132粒目
「悪い、君たちの目のよさを甘くみていた」
もっと近いと思っていたらしい。
羊たちは。
「のの?毛が少ないの」
「あぁ、暑いからな、毛狩りをされたんだろう」
狸擬きが、降りたいと、羊に挨拶をしたいと訴えてくるため、
「邪魔はせぬようにの」
「フーン」
見送れば、柵の中にするりと入り込んだ狸擬きは。
早速。
「ののぅ」
「囲まれてるな」
「人気者の」
あの狼のいた牧場でも、羊には仲間に思われていたらしいけれど、それはこちらでも変わらないらしい。
特に今の羊たちより毛量も多い。
囲まれていた狸擬きが走ると、羊たちもぴたりと付いてくる。
「おぉ、優秀な牧羊狸だ」
「やはり、あやつは牧場でも生きていけるの」
同じ牧場でも、こちらは山がだいぶ遠い。
大きな放牧場の柵の間を進み、多分毛狩り場と思われる建物や羊舎、人の住む建物が現れ、そこに1軒だけあった宿は、1日がかりで街から来る仕入れの人間ための宿で、簡素かつ質素、小さなテーブルにベッドも1台。
しかし水場と風呂場は備わっており有り難い。
荷台から椅子代わりの箱を運んでいると、テコテコと戻ってきた狸擬きが、
「フーン……」
珍しく、いや初めて、
「お風呂に入りたいです……」
と訴えてきた。
「のっ!?」
「おっ……?」
「明日は、槍が降るどころか大災害でも起きるのの」
「……フゥン」
羊たちの涎が毛に付いて臭いのです、とイヤイヤしている。
確かに、少し臭い。
「なら、俺が洗おう」
「フーン」
狸擬きが、優しく頼むと男に伝えるけれど、残念ながら当然通じない。
ここの羊たちは初対面のものに対して、若干距離が近いと思われます、とフンフンと通じないぼやきを男に訴えつつ、毛を洗われて出てきた狸擬きは、それでも、
「フーン」
毛の匂いを嗅ぎ、臭いのがとれましたと満足そうに鼻を鳴らす。
男は、
「宿の客用に肉を売っているらしいから、ちょっと見てくるよ」
腕捲りしたまま出て行き、狸擬きと宿に残される。
狸擬きは、部屋を見回すと、
「……フーン」
無駄のない空間ですねと。
「ふくく、そうの」
かなり年季の入った建物で、雨漏りを直し跡や、壁にも少なくない傷が付いているけれど、壁から風が吹き込んできたりするまでは、直す気もなさそうだ。
それぞれ木や岩の洞を寝床にしていたら我等からしたら、十分に立派な建具と思える。
狸擬きはベッドの足許にあのハンカチを広げると、そこにぽてりと身体を横たわる。
「♪」
「海岸沿いからは離れすぎて海は見えぬの」
「フーン」
すでに海が少し懐かしくありますと、狸擬きの言葉に、
「ふぬ、気持ちは解るの」
互いに海とは無縁の山深くで育ち、海には全く縁はなくとも、だからこそ、あの美しさと迫力は記憶に強烈に残っている。
男はすぐに戻ってきたけれど、へこんだ古い鍋を借りて肉を買ってきたらしい。
中身はラム肉とマトン肉だと言う。
よく見ると男のパンツは、狸擬きを洗ったお陰でだいぶ濡れている。
食事よりも、
「お主も風呂へ」
と促せば、
「なら先に肉を茹でよう、その間、火の番を頼む」
「の」
ラム肉と違い、マトンは少しばかり癖があり硬めで、分けて貰えたものは特に煮込む必要のある部位だと。
しかし。
「の?塩だけの?」
「どっか遠くの郷土料理だそうだ、岩塩だけで煮ると」
「ほほぅの」
鍋を眺めつつ、炊飯器のスイッチを押し、
(この煮込んだ汁も飲めるのかの……)
踏み台に乗り、鍋の蓋を開けて覗き込んで見たけれど。
「ぬっ……!?」
だいぶ癖のある臭みのある香りを含んだ湯気に頭が仰け反る。
「……ぐぅぅ」
そのまま部屋から出て、荷台から勝手に香草を持ってくると鍋に散らし、蓋を閉じ踏み台から飛んで降りると、
「フーン?」
何をしているのですか、とうつらうつらしていた狸擬きに聞かれる。
「少しでもおいしく食べる工夫の」
テーブルの椅子によじ登りつつ、外に出た時に気づいたけれど。
(陽が長いの)
羽目殺しの小さな窓の外はまだ明るい。
「お待たせ、君も先に風呂に」
男が出てきた。
烏の行水。
烏のいないこの世界、意味は伝わらぬだろうと黙って風呂場へ向かうと、小さなサイズの風呂だけれど、我ならばちょうどいい。
髪と身体を洗い、
「うんしょの」
踏み台がない浴槽にまたよじ登り、我のために少し湯の減らされた湯船に浸かる。
「ぬふん♪」
我は割りと長湯だと男に言われる。
そうかの。
目を閉じて湯に身を委ねていると。
そう言えば。
(……ふぬ)
しっかり海が見えなくなってから、思い出した。
「人魚?」
「の、やはり海にいるのの?」
こう、散々煮ても肉肉しい肉は、しかし香草のお陰で若干、匂いのましになった骨付きの羊肉を噛み締めつつ訊ねると。
「俺のいた所は海が遠くて、ほぼ、お伽噺に近かったな」
しかし名前やその存在は知っていると。
ほほぅ。
赤飯おにぎりをパクパク食べ終えてから、塩と香草、後から足された根菜の入った羊肉のスープを手許に引き寄せる狸擬きが、
「フーン」
眺めていた限りでは、人魚ならば存在するかと思われます、と教えてくれる。
「のの?」
「フーンフン」
人魚にとって水面は、我等にとっては空のようなもの。
近寄らないし近寄れない。
力が強いため人の作る網などは簡単に裂けるから、 万が一にも掴まることもないと。
「ほうほう」
力の強さだけは我と同じの。
「セイレーン、とやらは?」
「フーン」
あれは「まがいもの」であり、人のこじつけた幻覚幻聴ですしかありませんと。
なるほど。
「案外物知りの」
海岸沿いの街で人の声に耳を澄ませ、海を見ての推測ですと。
無駄に街中を散歩していただけではないらしい。
狸擬きはスープを一口飲むと、大きく首を傾げてからラム肉に前足を伸ばしてくる。
「この、子羊の、ラム肉が美味の」
テーブルに並べられたものは、1口大に切られ焼いたラム肉の上に、蕩けかけたチーズが乗ったもの。
ツマミ、に近いものであろうけれど。
男もうんうん頷くと、
「ラム肉を多めに買っていこうか」
「ぬ♪」
「フーン♪」
満場一致で決まる。
「の、この街には滞在するのの?」
聞いていなかった。
「いや、通りすぎるだけかな、抜けるだけでも数日はかかるけれど」
真ん中のこの街は、広さはあれど、両隣の2つの街の個性を合わせた街であり、あまり個性がないと。
2つの街を合わせたそれが個性なくらいだとか。
早めの夕食を済ませ。
「夜は何をしようか」
「ぬん」
刺繍の練習か、パンを焼くか。
しかし。
部屋に残るは癖のある肉の臭い。
「少しドアを開けておこう」
男の苦笑い。
「フーン」
狸擬きに頼まれてベッドで背中の毛を梳いていると、男は洗った鍋を返してくると出ていく。
「しかしなんの、お主は羊に好かれるの」
『なぜか仲間だと思われます故』
やはり見た目か。
「夕食は、ラム肉が美味であったの」
『とても美味しいです』
狸擬きから見たら、羊たちは仲間ではなく、
『放牧場には、まだ小さなラム肉もたくさんいました』
美味しい美味しいお肉の集まりらしい。
しかし、
「あれらはまだ生きておる、ラム肉言うなの」
尻尾の毛を梳いてやっていると、少し離れた小屋から、
コケッ!
と鶏の寝言が聞こえる。
鶏はこの村では各家庭で飼っているのだと聞いた。
どこも。
「街も村も、色々の」
ただ、人が少なく獣の多い、のどかな牧場は悪くない。
『では主様も、牧場主になりますか?』
「のの?」
牧場主とな。
「そうの。いつか、一度くらいなってみるかの」
『そしたら、狼を雇いましょう』
「ぬ?同じ狸を雇うのではないのの?」
『我等だけでは、羊たちはあまり言うことを聞かないため』
そうだった。
「では、山の近くにしないとの」
「♪」
他愛ない話をしていると、男が戻ってきた。
すっかり陽も暮れ、テーブルで日記を付けている男と同じテーブルで、お絵描きをしていた狸擬きが、
「フーン?」
落書き帳にしている紙の束に、以前、我が描いた落書きが混じっていたらしく。
そこには。
「あぁ、それはスコーンの」
我ながら難解な、ティーカップと共に描かれたそれは、布の国で、黒ドレスを買ったあの服屋の娘と、人力車の青年とお茶をした時の絵。
「フフーン」
狸擬きは、スコーンがまた食べたいと訴えてきた。
ぬぬ。
そうの。
「街まで降りればあるかの」
「フゥーン」
朝ご飯に食べたいと。
「の?」
「なんて?」
男が顔を上げた。
「狸擬きが、朝にこれを、スコーンを食べたいと言ってきたのの」
また無茶を言うと眉を寄せると。
「あぁ、君に作って欲しいんだろう」
男があっさりと言葉を放つ。
「のっ?」
「フーン♪」
その通りです、と狸擬き。
なんと。
なんとも。
「お主は『主使い』が荒いの」
「フフフン」
狸擬きは、前足をパタパタ振り回す。
「……んの?」
「ん?」
男が通訳を求めてくる。
「……主様の作るものは、自分だけでなく、この男も喜びます、との」
我の苦々しい声に、
「あぁ、確かに」
男は笑う。
否定せぬのか。
まぁ、するはずがないか。
仕方ない。
「では、少し待つの」
スコーンは、店でたった一度食べたきり。
目を閉じて、記憶の書庫を開く。
(スコーン……いや、布の街で食べたものではなく、レシピ、いや、あれはなかなかにおいしかったけれどの)
味ばかり思い出してしまい、記憶の本棚に辿り着けない。
「……」
もう少し深く潜れば。
頁を捲る記憶が浮かぶ。
あぁ、そう。
そうだ。
(わりと最近の、菓子の本で見たの)
最近とはいえ、向こうでの最近だけれど。
「……」
1人と1匹は、じっと動かずにいてくれる。
煙草でも吸っててくれても良いのだけれどの。
(あぁ……)
見付けた。
「ふぬ。形は違うし、味も落ちると思うがのよいかの」
「フーン♪」
構いませんと狸擬き。
「では。バターを使いたいの」
「あぁ、……ん?今?」
「小さく切って冷やしておきたいの」
狸擬きは、
「フーンフーン♪」
とご機嫌で狭い部屋の中を歩き出す。
バターを細かくし冷蔵箱にしまうと、
「お主はとんと雑食であるの」
「フンフン」
好き嫌いがないのが自慢です、と。
ほうほう。
「お主は、我の血肉も喜んで食べそうの」
「フゥン」
生では少々……と立ち止まる狸擬き。
「くふふ」
躊躇う理由はそこか。
「フーン」
冗談です、と楽しげにトトトとベッドに向かうと、敷かれたハンカチの上に飛び乗る。
「のの?もうおねむの?」
「フーン♪」
早く眠れば早くスコーンが食べられます、とくるりと丸まる。
「そうの」
では我たちもと男を促すと、
「そうだな」
男も、日記を綴じた。




