファが2脚と、丸く脚の短いテーブル。

右手の奥のドアの向こうに雪隠れ、同じく右手の湖側の猫足風呂のある風呂場は、やはり観音開きで、縁側、ではなくバルコニーと繋がっている。

ベッド側にある、小さな書き物用の机には、ランプ用の石が詰んであり、消耗品とはいえ、

(ののぅ、使い放題とは何とも気前がよいの……)

狸擬きはメイドに丁寧に足を拭かれご満悦になっているし。

メイドが荷物を置き、男と握手をすると、我と狸擬きにはにこりと微笑み、小さく手を振って出ていく。

男が、外に出てみようかとバルコニーのドアを開くと、きちんと履き物が置かれいる。

風は水辺を掠り、更に冷たさを増したものが流れてくるけれど、心地は悪くない。

そのまた風が、今度は我の髪をふわっと持ち上げ、

「しばらくは羽を休めよう」

「の」

とにかくこの男を休ませねば。

「いや、君が思う程は疲れていないよ」

「ふぬ」

「むしろ、少し……」

男が広げた手の平を、握ったり広げたりしている。

(むしろ?)

と、我が口を開く前に、

部屋を一通り回ってきた狸擬きが、宿や外の探索がしたいと、窓をタシタシと前足で叩いてきた。


湖畔には、小舟が船底を見せて並んでいる。

この寒さでは小舟に乗る客もいないのだろう。

ちんまりとした湖ゆえ、軽く一周できそうだけれど。

「のの、見付けたの」

本命は、湖畔へと繋がる小さなせせらぎ。


「あーずき洗おか、林檎ぱい食べよか♪」

しゃきしゃきしゃき

「あーずき洗おか、たーくさん食べよか♪」

しゃきしゃきしゃき

しゃきしゃきしゃき


メイドの1人が、林檎煮があり、それを使い林檎パイを焼くから、

良かったら後でどうぞと、宿を探索している時にすれ違い、そう伝えてくれたと。

あのソファやテーブルのあった広間の奥のドアの部屋には、

「ふぬ」

数は多くないけれど、本が、棚に並んでいた。

持ち出し禁止の条件付きだけれど、こちらは1人掛けのソファが所々に配置されており、この部屋だけは陽が当たらないように天井からカーテンが掛かっている。

本を手に取りたかったけれど、狸擬きが、次、次とフンフン先を促すため、

「後でゆっくり来ればいいよ」

「ふぬ」

(まぁ時間はあるしの)

男に抱かれたまま、外に出てみたのだけれど。

(林檎パイ……)

小豆を研ぎながらも、林檎パイの存在を思い出してしまった。

湖畔を一周は、雪も積もっているしとまた今度にして、いそいそと宿へ戻ると、ロビーの窓際のクッションを敷かれた椅子に座らされ、メイドがやってくると、メイドは手に持っていた布で、また狸の前足を丁寧に拭っている。

狸擬きの満更でもない顔。

(こやつ、ここに残るとか言いそうの……)

男が何か頼んでくれているけれど、飲み物らしい。

やがて運ばれてきたのは、

(焼き立て……ほほぅの)

本当に焼き立てなのだの。

狸擬きも物珍しそうに、首を左右に傾げながら林檎パイを眺めている。

フォークを伸ばせば、

「ぬ?」

(タルト生地とはまた違うもののの)

とても温く、サクサクして、焼き立てのお陰か、

(牛の乳でなくこれはバターの……とても良き香り)

林檎煮も強めの甘味の中の酸味と、歯応えがよい。

これは。

「とても美味の♪」

と思ってたら食べ終わっていた。

「……」

まだ1口目にやっと口を付けていた男が、すでに空の皿になっている我を見て、動きを止めている。

「の、これは、その……」

お主は先に、珈琲と煙草と飲んでいたからだろうと狸擬きを見ると、狸擬きすらまだ半分。

狸擬きは、我の前の空の皿を見て、我を見て、また皿を見られる。

まるで手品でも見せられたような顔。

「ぬ、ぬぅぅ……」

さすがに、何とも言えない、きっとこれは「羞恥心」と言われるもので、体温が上がっている。

男は肩を揺らしながら、やってきたメイドにおかわりを頼んでくれたらしく、すぐにおかわりが運ばれてきた。

まだ湯気を立てている。

(林檎パイがこんなに美味なのが悪いのの)

気持ちゆっくり目に食べていると、ふとテーブルに影ができ、外を見ると、大爪鳥が帰ってきた所らしく、屋根を越えていく。

(あの鳥とは話せるのかの……)

気になりはするけれど。

今は、目の前の林檎パイを食べなくてはならない。


男には、腕を伸ばして唇を拭われながら謝られた。

だいぶ甘いものを我慢させていたと。

「のっ!?」

そこまで我慢していたわけではないと反論しかけたものの、林檎パイを2つ食べてからでは、説得力はまるでない。

(甘い菓子が美味し過ぎるのがいけないのの……)

「ここは日替わりでケーキが出るらしいぞ」

日替わりで。

(なんと)

「ここは、とてもいい宿の」

我が認定しよう。

ティータイムの後は、狸擬きは湖畔の周りの森を散策すると、すったかすったか出ていき。

(あやつめ……)

夕食の前に風呂に入ろうと話していたため、

(逃げたな……)

仕方ない。

戻ってきたら洗ってやる。

そして我も、湯船は久しぶりである。

「ぬぬー……」

温い湯が染みる。

宿に着くなり、絶えず男に抱かれていたけれど。

(臭ってなかったかの……)

風呂に入れないのはお互い様だったとはいえ。

風呂を堪能してから、我の髪を乾かす前に、先に風呂へと男を押し込み。

狸擬きは、食事処には連れて行かんぞとでも言われると思ったのか、風呂から上がった男に髪を乾かされている所に、のそのそと耳と尻尾を垂らして戻ってきた。

まぁ、ベッドには寝かさないのは確かだけれど。

その狸擬きの足許に、雪と雪の下の枯れ葉がパラパラ落ちている。

廊下を汚していないといいのだけれど。

男が狸擬きを洗うと言ってくれたため、お言葉に甘え、1人でバルコニーに出てみると、湖の向こう側はまた山が連なり、真っ白だ。

雪解けまで、男はここにいると言う。

金銭的な心配はないと言うけれど、ずっと移動しての旅路だったため、なんとなく落ち着かない。

(あの道程で、無事に辿り着けただけでも、奇跡に近いのだけれどの……)

赤飯おにぎりだけなら尽きることなく、延々と作ることは出来るため、飢えることはないけれど、一歩間違えば、ここに辿り着くのは春だったかもしれない。

「……」

湖面からの冷たい風をしばらく感じていると、背後の窓が開かれ、男が両手をこちらに伸ばしてきた。

「風邪をひく」

「の……」

両手を伸ばして抱き上げられると、男からは石鹸の匂い。

服には男の匂いが残っているため鼻を埋めると、

「……何をしている?」

男の身体が固まる。

「ぬ?お主の匂いを嗅いでいるの」

「……っ!?」

引き剥がす勢いで身体から離され、脇の下で支えられてはいるため、ぶらりと中に浮く身体。

「……の」

我は猫ではない。

「服は、洗っていない」

苦々しそうな、気まずそうな、しかし目許は微かに赤く。

洗ってないのは。

「お互い様の」

「君はいい匂いだ」

真顔で言うな。

「どんな匂いの?」

小豆かと思ったけれど、

「甘い桃の香りだ」

「……の、のぅ」

男の恥ずかしいと言う気持ちが、少し理解できた。

なので。

男の匂いは、これからは、こっそり嗅ぐことにしよう。


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