第一楽章
私の思う、人生でいうところの理想は、交響曲第五番である。「運命」という名前でも知られるベートーヴェン作曲の交響曲だ。
激しく攻め立ててくる第一楽章。打って変わって穏やかな第二楽章。更に一転し、おどろおどろしくそして暗く響き渡る第三楽章。それらを全て超えた先にある希望である第四楽章。
有名な「暗から明へ」の形態で完成されている交響曲第五番。それを理想としている理由はただのちっぽけな願望からである。
◆◇◆◇◆
必修のドイツ語の授業を終え、私は食堂へと向かう。
音大に進んで三ヶ月。
肩には教科書や文具などが入った帆布のトートバッグが揺れている。
昔から表情が乏しいせいで外見からは分からないと思うけれど、私は早くもブルーな気分であった。
食堂に行くと学科とコースが同じの生徒たちが固まって食事をとっていた。いや、よく見たら知らない顔もあるから、他の学部の生徒もいるのだろうか?
彼ら彼女らは和やかに会話をしていたようだったが、私の存在を確認するなり、こそこそと耳打ちをし始める。
小声で噂話をするような姿勢を取ってはいるが、実のところ声量はかなりあって、大まかな内容は聞き取れてしまう。
「あの子だよあの子。大概の楽器が出来るって言ってた子」
「粋がっちゃって。絶対ホラ吹いてるだけだよ」
「ま、まぁそんなことよりさ……」
「でもお前だってヤだろ?」
「それは……もしかしたら冗談で言ってたかもしれないじゃん……」
「ネタにするにしても笑うぐらいはしろよ」
「ぴくりとも顔色変えずに言うから、こっちも嘘扱いしないといけないじゃんか」
「そういえば知ってた?あの子特待生らしいよ。音楽高校でもないのにね!」
……私は同期から疎まれてしまったらしい。
一般高校からの進学だったからか、自己紹介で色んな楽器が出来ると言ってしまったからか。今となっては原因は分からない。
いじめというわけではない。
ちょっと陰口をされて、遠巻きにされているだけ。
差し当たって困っていることは特にない。強いていうならレッスンで楽譜を回してもらえないから、全部自分でやらなくちゃいけない程度だろうか。
……授業での演奏は誰よりもちゃんとしてたと思うんだけどな。
まぁ、そんなことを考えても仕方がない。
私はため息を溢すと、肩にトートバッグをかけ直して踵を返した。
◆◇◆◇◆
食堂から出てから私が向かった先は大学に近いところにあった喫茶店だった。
距離が近いくせにウチの学生がほとんど使わないこの喫茶店は私に取って穴場の場所であり、同期の目から逃れることのできる憩いの場所であった。
からりん。
いつも、ささやかだが私の気持ちを切り替えてくれるドアベルが鳴ると、カウンター席の向こうにいる店主がこちらの方を向いた。
「いらっしゃい!昨日ぶりだね!」
店主の女性がしゅっと空気の切る音と共に手を振り上げ、元気一杯の声音で挨拶を投げかけてきた。
私は彼女に軽く会釈をすると、我ながら抑揚のない声で「……こんにちは」と返す。
店主は太陽のように笑うと、自分と一番近い位置にあるカウンター席を指差した。
ここにおいで。
その仕草に促されるまま、私は彼女の前の席に置かれたハイスツールに座る。ハイスツールはたださえ背の高い椅子で、基本的に足が地面に届かない代物であるが、私の場合、さらに身長が低いせいで子供のように見えてしまう。中学の頃で止まってしまった成長が恨めしい。
私は座るや否や「……オムライス」と呟いた。同期を顔を合わせないため、何かとこの喫茶店を使うからか、私の頭の中にはいつの間にかこの店のメニュー表が暗譜されてしまっていた。
店主は「はいよ!」頷くとカウンターの端に移動して調理を始めた。
カウンター席から調理の様子が見れる、私がこの店を憩いの場としている理由の一つである。
目の前で小気味よく割られた卵。かと思えばボウルに入れられて、「じゃかっか」とテンポよくかき混ぜられる。「しゅわー」と炒められる小さく切られた具材とご飯。フライパンで半熟に伸ばされた溶き卵に並べられたチキンライスを「ぽっ」「ぽっ」とひっくり返す手際。
その一連の音とそれに付き添う動作ががまるで一つ楽団の様に綺麗で、私はつい見惚れてしまう。
そうしていると、「またやなことあったかい?」と店主が問いかけてきた。
「……大丈夫です」
私が咄嗟にそう返すと、彼女は「そっか〜」と微笑んだ。
「こんなに上手なのにねぇ〜」
「……」
「そうだ。またうちで弾いてくれないかい?電子ピアノだから学校のと比べるとあれだけど」
「……いいですよ」
「ありがとね。……そういえば近所の大学に変な子が入ったって噂を聞いたよ。どうも入学した途端に、同じ学部の全員と友達になったとか」
「……すごい人ですね」
「ねー」
店主と私との会話はいつも一方通行だ。彼女が話題を上げて、私が小さく返す。
けれど決して気まずいわけではなくて、むしろ落ち着く空気感だった。
「はい、どうぞ」
「……いただきます」
オムライスが差し出された。
白身と黄身が綺麗に攪拌された証拠の艶やかな肌の上に、赤いケチャップが丁度いい量垂らされている。
私は備え付けのスプーンを手に取るとオムライスを掬って口元へと向かわせる。
「あつっ」
「火傷しちゃダメよ〜」
「……ふーふー」
私は熱々のチキンライスに必死に息を吹きかけて冷ましながら少しずつ食べ始めた。
その合間にも店主が話を続けた。
「そういえば、もうちょっとで夏休みだねぇ」
「……うん」
「何して過ごすの?」
「……うちで、音楽」
「じゃあもっと上手くなるねぇ。夏休み明けが楽しみだ」
「……ありがと」
「私は何もしてないよ」
「……それでも」
オムライスはいつも通り、とっても美味しかった。
◆◇◆◇◆
喫茶店を出ると、湿っぽい風が私を撫でた。
店主が言ったとおり、もう夏だ。
よくよく聞けば虫の声がする。
彼らの声にも気付けるくらいに癒された。
「……うん」
私は気合を入れるためにトートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめた。
その時だった。
ぶぶぶ。
滅多に通知の来ない携帯電話が振動する。
怪訝に思いながらそれを立ち上げると、そこには。
『正門のとこに来なよ。今すぐ』
自己紹介前に交換してから一度も動いてなかった、同期からのメールが顔を覗かせていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
この外伝は「うたて カエル」と「青下 不透」のお話です。
激唱編にて「あんな事」とだけ描写された二人の過去話となっています。
是非お付き合いください。




