39粒目
夕方に空にかかる雲は、夜の始まりをも早める。
昼はここに急ぐために取らずに来たため、そして夕食も、部屋で赤飯おにぎりとお茶だけだったけれど、狸擬きは赤飯おにぎりさえあれば文句はないようで、ベッドの端に腰かけてモグモグと美味しそうに食んでいる。
男も同じらしい。
空腹のせいもあったのか、男も赤飯おにぎりを食べると、硬い表情に少し笑みが戻り、
「僅かだけれど、旅人や行商人の訪問が、どうしてか減っていると聞いた」
そんな話を聞かせてくれる。
過渡期かと思ったけれど、すでに下降は始まっていたらしい。
狸擬きが、腹に前足を当て、物足りないと訴えてくる。
普段なら、
「食べ過ぎの、タダ飯食らいめ」
で終わらせるけれど、見えないだけで黒い靄はきっと疎らに、この部屋にも浮遊している。
食べるだけでも力は付くだろうし、何より男にもバテられては困る。
二度目の炊飯をしつつ、男に、
「ここに卸すものはないのか」
と訊ねると、先刻の通り、顔見知り程度はいるけれど、ここには長年の固定の行商人がいて、自分は特に決まった仕事はないと。
さらりと苦笑いを含めて答えてくれるけれど、それはなんとも、
「我の甘味の補充のために寄った」
と言ってるようなもの。
確かに少し大きな街ではあるけれど、ここで「魔法」のことが解るとは、これっぽっちも思えない。
男は煙草に火を点け、テーブルの上で蒸気を上げ始めた炊飯器を眺めている狸擬きは、さっきの会話など、もう幻のように、口を開かない。
「抱っこの」
「おいで」
男が煙草を咥えたまま我を抱き上げ、窓際に立つと、城を眺める。
狸擬きが黒目だけをこちらに向けてきたけれど、見るくらい、なんの問題もない。
「立派なお城の」
「立派だな」
(のの……)
しかし、一度周波数を合わせてしまったせいか、じわりじわりと黒い靄が滲み出ているのが視える。
またすぐに炊飯器とにらめっこを始めた狸擬きには、この街の過去が見えていた。
今までの数少ない、寄り道した街や村でも見えていたのか。
それでも特に口を開かなかった。
開く理由がないからだろう。
でも。
ここでは口を開いた。
再び椅子に座らせてもらい、書き文字の練習をしていると、男は窓から見える城をスケッチし始め、間も無くして、炊飯器が二度目の炊飯を終えたことを伝えてきた。
「朝は早く出る、夜は早めに寝よう」
と告げる男と共に早々と寝巻きに着替え、ベッドに横たわると、狸擬きが風呂敷を咥え、こちらのベッドに飛び乗ってきた。
そして前足で器用に、我の足許に風呂敷を広げている。
「のの?今日は一緒にねんねの?」
『……』
何の返事もなく、狸擬きはその場で丸くなる。
広さに余裕はあるから問題もないけれど。
男の胸の中。
外の気配を探る。
夜は酒も入り、多少は賑やかにもなり、景気のいい声が多いのに、どこか、何か、胡乱。
夢でも見るかと思ったけれど、狸擬きが仰向けでうなされていただけで、何も見なかった。
まぁ。
(我は存分に鈍いからの……)
翌日の早朝。
まだ薄暗い中だったけれど、宿の受付には若い男がおり、ただ何をするでもなく、ぼんやりと座っていた。
それでも階段を降りてきたこちらに気付くと、挨拶的な言葉と共に微笑み立ち上がると、男が出した金額の半分を男に戻している。
(これが行商人の持つコインの恩恵の1つかの……)
男は、わざとらしく声を潜めて、受付の人間に何か伝えている。
残りは君のポケットに、とでも告げているのだろう。
この街に借りを作りたくないのは男も同じ。
裏に周り、同じ宿の部屋と同じ、数字的な文字が書かれた馬舎のドアの1つを開くと、長い付き合いになるであろう馬達が、気持ち、ほっとした様な顔で出てきた。
まだ街中は薄暗く、人気もほとんどない。
朝靄に混じり、黒い靄が広がる。
街の半分は川が沿い、半分は山が聳えている。
靄は山の方へは行かず、川に阻まれ、塞き止められている。
入る時はコインの提示はあるけれど、街から橋を通り外へ出ていく時は、特に何があるわけではない。
けれど、昨日の夕刻前にもいた橋の手前にいた若い女が、小屋の中から、
「早いですね?」
と言うように驚いたようにやってきた。
「お主も早いの」
思わず口にしてしまうと、男は馬車を停め、急ぎの用ができた的なことを女に答えている。
それも珍しくないのか、女は労るような表情になり、男が、何か女に問いかけている。
女は、男の問いかけに、少し詰まったような顔をしたあと。
男と我と狸擬きを見て、両手の指を合わせながら、とつとつと何か話すと、困った顔で笑い、街を見ている。
つられて振り返るも、見えるのは馬車の幌だけ。
変わりに狸擬きの方に目を向け、川につらつらと流れては霧散していく朝靄を眺めていると、ふわりふわりと流れ切れぬ黒い靄たちは、川沿いの堀に、べったりとへばり付いていた。
男が手綱を少し引き、馬が歩き出すと、女は笑顔で手を振って見送ってくれる。
「……あの者は何を言っていたの?」
「いや、最近街が賑やかなせいか落ち着かず、ここで寝泊まりしている、だからすぐにあなたたちの馬車に気付き、出てこられたと」
「ふぬ」
橋を渡りきって、川沿いに曲がると、まだ女は手を振っていた。
「……」
賑やか。
とは。
若い女のいう「賑やか」が一体何を指しているのか。
我の知るところではなく、ただ、ちらりと見える白い城が、今は、真っ黒に染まって見えた。




