128粒目
大通りから外れた、ほぼ建物に囲まれて影になっているも、吹く風が涼しいテラスの茶屋で無花果のマフィンと紅茶がテーブルに置かれた。
「ぬぬ♪」
しっとりして無花果の果肉の食感がよい。
むしって男の口にケーキを運ぶと、
「うん、うまい」
我の手から口に運べば、何でも美味いというのではないか、この男は。
「そういえば、ここの雨季は冬だそうだよ」
そんな男の言葉に、
「のぅ?」
雪はあまり降らぬのかのと思う。
(気温の高さ故かの……)
店を閉め、雨季が終わるまで暖かい国へ遊びに、働きに行く人間も少なくないと。
「ほほぅ」
海岸沿いの店は特に多そうだ。
同じ店で乙女への手土産のクッキーの詰め合わせを買い、手芸屋へ戻ると、赤く塗られた手摺のある2階へ繋がる外階段から、乙女が降りてくるところだった。
上が住居なのだろう。
男が、急拵えのもので申し訳ないと手土産を渡しているけれど、
乙女は、
「気を遣わせてしまって」
と、はにかんだ笑顔になり、けれど控え目な仕草ながらもとても喜んでいる。
ふぬ。
(あれの、一昨日の若い女とはまるで正反対のタイプの……)
どちらも、それぞれ大変に魅力的であることには変わらないけれど。
店の奥の部屋に通されると、
「のの……」
大きなテーブルに広げられた白い布に、刺繍による赤い花が咲き乱れ、乙女の本業はこっちかと教えられる。
男に訊ねてもらうと、やはり依頼された品だと。
乙女が部屋を見回すと、察した男が隣の店から椅子を運んでくる。
その間に乙女が刺繍された布を避け、テーブルが大きく空く。
まず何を刺繍したいかと訊ねられ、
「これにの」
貰った肉球柄が刺繍されたハンカチを見せ、この下に名前を縫いたいと男に伝えて貰うと、乙女は小さく頷き、
「名前だったら、布に直接文字を書いて、それに糸を重ねてしまいましょうかと言っている」
なるほど。
その、肝心な名前を。
こちらの文字にするか、元の世界の文字か迷ったけれど、こちらの文字はいくつか覚えたし、いくつもあるけれど、元の世界の文字は1つしか知らない。
(それでも、ひらがな、カタカナ、漢字、と3種類もあるのだから笑ってしまうの)
しばし悩み。
刺繍は初めてでもあるし、一番簡単なカタカナにさせてもらおう。
狸擬きが、
「フーン?」
なぜその布を、と首を傾げてくる。
「このハンカチにの、我がお主の名を刻めば、お主が持っていても、多少は長持ちするであろかと思っての」
「……フーン!?」
狸擬きはその場で尻尾をグルグル回すだけでなく、身体ごとくるくる回転させて喜んでいる。
細い黒炭のような筆を借り、
「タヌキモドキ」
と一角に書くと、
「フン?」
文字を眺めるためにテーブルに飛び乗った狸擬きが、それが自分の名前かと聞いてくる。
「そうの。これは、我だけのお主の呼び方の」
「フン?……フゥン♪」
満更でもなさそうだけれど。
いいのか、擬きで。
糸は肉球に合わせて暗い茶色。
男は、通訳してくれながらも、手はスケッチを欠かさない。
乙女は、切れ端の布をくれ、先にこれで少し練習しましょうかと、縫い方にも種類があるのだと教えてくれる。
(そう言えば店に飾ってある刺繍も、針の入れ方?が色々違っていたの)
刺繍枠と呼ばれる木の丸枠に布を咬ませ、乙女が見せてくれる針の通し方を真似する。
「ぬぬ……」
「上手ですね、と褒めてくれているよ」
「ぬふん♪」
「フーン」
狸擬きも、まあまあだと、どこから目線か、狸目線で褒めてくれている。
「糸を、その穴に通して、と」
「ふぬ、ぬぬ……」
糸を通すだけでも6種類程度はあるらしい。
(奥が深いの)
基本を教わっているだけで、時間が経ってしまった。
乙女が、また明日も良ければと申し出てくれたけれど、
「明日は……」
「あぁ、お主の『講義』の日の」
「そんな大層なものじゃない」
苦笑いで肩を竦めた男は、首を傾げる乙女に、痒くなもなさそうな頭を掻きながら、少し躊躇した後、
「明日学校で、少し話をする予定がある」
と伝えると、乙女はパッと顔を明るくし、
「私も聞きに行きたいです」
と興味津々のお顔。
こちらは娘の善意で教わっている身、無下にもできず男が頷くと、店に客が来たため、また明日と手芸屋を出て、宿へ戻ることにした。
男は、少し仕入れの仕事をしてくると宿の前で別れたけれど、
「悪さはしないように」
と釘を刺された。
「我等は信用がないの」
「フゥン」
狸擬きと不服であるの、と視線を合わせると、部屋に入る。
刺繍の練習をするかと迷ったけれど、狸擬きのリクエストで、1人と1匹、また、パン作りに取り掛かることにした。
今日は胡桃のパンを焼く。
こねりこねりと、生地を捏ねる。
こう、無心で捏ねていると、
「……の」
「フゥン?」
そうそう無心とは行かず、何か、いいこともそうでないことも、頭に浮かびやすい。
狸擬きに、思い付いたことを、どうだろうのと訊ねて見れば。
「フゥン♪」
物は試しです、と賛同してくれる。
捏ねた生地をボールに落として、濡れた布を掛けると、狸擬きとテラスのテーブルで紙を広げ、手裏剣や狸擬きを描くと、狸擬きも端に肉球のマークを描いている。
「お主は本当に絵が上手の」
「♪」
少し意識を込めながら、1人と1匹の絵の描かれた紙を折って、紙飛行機にし。
「……男のもとへ行くの」
と呟き、紙飛行機をテラスから飛ばすと、スッと平行に飛んだ紙飛行機は、そのまま落ちることなく、スイッと方向を変え落ちるどころか角度を変えて、我たちのいる宿の上を通り過ぎて、視界から消えていった。
『……』
「……」
ふと思う。
「の」
「?」
「これは、怒られはしない遊びであるのよの……?」
「フ、フゥン……」
多分大丈夫です、と狸擬き。
パン生地が膨らむのを待ち、丸く形を作り、狸擬きの肉球を付け、再び発酵を待ち、パンを焼いていると男が帰ってきた。
片手にはあの紙飛行機。
一度広げた跡がある。
男の苦笑い。
買い付けたい店の主人と話している時に飛んできて、男の頭に当たったと。
店の主人は、子供の悪戯だろうと笑いつつも、紙飛行機の造形に関心を示していたと言う。
「君は凄いな」
「我が飛ばせるのは、せいぜい紙程度の」
他は試したことがないから分からないけれど。
狸擬きが部屋中に広がる珈琲と、そしてパンの匂いに鼻を忙しく鳴らし、狐色に焼き上がったパンと甘いカフェオレで、遅い昼にする。
男は、パンを齧りつつ明日の勉強質問会の最後の確認を始めている。
(忙しいの)
我は同じテーブルで本を広げ、狸擬きは絵を描いている。
空に雲は広がるけれど、雨雲ではない。
「質問に、
『行商人に一番大事なもの』
とあるのだけれど」
「ふぬ」
「答えが『馬車の車輪』では、やっぱり夢がないか……?」
男の問いに、
「くふふっ、夢はなくとも現実的で良いと思うの」
生命線に近いものだろう。
話していてると、
「フーン」
お絵描きに飽きたらしい狸擬きが、さっきの紙飛行機の魔法を自分にもして欲しい、とせがんできた。
「良いかの?」
男は少し悩んだけれど、
「小さめに」
と目立たないようにするなら、と許可してくれる。
狸擬きは、ご機嫌で跳ねるようにテンテコ宿から出て行き、
「ふぬ」
小さな紙飛行機を折り、男に抱っこされてテラスへ出ると。
「頼むの」
紙飛行機に声を掛けて、飛ばしてみる。
またスッと風に乗った紙飛行機は、驚く程に飛距離を伸ばした後、その場でゆっくり旋回し、下の方へ落ちるように飛んで行き、見えなくなった。
「君は、郵便屋さんにもなれるな」
男は、感嘆の吐息を漏らしてくれたけれど。
「くふふ、残念ながら送れるのはお主と狸擬き程度の」
しばらくすると、狸擬きが紙飛行機を咥えて戻ってきた。
街外れの、小さな広場の人気のないベンチにいたら、この三角紙がスイスイと飛んできまし、と。
一緒に明るい橙色の花も1本咥えている。
なんと、素敵な土産物。
カップに水を注ぎ、花を活ける。
夕食は、胡桃を混ぜたパンを持って、マスターの店へ向かう。
看板はしっかり出ているけれど。
(……ぬん)
店の名前と料理の絵。
「どうした?」
「のの」
今日も客は居らず。
我等には落ち着くからいいけれども。
良かったらとカウンターを勧められ、男が紙袋に詰めたパンを渡すと、
「とても美味しいので嬉しいです」
と喜んでくれているのが分かり、こちらも嬉しくなる。
「の」
「ん?」
男に、マスターは、客は少ない今くらいがいいのかと聞いて欲しいと頼むと、
「……?」
男は当然、少し面食らった顔をしてから、マスターに訊ねてくれる。
マスターは、オーブンから取り出した肉を切り分けながら、やはりそんな我の問いかけに動きを止め、それでも、苦笑いで何か答えてくれる。
「もう少し欲しいけれど、自分の店がこの街の空気と合っていない自覚もありますから」
と。
それは確かにある。
けれど。
「我等のように、静かな店を好む客はいるからの」
肉は今日もとても美味しい。
狸擬きが、我の皿にフォークを持った前足を、こっそり伸ばしてくるくらいには。
「何か伝えたいのか?」
男に問われ、狸擬きの皿に肉を移してやりながら、
「大したことではないの。看板を、1人や2人客を歓迎するような絵に変えれば良いだけの」
我等も、狸擬きの勘だよりで見付けられた店。
でなければ素通りしていたかもしれない。
「あぁ」
男がちらと眉を上げ、マスターに通訳してくれる。
マスターは、
「ははぁ、なるほど」
と言ったように大きく頷くと、
「お客は欲しいけれど、大勢は対応できないからと少し諦めてもいた」
とニコニコしながら、肉を我の皿に追加してくれる。
男とマスターが楽しそうに看板の図案の話だし、男がメモ帳を取り出して、紙に描き始めた。
我が覗き込むと、
『……』
狸擬きも椅子から降りると、男を挟むように反対側の椅子に飛び乗り、覗き込んでいる。
ああでもないこうでもないと案が出て、やがてマスターの奢りで酒が入り、白い珈琲の街での、楽しい夜が、更けて行く。




