117粒目
「明日」
とは。
それはまた、随分と唐突である。
狸擬きは、学校、学舎をいまいち理解しておらず、隣で首を傾げているだけ。
学校には組合も噛んでおり、毎月一度、働く大人が「お話」をするのだけれど、いい加減、皆ネタ切れで困っていると。
しかも今回はこのじじの番で、毎回退屈そうにされるため、地味に傷付くのだと。
(どこの世界も、子供は正直の……)
そして男が、この七面倒臭い依頼を断らなかったのは、勿論、我のためでしかない。
子供に勉強を教える者達から、何か、魔法に関して話が聞けるかもしれないと。
狸擬きは、こちらへやってきた白い鳥と何か話している。
それでも、
「参ったな」
と、天井を見上げる男。
組合のおじじがニコニコしながらカウンターから出てきて、学校に案内すると言う。
暇なのか。
暇なのだろう。
「お勉強なら、地図でも見せればいいの」
「地図か……」
コピー機などと言う便利なものは存在しないだろうから、
「大きな紙にでも描いて、見せればよいの」
学校は組合からすぐの2階建ての白い建物が学校で、小さな校庭はあるけれど、柵の門はおろか、建物の大きな観音扉すらも開きっぱなしで、誰でも出入りできる。
組合のじじも勝手知ったると言わんばかりに中に入るけれど、開いた扉は青でも赤でもなく、少しくすんだ黄色だった。
土足禁止で下駄箱が並び、我等は来客用の端の方で靴を脱ぐ。
今も授業中らしいけれど、2階建ての建物の規模を見るに子供の数はほどほど。
授業は午前と、昼に一度昼のために家に帰り、午後に少し授業か、身体を動かしてから解散だと。
一階に講堂的な部屋があり、そこに午後に子供達を集めるので、適当に話をして貰えればとおじじは簡単に言うけれど。
講堂の隣は教員を仕事にしている者たちの事務室、職員室的なもので、午後から夜は、奥のもう少し立派な建物で勉強や研究をしているらしい。
廊下も室内も、どこもかしこも壁は白い。
狸擬きは首が取れるのではないかと思う程、キョロキョロと眺めているけれど、
「学舎」
と言う存在を初めて知ったのだから、落ち着かなくても仕方あるまい。
狸擬きが「得意でない」子供たちが、離れた部屋にたんまりと収納されているのも、落ち着かない原因だろう。
男が、大きな紙があるか訊ねたけれど、そんなに大きな紙はないと。
地図を描いて、それぞれの国や街の特性を話したいと思っていると男がじじに話すと、それはいい、と大きく頷いている。
近くの雑貨屋で質も何もバラバラの大きな紙を買って、組合から少しくすねてきたと言うじじにも数枚貰い、男が話す予定の、名ばかりの
「講堂」
実際はただの大きな空き部屋を借りて紙を広げ貼り付け、一枚の大きな紙にする。
我と狸擬きの話も聞きつつ、男がまずは小さな紙に、地図を細々と描き込んでいく。
それにしても。
「何だか面倒なことになったの」
今更だけれど。
「あぁ。けど、先に面倒な頼みを聞けば、こちらからも無理も言いやすい」
おや、お人好しな男にしては珍しく強かである。
まぁそれ含めも全て、男のすることは、
(全ては、我のため)
なのだろう。
「……」
狸擬きではないけれど、小さく鼻を慣らす。
(……)
照れ隠しである。
男に問われ、
「我は、多分こっちら辺にある山の中の。狸擬きと歩いて、東の方からであるの。山を越えて森があって、温泉と村があったの」
「フーン」
「そうそう、こっち、北は崖だったの」
見晴らしは良かった。
「チチチッ」
一緒に付いて来ていた白い鳥も、地図を見て小首を傾げ、狸擬きが何か答えている。
鳥の出発は明後日だと言うため、それまでに手紙を書かなくては。
「……改めて思うけれど、君はとても遠い所から来たんだな」
男が大きく息を吐く。
「ぬぬん、距離はだいぶ曖昧の」
「大体で大丈夫だ、持ってる地図もそんな感じだからな」
と男はまた考えながら、地図を描いていくけれど。
(ぬぬん)
ふと思う。
「の」
「ん?」
「その、我が言い出したことだけれどの。お主が子供らに話そうと、見せようとしているのは、わりと金に変えられる、情報ともなる貴重な話ではないのかの」
遠い国の話、多くの人間には、存在すらあやふやで曖昧な国々が、限り無く正しく精巧に描かれた地図。
我のそんな問いかけ。
男は、
「……ん?……あぁ」
確かにそうだな、と間の抜けた顔したけれど。
少し考えた横顔を見せた後。
「今回は、大サービスだ」
と笑い、大きな紙に当たりを付けていく。
「ふぬ」
この男のこんな緩さも、懐の広さも、我には滅法、心地好い理由の1つだと気付かされる。
昼になると、街の鐘がカランコロンと鳴り、階段を挟んだ反対側の教室から子供たちが出ていく話し声と足音。
講堂は教室から離れており、一応扉も閉めているけれど、生徒たちが出てきた教室からやってきた職員の1人が話し声に気付き、扉を開くと驚いた顔で、壁に貼り付けた大きな紙に描き込む男に、何か訊ねている。
男は手を止めて挨拶しながら、事情を話している。
男と同じくらいの年の女性はこう、非常にグラマラスで、長い髪すらボリュームがあり、栗色に緩い巻き髪が似合っている。
牧場の姉もふっくらではあったけれど、こちらは身長もボリュームも、まず見た目の迫力からして違う。
この栗毛の女も、やはり何かの勉強や研究をしている者なのだろうか。
男の説明に、何度も頷き、それから、多分、
「あの組合のじじが、随分な無茶を言ったみたいでごめんなさいね」
的に謝る仕草をし、男の後ろにいた我に気付き、また驚いた顔。
しかしすぐに、自分の髪をふわりと持ち上げ、にこりと微笑み何か言いながら、うんうんと頷いている。
どうやら真っ直ぐな黒髪を褒められたらしい。
お主の髪も素敵の、と言いたいけれど、言葉は通じない。
女は狸擬きにも気付き、まだまだ話したそうにしていたけれど、誰かに呼ばれたらしく、残念そうに手を大きく振って出ていく。
こう、身体だけでなく、身振り手振りの1つ1つも大きい。
街中でも、グラマラスな女性が多い気がする、とは感じていたけれど。
あの姉は更に一回りボリューミーである。
この国では、ああいうむちむちなお姉さんが好まれるのであろうか。
男も圧倒されていた様に、むちむち姉が出ていったドアを見ていたけれど、すぐに、それどころではないことを思い出したらしい。
山を描き、川を描き、花を描き、干された布を、麦を描き。
改めて思うが、
「本当に上手の……」
「フゥン」
「ピチチ」
狸擬きと鳥と共に、感嘆の吐息が漏れるほどに。
「ありがとう。……でもやっぱり、色が欲しいな」
尻尾をゆっくり振りながら描かれていく絵の中の景色を、不思議そうに眺めていた狸擬きが、小麦畑に小さく描かれたパンを見て、
「フーン」
お腹が減りました、と訴えてきた。
男に伝えると、
「そうだな、何か色を付けられるものを探しつつ、昼にしようか」
「フーン♪」
「ピチチ」
鳥は、自分は組合に戻ります、と飛んで行った。
仕事終わりの今日だけは休み扱いとなり、甘いものを好きに食べられるからと。
あの白い鳥は、
「人の手で甘くされた木の実が好きだ」
と言っていた。
甘党の鳥たちでも、好みは鳥によって少しずつ違うらしい。
「今日はお主の食べたいものでよいの」
学校を出て、我を抱き歩き出す男に告げると、
「んん?そうだな」
平地を新鮮に感じながら、白い建物の中をすり抜けるように歩く。
たまにすれ違う見知らぬ人間にも気軽に挨拶をされ、男が挨拶を返しながら、
「君の唾液か、あの『おにぎり』と言いたけれど」
と辺りを見回す。
唾液はともかく、さすがに炊飯器のある宿にまで戻るのは、時間が惜しい。
街の中は、食事処は特に日差し避けの布の張られたテラスがある店が多く、分かりやすくはある。
しかし我等は土地勘もなく、まぁ適当な店に入ろうかと言いつつ、馬車は通れない、狭く緩くカーブした道の途中にまで入り込んでしまった時。
「……フゥン」
テコテコ付いて来ていた狸擬きが、ふと足を止めて、看板の出ている建物のドアの前で立ち止まり、こちらを見上げてくる。
そして、
「フンフン」
ここがいい、と。
「ぬ、今日はこの男の食べたいものの」
と嗜めてみるものの。
「いや、時間もないから、有り難いよ」
狸擬きも土地勘などは1つもないはずなのだけれど。
テラス席などはなく、道からすぐに店のドア、看板には食事らしい絵が描かれている。
青いドアを開くと、落ち着いた雰囲気の、この街にはあまりそぐわないと言えばいいのか、格好も身形も堅めの男が、カウンターの内側から、どうぞと笑みを浮かべ、鰻の寝床のような店内に手の平を向ける。
奥に続く長細い店は、入ってすぐ会計する背の高いテーブル。
長くカウンターが続き、一段下がり、壁に沿ってテーブルが並んでいる。
とは言えテーブルはたった3席。
2人掛けしかないテーブルからしても、例え客がいても騒がしさや賑やかさとは無縁そうだ。
この店がいいと訴えてきた狸擬きは、
(こう、なんの、我が好む店を選ぶ目があるの……)
店員、ではなく、多分若いけれど店主と思われる男がカウンターから出てきて、椅子を増やしてくれる。
「マスターの気が利きすぎて君を抱っこ出来なくなった」
男に椅子に座らされ、男は軽口を叩いてから向かいに座る。
狸擬きは壁の対面の通路を置いてもらえた椅子に飛び乗る。
分厚い紙に描かれたメニューは、昼のせいか1つのメニューで3品程度付いてくるらしい。
「なんだろうの……」
「んん?」
男も解らないらしい。
とりあえず3つと指を立てると、物腰柔らかなマスターは柔らかく微笑み、カウンターの内側へ向かう。
長身で色白、清潔感のある白いシャツに、仕立てのよさそうなパンツ、その細い腰に巻かれた黒いエプロン、緩いオールバックと言い、どうやらこの国の人間ではなさそうである。
「……」
後ろ姿を追っていたせいか、
「……君の好みか?」
男が微笑みながらも、眉をちらりと上げて訊ねて来たため、
「そうの、あまり騒がしいのは好きでないから、静かな立ち振舞いの人間には好感が持てるの」
カウンター側の壁際にオーブンが数台並び、高さがありここからでは見えないけれど、コンロも数台あるのだろう。
手際よく動いている様子。
男がなにやら眉を寄せて長考を始め、狸擬きはキョロキョロと店内を眺めてから、前足で腹を擦っている。
外装は白いけれど、室内の梁は黒く、カウンターも黒で纏められている。
「お主は、店のチョイスが上手の」
「フーン♪」
「どうやって見分けているのの?」
狸擬きは、大きく頭を傾げ、どうやら本当に獣の勘らしく、
「フーン」
解らないと伝えてくる。
同じ獣なのに、我にはないものである。
チーズの焼ける匂いに、頭の位置を戻した狸擬きが、小さな目を細めて、鼻先を蠢かせる。
口許に手を当てて、何か酷く深刻そうに悩んでいた男は、顔を上げて我を見て、
「……」
何か口を開きかけたけれど。
カウンターから出てきたマスターが、色々と乗った皿を目の前に置いてくれ、口を閉じた。
「のの?」
ここの海より遥かに深い色をした、光沢のある瑠璃色の大きな皿。
そこに、ひき肉をトマトソースで煮たものに白いソース、そこにチーズが掛かったものが四角く切り分けられたもの。
昨日宿の人間も作っていた野菜のボールが3つ。
更に、酸味のある香りからして、ヨーグルトだと思われると男が教えてくれる。
そのとろみのあるヨーグルトソースにまぶされた角切りのチーズと生野菜が入った深い小皿が纏めて大皿に乗せられ、氷水が置かれる。
2人掛けでもテーブルは割りと大きいと思ったら、皿の大きさに理由があった。
乗せられた料理の大きさも比例している。
男がマスターに、これは?とメインの料理の名を訊ねている。
マスターは、ふわりとした微笑みと共に何か答え、
「ムサカムム、だそうだよ」
ムサカムム。
「おかしな名前の」
しかし味は、
「ふぬ、ふぬん♪」
間違いなく美味しい。
ナスも入っている。
野菜のボールは潰したカボチャになにやら混じっていて、
「ぬぬ」
ホクホクして良い。
初めて食べるヨーグルトも、ヨーグルトのソースも、知らぬ葉物も混じっているけれど、悪くない。
「うん、美味しいな」
「の」
「フーン♪」
手間隙の掛かった味。
あの、男もたまにやる、指から火と風を同時に出す魔法は、危ないからとダメと言われているけれど、料理人に関してはこっそりやっているものも多いらしい、と男が教えてくれる。
焼き色を付けるのに適していると。
「ほほぅ」
美味しい食事が終わる頃、やはり瑠璃色の美しい器に、アイスクリームと思われるものが入った器とスプーンが出された。
「ふふぬ♪」
とても良い店である。
一口食べると、牛の乳味ではなく、
「のの、ヨーグルトの味がするの」
「あぁ、さっぱりだな」
「フーン♪」
また新しい味に足をブンブン振ると、若いマスターが、珈琲を運んできた。
食器はどれも深い瑠璃色。
同じ作り手の、職人のものかもしれない。
我と狸擬きの珈琲には、たっぷりの牛の乳と甘いクリームが盛られている。
男が煙草を取り出しマスターに勧めると、マスターは肩をすくめ、恐縮したように人差し指を1本立ててから、細い指で煙草を抜き取り、伏し目がちに指先で火を灯す。
カウンターの椅子に腰掛けながら、男と多分、他愛ない話をしているのだろうけれど、男同様に、耳障りのいい声。
狸擬きがちらと見てくるけれど、通訳はいらないとかぶりを振り、椅子にもたれ、我等も、しばしの休息。




