118粒目
マスターに手を振って店を後にすると、男がマスターに、顔料の売ってる店をメモしてもらったと言いながらも、少し考える顔。
「の?」
手を繋ぐ男の顔を見上げると、
「いや、料理の金額だけで、アイスクリームと珈琲の金額は入ってなかった」
「おやの」
よいのだろうか。
顔料の店は、平地の街の真ん中辺りで雑多な店が並ぶ、漆喰などが売られる店に置いてあったけれど。
「んん、でかいな……」
どれもバケツサイズである。
奥から店の男が出て来て、染料を詰めるものさえあれば、多少割高だけれど小売りもすると言ってくれ、ならばと空き瓶を探しに行く。
雑貨屋を見付けて小瓶を買い、顔料を分けて貰うと。
袋を抱え学校へ戻りながら、
「なんだかんだ時間を取ってしまった」
「ふぬ」
それでも。
(ぬん)
なんだか、
「楽しいの」
「そうだな」
「フーン♪」
元の世界ではとんと縁がなかったうちの1つ、学舎へ戻ると、とうに昼を終え、教室に収まる子供たちの気配が嫌でも忍び寄ってくる。
「……」
我は人の幼き子の姿を模しているのに、人の子供たちとは、1枚、2枚どころの騒ぎではない、分厚い隔たりを感じ、今も、我の隣にいる獣の狸擬きの方が、自分と圧倒的に近い、何かを感じる。
しいていえば、同じ種族の感覚。
狸擬き曰く、主様はまた自分達とは違います、と言われるけれど。
「フーン?」
「いや、何でもないの。……の、我も何か出来ぬかの」
絵は描けないし、一発勝負の顔料にも手は付けられぬが。
男に訊ねると、男は少し考えた後。
「そうだな。……悪いけれど、荷台から俺のスケッチブックを持ってきてくれないか」
と狸擬きに視線を向ける。
「フンフーン?」
「あぁ、一番大きいのを」
「フーン」
了解した、とヒュンッと狸擬きが部屋を出て行き、まぁあの早さなら、例え見世物小屋の人間がいたとしても、そうそう捕まる事もなあるまい。
「スケッチも見せるのかの?」
「少しな」
買ってきた顔料を確かめていた男は、しかし瓶を置くと、その場であぐらをかき、
「おいで」
と我を呼び膝に乗せる。
「の?」
作業はいいのか。
「いや、急がなくてはならないんだけれど……」
膝の上に我を乗せると、我の腹の前で男が自分の指に指を絡める。
「……?」
それでもおとなしく男の身体に凭れると。
街の遠いざわめきに、離れた教室から教員の声も微かに届く。
慣れぬ空気の中、知った男の体温と、匂い。
(落ち着くの……)
どこか無意識に入っていた身体の力が抜けると。
「俺は」
「の?」
「その、動きが丁寧でないと言うか……」
「?」
「雑では、あるかもしれない」
唐突に、何を言い出すかと、目をぱちくりさせたけれど。
(の……)
すぐに合点がいく。
さっきの、細腰のマスターの事か。
「その、これからは、気を付けたくはある……」
と1人でボソボソ呟く男に、
「お主は充分に丁寧だし、気になったこともないの」
おかしくなって、笑いながら振り返り、胸に頬を擦り寄せると。
「そ、そうか?」
あぁ、なら、うん。
「そうか、なんだ……」
よかったと、天井を向いて大きく息を吐く男。
安堵したような、大きな溜め息。
男の身体からも、力が抜ける。
どうやら、ずっと気にしていたらしい。
なんと。
思いもしなかった。
「……」
まぁ。
(我としては)
男が、そんな事を気にしていた、その事実が。
(こう……)
うい、の。
そう。
とても、ういのである。
「くふふ」
唇を弛ませると、照れ隠しか、男が黙って我を強く抱き締めてくる。
「ぬー♪」
男の腕にしがみつき、
「んん?」
少しの間、そのまま笑い合っていたけれど。
また、カランコロン、カランコロンと街の鐘の音が鳴り。
「……おっと、急がないとな」
「のの」
そうだった。
男に手本を見せてもらい、
「失敗しても大したことはない」
と、我も見様見真似で色を塗らせてもらう。
すると。
「あぁ、上手だ、凄いな」
我の描く絵よりも、遥かに褒め言葉に実感が籠っている。
(ぬぅ)
複雑極まりない。
「フーン」
スケッチブックを、背中に巻き付けた狸擬きが戻ってきた。
子供たちが賑やかに帰っていく声を足音を聞きながら、木箱に乗り、草原の緑を塗る。
途中、組合のおじじがやってきて、地図の大きさ、描き込まれたその情報の多さに、ほうほうと髭をなぞりながら興味深そうに覗き込んでいる。
空白な所も勿論多いけれど、十分に見応えはある。
グラマラスな姉も顔を出し、大きな地図を手放しで褒めてくれ、
「奥の建物にいるから、もし何かあったら声を掛けて」
と、また色気たっぷりにウインクをして、手を振って出ていく。
男が、我の言葉を頼りに青い熊を描いている。
「こっちの、君が初めて向かったと言う村には、何があった?」
「んん……」
何だったかの。
(あぁ)
「美味しい乾燥した葉っぱかの」
「……っ」
男がビクッと固まる。
「のの、子供でも吸える程度のものの。貰いはしたのだけれど、火が使えなくての。紙に包んでしまってある」
我の所有物として包んでいるため、劣化することもなく箱に仕舞われている。
「あそこでは、村の端で鼻緒用の細い布を買っただけだけれど、小さな街としては、立派に機能していたの」
羊などもいたし、あの牧場村のように、山の向こうにでも、大きな国でもあったのかもしれない。
そして、
「どこもかしこも、あちらは木の建物だったの。高さはなかったの。やはりここや花の国に比べると、随分と小さく、落ち着いた村だったの」
村を囲む山にもそうそう大きな獣もいなさそうだった。
「そうか……」
「の?葉っぱが不安なら、お主が吸ってしまえばよいの」
花の国の「白いお粉」に比べれば、なんら煙草と変わらない、小さなお子様でも問題ない程度のものだ。
「フーン、フーンッ」
狸擬きが、自分が吸いたい吸いたいと騒がしい。
「わかったの、今度お主にくれてやるの」
「フーン♪」
まぁ一度くらい、葉で酔う狸擬きを見てみるものいいだろう。
部屋の小さな明かりとりの窓から夕陽が射し込む頃。
「これでいいか」
絵は完成し。
学校はとうに無人。
唯一、事務室にだけは軽い鍵は掛かっているけれど、それ以外は扉は閉まるも鍵もない。
身体はそう動かしてはいないけれど、普段は使わない頭や手を使ったせいで、気を張っていたのか、変な疲労感がある。
男も、
「疲れたな」
と苦笑い。
狸擬きはとうにぐてりと床に横たわり、うとうとしている。
男が隣の建物のむちむち姉に声を掛けてから学舎を後にすると、街の外灯は、近くの家や建物にいる人間が点けるらしく、下に木箱があるなと思ったら子供が乗っかり、雨避けか、蓋付きの外灯に万能石を置いて火を点している。
「何か食べようか」
「の……」
「フーン」
しかし今日はもう新しい情報を頭に入れたくない。
「おいで」
男に抱っこされ、宿に戻っておにぎりでも、と考えていると、狸擬きがトトトと先に歩き出す。
「?」
どうやら、昼間向かった細腰のマスターの店に向かってる事に気付き、男は苦笑いしている。
気に入ったのだろうか。
建物の外には明かりが灯されている。
軽くノックしてから開くと、カウンターで天井に煙草の煙を吐き出していたマスターが、少し驚いた顔で、それでも笑顔になり迎えてくれた。
夜は数品メニューが増え、酒のメニューが別にテーブルに置かれる。
男が何か訊ねながら、指を2本立てている。
マスターが頷き、カウンターの中へ戻る。
「昼間のムサカムムがまた食べたいの」
「そうだな、後は何だろうな」
男は、酒の用意をしているマスターに話し掛け、マスターはニコリと何か快諾した模様。
「ムサカムム以外はお任せにしたよ」
「ふぬ」
男が酒を頼んだのは、支払いの単価を上げるためだろう。
白く濁った液体が注がれた透明なグラスが出てきた。
酒の色を見せるためにか、あの瑠璃色のグラスではなく、透明なグラスに注いでいる。
狸擬きは、不思議そうにグラスの白い液体を眺めてから口にし、
「フーン♪」
酒の濃度は高めだけれど飲みやすいです、と教えてくれる。
我の前にはレモネード。
続いて出された淡黄色のスープは、
(牛の乳でなく檸檬……?)
乳の匂いがしない。
トロリとしているのに、檸檬の酸味と、多分攪拌した卵白が交じり、鶏と思われる出汁が良く合い。
「おぉ……」
男も驚いている。
続いて出された夜のムサカムムは、茄子ではなくトマトが挟まり、
(昼と夜で変えるとは……凝ってるの)
こちらもまた、
「好きの」
「うん、いいな」
間違いなく美味。
「フーン♪」
次にテーブルに置かれたのは、
「の?」
葉にくるまれた何か。
男の指の長さ程度でもう少し太い。
マスターは茶目っ気たっぷりに微笑み、正解は食べてくださいと言わんばかりにカウンターへ戻っていく。
香りは良く、オリーブ油と風味付けの葉、ニンニクらしきものが散らばる。
(魚かの)
狸擬きは躊躇せずにフォークで刺して口に運んでいるため、
「あむぬ」
食べてみれば。
(の、お魚の)
それくらいは分かるし、美味しいのだけれど。
(何の魚かは全く分からぬ)
「鰯かな」
「ほほぅの」
当然初めて食べる。
「フーフン」
狸擬きが、とうに空になったコップを前足で持ち男に見せている。
「大丈夫か?」
「フゥン♪」
男が水と共に、狸擬きに追加の酒を頼んだ模様。
狸擬きの前に、氷水と色からしてワインの入ったグラスを置いたマスターが、頭と内臓を取った鰯を包んでいるのは葡萄の葉だと教えてくれ、びっくりする。
(あれは食べられる葉なのの)
男が酒のメニューをマスターに見せ、多分、マスターへ一杯と告げている。
若いマスターは恐縮したように肩を竦め、カウンターの中で酒を作り始めた。
何か話しているけれど、狸擬きは、ご機嫌でゆらゆら頭を揺らし、通訳の役には立たない。
氷を砕き、琥珀色の液体を2つのグラスに注ぎ、盆に乗せやってくると、1つは男に、残ったグラスを顔辺りにまで持ち上げ、口を付けている。
男も軽くグラスを上げてから舐めるように飲むと、その姿をじっと見ている我を見て、
「あぁ、何か頼もうか?」
微笑み、見つめ返してくる。
食べたいものは。
「アイスクリームの」
「あぁ、そうだな」
今日は頑張ったから、正当な報酬である。
そういえば。
「明日は、どんな事を話すのの?」
「ん?その場のフィーリングにした」
なんと。
几帳面、いや、生真面目に思っていたけれど、そうでもないのか。
「いや、君には俺の話す言葉も、直接は通じないと思ったら、適当でいいかと」
「……ののぅ」
この男の誠実さは「我」にしか向かないらしい。
まぁ、実際のところ。
「とことん適当なことを喋り散らかしても、何の問題ないしの」
「ふふ、そこまでは言ってない」
アイスクリームが運ばれてきた。
「のの♪」
昼のヨーグルトアイスクリームに無花果のジャムが掛けられたもの。
(大変に美味、ヨーグルトというものは汎用性があるの……)
アイスクリームを掬った手を伸ばし、男の口に運んでやると、目を細めてぱくりとスプーンを咥える男。
「美味しいよ」
それはアイスクリームなのか、我の唾液の付いたスプーンか。
「ごちそうさまでしたの♪」
「フーン♪」
マスターに礼を伝えて宿に戻りながら、
「明日は、宿を変えようか」
「の」
平地の方が、土地が当然広そうだ。
夜の海を眺めながら、宿へ戻る。
狸擬きは今夜もご機嫌で歩いている。
街はこれから、夜が本番らしく、賑やかで陽気な夜の空気が、男に抱かれる我にも纏わり付いてくる。
「お主、風呂は?」
「身体を拭けばいい、明日は、風呂のある宿に泊まろう」
「の」
男は踊るように、道からはみ出た飲み屋のテーブルの、人の間をふわりふわりと擦り抜けて行く。
「ここが近道なんだ」
と。
男は、少し酔っているのかもしれない。
そしてふと、
「あぁ、スケッチブックを忘れた」
と呟いたのは、宿も近く。
「おや、大事な物の。狸擬きにでも取らせに戻るかの?」
あれは男の旅の記録。
興味のある者には、宝石より価値のある宝箱の様なもの。
なのに。
「いや、大丈夫だ」
「の?」
「君以上に大事なものはないからな」
ふぬ。
やはり酔っている。




