144粒目
宿の放牧場にて。
宿の母親と男が、我等が馬たちの蹄鉄を替えていると、客の姿。
「……のの?」
パリッとしたシャツに細身のパンツ、ヒールの高いサンダル。
髪はそのままさらりと流し、宿の足場の良くない敷地の中でも颯爽と歩いてくるのは、研師だった。
こちらに気付くと軽く手を上げ、我に何か声を掛けながら歩いて来たけれど。
(のの……)
「……」
もう我には、研師の言葉は聞こえない。
研師は、じっと自分を見上げる我を見下ろし、
「あぁ、……もう言葉は通じないんだね」
的なことを呟くと、しかしその場で屈み、我に片手を伸ばしてきた。
筋張った職人の手。
「……」
片手を出すと、そっと手を握られ、笑みを浮かべながら何か言われた。
「フンフーン」
テテテと狸擬きもやってくると、研師をじっと見つめてから、
「フーン?」
特に変わった所は見られませんね、我を見た。
「そうの」
蹄鉄を付け替えた男もやってくると、研師に声を掛けている。
後は宿の母親に任せ部屋へ入り、珈琲と紅茶を淹れれば。
「あの後、どうやら丸2日間、寝てたみたいでさ。
その間に、あの赤い男等と、あのじじいまで、家に押し掛けて来てたみたいでね。
医者まで呼ばれたらしいんだよ。
そしたらさ、
『よく寝てますね』
って診察されたんだってさ」
研師は身体を揺らして笑う。
本人はカラカラと笑っているけれど、周りはさぞや肝を冷やしただろう。
「体調はいいよ。分かりやすい見た目の変化は今のところ何もないね」
と、自分の身体を見下ろし。
そのまま、
「……感謝するよ」
と呟かれた模様。
男は小さく頷き、狸擬きは、
「フンス」
得意気に鼻を鳴らす。
「ただね」
研師は、撫でてもいいとぬっと研師に頭を付き出した狸擬きを撫でながら、少し困った顔をする。
「?」
何か副作用が出たか。
「……私には、この莫大な借りを返せる宛がないんだよ」
のの。
「あんたたちには、私の貯金程度じゃ小遣い程度だろうしねぇ」
と苦笑い。
そんなことはないだろうけれど、これからどれくらい、どんな風に生きていくかも解らぬ研師から、貴重な財産を奪うつもりもなく。
しかし、
(そうか、礼の……)
男が我を見て、どうすると問いかけてきたため。
こちらも大概。
(いや、正確には我、であるの)
息を吐くと、男に通訳を頼む。
「あの時、非常に切羽詰まっていたとした緊急事態だったとしても。
我はお主を、白い花の実験台として使った節は多大にあったの」
そんな言葉を放つ我を、研師は見つめ、決して目を逸らさない。
「なのでの」
そう。
「次に会えた時、貴重な白い花を飲んだ被験者として、身体の変化や心持ちを、お主に聞かせて貰いたいの、それが報酬の」
と伝えて貰うと。
男伝にそれを聞いた研師は目を見開き、くっと眉を寄せたと思ったら、
「……っ!」
おかしそうに声を立てて笑い出した。
心底、おかしそうに。
そして、目尻に浮かんだ涙を拭うと、
「そんなんでいいのかい?」
と。
「そうの、我にとって、お主は大事な生きた標本であるの」
どう生き長らえるのか。
案外、そうは保てないのか。
それを知りたい。
研師は、
「なら、その言葉に遠慮なく甘えるよ?」
ニッと不敵に微笑み。
その微笑みに、
「勿論、よきの」
にんまりと笑い返すと。
「……あぁ、なんだい」
驚いた顔。
「あんたは、そんないい笑顔も見せるんだね」
と獣にもたじろがれる笑みを、褒められた。
閑話休題
とかく緊急だったとはいえ、あの日、狸擬きが急いだ代償は。
数日、街中で、
「突風の何かが街を道を通り過ぎて行った」
と、噂が広まった。
まぁ、それくらいでは、済んだ。
「なんの、またおてんと様がご機嫌斜めの」
「フーン」
でも、天気が悪いと主様が美味しいおやつを作ってくれるから悪くないです、と狸擬き。
ぐずついた天気が続き。
「今日は何をしようかの」
宿の母娘も買い物に行けていないだろうから、パンでも差し入れしようか。
狸擬きに運ばせれば、そうそうパンも濡れまい。
「フーン」
また、フレンチトーストが食べたいですと狸擬き。
「パンから焼かぬとの」
「フーン」
ビスケットも食べたいですと欲張り狸。
折角だし、硬めのパンで試してみようかと、狸擬きとパンを捏ねていると、
「俺も混ぜて欲しいな」
地図を眺めていた男がやってきた。
2人と1匹でパンを捏ねる。
「んふー♪」
「フーン♪」
楽しい。
雨も小降りになった昼過ぎ、人が訪ねてきたと思ったら、色ボケの洒落じじだった。
何とも立派な馬車に乗っている。
じじの要件は。
もうしばらくしたら、出発はまだしばらく先だけれど、台風の終わり辺りの日付の船の切符が売られるようになる。
子供もいるなら、まともな船と客室がいいだろう、切符は早めに買った方がいい、とわざわざ教えに来てくれたらしい。
焼いたばかりのフレンチトーストを出すと、甘党でもあるらしく大喜びで食べている。
続いて爪を咥えていた狸擬きの分も出すと、
「フーン♪」
ご機嫌に食べ始める。
1人分が減ってしまったため、我は男と半分こで、
「あーむぬ」
口に運ばれる。
(ほうほう、固めのパンでも、やわこくて美味の)
続けて、おじじが何か話している。
男は、我の口を拭きながら、少し考える顔をし。
「?」
「フーン」
狸擬き曰く、隣の国へ行く時に、一度帰国する孫と同行してくれないかと言う依頼だった。
依頼料は勿論、船にいる間に、向こうの言葉を孫に教わってくれればいい。
もし承諾してくれるなら、船の切符も用意すると。
ほほう。
しかし。
「あなたは行かれないのですか?」
の男の最もな疑問に、おじじは、ぐっと詰まり、
「その、……好きな女性と離れたくないんだよ」
口許を押さえたおじじは、耳が赤い。
(なんと)
ロマンス、である。
研師も、隣の国へは、いつか行きたいとは言っていたけれど、
「今」
ではないのだろう。
男は、我を見て迷う顔をする。
(ふぬ)
お船でも、あの孫娘と四六時中一緒でもないだろうし、とかくあの娘は性格は控え目、ごくまともそうではあるし。
切符も、こちらと向こうの国を行き来しているじじが取ってくれたほうが格段に信用が置ける。
ふぬ。
「我は良いの」
頷くと、言葉は通じないのに、おじじが、
「ありがとう」
と笑顔になり、
「これから港へ行ってみるよ。港には天気を見る人間もいるんだ、まだ先だろうけれど、少し話を聞いて来る」
と立ち上がる。
屋根はあるとはいえ、小雨の中で待つ御者に焼いていたビスケットを渡すと、御者はありがとうとニコニコ笑い、おじじ見送る。
「ふー……」
と男の溜め息。
そう、男はまた1つ重荷が増えた。
けれど。
得体の知れぬ我等が他国へのお船の切符を買うより、お船に知り合いでもいそうな洒落じじに頼んだ方が、条件は数倍いいであろう。
それにこの世界、悪い人間はとみに少ないとは言え、なにやら少しお堅そうなお国でもあるし、事情を知っている人間はいた方がいい。
それでも。
「お人好しも大変の」
踵を上げて男に両手を伸ばせば。
「そんなつもりはないんだけどな」
苦笑いで抱き上げてくれた。
数日ぶりに晴れた日の午後。
「角度が大事だよ」
研師の店で、研師からの礼の1つとして、2人と1匹、刃物や鉈の研ぎ方を教えて貰った。
狸擬きは、我の小さなナイフを研ぎ、
「うん、あんたもなかなか筋がいいね」
と褒められ、
「フーン♪」
尻尾でなく尻をフリフリ。
男が、身体におかしな変化はないかと訊ねているけれど、
「すこぶる元気だよ、気持ちもね」
傍目から見ても無理している様子もない。
そして、食事くらいは奢らせて欲しいよと、夕食に誘われた。
ならばと一度帰り、また白い千鳥格子のワンピースを身に纏えば。
「とても可愛いよ」
抱き上げられ、こめかみに唇を当てられる。
「くふふ♪」
狸擬きも、きちんと鏡の前で見えない蝶ネクタイを着けている。
地図を渡された店の前で待ち合わせしたけれど、先に待っていた女は、夏の終わりの始まり、目にも鮮やかな真っ赤なワンピースを身に付け。
無造作に髪を纏めているのは白い髪留め、足許は白いサンダル。
白い小さな肩掛け鞄。
大きく手を振って迎えてくれた。
「よく似合っています」
「とても素敵の」
「フーン♪」
女は我等の賞賛に目尻に皺を寄せて、いい笑顔を向けてくれる。
あのホテルのレストランほどじゃないけれど、ここも美味しいんだよと、小さなランタンが幾つも幾つも天井から掛けられ、幻想的な店内を案内される。
「ののぅ」
何とも夢見がちな、
「惚れ惚れするの」
ほわりほわりと、まるっこいガラスのオブジェが反射して、
「愛らしいの」
キョロキョロしていると、
「喜んでくれたみたいで良かったよ」
研師がホッとしたように息を吐く。
男伝に、あの寝室のベッドの愛らしいラグなどはどうやって手に入れたのかと訊ねてもらうと、
「ああいうのは市場で生地を買ったり、パッチワークは自前だよ」
と。
「なんと」
根気強さに恐れ入る。
男は、じじと一緒に向こうの国へは行かないのかと聞いているけれど、
「長年一緒に居てくれて、色々気を遣わせた街の友人や知り合いに恩返しをしたいし、この子の言う通り、まだまだ先の話だけどね。両親を見送ってくれた皆を、見送ってやりたいんだ」
と研師は運ばれてきた2杯目のワインを持ち上げると。
「……後は」
目を伏せ、少し、何かいい淀む。
「……?」
「その、狼を飼いたくてね」
「フン?」
狸擬きが反応する。
「あんたを見てたら、もう一度、飼いたくなっちゃったんだよ」
と。
次の市場で、狼の子供たちが売られに来るらしい。
それはそれは。
「我も見に行きたいの」
「あぁ、勿論いいよ、一緒に行こう」
許可を貰えた。
と言っても、一軒の繁殖屋が数匹程度連れてくるだけで、わらわら居るわけではないらしい。
研師も今度の市場は、純粋な客として向かうと言う。
研師のおすすめの店の料理は、ホテルに負けじ劣らずでとてもおいしかった。
何より、
「のの?」
「フーン♪」
デザートが、栗のアイスクリームと、アップルパイ。
この時期に。
「ここは毎年、一番早めに林檎が入るんだよ」
だからわざわざ、この店にしてくれたらしい。
我への礼のために。
(ぬん……)
そして、その味は。
間違いなく、
「大変に美味の♪」
「フンフーン♪」
狸擬きも、後ろ足をパタパタさせている。
男にも、一口のと口に運び、
「うん、うん、うまい」
「の♪」
ニコニコ笑い合っていると。
『……』
それを見ていた狸擬きが、フォークでアップルパイを切り分け、
「フーン」
研師の方にアイスクリームの乗ったスプーンを向ける。
「あぁ、ありがとうね」
と顔を寄せてスプーンを咥える女に、男が、
「彼がそれをするのは、あなたにだけなんですよ」
と伝えれば。
研師は、
「……や、やだね全く。ちょっと泣きそうになっちゃうじゃないか」
と苦笑いしつつ、目頭を押さえている。
夜は、
「あぁ、今夜は快晴だね」
晴れやかに夜空を眺める研師を店まで送り、手を振ると。
「ぽんぽんいっぱいの」
「美味しかったな」
「フーン♪」
少しずつ、ゆっくりと見えてくるのは、この街との、別れ。
三度目の栗拾いへ行き、更に先の森へ向かってみると。
「のの♪」
狸擬きのいう通り沢を見付け、駆け寄れば。
「あーずき洗おか、くーりを拾おか♪」
しゃきしゃきしゃき
しゃきしゃきしゃ
「あーずき洗おか、おーふねに乗ろうか♪」
しゃきしゃきしゃき
しゃきしゃきしゃき
ふふんふふん
ふふんふふん♪
今は、この辺りには人は居ないけれど、離れた先に馬車の通り道がある。
易者と絵描きはそこを超えて川を渡り、向こうの国へ向かうのだろうか。
狸擬きは、散策がてら走っていったけれど。
「また随分と、遠くへ行ったの」
気配がとんと薄い。
多分、あの2人が越えると言う川の方まで行っているのではないだろうか。
まぁ、栗はすでにこれ以上ないほど拾っているから、満足したのだろう。
リスでも全滅させる勢いで狩ろうかと思ったけれど、
「戻ったらおにぎりが食べたいです」
と狸擬きが言い残していたため、荷台で栗を剥き、炊飯器のスイッチを入れる。
そして男と荷台でゴロリと横になれば。
「……伸びにくくなっておるの」
男の髭を触る。
「そうかな?」
「そうの……」
散髪もあまりしておらぬ。
「君に、少しずつ近付けている」
片手で頬を包まれた。
そうだろうか。
髭に触れていた指を咥え、唾液をまぶすと、待ちきれないように男に手首を取られ、
「せっかちの……」
小指を咥えられる。
そのうち、指を食べられてしまいそうだ。
小指を咥え、また咥えられ。
「……ふっ」
微かに息が乱れた時。
ピーッ
と炊飯器が炊飯を告げ、
「あぁ……」
男の名残惜しげな溜め息。
「狸擬きが光より早く戻ってくるの」
おにぎりを握らなくては。
「フーン♪」
ポーンポーンと飛ぶように跳ねるように狸擬きが戻ってきた。
「フンフン、フンフン」
想像したより、遥かに大きな大きな川がありましたと、食べるのにお茶を飲むのに話すのにまぁ忙しい。
「対岸が見えないのです」
「こーんなに大きいのです」
と狸擬きが前足を大きく広げていると、不意に小さな馬車がトコトコとやってくる音がし。
「の?」
こんなところまで。
「……フーン?」
君たちはここで待ってなさいと、男が降りていく。
狸擬きは、男を見送ると。
「フン」
宿の受付などにあった人間の男の残り香と同じ匂いが、川へ向かう人の歩く道に残っていました、と報告してくれながら、2つ目のおにぎりを前足で掴む。
「のぅ」
凄まじき嗅覚。
よく気が触れないものだ。
「……船に乗った気配は?」
「フンス」
船の発着場から、匂いが消えていましたと。
「ふぬ……」
伝える必要は、ないだろう。
男にも、母娘にも。
男が戻ってきた。
「街の人が栗を拾いにここまで来たけれど、こっちももう終わりかと戻って行ったよ」
申し訳ないけれど、目敏い狸擬きのお陰で、栗は我達で隈無く拾い尽くしてしまっている。
宿へ戻ると、易者と絵描きから伝言が届いてきた。
「明日の昼、この店に」
と小さな手書きの地図が1枚。




