金木犀の香り~その7~
亡き戦友の子どもを2人育てた夫婦。
妹さんの反対はあったが、俺達夫婦は文子を連れて帰った。
妹さんには「一月に一回会いに来られること」などを約束して、少しでも」安心してもらいたかった。
文子を引き取って間もなく妹さんの縁談がまとまって嫁がれた。
嫁がれた先にも文子の成長が分かるように写真を入れた手紙を一月に一回送った。
二人の子を俺達夫婦の籍に入れなかった。
理由は簡単だ。
俺達は親ではない。
戦死した父親を忘れないで欲しかった。
親の姓を消したくなかった。
忘れて欲しくなかったから、親の写真も大切に写真立てに入れた。
かっちゃん夫婦が写っている写真は出征前に写真館で撮ったものだ。
文子の両親の写真は結婚の時の写真だった。
文子の母親は「文子のことを忘れたい」ように俺には感じられた。
アメリカに行ってしまってからも全く音沙汰がなかった。
文子は母親に捨てられたのだと思ったのは俺だけではなかった。
二人が小学校に入学してから嫌なことを、辛いことを経験させてしまった。
籍を入れなかったことで、学校でいじめられたのだ。
その時には籍を入れようと思ったが……
どうしても出来なかった。
まさは学校に行き、教室で「苗字は違うけれども、私が大切に育てている子どもだ。」と言って帰ってきたりした。
そして、「どんな理由をつけても皆で一人を責めるのは卑怯だ。いじめることは卑怯者がすることだ。」ということも言ったそうだ。
俺も学校へ行き、事情を改めて話した。
「二人は籍を入れていなくても大切な子どもです。
妻が急に教室に行き話したことは悪かったと思っています。
その点は謝罪いたします。
しかし、子どもがいじめられているのです。
苗字が違うだけのことで……
妻がしたことは、子どもを守るための行動です。
克幸も文子も父親が戦死しております。
私は戦友として放っておけなかった……。
今、育てさせてもらっている私たち夫婦が
二人をしっかり育てます。
そして、守り抜く覚悟も出来ています。
どうか、ご理解いただき
二人を他の子たちと同じように見守っていただきたい。
切にお願いいたします。」
どんなことがあっても俺達夫婦は二人の子どもを守ろうと改めて心に誓った。
そんな中でも子ども達は、それぞれに友達が出来た。
嬉しい限りだった。
戦争が終わってから恐ろしいことが起きる度に新聞を賑わした。
外地からの帰還兵が始まったと記憶している昭和23年には「帝銀事件」が起きた。
銀行に勤めている人達が毒殺されたのだ。
「もう戦後ではない」と言われるようになった昭和30年代は、男児を誘拐殺害する事件が起きた。
そういう恐ろしい事件が起きた時に、無事に子ども達が育ってくれていることを「奇跡」だと感じた。
朝鮮戦争が起きた時は、「どうして、また……。」と胸が痛くなった。
多くの若者が、銃後を守る女性が、子どもが、老人が……傷つくのだ。
その戦争で日本は景気が良くなった。
それが、恐ろしくもあった。
暗いことばかりではなかった。
東京オリンピックが開催された。
日本中は選手の活躍に熱狂した。
その東京オリンピックが開催されて選手たちが行進した同じ場所で、たった20年前に「学徒出陣」の若者たちが行進していたことを思い出した。
「学徒出陣」の多くの若者がこの20年後の若者たちの喜びと緊張に溢れた明るい行進を見ることが叶わなかったのだ。
俺はそれを忘れたくなかった。
「最早、戦後ではない」と言われるようになったが、俺にとっても、激戦地から帰還した兄にとっても「まだ戦争は終わってなかった」のだった。
様々な出来事が、俺達家族を通り過ぎていった。
子ども達が18歳になる頃に、二人とも、俺たちの籍に入りたいと言ってくれた。
嬉しさと「本当に良いのだろうか……。」という想いで俺達夫婦は躊躇したが、二人の気持ちは強かった。
「お父さん、お母さん、って呼びたかった。」
そう言われた時に、喜んで受け入れる気持ちになれた。
血が繋がらない4人が年月を経て家族になれた。




