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シルクロードの四人組

作者: 岡崎哲夫

シルクロードを四人で旅しました。

タクシーの運ちゃんは無免許だった


タクシーは急な坂をものすごいスピードで降りていった。坂を降りきったところで、道路は右に曲っていて、そこに長い鉄橋がかかっている。タクシーは曲りかどにきてもスピードをおとさない。

「あっ、鉄橋にぶつかる!」と思いきや、タクシーは橋の欄干すれすれにハンドルをき

って曲りきった。このタクシーを追うようにして、やはりうしろから、別のタクシーがタイヤをきしませながらせまってくる。うしろのタクシーが、我々の乗っているタクシーを左側から追い越そうとした。すると、この若いタクシーの運ちゃんは、抜かせまいとして、左側によった。うしろのタクシーは、今度は強引に右側から抜きだした。ところが、この若い運ちゃん、まるで抜かれるのがハジとでも思っているのか、抜かれまいとして、スピードをあげた。橋の上でのデットヒートが始まった。時速はどちらも七十キロメートルぐらい。我々が乗っているタクシーは十年ぐらい前のイギリスのオースチン、迫っている横のタクシーはやはり十年ぐらい前の旧式のベンツだった。五百メートルぐらいあるこの橋の上を抜きつ、抜かれつ、並んで走っていった。

その時、前から、やはり、古い型のトラックが近ずいてきた。ところが、両方のタクシーとも譲ろうとしない。前から来るトラックもスピードを落さなかった。

「ストップ!ストップ!」

「バカ、きちがい、やめろ、止まれ!」

我々は、あらんかぎりの、生まれてこのかた二二年、こんなに大きな声を出したことがないというくらいの大声で、叫んだ。もちろん、日本語である。人間、やはり我々日本人、驚いた時は流暢に他の外国語など出てきやしない。ところがこのタクシー、我々の必死の叫び声にもガンとして聴かず、ニヤニヤ笑っているだけで、避けようとしないのだ。 一瞬、ぼくの脳裏に死の戦慄が走った。

オレは死ぬ。死にたくない。この異国で、この若さで…、神様、仏様、キリスト様、アラーの神よ、

マホメッド。コンチクショー、ヤメロ。ゴツン〟

ぼくはうしろの座席から立ちあがって、タクシーの運ちゃんの頭をひっぱたいた。

「アッ、トラックが目の前に…、」

もう終りだ。ぼくは目をつぶった。その瞬間、我々の乗っていたタクシーはガタンといって左側の歩道の上を、右側のタクシーはそのまま、そして、トラックは悠然と真ん中を走りさった。

イスタンブール、ゴールデン・ホーン川にかけられた新市街と旧市街とを結ぶガラタ橋上の出来事だった。

ガラタ橋を渡りきったところでタクシーは止まった。運ちゃんは車を降りると、前の小さなお店にはいっていった。どうやら、ホテルの場所を聞いているらしい。しばらく、話をしていて、帰ってくると、今度は、我々にホテルの場所を聞きだした。

これではアベコベではないか。さっき、トルコ航空の営業所の前で、空港からの送迎バスから降りたとき、数十台のタクシーが我々のまわりを囲んだ。この時、Y・Hホテルを知らないかと尋ねると、この運ちゃんが知っていると飛びだしてきて、強引に荷物をタクシーのトランクに詰め込んだのだ。それなのに、走りだして数十分もたたないうちにこんどは、知らないと云いだした。

これは、騙されたな、と思ったけれども、こちらは四人、少し強気に出た。

「オマエ、 ホテルヲ探シテ、 ソコヘ連レテイケ。」

旧市街をぐるぐる廻っているうちに、どうやら、セント・ソフィア寺院の近くらしいことがわかってきた。

セント・ソフィァ寺院の前から、トプカピ宮殿の方へ走っていくと、ムッシュがいきなり叫んだ。

「あった、あった。あの三角のマークがそうだよ。ストップ、ストップ!」その声で、タクシーの運ちゃんは、あわてて急ブレーキをかけた。

「キキキキキキキィ…、ゴチン、ゴツン、ガツン」

そのひょうしにうしろの座席にいた三人は、いやというほどまえの座席にあたまをぶっつけた。

一人、一リアル、四人で四リアルを払って、降りるとき、団長が、

「トコロデオマエ、ライセンスヲ持ッテイルカ?」と聞くと、

「持ッテイナイ。」と云う。

「私ノ国デハ、運転デキル者ハ、ミンナ運転手サ。」

そういうと、この運ちゃんは、車を右左に振りながら、ものすごいスピードで走り去った。


Y・Hホテルはトプカピ宮殿のうら


Y・Hホテルに行くと、一人十二リアルで、三階の部屋に案内された。腹が減っていたので、何かないか、と云うと、地下に食堂がある、と云う。それではと、部屋の鍵を頑丈にかためて、開かないことを確認してから、地下に降りた。

地下の食堂には、アメリカとイギリスの青年が四人ほどいて、そこにカナダの女の子が一人まざって、雑談をしていた。すぐに出来るものはと、結局これしか出来ないのだけれど、オムレツとスープを注文した。

次の日は、くたびれたせいか、イスタンブールに着いたという、一応気安めの安堵感からか、四人とも十二時近くまで寝ていた。

お昼をちょっと過ぎたころ、腹が減ったと、ぞろぞろ起き出し、飯でも喰おうと、ホテルの外に出た。

Y・Hホテルは、トプカピ宮殿の壁に並んで位置していた。トプカピ宮殿とホテルの間の道を降りて行くと、ちょうど、セント・ソフィア寺院の前の広場でガラタ橋の方から来る道とぶつかる。その道のぶつかった三つかどに、軍隊のつめ所があり、衛兵の二人がおっかない顔をして、前方をにらみつけていた。

我々四人は、まだ少し眠けのとれない目なざしで、それでも、ちょっと、二人の衛兵にガンをつけるようにして、そのつめ所の前の小高い丘になっている広場の、見ためにはす

ごくよさそうなレストランにはいった。団長とムッシュとぼくは、まず体力をつけようと、シシカバブ(羊の串焼き)とオムレツをたのんだ時、ボンボン一人は、オムレツだけしかたのまなかった。

ボンボンは、アフリカに行った時、このシシカバブで、ひどい下痢をしたらしく、中近東では、絶対に口にしないとギリシアを出る時に、アポロの神殿に誓ったそうである。このだいそれた誓も明日になればやぶってしまうのだけれども……、

団長が、こんなうまいものを喰わない奴の気が知れないと、うまそうに食べてみせるのを、この時は、我然、ただ一人抵抗した。

三人が腹いっぱいになって、一人が少し腹いっぱいになると、フラフラと町の中心街の方に向って歩き出した。イスタンブール大学のすぐそばまでくると、スチューデントという看板が目についた。ちょっとのぞいてみようと、中にはいると、そこは、スチューデント・トラベルサービス(学生旅行案内所)で、国際学生証を発行していた。他の三人はヨ

ーロッパで取って持っていたのだけれども、ボンボンだけが持っていなかったので、これはちょうどいいと、事務所に取りにいくと、変な用紙をくれて、ここに大学名と名前と生年月日を記入しろという。ボンボンが用紙に書き込んで、それを提出すると、別に日本の学生証明書を見せるわけでもなく、もちろん見せたって読めっこないのだが、六リアル(百五十円)程払うと、いとも簡単に発行してくれた。ぼくがパリでとった時は、英文で書かれた日本の学生証と、七フラン(四百二十円)もとられたのに比べたら、段違いだ。本物かどうかみんなのものと比べたら、どうやら同じものらしい。 一つの決論が出た。物価の安い国と物価の高い国では、学生証の値段も、物価に比例するらしい。


イスタンブールの市場にて


イスタンブール大学の前の道を、さらに歩いて行くと、ガヤガヤとしたにぎやかな広場に出た。ここには、たくさんの露店が並んでいて、主に、くだものや飲みものなどを売っ

ていた。どうやら、ここが、旧市街の中心地、ベヤジッド広場らしい。広場は、ちょうど、ベヤジッド寺院の前にあり、正面には、くだもの屋と飲みもの屋でだいたいをしめていて、その裏側の一段高くなったところが、古着屋、ガラクタ屋、古本屋などがひしめいていた。

それが、広場の右側から、奥にはいるところで、一諸になっており、そこがバザールの人口になっていた。

四人は、まず、その広場の左端で、あのどろっとした色の黒いトルココーヒーを飲んだ。

広場の西側には、さまざまなストライブの色をしたバスのたまり場があった。ここが、アンカラ、エルズルム、もしくは、テヘラン行のバスのターミナルだった。その場所に近づいていくと、 一せいに、呼び込みのおやじや、おにいさんが、我々をとりまいた。こんな時には、もさもさしているとたいへんだ。腕をつかむ奴もいれば、背中から押してくる奴もいるし、ひどい奴になると、荷物を勝手に、自分のバスの事務所に持っていってしまう。

団長が、いきなり怒鳴った。

「テヘラン、テヘラン行ノバスハドコダ!」

この時、我々はまだ、汽車で行くか、バスで行くべきか、をきめていなかったのだ。

だが、ギリシアのユースホステルで、人づてに、イスタンブールからテヘラン行の直通バスが出ているというのを聞いていたので、もし、値段を交渉して、あまり高くなければ、ダイレクト便で行った方がめんどうくさくなくていい、と思っていたのだ。

すると、 一人の恰福のいいおやじが出て来て、背広をきちんと着ていたので、そう見えるのだが、いきなり、ぼくの腕をつかんで

「ダイレクト、ダイレクトテヘラン!」

と云って、強引に、事務所の方に引っぱっていった。団長が、

「まあ騙されても、もともとだ。行くだけ、行こう。」と云って、ぼくのあとにくっついてきた。

事務所はカフェテラスの二階にあった。中にはいると、天丼に大きな扇風器がブラさがっている、意外とりっぱな事務所だった。

おやじは、もう少し、からだの大きな、おなかのでっぱった、一目で、この事務所のお

やぶんだとわかる男に、我々四人を紹介した。おやぶんは、以外とはっきりした英語で

「私は、コノバス会社ノイスタンブール事務所ノ所長デアル。」

と云いながら、名刺を差し出した。名刺には〝MUHANTOUR〟と書かれていて、ど

うやら、イランのバス会社らしい。月旺日と木旺日の週二便で、運賃は、十八ドルだった。ムッシュがまえもって調べてきた中近東乗り物一覧のかいてある手帳を取り出して調べだした。すると、バス及び、汽車を乗りついで行くと、ちょうど十五ドルになる計算がでた。

ダイレクトで行くと三ドル高いだけであった。

〝よし、三ドル高だけなら、このバスにしよう〟と、云ったものの、まるっきり、この

バス会社を信用したわけではなかった。もちろんあとで、テヘランについた時、このバス会社は、西は西ドイツのミューヘンまで、東は、アフガニスタン、パキスタンの国境まで行っている、T・B・T というもう一つのバス会社と並んで、イランでは、最大のバス会社だったことがわかったのだが…。

まず、ムッシュに、この事務所の正確な位置と、バスの種類を確かめさせ、ベンツのし ま模様の入ったわりあいいいバスだったが、日付と時間を確認させた。

切符には、日曜日の朝六時と書かれてあった。


バザールは、タヌキとキツネの住むところ


事務所を出ると、そのままベヤジット広場を突切って、バザールヘ行った。入口には、ちょうど、手押し車にスイカを満載にした、赤鼻のおっちゃんが、スイカの切り売りをしていた。

イスタンブールのバザールは、イランのテヘランにつぐ、中近東では、二番目に大きな規模のものであり、中近束のあらゆるものがここにあるといっても、過言ではない。

その中でも一番多いものは、毛皮製品で、値段も驚くほど安い。この中で一番人気のあるのは、アフガンコートだ。チョツキにミディコート、マキシヨートにパンタロン、毛皮のものなら、なんでもござれ。

アフガンコートというと、たしかにアフガニスタンが本場であり、値段もイスタンブールよりは少し安い。ところが実用性という面でみれば、イスタンブールの方がずっと良い。第一、本場アフガニスタンのコートは、乳くさくてとても着ていられるものではない。

それに、なめしだってひどい。それに比べれば、イスタンブールのアフガンコートは、全然匂いがないし、なめしだっていい。

現在ロンドンのブティックで売っている、アフガンコートは、ほとんどがイスタンブール製ということが、これを物語っている。

ともかくも我々四人は、決して、だまされまいという覚悟のもとに、バザールに乗り込んでいった。勇しく、ちょつと、頼りなく………。

まず、一番入口に近い二軒の毛皮屋にはいった。向って右側は中国人だ。

「コレ、スゴクヤスイアルヨ。カエ、カエ。」この中国人すごく愛想がいい。

トルコ・コーヒーを出してくれたり、入口で売っているスイカ屋から、スイカの切り身をお盆一杯に持ってきて食べろとサービスをする。

さっそく、かけ引きが始まった。

「コノチョッキ、八ドルネ。ヤスイ、ヤスイ。絶対ノ買得品ネ。」

「ダメ。ボク、学生ネ。オ金、アマリナイ、タカイ、タカイ。」

「ソレナラ、七ドルデドウダ!」

ぼくは、首を振って相手にしなかった。「ヨシ、ソンナラ、トプカピ宮殿ノ塔ノテッペンカラ、飛ビ降リタツモリデ、五ドルデドウダ。コレ、私ノラストプライスネ。(最後の値段)」

「タカイ、モットマケロ。」

「モウ、コレ以上、 マケラレマセン。」

この中国人、なかなかのタヌキおやじであった。表情豊かに、これ以上まけると、私はもう商売をやっていけないなどぬかす。

そっちもそっちなら、こっちもこっちだ。目には目を、タヌキにはキツネを、自動車には赤信号、これはカンケイアリマセン。おっといけない。こっちまで変な口調になっちまった。

「オヤジ、ソレジャ話ニナラナイヨ。オレ、隣リノ店ニ行クヨ。ホナ、サイナラ。」と云って、店を出ようとした。

すると、おやじは、急にあわてて、

「マア、マア、ダンナ。ソンナコトイワナイデ。」とぼくを引き止めて、

「トコロデオマエサン、イッタイ、イクラダッタラカウンダネ。」

と云いだした。さあ、これからが、ぼくの腕の見せどころだ。ぼくは、ズバリ切りだした。

「三ドルナラカウヨ。」

「オウ、クレージープライス。(きちがいねだん)」

おやじは、頭をかかえて、大きなヂェスチャアをした。なかなかの役者である。そして、そのあと、 ニカッと笑いながら、

「ソレデハ、真中ヲ取ッテ、四ドルデドウダ。ションション(お手を拝借の手拍子)」

このようにして、 一つの毛皮のチョッキが取り引きされた。たしかに売る方もつかれるが、買う方もつかれる。しかし、これがおもしろくて、バザールにきたのだともいえるのだ。どこの世界に、品物の値段が半分以下になるところがあるだろうか。でも現実に、このバザールは半分以下になるのである。

ボンボンも、団長も、ムッシュも、やはり同じようにして、バザールのあちこちの店で、にぎやかにかけ引き合戦をくり広げた。

二時間の熱戦の上、僕はアフガンチョッキとカバンとデービークロケットの帽子、団長

は、マキシのアフガンコート、ボンボンはやはリマキシのアフガンコートと日本の彼女用のミディのアフガンコート、ムッシュは皮の普通のコートと、僕とおそろいのデービークロケット帽を買い込んだ。

バザールは、たて、よこ、十文字に、四本づつの通りでなりたっていた。これを最初に頭に入れておかないと迷子になるおそれもあるわけだ。


日本語しゃべる、変なトルコ人に会う


第一目標の毛皮買いが終ったあと、人口の通りから、右に三本目の通りの宝石店の前に来たときだった。

「こんにちわ!」

背のヒョロッとした若い男が、日本語で話しかけてきた。我々四人は、一瞬、驚いて、声も出なかった。こんなバザールの中で、日本語を聞くなどとは、思いもよらなかったからである。

「中にはいりませんか。」

男は、正確な日本語で、我々を店の中に引き入れた。ちょうど、我々は、次の目標である銀のマジックリング(別名イスタンブールリングとも云う)を捜していたときだったので、さっそく、この男に、

「マジックリングはありませんか」と日本語で聞いた。男は、

「ある、ある。」

と云って、箱いっばいのマジックリングを四人の前に差し出した。

マジックリングと云うと、日本では、あまり、知られていないが、四つのリングの輪をうまく組み合わせると、一体のリングになってしまうと云う、 ヨーロッパでは、中近東にいったものなら、誰でも知っているという、以外とポピュラーなリングなのである。

もちろん、 ロンドンのブティックなどでも手にはいるが、やはり、本場のマジックリングは少し違うし、第一、ここは銀が安いから、リングも安い。結局、団長とぼくとボンボンは、二個づつ買ったが、ムッシュは、実に二十個も買ったのだ。ムッシュは、これを日本に持ち返って研究し、日本国内でだいだい的に売り出すと、はりきっていた。そういえば、ムッシュは、日本にいたとき、一時銀細工に凝って、指輪を作ったこともあったそうだ。もっとも、ムッシュは、手品の方がうまいのだが…。

「有りがとうございます。」

男は、ていねいに、愛想よくそう云った。

ところが、この男とは、このまま終ったわけではなかった。

我々四人は、一たん、Y・Hホテルに引き返えして、また、例の丘の上のレストランで夕食をとっていると、この男が、ひょっこり入ってきた。

彼の名前は、ヨセフ・エルクメンと云い、このレストランのすぐそばに、家族と住んでいたのだ。

レストランを出ると、ヨセフ君は、我々を自分のアパートに誘った。ヨセフ君の家は、レストランの前の道路を越した向う側のビルの五階にあった。両親と、姉との四人暮しで、ちょうど、伯父さんの子供が二人、遊びにきていて、なかなかにぎやかだった。

我々は、食堂兼居間に通された。

ヨセフ君は、自分の部屋から、日本の本や、やはり、二年程まえにイスタンブールにき た日本の青年にもらったと云うきもの(実際はゆかたなのだけれども、ヨセフ君は、きものだと思っている)を我々の前に持ちだしてきた。日本語は、ハイスクール時代から独学で学んだらしく、漢字はまだまだ、駄目だけれども、ひらがななら、全部読めると云う。我々の英語よりは、ヨセフ君の日本語の方が、よっぽど流暢だった。

二時間程、ヨセフ君の家にいたであろうか。我々四人とヨセフ君は、すっかり、意気統

合してしまい、

今から、ヨセフ君の案内で、夜のイスタンブールにくりだそう、ということになった。

我々は、ご両親とお姉さんに、ていねいに、お礼をのべて、ヨセフ君と外に出た。

新市街に出るには、バスで河を渡って、向う側にいかなければならなかった。バス停は、セント・ソフィア寺院の前にあった。我々は、 ″T四″と番号の書いてあるバスに乗った。

バスは、ベヤジッド広場の前を大廻りして、アタチュルク橋を渡った。夜のアタチュルク橋は、橋燈と街のイルミネーションが、交互に水面に映って、にぎやかな光の運動をかもし出していた。

アタチュルク橋を渡りきると、登り坂になっていて、トルコ航空の営業所の前で、右側に教会を見ながら、狭い路地をグルグル廻ると、ベイヨール地区に出た。ちょうど、映画館の前でバスを降りると、そこはイスチクラル通りだ。ここは、イスタンブールで一番にぎやかなところで、近代的なブティックやカフェが立ち並んでいて、ロンドンで云えば、オックスフォード通り、日本でいえば、さしずめ、銀座通りというところだろう。

イスチクラル通りをブラつきながら、途中、いかのオリーブ揚げなどをつまみ喰いながら歩いていくと、タクシム広場に出た。ここは、市内バスのターミナルになっていて、正面にヒルトンホテルが見えた。

妙なことから、女を買いに行く話になった。

〝若いみそらの四人組、夜の巷をさまよえば、

出てくる話は、いろばなし。

ここは外国、オリエント、若い女の姿を見れば、

奮立たないわけがない。〟

そこは若者ヨセフ君、ところ変れど気持ちは同じ。

「せっかく、イスタンブールに来たのだから、君達によろこんでもらいたい。」

と云って、大いに乗り出した。そして、「イスタンブールで、 一番、いい女がそろっているところに連れて行く。」と云いだした。

ヨセフ君の話だと、イスタンブールには、一ドルぐらいから夜の女はいると云う。

そういうたぐいの女がいる場所は、このタクシム広場から、港の方に降りた波止場周辺らしい。でも、病気が心配だから、なるたけなら、近づかない方がいいと忠告してくれた。

そして、

「君達は、ぼくの友達なのだから、絶対に、病気の心配のない女の子を紹介するよ。」と

も云った。どうやら、ヨセフ君、この道の方でもかなりの男らしい。我々の中では、一番年若いボンボンが浮き浮きしていた。

話がきまれば、事は早い。でも、そのまえに体力をつけておこうと、ヨセフ君が提案した。もちろん、我々全員意義はなし。

ヨセフ君は、ヒルトンホテルの前の道を、北に昇っていったところの、ヨセフ君の友達がやっているという、中華料理店に連れていった。四人とも、チャプスイ(野菜イタメみたいなもの)とライスを注文すると、丸々太った愛嬌のいいおやじさんが出て来た。

ヨセフ君が、我々四人を日本人の友達だと紹介すると、そのおやじさんは、さっそく、我々に、ラーメン(正確にいうと、ラーメンらしきもの)をごちそうしてくれた。これで、準備ばんたん整った。

〝十九連隊、玉二つ、狙い定めて、レッツゴー〟


おれとおまえは兄弟だ


〝女の館〟は、この中華料理店より、さらに北にあがったところだった。路地を西にちょ

っとはいった、つきあたりの″HOTEL″と赤いネオン(どういうわけか、赤いネオン

なのだ)で書かれてあり、その下に小さく″AMERICAN=BAR″と書かれてある、

小さな三階建てのビルだった。そのまわりには、同じようなネオンのビルが二、三軒立ち並んでいた。細い階段を、二階に登りながら、ヨセフ君は、

「絶対に、五ドル以上は出すな!」

と我々の財布の中を心配してか、そう云った。さすが、わが同胞、わかってる―。

二階にあがって、正面の部屋にはいると、入口がバーのカウンターになっていてその奥に目的の女達がいた。その時、部屋の中には、三人のトルコ人がいたが、彼らはヒヤかしだったらしく、我々が中にはいると、いつのまにか、出ていってしまい、部屋の中はヨセフ君と我々四人と、女達だけになった。

女達は全部で六人いた。

さすが、ヨセフ君が太鼓判を捺すだけあって、仲々の美人ぞろい、というよりも、かわいいという感じだった。もっとも、一般にトルコ人というのは、ヨーロッパ人と比べるとずっと小がらで、現在の日本人の体格よりはむしろ小さいくらいである。

ヨセフ君は、一番右側の女のところに近ずいていって、耳もとで、何かささやいた。すると、それに、何か、その女が答えたらしく、ヨセフ君は、ニヤッと笑って、我々の方に帰ってくるなり、日本語でこういった。

「どの女子でも、OK です。早く、好きな女を選びなさい。」まず、ボンボンが彼女達の前に、一歩踏み出した。

いま、ヨセフ君が何かささやいた女は、いくらか小太りで、アイラインがやけに強いせいか、目のパッチリした鼻の高い女だった。そのとなりの女は、これは、細みで、からだ全体がひきしまっていて、浅丘ルリ子をもう少しオリエント調にしたようなマスクをしていた。

〝オレの好みにピッタリだ〟

ぼくは、その時、心の中で、この女にしようときめた。

ところがこのあと、とんでもないトラブルが、起きたのである。

団長が、さっき、ヨセフ君と話をしていた女にえらく気に入られてしまい、ムッシユも

左から二番目の、髪の毛のやや細い、エリザベス・テーラーを小がらにしたみたいな女と部屋を出ていったあと、さて、ぼくもとイスタンブールの浅丘ルリ子嬢の手をとろうとした時、ボンボンも彼女の腕をつかんだのである。

口論になった。ボンボンがぼくに、他の女にしてくれとたのんだけれども、ぼくも最初から彼女にきめていたので、意地になって、譲らなかった。男というものは、おかしなものである。相手が娼婦であろうと、一たん、きめたものを人に盗られるとなると、まるで自分の恋人を盗られるような気分になるものだ。特に、ボンボンもぼくもそれが非常に強かった。相手が同胞であろうと、親友であろうと、同期の桜であろうと、女を盗られるとなれば、敵、味万。かくなる上は、一騎うち、夜のイスタンブールに血の雨が降るか‥…。ことがエスカレートしてきた時、ヨセフ君が、我々二人の中に割ってはいってきた。そして、ヨセフ君は、我々二人をなだめすかすようにして、そのイスタンブールの浅丘ルリ子に何か、ささやくと、彼女は、ニコニコして我々の方に、OK というサインを送ってみせた。

我々二人がア然としていると、ヨセフ君は、我々二人にこう云った。

「それなら、二人とも、変りばんこに彼女としなさい。」

「なぬ!」

ボンボンとぼくは、おたがいに、一瞬、顔を見あわせた。しかし、ここまできたら、あとにはひけぬと、ぼくは昔の吉原で、いい女郎を買うためには、早くからいって並んだものだという話を思い浮かべながら、しぶしぶ承諾した。しかし、そのあと、まだ問題は残 った。すなわら、ボンボンとぼくと、どちらが先にするかということである。結局、ジャンケンできめることになった。ボンボンとぼくは、コント五五号の 野球拳みたいにして、ジャンケンをおこなった。ぼくが負けた。

ボンボンは喜んで、

「お先に失礼!」

と、ぼくの肩をポンとたたいて、そのイスタンブールの浅丘ルリ子と隣りの部屋に消えていった。残されたのは、ぼくとヨセフ君、ぼくは、しばらく、パーのカウンターのところで、ふてくされていた。

ボンボンとバトンタッチをして、つかの間のしあわせを味ったあと、ホテルを出た時

は、もう午前○時を少し過ぎていた。他の四人が待っているという、大通のカフェにはいっていくと、窓ぎわのボックスのところで、ボンボンが、すでにさっきの事件を他の二人に報告したらしく、ぼくの顔をみるなり、いっせいに笑いだした。

ぼくも、少しテレながら、ボンボンに、

「さっきは、あんなにムキになって、すまなかった。」とあやまると、ボンボンも、

「何んでオレもあんなにムキになったのだか、わからない。」と不思議想な顔をした。

「ようするに、オレたち二人は、趣味がいいんだ。」と勝手なことを云って、そして、

「何んだか、血のつながりができたみたいだよ。」とも云ったりした。

それを聞いて、団長が、

「つまり、おまえ達は兄弟になったわけだ。変な兄弟だけれど……。ところでお兄さんは、どっちかな?」

すかさず、ムッシユが、

「もちろん、先に入れた方が兄貴ですよ。」

と口を入れた。それでぼくが、少し真而目な顔で、ボンボンに、

「お兄さん、よろしく、ご指導をお願いします。」

と云うと、みんなは、おもわず、吹き出してしまった。

ボーイが、ザクロをそのまま、しぼった生ジュースを持ってきた。のどがかわいていたせいもあってか、このジュースがまるで特別のジュースのようにうまかった。


日曜日は、バザールはお体み


あくる日は、日曜日だった。

昨晩はなんだ、かんだといいながら、HOTEL に帰ってきたのは午前二時を過ぎていた。

お昼になるまでだれも、起きようとしない。正午ちかくになって、やっと、ムッシュが起きだして、シャワーを浴びてくると、部屋の外に出ていった。

このあと、ちょとしたハプニングがおこった。

ムッシュが外に出ていって十分ぐらいしただろうか、下の二階でキァーという声といっしょにバシャンという音がした。そのあと、しばらくなにもなかつたが、ムッシュが我々の部屋の戸をあけた時は頭から、全身ヌレネズミだった。

「いったいどうしたんだ。」

団長が眠けまなこをこすりながら、そういった。

ボンボンの説明だと、三階のシャワーの水が出なかったので、三階のシャワー室にいった時、うっかり二階が女性専用フロアーになっているのを忘れていたらしい。二階が女性専用フロアーなら、シャワー室も、しかり。

ムッシュは、シャワー室のドアをあけるなり、彼女達に一せいに水攻撃を浴びたのだ。東西を問わず、のぞきはつねに命がけらしい。このさわぎでボンボンも目をさまし、午後から、またブラブラとバザールにいってみようかということになった。

ところが、バザールの入口までくると、バザールは閉まっていた。まわりの露天のスイカ売りのおやじにきくとどうやら、日曜日はパザールは休みらしい。そのかわりといつてはなんだが、バザールの入口から少し北にあがった、ベヤジット寺院と並行にある細長い登り坂の路地に市場ができていた。

ここは、古衣、古雑誌、こわれた自転車、工具、時計、ETC すなわち、ガラクタなら

なんでもあるという、一見スペインの、のみの市のような雰囲気の市場だった。我々はひやかし半分に、あっちこっちの露店をのぞいてあるき、路地の途中で、日本のねじりん棒みたいなおかしなお菓子をかって、それをなめながら、ベヤジット寺院の方に、向った。

僕はその時、スペインのマドリッドの、のみの市を思いだしていた。

もともと、この四人、マドリッドの、のみの市で、一緒に、日本製品のたたき売りをしたのが、知り合いのきっかけだった。

マドリッド、そこはヨーロッパを放浪するものにとって一つの息抜の場所であり、体力を回復させる場所でもある。

マドリッドの郊外、地下鉄ラーゴの駅で降ると、そこは森の中である。駅前の売店で、ビノ(ブドウ酒)を一杯ひっかけながら、ユースホステルの所在をきくと、かならずといつていいくらい、左手のオリーブの並木道を指さして、まっすぐ歩いていけという。

長い並木をトボトボ歩く。

この並木道、夏の間だと、長髪、ヨレヨレのジーパン、底のすリヘったブーツ、首からぶらさげた小さなカメラがなかったら、まったくの放浪乞食、重いリックを背おった、同じような仲間がヤアー、と声をかけてくる。

「ドコニユクノカ。」

と返事変わりにそう云うと、行く方向はきまって同じ、ユースホステル。

ここら一たいをカサ・デ・カンポという。ラーゴの駅の正面に小さな池があり、この並木のつきあたりは遊園地だ。休日になると、カサ・デ・カンポは家族づれで一ぱいになる。スペイン、もしくはラテン系の民族というのは遊ぶときには家族中で遊ぶのだ。どこか、ピクニックにいくときでも一家族で出掛けるうちはまだいい。それが伯父さん、伯母さん、おいにめい、もしくは隣り、近所の子供まで連れていく。恋人ができるともう大変だ。そこに恋人の家族が加わるから、ピクニックなんてもんじゃない。それはもう一大集団の移動である。


マドリッドユースホステルの青春


ユースホステルは、遊園地と同じ森の中にある。軍隊兵舎の跡に立てたものだというが結構、酒落れた平家建てのホステルが、コの字にちょこんと置いてある。中庭がだだっ広

い。正面が事務所兼食堂だ。我々旅行者の泊る建物は向て右側の奥。真中の玄関のところに

たいてい汚ない、いくら洗濯をしてもどういうわけだかうすぎたない洗濯物がほしてある

からすぐわかる。そして、たいてい入り口の段になったところに座わっているのは日本人だ。

ヨーロッパのユースホステルは、どこにいっても、さまざまなヨーロッパ人とカナダ人とアメリカ人がほとんどをしめて、日本人はいつも二、三人の小集団をつくってすみの方にいる。ところが、ここのユースホステルはちょっと変わっている。ここは日本人の天下だ。

人口の正面に黒いカーテンでしきられた部屋がある。他は、ただ二段ベットが並んでいるだけだが、どういうわけか、この一角だけがカーテンでしきられている。

この部屋で、ご存じ、マドリッドにいったものならだれでも知っている、その名声は、はるか海をわたって、日本の下田の小さな喫茶店(この喫茶店は二年程まえこのユースホステルに半年ばかりいたことのあるマスターがやっている)まで響きわたっている番長室だ。

この部屋には四つのベットがあり、向って右の下が番長、左の下が副番長、右の上が事務長、左の上が通訳ときまっている。

番長、正式にはマドリッドユースホステル日本人学校番長といい、たいてい一番このユースホステルで古い人(一ヶ月ぐらい滞在している人)がなる。番長は世襲制で、この

番長がこのユースホステルを出るときは、一昼夜パーティーをやり、副番長とビノの盃をかわして、番長の座をゆずる。副番長は、番長が町に酒飲みや、女買いにいっている時など番長を代行する。すなわちこの部屋には、常時かならず、番長か、副番長がいるのである。

事務長は、このユースホステルの世話役で新入生(始めてこのユースホステルをたずねた人)のベットの手配や食事の方法、その他ここでの生活のすべてを教える。

通訳は、このユースホステルで一番スペイン語の達者な人がなり、他の外人とのトラブルや、このユースホステルの管理人に、日本人の待遇改善、もしくは食事改善などを要求するときに、活躍する。

この番長室は、我々日本人貧之旅行者にとっては、たいへん、便利なものである。街に出かけていくときや、スペイン、ポルトガル、ちょっとジブラルタル海峡を渡ってモロッコなどを短期間旅行するときなどは、ここに大きな荷物を預けておける。要するに、ただのロッカーがあるみたいなもので、駅のコインロッカー(スペインではしばしば駅のコインロッカーに預けておいても中の荷物が抜きとられることがある)などよりはずっと安全度も高い。

しかし、この日本人学校にも、ただ一つ入校の資格があるのだ。その資格というのは、このユースホステルの隣にある遊園地のジェットコースターに乗ることだ。

新入生が四―五人になると、番長、ぉよび番長候補生が、夕食後(ここの夕食は九時であるが)彼らをこのジェットコースターのところにつれていく。ところがこのジェットコースター、そんじょそこらの品物とはわけがちがう。荒っぽさでは世界でも三本の指に数えられる程のもので、おまけに、安全ベルトなどついていない。昨年も、このジェットコースターで子供が二人程死んだ、などと堂々と看板にかいてあり、日本ならば、即告、営業停止ものだ。しかし、そこはお国がら、闘牛士が目の前で牛に殺されるのを、笑って見ているくらいだから、ジェットコースターで、一人や二人の死人が出ようと、かえって、宣伝になっていいらしい。

かくして新入生は、マドリッドのユースホステルをたずねたばっかりに、死の恐怖と直面するわけだ。

これは、初代番長が新入生の度胸だめしに、と始めたのがきっかけらしく、ここで一度こわい目にあっておけば、この後、アフリカや中近東にいった時に、キチガイタクシーやメチャクチャ運転のバスに乗った時でも、こわがらなくてもすむように、との親心らしい。それが、次期番長に引きつがれて、今日に至っているわけである。

この度胸だめしが終ると、新入生は番長に忠誠をちかい、番長はあたたかく、新入生を むかえ入れ、このあと、新入生歓迎の宴がひらかれる。町にいって、一本十二ペセタ(六十円)でかってきたビノが、ユースホステルの中庭の中央のカンテラのまわりに、何本も並べられると、宴会のはじまりだ。月夜の晩などは、カンテラなど必要ない程明るい。満 月は、どこにいっても満月なのだ。

日本の歌が歌われる。なつかしい。外国を旅行している奴は、特にそうだ。そういう奴は、まだ、日本を出てまもない奴に、日本ではやっていた歌をおそゎる。気にいると、手帳にメモして、けんめいにおぼえるのだ。会がもりあがってくると、かならずでるのがかくし芸だ。このユースホステルは、さまざまなおもしろい奴があつまる。

アメリカを自転車で横断しようとして、ロサンゼェルスを出て十キロもいかないうちに交通事故にあい、自転車はメチャメチャになり、しかたなしにバスを乗りついでニューョークまできて飛行機で、マドリッドに飛んできた奴、ヨーロッパを、いそいで、一ケ月ぐらいで旅行して、くたびれてこのユースホステルにきて、住みついた奴、北欧で働いて金ができたので、マドリッドで一年ぐらいのんびりくらすといぅ奴、日本から、船でフランスのマルセーユにきて、すぐスペインにはいり、このユースが気にいって三ケ月、船の中から食べちゃ寝ての運動不足、日本にいる時より十キロ太ったなんていってぃる奴、中近東をヒッチしてきた奴、アフリカのサハラ砂漠を横断してきた奴、日本を出て三年目の奴、日本を出て六年目の奴、一人一人とりあげたらきりがないがそういう人間が集ったのだから芸もたっしゃだ。

日本で空手をやっていて、それの布教にアフリカに行くなんて奴が、空手の型や、古式の格技などと披露する。

手品のうまい奴もいる。そうかと思うと、花柳流の名取りだなんていって、リュックの中から大事にもっていた、いきな大島の着物と扇子をとりだして、テープレコーダーに録音した曲で舞ったりする奴、あまリスペインでひまなので、退屈しのぎにフラメンコギターをならっているんだ、とその成果を発表する奴もいる。

酔がまわってくると、きまってでるのが、さまざまな春歌である。ありきたりの春歌じゃつまらないとマドリッド日本人学校の生徒が、三日三晩、夜も寝ないで昼寝して作ったというオリジナルのものがある。

ここで、この紙上をかりて、本那初公開のマドリッド春歌を披露しょう。これは、中にはさまれた春歌そのものは、けっして、新しいものではなく、ありきたりの春歌を挿入しただけだが、その前後の語りの部分に注目ねがいたい。

本日は、当穴の門(虎の門)ホールに、子宮(至急)かけつけていだたきまして、まこ

とに、ありがとうございます。本日の特出しは、寝込ろんびあ、センズリ(専属)歌手、股倉腔子さん、歌いまする歌は、梅谷さね子作詞、スピロヘータ作曲、「淋病峠」(りんどう峠)演奏は、オギノ式(指揮)による、カサ・デ・カンポ・妊娠・月経バンドの皆さまです。それでは、みなさん、チンチンムケルまで張り切ってどうぞ。

(唄)OMANKO 突っつく虫、何んの虫頭つんつるてんで目が一つおまけに手もない足もない

根本に毛のある変んな虫

本日のプログラム、オルガスムースに運びまして、誠に、有難うございました。来週の

出血(出演)歌手は、精子卵子姉妹、またリクリトリス(リクエスト)のお送り先は、横

ハメ(浜)局区内重寝台、四十八手番地私書箱69

チンポ、ボッキ、明日また放送、チンカ、マンカシット(ヒット)パレードの係です。

司会は、私、玉落いぢる、提供は、おそその恋人スキンレスでお送り致しました。それで.

は、ザーメン(残念)ですが、来週のこの痴漢(時間)、このチンネル(チャンネル)でお会いしましよう。まもなく○時をお知らせ致します。


チンチン・ポーン

F・U・C・K・TV

(著作権 マドリッドユースホステル日本人学校)


マドリッド日本人学校生徒による、のみの市日本製品たたきうり


スペインの朝は遅い。特にこのユースホステルの朝は、九時に食堂の太ったおばさんが、ナベの底をたたいたような声で、おこしまわるまでは、まずだれも起きようとしない。この時でも起きるのは約半数ぐらい。あとは昼すぎまで寝ている。

ところが日曜日の朝はたいへんだ。この日は、一週間に一度の、のみの市、それも午前中だけときいている。のみの市に行く奴は、七時に起きなければならない。

土曜日の夜、番長室は、いろいろな日本製品で一ぱいになる。もう使わなくなった品物や荷物、重いから少しでも軽くしようと処分される品物や、もうこれから暑い国へ行くからと、いらなくなった衣料など、とにかくなんでもかんでも、この、のみの市に行って売っちまおうというわけだ。

このマドリットの、のみの市、何んでも売れるわけだ。はりのない時計、自転車の車輪だけ、足の一本たらない椅子、穴のあいたギター、フレームの折りまがったガラスのない眼鏡など、こんなものを買っていってどうするのだろう、と思うようなガラクタが、どういうわけか次々に売れていくのだ。

一九七〇年九月の日曜日の朝七時、我がマドリッドユースホステル日本人学校たたき

売り学部の精鋭たるメンバーは、その中には、昔アルバイトで、大阪の三の宮で、カラーパンティーのたたき売りをやっていたことのある剛の者もいたが、他の眠けまなこの同胞の期待を真にうけて、朝日の中をいさましくのみの市にと出かけて行った。

この時、ぼくは、まだマドリッドにきて日もあさく、見習いとしてついていった。

メンバーは七人、この中に団長とムッシュは、デンマークで働いていた時の仲間で、団長は一年、ムッシュは二年目でその仕事をやめ、団長は、一回アメリカに渡ったあと、またヨーロッパにもどり、そのまま、スペインに入り、今日で三週間目だという、闘牛の大

好きな一枚皮のカーボーイハットに膝までのブーツ、うす汚なくなったサファリーコートというのが、トレードマークの、大学の医学部に席をおく伊達男だ。ムッシュは、ヨーロッパを放浪したあと団長よりも五日程早く、マドリッドにはいったらしく大学六年在学中、ボーリングに凝り、全日本学生チャンピオンボーリングで三位にくいこんだことのある九州男児で、団長とは偶然に再会した。ボンボンは、京都のいいとこのボンボンで、ヨーロッパを二ケ月程鉄道旅行をした。彼のたった一つの欠点と云おうか、長所と云おうか、そのみちの天才といおうか、どんな国の女の子でも、美人、不美人、子供、小母さんを問わず声をかけることだ。そして、そのうちの三分の一ぐらいはものにしてしまう。といって抜群に英語がうまいわけではなく、もちろん英語の通じないところだってあるだろう。ところがボンボンは、根性があるのか、ジェスチャーがうまいのか、言葉が通じなくても口説いてしまうのである。僕も旅行中いろいろな日本人にあったけど、言葉もぜんぜんつうじない初体面の女の子を、ジェスチャーだけで口説いたのも彼ぐらいだろう。

七時半、まだ人通りの少ない坂道に、もう、市が、できている。我々六人は、坂を降りて、また少し登りになった一番にぎやかになりそうなところに品物をならべた。

八時をすぎるとそろそろ人がやってくる。九時になると、我々の前は人垣でいっぱいになった。

「さあいらっしゃい、いらっしやい。ご用とお急ぎでないかたは、よ―く見てらょうだ

い。取りいだしましたるこの品物、そんじゃそこらの品物とは、わけがちがう。遠くは、東洋のかなた日本から船や汽車を乗りついで、たどりついたがスペインのマドリッド、ほんとうは日本の高級品ばかりだが、しかし、我々は、いま旅行中の身、背に腹はかえられぬ。今日は日本の正価の三分の一価格でお分けしたぃ。さあ、買わないかい、買わないかい、こんなお買徳品、もう二度とお目にかかれないよ。」

こんな調子で時計、トランジスターラジオ、カメラ、衣服などが、つぎつぎに、売られていく。十一時を少しまわった時には、もう風呂敷の中の品物は、ほとんど売られてしまった。

成果は、まずまずだ。

我々は、そのうり上げ金をもって酒屋にかけこむ。五本の2 リットルビンにビノ(ブドウ酒) を一ぱいつめこんだら、カサ・デ・カンポに凱旋だ。こんなことが日曜日ごとにくりかえされる。だからスペインはたまらない。


そもそもの始まりはギリシャだった


話はずいぶん横道にそれてしまったが、この四人、正確には、一人と三人が、ギリシャの第一ユースホステルの食堂で偶然にも、再会したのだ。

ぼくは十月の初め、まだ、中近東にいく決心が定まらないままに、ギリシャのアテネにいた。ぼくがアテネにはいって、四日目の晩、ユースホステルに食事に戻つたとき、地下の食堂から騒々しい日本語がきこえてきた。聞いたことのある声だな、と思いながら、下におりていくと、マドリッドの二人が雁首をそろえているではないか。話をきくと、団長とムッシュは、デンマークからの好誼で、一諸に中近東を下ろうと、イタリアのオットランドからギリシャのイグニミニッツアに(実はこれがイタリアからギリシャに渡る一番安い方法であるが)船で渡る途中、偶然に、ボンボンと再会したらしい。読者は、偶然が続きすぎて不思議に思うかも知れないが、こういうことは、ョーロッパ及び、世界のあちこちを旅行していると、以外に多いのだ。スウェーデンのストックホルムで会った奴に、三ケ月後、ポルトガルのリスボンで会ったり、四ケ月前にドイツで一諸だった奴が、ニューヨークの街角でばったり会ったりする。日本の中では、日本人は目立たないけれど、他の国の中での日本人は、町の東のはずれと、西のはずれにいても、目立つものなのだ。

こんなことから、一諸に、中近東へ行けば心強いだろうと云うわけで、結局、四人で行くことになったのである。すなわちここで四人が一諸にならなかったなら、このシルクロードの四人組という物語も成立しなかったわけだ。

この四人組、実は、ギリシャにいるときからズッコケていたのだ。団長が、どこからかこのアテネの国立病院にいけば、ただで、コレラやペストの注射をしてくれるという噂を仕入れてきて、それではと、安心感のためか、気休めのためか、まあただなら何んでも射っておいた方が無難だろうというわけで、国立病院にでかけていった時のことだった。

人口の案内で、予防注射をするところはどこかときくと、二階の右はしだという。それでその部屋に行くと、看護婦がまってましたとばかりに、いきなり最初にはいったばくをベットに横にさせて、腕にず太い針を射ちこんだのだ。ところが、どこでどうまちがえたのか、その針からは、何んの注射液も注入されずに、逆に、みるみるうちにぼくの身体から、血を採っているのだ。ぼくは真青になった。それでなくても、旅行中、体重が五キロ程減っていて、これから先、また、つらい旅が待ちうけている矢先に、血をとられたんでは、真青にならない方がおかしいくらいだ。ぼくは一瞬、からだから血の気が抜けていくく錯覚におそわれた。

二百CC 程の血を、ぼくから抜きとると、彼女は(以外と美人の看護婦さんだったが) ニコッと笑つて、ぼくの背中をポンとたたいて、次、といって、ボンボンの腕をつかもうとした。さあ、今度は、あわてたのはボンボンだった。

それまで、ぼくがベットに寝かされているときは、二人ともアッケにとられて、ポカンと見えていたのだが、それが自分の身にふりかかってくるのを見るやいなや、二人とも、部屋の外に逃げ出したのだ。ぼくは、といえば、もう、とられてしまったのだから、いまさら、とられた血をもとにもどせとも云えないので、しかたなしに、すこしふてくされたように、部屋を出ようとした。その時、また彼女が背中をポンとたたくのだ。血をとられた上、また他に何か用があるのかと思って振り向くと、彼女はぼくに自い封筒を差しだした。

部屋を出ると、二人が心配そうに廊下のすみで待っていた。ぼくは三人の方に歩きながら、封筒の中を確かめた。中には三〇〇ドラクマ(日本円にして三千五百円ぐらい)のお金がはいっていた。ぼくはようやく、事情がのみこめてきた。どうやら、ぼくたちを、

血を売りにきたもの、と感ちがいしたらしい。そういえば、ギリシャで血を売ればけっこういい値で買ってくれるらしい、というヒッピーの話を、ユースホステルで、ちらっと、耳にしたことがあった。入口の案内のおやじが薄汚い四人組を見て、てっきり血を売りにきたものだと、早のみこみしたのだ。ぼくはあとにも先にも、日本ではもちろん、血を売ったというのは、これが始めてだった。


アンカラハイウェーを突走る


イスタンブールをたったのは、月曜日の朝だった。朝六時出発だ、というのを聞いていたので、遅くれてはたいへんだと、五時にはホテルをでた。

我々四人、どちらかというと早起きは得意ではない方だ。しかし、人間、緊張している時は、ちゃんと時間には、起きられるものだ。

十月中旬のイスタンブールの朝は、もう寒く、人の吐く息が自く曇る。ベヤジット広場に着くと、いま、まさに太陽が背中から登るところだった。我々は、振りかえつて、合掌し、これからの中近東の旅の安全を、アラーの神に祈った。

バスの発着所に着くと、ちようど、我々の乗るグリーンの縞模様のバスは、荷物を屋根に積んでいるところだった。日本では、荷物をバスの屋根に積むというと、不思議に思うかもしれないが、アフリカや中近東では当り前のことだ。

我々がバスのそばにいくと、バス会社のおやじが近ずいてきて、早く荷物を上に積め、と云った。しかし、我々四人は、断固、荷物を上に積むことを拒否した。もし、万一なくなったり盗まれたりする場合を考えてだ。結局、サイドのトランクに荷物を入れることで納得した。

バスに乗り込んで、番号を確かめると、我々四人は、うしろから四列めの席だった。我々のうしろには、ヒッピーらしいイギリス人のカップルと、やはリヒッピーらしいアメリカ人四人が、もう、乗り込んでいた。我々が挨拶すると、彼らも気軽に話しかけてきた。彼らも同じように、イラン、アフガニスタンから、インドを経て、ネパールに行くとのことだ。我々の前の列は、変な薄汚いジプシーの家族で子供の席をうかすためか、二人の子供が、床に毛布をひいてひっくりかえっていた。バスは、予定より一時間程おそく、ベヤジッド広場を出発して、カバタスに向った。カバタスは、新市街の方にあった。ここからフェリーにバスを乗せてボスボラス海峡を渡って、アジア側のウシュクダラに行くのだ。五十分程で、ウシュクダラに着く。町の郊外でガソリンを入れると、もうそこからは一本道、 アンカラハイウェイーが真すぐにのびていた。このアンカラハイウェイ、ドイツ

のアウトパーンに匹敵する程の良い道で、バスは時速九十km ぐらいでどんどん飛ばしていく。飛ばすのは都バスばかりでなく、アジアのバスも飛ばすのだ。

途中三十トンとか、五十トンとか、とてつもない程大きなトラックが走ってくる。すれちがうのがこわいくらいだ。

団長の話だと、(彼はヨーロッパにいた時ずいぶん、中近東のことを詳しく調べたらしいのだが、ときどき知ったかふりをして嘘を云うから要注意の事)、中東戦争で、スエズ運河が封鎖されたため、いままでの海上輸送になりかわつて、陸上輸送を行なわなければならなくなった。そのためには、アジアハイウェイというものを、 一はやく、完成させる必要がぁった。その手始めとして、アンカラハイウェイというものが出来た。そのおかげで、現在、パクダット→ィスタンブール→ヨーロツパ輸送というのが行なわれているわけ

だ、(以上説明のまま。)

その日、バスは、いっきに九百八十六キロメートル(地図上の計算)走って、トルコの古都シバスについた。

着いた時刻は午後十時半、我々は腹をすかして、前のホテルのレストランにかけ込んだ。ところがこのホテル、英語が通じないのだ。メニューを見ると、ドイツ語でかかれている。イスタンブールでは英語しか通じなかった。(日本語が通じたという例外もあったけれど) ところが、トルコも中央までくると、今度は、ドイツ語しか通じなくなってしまう。さてはこの先、仏語かロシア語か、中国語が、その夜、変な期待をしながら、なかなか寝つかれなかった。


団長、泥だらけのマラソンをする


シバス午前七時発。

一時間程たつと、道路は山道にさしかかった。

登り坂の途中で、舗装がきれて、急に細い悪い道になる。今日の道は、昨日走ったアンカラハイウェイとは、段ちがいの悪路だ。それでもバスは山と山との間のくねくねと曲った道を、全力で飛ばす。我々は、内心、ビクビクしながら、それでも窓の間から見える山々の景色に、心を奪われていた。

十月のトルコは、もうすっかり秋だった。山は一面、紅葉で、といってもトルコの紅葉はもみじがないせいか、山が、真黄色で黄葉だった。

しばらくいくと、雨が降りだした。バスが急な右曲りのカープを曲りきったところで急ブレーキをかけた。

何ごとかと思って、バスのフロントの方をみると、前の方に車が五、六台つまっている。

そして、そのつまった車の一番前に、大きなバスが止まっており、そのバスの前に、四十トンもあるだろうか、大きなトレーラーがすれ違えなくて、立往生していた。

三十分程待ったであろうか、それでもバスはビクとも動くようすがなかった。その時である。常に冷静、かつ沈着なわれわれのホープともいえる団長がとんでもない失態を演じたのである。

この時、団長は、いままでずっとがまんしていた小水を、ついにガマンができなくなってしまったのだ。バスはどうせ、動かないのだから、と云って、勝手に、うしろのドアをあけて、小水をしに、下に降りたのである。ところが、いままで、動くはずのなかったバスが、急に動いたのである。あわてて前の方をみると、大きなトレーラーがやっとのことで、谷側の路肩を崩すようにしてすれ違ってきたのである。おどろいたのは、我々二人である。バスは、団長を山道に置いたまま、どんどんいってしまう。

我々は、あらんかぎりの声で、運転手にストップをかけた。

バスは四五百メートル程走ってやっと止まった。我々がうしろの窓のところへいって、バスの後方をみると、団長が山道を、泥だらけになって全力で馳けてくるのがみえる。

二、三回、ひっくりかえったりして、やっとこさ、バスのところに走りついた団長の表情といったら、まさにこの世の顔とは思えない程、真青だった。

全身ズブ濡れで、からだの至るとこに泥がついていて、顔も真黒け、我々三人は、団長にはちょっと気の毒だったけど、その醜態をみて、吹きださずにはおられなかった。

団長は、そんな我々を見て、すこぶる不気嫌になり、なんでバスを止めておかなかったのだなどと、八つ当りをして、しばらくの間、口もきかなかった。


ノアの方舟の山


エルズムに着いたのは午後六時、

もうあたりはうす暗く、街は閑散としていて小雪がパラついていた。

我々は、まず、バスターミナルの真ん前にあるホテルに宿をとり、そのあと、すぐに、 5 夕食をとりに街へ出た。

五十メートルぐらい西へ歩くと、ちょうど四つ角になったところに、レストランがあった。中にはいると、愛想のよいおやじが出てきて、「ゴ注文ハ何ンニナサイマスカ。」と英語で問いかけてきた。

シバスではドイツ語しか通じなかったのにトルコの束の端までくると、また、英語に戻った。どうもトルコという国はわからない。

我々は、四人とも、シシカバブとパンを注文した。ところがどこでどうまちがえたのか、シシカバブと、変な雑布みたいな茶色のかたまりがでてきたのだ。

「オマエ、コレハ何ンダ?」

パンデゴザイマス。」

おやじは、平然として立っている。我々はちょっと理解に苦しんだ。平たい、茶色の変なものが、皿の上に折りたたんででてきたのだから、変に思わない方がおかしい。

どうやら、これが中近東のパンだと解るまで、少し時間がかかった。

たべてみると、これが、またあまりおいしくない。おまけにパンの中にワラや、ジャリがはいっていて、それを時々、歯でかんでしまうのだから、あまり気分のよいものではない。

これは、実は、中近東の代表的たべものの一つであり、ナンとか、ヌンとかいい、インドではチャパティともいう。

イースト菌がないために、パンを吹くらますことを知らず、おまけに焼けたパンを、そのまま、地面の上にほうり出して、冷やすために、ワラやジャリが必然的にはいってしまうのだ。

我々はこのあとずっと、この平たいパンとお付き合いすることになる。すなわち、我々は中近東で、たいしたものをたべていなかったという証しみたいなものだ。

翌朝、エルズレムを六時に発って、お昼近くドウバヤジットという小さな国境の町についた。ここは標高一七〇〇メートル程あり、アララット山登り口としても有名なところだ。

団長の話だと(音、旧約聖書を愛読していたらしく、やたら、うるさい)このアララット山(標高五一六五メートル)は旧約聖書に出てくるノア方舟の山らしい。

ノアの洪水といえば、ぼくだって知っている。

その昔、世界中が洪水になるといって、一つの大きな方舟を作った男がいた。

人々はそれを信用せず、その男を嘲笑っていた。

ところがそれが真実になった。

世界中は水びたしになり、その時、この男は、すでに用意してあった方舟に家財道具や家畜を積んで、この洪水をのがれたという話を‥………。

ところがそののち、この方舟が、どうなったということは、以外と知られていない。

ぼくだって、団長の話を聞くまでは、そんなことは、ぜんぜん知らなかった。

このアララット山(別名エルズルム富士とも云うが、これは、ここを旅行した日本人が勝手につけた名前らしい)実は、このノアの方舟が世界中を漂流したのち、たどりついたところなのだ。

これは、マルコポーロの旅行記にもちゃんと書いてある。

それでは、このノアの方舟は本当に存在したのであろうか。

これは余談になるが、今から十年程前に、フランス人フェルナンド、ナヴァラは、このアララット山に登頂し山頂付近で巨大舟の一部を発見している。

フェルナンドは、この舟の木片をフランスに持ち帰り、専門家の鑑定を受けると、それはまさしく、旧約聖書時代のものであった。(マルコポーロ旅行団調査室蔵書、自水社「シ

ルクロード」より)

ドゥバヤジッドの町から、二時間ぐらいで国境につく。国境は、山と山とにはさまれて、一番狭くなったところにあった。まず、トルコ側の警察で、パスポートの検査を受け、そのあと、トルコ側とイラン側の税関が一緒になっている、大きな部屋にはいった。

我々、ヨーロッパ、アメリカ、及び日本人旅行者は、以外と簡単な手続きですんでしまったが、これが隣接国の取り調べとなるとたいへんだし、時間もかかる。もっとも、我々、早い方だといってもやはり、一時間はかかった。

中近東は、のんびりいくことにしているので、さほど気にならなかったが、両方の税関の取り調べが終って、最後にイランの警察のパスポート検査を受けているとき、突然、ギャーという男の声がした。それと同時に、税関室から一人の男が飛びだしてきた。

男の顔を見ると、イスタンブールから、ずっと、バスで一緒だった薄汚いジプシー家族のおやじだった。

おやじは、我々のいるところを突きって、外へ走り出ようとしたが、たちまち、四、五人の警官に囲りから飛びかかられて、つかまってしまった。そして、必死に抵抗するのを四人で抱えるようにして、取り調べ室に連れ去っていった。

察すると、このおやじ、どうやら何か密輸をしようとして、それが発見されて、つかまったらしい。

しばらく、静寂があつた。そのあと、バシッパシッと何かをたたく音がして、そのたびにおやじの悲痛の声が聞こえてきた。拷間が始まった。

その時になって、我々のすぐそばで、連れていかれたおやじを、顔面、蒼自でじっと見つめていた彼の妻が、

「ウワーン」

という叫びにもつかない泣き声をあげて、床にひれ伏した。そのまわりで、二人の子供が何があったのかまだわからずに、おろおろしていた。

我々はぞーとした。背中に何か寒いものが、スーと通っていくような気持で、我々はいそいで事務所の外に出た。

外に出ると、どうやら、我々が一番手続きが早かったらしく、まだ、誰も、出てきていなかった。

しかたなく待つことにした。それにしても、手続きが遅い。結局、全員の手続きが終るのに、三時間ぐらいかかった。

そのうちに、腹が減ってきた。そういえばエルズルムの町を出るとき、ホテルのとなりのカフェで、例の平べったいヌンとコーヒーを飲んだだけだった。

あたりを見廻すと、レストランみたいな酒落たしろものはない。(ところが、これはあとでわかったのだが、レストランはすぐそばにあったのだ。それが岩かげに隠れていて、

見えなかったのだ。)

しかたなく、ムッシュのリュックの中から、イスタンブールのバザールで、非常食糧用だ、

といって、買っておいたシャケカンとデンマーク製のコンビーフを、それぞれ、二個づつと、やはり、昨晩、エルズルムの例のレストランで余分にもらっておいたヌンを取り出して、それを、のり巻きみたいにして食べた。

国境を出発したのは、五時過ぎだった。

イランにはいると、急にまわりの景色が明るくなった感じがした。

それは、トルコにいたときは、夕方や、夜に、町を通り過ぎても、何か小さな町みたいなところを通ったなあ、という感じだけで終ってしまうが、イランにはいると、どんな小さな村を通っても、灯がらんらんと輝いていて、まるで大きな街を通過するみたいな錯覚をするからだ。

もちろん、これは、他の中近東諸国と比較して、そう感じるのであって、ヨーロッパや日本の街々の灯とは比較にならない。

参考までに、書いておくが、中近東で一番電球の普及率の高い国はどこかと云えば、

それはイランである。これは、日本の経済援助のたまものか、はたまた、日本帝国主義の押し売りなのか、とにかく、イランで使われている電球のほとんどが、マツダランプであった。

タブリッツの町にはいると、これが一段とはっきりわかった。まず、ホテルというホテルの入口が、まるでお祭りでもしているのかと錯覚するくらい、遊園地のおもちゃの入口のように、電球のアーチで囲んであった。それから、ホテルの看板がやはり、電球で囲んである。映画館の看板もそうだ。雑貨屋さんの看板もそうだ。

時刻をみると、ちょうど十時。タブリッツの町は、まさに、イルミネーションの大バーゲーンセールの真最中であった。


ヒッチハイカーは、アメリカインディアンの娘だった


今朝は、八時出発だ、というのでゆっくりだった。いつもより、一時間余裕がある、ということは大変なことだ。第一、のんびり朝食がとれる、というのがいい。

〝世界の朝、中近東の朝、タブリッツの朝〟

バスターミナルのそばのカフェで、ミルクコーヒーを飲みながら、なぜか、そう云いたくなるような気持ちのいい朝だった。

バスに乗り込んでいくと、今日は、昨日とちがってちょっと変った感じになっていた。昨日、ジプシー親子が、国境を越せなかったために、空席になっていた我々の前の席に、また、一見、ジブシー風な娘達が座っていたからだ。

我々が乗り込んでいくと、彼女達は我々の顔を見て、ニコッと挨拶をした。どうやら、どうぞよろしく、と云う意味らしい。

バスが発車してしばらくしてぼくがおそるおそる英語で彼女達に話しかけると、以外とはっきりした、きれいな英語がはねかえってきた。

一瞬、驚ろいたが、よく考えてみれば、日本人だって英語を話すのだから、ジプシー娘が英語を話しても、別に不思議なことはない。

ところが、話をしているうちに、どうも、つじつまがあわないところがでてきた。なぜかというと、彼女達の口から、アメリカのことが、ポンポン飛びだすからだ。ぼくは、初め、アメリカにでもいたことがあるのかな、と思っていたのだが、それがはっきりと間違がいだと気づいたのは、彼女達の口から、〝インディアン〟という言葉が飛びだした時だった。

実は、彼女達、ァメリカのインディアンのヒッチハイカーだったのである。ぼくは、最初に見たときに、着ている衣裳があまりにもジプシーの衣裳とそっくりだったので、頭ごしにジプシーときめつけて話をしていたのである。

〝どおりで英語がうまいはずだよ〟

ぼくは、ヘタな英語で得意になってしやべっていた自分が、はずかしくなった。

彼女達は、我々のうしろにいるアメリカ人やイギリス人のカップルともうちとけて、急に、我々のまわりが賑やかになった。そのうちに、アメリカ人の一人がギターを取りだして、弾き始めた。曲は、ビートルズの〝イエロー・サブマリン〟だ。これなら、我々日本人だって知っている。ギターにあわせて歌が唱いだされ、やがて、バスのうしろは、各国連合の大合唱になった。

テヘラン市内の入口は、コカコーラや、ァメリカ資本の会社に対抗するように、三菱や、日本資本の会社の大きな工場が立ち並んでいた。

市内にはいると、家の門や、塀にやたらと裸電球が飾ってあった。それが、まだ曰ぐれ てまもないうちから灯がついていた。町の通りという通りには、道路の真中にある緑地を利用して、裸の螢光燈が、三脚のように組まれて立てかけられていた。そしてそのまわりの商店街は、これまた、クリスマスツリーのようにやたらとたくさんの電球をはりめぐらしていた。

テヘランの町もタブリッツの町のように、電球の大売出しでもしているのかと、最初はのんびりかまえていたが、こうなってくるとむしろ、異常で、気味が悪い。そのうちに、家のところどころに、イラン国王と女王の写真が並べて飾ってあるのに気がついた。

バスの中のイラン人に、

「何かあるのか?」

と尋ねたら、

「明日は、女王陛下の誕生日でさ。」という答えが返ってきた。

午後六時、バスは、ミューハンバスの事務所の前に、けたたましい音をたてて、たどり着いた。

バスを降りると、我々は、すぐに、重いリュックを背負って、街に出た。行く先は、アミル・カビル通りのアメリカン・ビル(ホテル)だった。これは、ギリシアのユースホステルにいたとき、中近東を上がって来た奴に「テヘランに行ったら、かならず、ここに行け。最新の中近東情報が手にはいるから。」と教えられたホテルなのだ。

ところが、事務所を出たものの、肝心のアビル・カビル通りが、どこにあるのかわからない。仕方がないから、誰か、英語のわかりそうな奴を見つけて、きくことにした。

すると、その時、中学生ぐらいの少年が、英語で話しかけてきた。これは、もっけのさ

いわいと、

「坊主、アミル・カビル通りのアメリカン・ビルというのを知らないか。」とこの中学生にきくと、この中学生、自から、案内役を買って出た。

アビル・カビル通りに向って歩きながら話すと、どうやらこの中学生、我々日本人にすごくあこがれているらしい。高校を卒業したら、ぜひ、日本にいきたいなどと云って、我々四人のアドレスなどを、しつこく聞きただした。

アメリカン・ビルに着くと、我々は、この中学生に、連れてきてくれたお礼だ、と云って、彼の持っていた学校のノートに、我々四人の住所をていねいに書いてやつた。するとこの中学生は、有頂点になって、喜んで帰っていった。


アメリカン・ビルの日本人台帳


アメリカン・ビルは、アビル・カビル通りのちょうど、真中にあり、一階が自動車屋のタイヤ屋で、そこの二階だった。

階段を上ったところの正面が、ホテルのフロントになっており、その中に人なつっこそうなおやじがいた。おやじは、我々四人が日本人だとわかると、大きなホテルの台帳みたいなものを取り出して、我々の前に見せた。

台帳を開くと、その中は、ほとんど日本語で書かれてあった。どうやら、この台帳は、いままで、このホテルに泊った日本人のサイン帳らしい。このホテルの主人が日本語を読めないのをいいことにして、好き勝手なことが書かれてあった。詩を書くもの、散文を書くもの、いままで通ってきたところの中近東事情など、あとから来る日本人のことを思ってか、結構、為になることもたくさん書いてあった。

ムッシュとボンボンとぼくでその台帳を廻し読みしている間に、団長は、おやじと宿賃の交渉をしていた。

一人、七〇リアルだった。団長がみんなから宿賃を集めているとき、いままで熱心に例の台帳を読んでいたボンボンがヽ

「おーい、ちょっと、待て! これを見ろよ。」といきなり、とんきような声を出した。

ボンボンに云われて、我々二人も、例の台帳を覗くと、そこには、こんな日本語が書かれてあった。

「ここのおやじは、表面上は、人のよさそうな男だが以外と狡い。日本人だと見ると、

本当は、五〇リアルの宿泊代を、かならず二〇リアル高く云うから、要注意のこと。その他いろいろなことを云って、お金を取ろうとするから気をつけること。なお、どうしても

宿泊代を余分に取ろうとする時は、前のホテルに行くということ。実際、このアメリカン・ビルの前のホテルは、すこし汚ないが、三〇リアルで格安」

〝このたぬきおやじめ〟

我々は、一度は、七〇リアルで宿賃をのんだものの、さっそく、五〇リアルにしろと交渉に出た。おやじは、最初は、そんなバカなことはできない、なんてとぼけていたがヽ例の台帳に書いてあったとおりに、

「それじゃ、前のホテルに移ろうか。」

と云いだすと、おやじはあわてだして、やむをえず、五〇リアルの要求をのんだ。

我々が宿泊代を払ったあと、おやじは、しばらく不思議そうな顔をしていた。

人のよさそうに見せるために、ニコニコして、差し出した日本人専用の台帳に、よもや、おやじの悪口がかかれていたとは夢にも思わなかっただろう。

いままで、このサイン帳で何人の日本人が、助けられたであろうか。

その夜は、まさに、サイン帳、さまさまだった。

ねぐらがきまれば、あとはメシを喰うだけときまっている。我々四人は、さっそく、夜のテヘランに飛びだしていった。

アミル・カビル通りの一つ裏側の路地が、大衆食堂街になっていた。シシカバブの露店焼屋や、若鳥の回転焼屋などに混って、魚屋があった。テヘランは砂漠の中にある都市なので、行ったいどこの魚だ、とおやじに聞くと、昨日、カスピ海でとれたばかりのイキのいい奴だ、などと云う。魚屋は、どこにいっても、そういうもんだ。

我々は、結局、その露店で、若鳥とライス(ライスといってもパリパリのライスであるが)を買って食べた。


テヘラン名物へそ踊り


腹がいっぱいになると、夜遊びをしたくなるのが人情。それに、テヘランの街は、夜になっても、なかなか賑やかだった。

そんな時、ボンボンがどこから仕入れてきたのか知らないが、テヘランにはベリーダンス(別名、へそ踊り、オリエンタルダンスなどとも云う)という、世界的に有名な踊りが

ある、と云う。これを一度、見物しなくては、中近東にきたことにはならない、などとけしかけるものだから、我々四人、すぐ、その気になって、それでは、へそ踊り見物とでも酒落込むか、ということになった。とは、云っても、どこにあるのかわからない。

それで、町をブラブラしている男に声をかけて、聞くことにした。すると、いま、カフェから出てきたばかりの男が、いやに親切に、へそ踊り劇場への案内をかって出た。あとでわかったのだが、この男、何んのことはない、このへそ踊り劇場の客引きだったのである。

へそ踊り劇場の入口には、〝ダンシング〟と英語で書かれた文字のわきに、踊り子の絵が書いてあるだけの簡単な看板がブラさがっていた。人口のところにいるおっちゃんに、値段を聞くと、入場料は、ビール一本込みで一人五〇リアル(二五〇円)だと云う。四人で二〇〇リアル払うと、さっそく中にはいった。

劇場は、ちょうどナイトクラブ形式になっており、特別席と大衆席と二つにわかれていた。特別席というのは、大衆席をはさんで、両側の一段高くなったところにあり、テヘランの金持どもが、若い女を引きつれて、酒を飲んでいた。

我々がはいったところは、もちろん大衆席で、うしろに、小さなカウンターバーがありそのまわりに、ケバケバしい服をきた、太っちょおばさん達が、たむろしていた。

どうやら、これが夜の女らしい。

我々がうしろを振りむくと、一せいに、ウィンクを返してきた。我々は、そんな女どもには、気もとられずに、ボーイが運んできたビールを飲みながら、舞台の方を見ていた。舞台は、ちょうど、へそ踊りが終ったばかりらしく、アトラクションをやっていた。ロシアのコザックダンスのグループらしく、舞台狭ましと、飛んだり、跳ねたりしていた。

ふと、ぼくが天井の方を見上げると、どういうわけか、星が見える。我々がてっきり、大きな建物の中だと思っていたところは、実は、中庭で、四方を取りまくように建てられた建物から、テントの屋根がはりめぐらされていた。そして、そのテントのすき間には、真ん天の星が、キラキラと美しく輝いていた。

ようやく、へそ踊りが始まった。やっばり本物はいい。日本にいた時、よく学校の帰りに、日劇ミュージックホールにかよったもんだが、その時、二、三回これと同じようなダンスを見たことがある。でも、いま、ここで見ている本物のダンスと比べたら、雲泥の差だ。第一迫力がちがうってもんだ。

ここで、少し、へそ踊りという踊りがいったいどう云うものだか、わからない読者もいると思うので、へそ踊りの解説をしておこう。

へそ踊りという踊りは、要するに、へそのところを激しく揺さぶって踊るダンスのことだ。それだけなら、何んということはない、フラダンスみたいなものだと思うかも知れないが、このダンスは、実は、もっとむずかしいのだ。動かすのは、へそのところだけで、胸や腰は、絶対に動かしてはいけない踊りなのである。

ちょうど、アラビアンナイトにでてくるような衣裳をつけた美女が(もちろん、いまのテヘランの街のどこを歩いても、こんな恰好で歩いている女の子はいない)舞台の中央に出てきて、始めは緩やかにからだを動かしながら、踊り始める。実にセクシーである。そして、曲がだんだん激しくなるにつれて、その美女は、だんだん興奮してくるのか、顔が真っ赤になってきて、からだの動き、とくにへその部分の動きが激しくなり、息づかいも荒くなってくる。

もう少し、よく観察してみよう。とくに、背中をむけたときの、腰の上のくびれた部分に注目ねがいたい。そこに、(たて)状に、二つの筋肉がはっきりとあらわれ、それが、へその部分の動きが激しくなるにつれて、この二つの筋肉が堅く、ひきつれて、痙攣してくる。これが、どうしょうもないくらい、たまらなくエロティクなのだ。

我々四人は、だいぶ興奮してきていた。我々の席は、真中より少し裏にあって、いくぶん見づらかった。すると、その時、ムッシユが思い出したように、ショルダーバツクの中から、オペラグラスを取り出したのだ。

これさえあれば、鬼に金棒、コーヒーにミルク、四人は、さっそく、それを取り合うようにして、踊り子を覗いた。

特に、ボンボンと僕は、無我夢中だった。二人で、机の上にのりだして、頭をぶつけるようにして、レンズの中から、くいいるように踊り子を見た。踊り子が踊りながら、我々の方に、ウィンクなどをすると、もう、たいへんだ。ボンボンは、ポーとなってしまって、ビールのジョッキを高々とあげて、その踊り子に投げキッスを送り出した。

踊り子は、二〇分ぐらい踊ると、幕の裏に引きあげた。そのあと、今度は曲芸師が出て来て、舞台右よりのところで足芸を始めた。よく、昔、村のサーカスでみたあのやつだ。どうやら、踊りと踊りの間には、かならず、こういうたぐいのアトラクションがはいるらしい。

〝これで、五〇リアルじゃ、安いや。〟

我々は、夜の更けるのも忘れて、へそ踊りに夢中になっていた。


踊り子はオベラグラスで口説くもの


四番目の踊り子が踊っているときのことだった。ぼくの肩をポンポン、叩くものがいる。

明るいグリーンのセーターにアウトイエローのパンタロンをはいた、可愛いい女の子だった。ぼくは、彼女の顔を見て、驚いた。実は、この彼女、二番目に舞台で踊っていた踊り子だったのである。それも、さっきみんなで、いままで出て来た二人の踊り子の中では、この娘が一番いい、などと云い合っていたからだ。

彼女は、我々のテーブルのところに椅子を持ってきて、ぼくとボンボンとの間に座った。

そして、勝手に、ボーイにビールを注文すると、ボーイは、三本のビールを我々のテーブルの上に運んできた。

彼女が、我々四人のジョッキにビールを注ぎながら、その時、ちょうどぼくが持っていたオペラグラスを指さして、

「それを見せて下さい。」と云った。

ぼくが彼女に、そのオペラグラスを渡すと彼女は喜んで、そのオペラグラスをいじりまわして、何回もレンズを覗いては、まわりの様子を、オペラグラスの中の風景と比べたりしていた。どうやら、彼女は、このオペラグラスがたいへん気に入ってしまったらしい。

彼女が、

「これを譲って下さい。」

と云って、その変わりにと、へんな事をした。左手の人さし指と中指を重ねて、これを右の手のひらのところにあてて、パチパチと鳴らした。

すると、これを見るなり、ボンボンの目の色が変ったのだ。

ボンボンは、突然、ムッシュに、

「このオペラグラスをオレに譲ってくれ。」

と日本語で云って、今度は、彼女に英語で、「これは、ぼくのものだけど、あなたがぜ ひ、欲しいと云うのなら、プレゼントするよ。」などと、とんでもないことを云いだした。

団長とムッシュとぼくはといえば、彼女が手のひらの中でパチパチした行為が、何をあらわしているか、さっぱりわからなく、しばらくアッケにとられていた。そしてその間に、ムッシュは、ボンボンにオペラグラスの譲渡を、むりやりに承知させられてしまった。

彼女が、ボンボンの耳もとで、何かささやいて、それをボンボンが、うれしそうに頷いたあと、彼女は、奥の方に立ち去っていった。

我々三人は、彼女が奥のドアに消えるのを見とどけてから、さっそくボンボンに、さっ

き、彼女とどんな約束をしたのかを問いただした。すると、ボンボンは、平然と、

「彼女と、夜の契りの約束をしたのさ。」と云ってのけた。

「何に!」

我々三人は、その瞬間、ア然として、声も出なかった。

ボンボンの説明によると、彼女が手のひらの中でパチパチしたのは、実は、合図なのだ。

ボンボンは、中近東では、女が男に夜の相手を申し込むときに、口でいわずにこういう合図を使うということを昔、何かの本で、読んで、知っていたので、この降って湧いたような、思ってもみなかったチヤンスを強引に自分のものにしたのだ。そして、別れぎわ、彼女がボンボンの耳もとでささやいたことばは前のカフェでの、合い引きの約束だった。

ボンボンは、そこまで話すと、

「悪いけれど、先に失敬するよ。また、ホテルで会おうぜ。」とキザに云い捨てて、外に出ていった。

「畜生、わかっていれば、あいつなんかに出し抜かれなかったのに…。」

と、ぼくはジダンダを踏んでくやしがったけれども、あとのまつりだった。

我々三人は、少しフテくされ気味に、ビールの追加注文をした。

「それにしても、彼女はいい女だったなあ。あの手の女は、日本はおろか、ヨーロッパにだっていやしなかった。それもアラビアン・ナイトから飛びだしたような美人――ボンボンはうまくやったよ。」と団長。

「だけど、人のフンドシで相撲をとるとは、ボンボンのために作られた言葉だな。」とムッシュ。

「本当に、太てい野郎だ。一人でいい思いをしたのだから、明日から、我々三人のむこう一週間の食事代は、全部あいつに持たせてやりましようよ。いや、絶対に持たせてやるから…。」

酔いがまわってきたせいか、ぼくは、もうヤケッパチだった。

外に出ると、もう、まわりのイルミネーションは、とっくに消えていた。空を見あげると、月がやけに明るい。

満月だ。さしずめ、イランの中秋の名月とでもいうところか。

〝十五夜、お月さん、見てはねる〟

ムッシュがポツンとそんなことを口ずさんだ。ぼくは、それをきいて、急に哀しくなった。日本を思い出したからである。

新聞紙が、風に舞っていた。足もとでくるくる回っている新聞紙をチラッと見ると、一面にイラン王妃の写真が乗っていた。

〝明日は、イラン王妃の誕生日か〟

物音一つしない、シャハバット通りを、三つの長い影がアミル・カビル通りの方へ歩いて行った。


メシェッド行バスは、忍耐バス


メシェッド行のバスは、ミュハンバス事務所のあるフェロドーシ通りから出ていた。

午前七時、物売りが、やけにうるさい。我々四人は、朝食がわりに、ちょうど、日本の甘食によく似た菓子を、その物売りから買って食べた。バスに乗り込むと、昨晩、あまりよく眼れなかったせいもあってか、バスが走りだすと、すぐに、寝てしまつた。

十時頃になって、バスは突然、停車した。どうやら、休憩時間らしく、ムッシュが、ぼくの肩をゆすって、起こしてくれた。

バスを降りると、バスの後方に、富士山みたいな高い山が見えた。

「なんちゅう山や!」

「ダマバッド山(標高五六六四メートル)や。ほら、〝兼高かおるの世界の旅〟というテ

レビ番組で、この山を背景にして、しやべつている場面があったやろ。これが有名な〝イ

ラン富士〟で―す、て。」

「そんなら、オレたらも、それにあやかって、記念写真でも撮るかい。」ダマバッド山頂は、もう、すっかり、白の雪化粧をしていた。

お昼項、サリを通過。左にカスピ海がみえたときには、もう、一時を少し過ぎていた。

ゴーガンという町を通り過ぎたあたりで、急に、ぼくの腹が痛くなってきた。一時間程、がまんしていれば、バスは止まるだろうと思っていたら、それが、ぜんぜん、止まる気配すらない。

だんだん、顔に、青すじがたってきた。下痢をがまんするほど、苦しいものはない。ちょっとした振動のはずみでも、もらしてしまうことがあるというのに、ましてや、走っているバスの中では、なおさらだ。

しかたなしに、腰を浮かして、両腕に力を入れるようにして、からだ全体に力を入れた。

この時、団長もムッシュも、ボンボンも、人のことだと思って、ちっとも協力してくれない。ちょうどいい、などと云って、逆にからかったりする。

それでも、三時間程、がまんしたであろうか。

意識がだんだん、遠くなり、まわりのことが、もうろうとしてきた、人間のがまんできる限界などはるかに通り過ぎた状態でいた時、バスは止まった。ぼくは、バスがまだ、完全に停車しないうちに、うしろのドアを開けて、ドライブインのトイレにかけ込んだ。ちょうど、夕食の時刻らしく、ぼくがスッキリした気持ちでトイレから出て来ると三人は、うまそうにシシカバブにありついていた。

「おまえの分も、注文しといたけど……。」と団長が云うのを、ぼくは、「三人で、勝手に、食べてくれ。」

と食べずに、がまんすることにした。ここで食べて、また、下痢をして、バスの中で苦しい思いをするよりは、メシェッドまで、すきっ腹でとおした方がずっといい、と思ったからである。

ぼくは、何か、他のことでもして、食事から、気をそらそうとした。それで、ショルダーバッグから、地図を取り出して、いまいるドライブインの位置でも調べようと思った。

ドライブインは、ゴンバディカバスという町はずれにあった。地図には、その他、この町はずれに、その音、紀元前に、アレキサンダー大王が、シルクロードを遠征したときに作ったと云われる〝長城〟が示されていた。

それで、あたり一体を見廻すと、もう囲りはうす暗く、〝長城〟らしきものは、どこにも見当らなかった。

バスは、その夜、遅くまでモクモクと走り続けた。十一時近くなっても、バスは、全々、止まる様子はなく、囲りを見廻しても、ただの真暗闇で、灯一つ見えなかった。

そのうちに、団長とムッシュが、そろって腹痛を訴え始めた。どうやら、さっきのシシ カバブが当ったらしい。

十二時頃になって、やっと遠くに、町の灯りらしいものが見えた。

「やっと、メシェッドに着いたか。」

と団長とムッシュが、ホッとするのもつかの間、それは、ボジナードと云う町で、地図をみると、メシェッドまでは、まだ、かなりの距離を残していた。

二人ともがっかりして、いまにも、泣きそうな顔をした。そんな時、ぼくは、さっきや

られたしかえしに、

「男だったら、がんばれよ。ほら、下腹に、グッと力を入れて、こらえるんだ。何にしろ、オレなんか、四時間もがまんしたのだから、まあだ、二時間や、三時間は、軽い、軽い。」と、そう、けしかけた。

バスは、暗闇の砂漠の中を、全力疾走で走っていった。


街の中心は、イマム・レザー霊廟だった


メシェッドのバスターミナルに着いたときは、もう、午前三時を、とっくに過ぎていた。バスは、テヘランから乗りっぱなしの二十時間、千四百十一キロメートルを、一気に、走ったのである。

バスを降りると、外は、寒い。ぼくは、さっそく、セーターの上に、イスタンブールで買った毛皮のチョッキを着た。

我々の姿をみると、さっそく、タクシーの客引きがあつまってきた。その中に一人だけ強引な客引きがおり、そのタクシーに乗せられて、テヘラン通り(どういうわけかメシェッドなのに、テヘラン通りという)の小さなホテルに連れていかれた。

ところがこのホテル、いつもこのタクシーの運ちゃんと専属契約を結んでいるらしいのだが、あいにく、満員だった。しかたがないので、そこでタクシーを降りると、ホテルを捜しながら、町の中心の方にむかって歩き出した。

メシェッドの町は、モスクを中心にして、放射状に道路が出来ていた。我々が、さっき、ついたバスターミナルというのは、町の南東のはずれにあり、いま、タクシーの運ちゃんが連れてきたテヘラン通りというのは、この放射状にのびた通りの基本の通りになっていた。

我々は、そのテヘラン通りと、モスクをとりまいている通りとがぶつかるところまで歩いていった。

ちょうどその交叉点のところで、ミルク屋が、温かいヤギのミルクを売っていた。我々は、その場に荷物をほうり出して、このあたたかいミルクをすすった。腹の底に、ジーと熱いものが降りていく感じは、こたえられなかった。

その交叉点で、一休みしてから、その場に、ボンボンとムッシュを荷物番に残して、ぼくは左廻りに、団長は右廻りに、それぞれ、ホテルを捜しに出かけた。

このモスク、名称をイマム・レザー霊廟といい、イスラム教のシーア派の聖廟であった。ぼくは、霊廟に沿って、二、三ホテルをあたってみたところが、どこも満員だとこと

わられてしまった。ぼくは、少しがっかりしながら、この霊廟の正面入口の前まできた時、

変なうす汚いチャドリ(頭からすっぽりかぶる、中近東独特の女性用マント)をかぶった

老婆に出っくわした。ぼくは、そのまま、その老婆とすれちがうと、その老婆は、妙な低い笑い声をあげて、ぼくのうしろをつけてきた。ぼくは、うす気味わるくなって、逃げるように、目の前のホテルに飛び込んだ。

フロントは二階だった。階段をあがって、フロントのところで寝ていた男をゆりおこして、尋ねると、やはり、満員だとことらわれた。さっきからいままで、尋ね歩いたホテルだけでも十軒は越していた。それが、全部、満員とは普通ではない。ぼくは、そんなことを考えながら、階段を降りていくと、目の前に黒い衣みたいなものが立ちはだかった。ぼくは、 一瞬、ギクッとして、階段を一段、踏みはずした。

「ウフフフフフフ……」

と云って、その衣が振りむくと、まぎれもなく、さっきの老婆だった。

「ギャァー」

ぼくは、驚いて、その老婆を突き飛ばすようにして逃げ出した。ホテルの外に出て、振り向くと、老婆がうしろから追いかけてくる。

ぼくは、もうただ、恐しくなって、一日散にムッシュやボンボンのいるところまで、走っていった。

二人のところにもどると、団長ももどって来ていた。どうやら、団長も駄日だったらしい。時計を見ると、ちょうど五時である。

それで、夜が明けるまで待とうと云うことになった。

六時頃になって腹がすいてきた。

その時、少しまえに、フラフラと出かけていったボンボンが、朝早くから開いているレストランを見つけてきた。我々はさっそく、荷物を持つと、そのレストランに移動していった。

ドヤドヤと中に入っていって、レストランのおやじに、何か出来るか、ときくと、まだ早いので何も作っていないと云う。ライスはあるか、と云うと、ライスはあるらしい。ライスだけではしかたがないので、レストランの内部をグルッーと、見廻すと、奥のテーブルのところに、卵が山積みにされていた。団長が、その山荷みされた卵を指さして、あれで何か作ってくれ、と命じると、しばらくして、オムライスが出てきた。我々は、もう、空腹が限界までたっしていたので、出されるやいなや、それにパクついた。食べてみると、内に、チーズがはいっていて、なかなかうまい。ボンボンが、

「おやじ、なかなかいいぞ!」なんて、お世辞まで云いだした。

食事のあと、お茶などを飲みながら、八時頃まで、このレストランでねばっていた。

八時になると、レストランのまわりが急に、にぎやかになり、レストランにも、人がたくさんはいってくるようになって、我々は、やむをえず、外に追い出される運命になった。

外に出ると、我々は、驚いた。霊廟をとりまいている道は、人、人、人でいっぱいなのだ。

どうやら、まわりの様子から見て、今日はお祭りらしい――。

レストランの前の歩道で、これからどうしようか、などと云いながら、しばらく立っていると、我々のまわりに人があつまりだした。

それが、ものの十分ともたたないうちに、身動きが出来ないくらいの人がきになってしまった。我々が悲鳴をあげると、ちょうどそこに、見廻りの警官が通りかかり、その人がきを整理してくれた。それでも、我々が移動すると、またその人がきは、我々について移動してきた。よっぽど、我々がめずらしかったのであろうか、その人がきの中で、しきりに我々の方を指さして、ささやく声が聞こえた。


メシェッド小学校の先生は、ホモだった


霊廟のまわりをいったりきたりして、ホテルを捜してみたものの、やはり、どこも満員だった。我々四人は、ホトホトに困り果ててしまい、ボンボンなどは、道ばたに座り込む始末だ。

その時である。一人の小がらな男が英語で話しかけてきたのだ。我々はワラでもつかみたい心境だったので、さっそく、この男にいままでの状況を話した。

すると、この男は、笑いながら、

「貴方がたは運が悪いんですよ。今日はシーア派の年に一度の巡礼の日で、たくさんの人が、この霊廟におまいりにきているのです。それで、この霊廟のまわりのホテルが、どこにいっても満員なのですよ。」と説明した。

「とは、云っても、気の毒だから、私が一諸に捜してあげましょう。」

男は、親切に申しでて、ぼくを指さして、ついてくるように合図した。

それで、ぼくは、他の三人をそこに残してこの男のあとについていった。

歩きながら話をすると、どうやらこの男は、メシェッド小学校の先生らしい。

「今日は、小学校は休みか。」ときくと、「お祭りだから休みだ。」と答えた。

ぼくはその時、ついでだから、この先生にアフガニスタン領事館の場所も間いておこうと思って、

「アフガニスタン領事館のある場所を知らないか。」と尋ねると、

「それなら、先にそっちに行こう。」と云って、タクシーを止めた。

ところがこの先生、タクシーに乗り込む時に、いきなり、僕の手を握った。ぼくは、その時は、親切に手を引いてくれるのだな、と思って、別に気にもしなかったのだけれど、これがとんだわけになった。

タクシーに乗り込んでも、この先生は、ぼくの手をギューッと握りしめたまま、離そうとしないのである。そうするうちに、今度は僕の方にからだをすり寄せてきて、もう片方の手で、ぼくの背中や肩や耳のあたりを順番にさわり始めた。

ぼくは、これはホモだな、と直観したのだが、されるままに、ジッとがまんしていた。もしここで、逃げだしたならば、我々四人はホテルも、アフガニスタン領事館の住所もわからずに、とほうに暮れてしまうだろうと考えたからである。

〝ぼく一人ががまんをすれば、他の三人を路頭に迷わすようなことにはならない〟

などと犠牲的精神を発揮したものの、やっぱり、あまり気持ちのいいものではなかった。もっとも、ぼくは、これまで、まったくホモの災難に会ったことがなかったわけではなかった。ぼくは、ヨーロッパで二人、北アフリカで一人、合計三人のホモに会っていた。

一番始めに、ホモに会ったのはスイスだった。ぼくがジュネーブのレマン湖のほとりで夕暮れを楽しんでいた時、四十ぐらいの恰福のいい男が話しかけてきた。非常にやさしい

親切な男で(だいたい、ホモというのはそうであるが)ぼくをドライブに誘ってくれて、湖畔の可愛いらしいレストランで、夕食をごちそうしてくれた。そして、

「今晩は、私の家に来て、泊っていきなさい。妻もたいへんよろこぶから……。」と僕を自分の家にさそったのだ。

何にしろびんぼう旅行者というのは、めしとねぐらにたいへんよわいものだ。

ぼくは、よろこんで、彼の家にノコノコついていったのだった。

彼の家は、ジュネーブ市から北にあがった山の手の高台の上にあった。山小屋風のちょっと酒落た家の中に入ると、彼は、私を、彼の寝室兼居間に連れていき、サイドボードからウィスキーを取り出して、ぼくにすすめた。ぼくもどちらかと云うと、酒はきらいな方ではなく、スコッチの上等な品ものだったので、遠慮しないで、グイグイ飲んだ。

そのうちに、ぼくに酔いが廻ってくるころを見はからって、

「君は、私が好きか。」と云った。

ぼくも、あまり親切にしてくれるので、軽い気持ちで、

「私も貴方に好意を持っています。」

と答えると、彼は、有頂点になって、よろこび、

「君は、ぼくの天使だ。」などと云いだした。

おかしな表現をするものだな、と思いながら、彼に歩調をあわせていると、彼は、いきなり、ぼくに抱きついてきた。そして、ぼくの唇に、彼の唇を、むりやり押しつけようとしたのだ。ぼくは、一瞬、自分が女になってしまったのだろうかと、自分の目をうたぐった。

もっとも、家にはいってきたときから、様子がおかしいとは思っていた。第一、妻がいると云いながら、どこにもいる気配はないし、気にいったら、何日いてもいいなどと、どんな親切な男でも、初対面の人間にむかって云うはずがない。

ぼくは、彼を突き飛ばすと、すばやく、ドアの方に逃げた。すると、彼はまるで信じられない、というような顔つきをして、こう云つた。

「いま、君は、私を好きだと云ったではないか。」

「ぼくは、貴方が親切にしてくれるから、ただ、好意を持っていると云っただけで、別にそういうつもりで云ったわけではない。第一、ぼくは、そういう気は、まったくありませんよ。」

と、ぼくは強く突ぱねた。すると、彼は、

「それはたいへん残念なことだ。しかし、私は君を気にいってしまったのだ。君の黒い瞳、君のうすい唇、君のその少しウェーブのかかった黒髪、私は、君のすべてにしびれてしまったのだ。私は、君をレマン湖のほとりで見かけたときに、 一ぺんで、君が好きになって

しまったのだ。」

とまるで、男が女をくどくときのように、こう云うのだった。

たいへんな、一目ぼれである。でも、これでは、まるっきり、ぼくは女ではないか。

彼は、なおも、しつこくせまってきた。ぼくはまえよりも強く、彼を拒否した。

その時、彼は、

「どうしても駄目なのかい。君の欲しいものなら、なんでもあげるのに……。」と悲しそうな顔をした。

ぼくは、以外とセンチメンタリストなのである。特に、こういう悲しそうな目をされるとこまってしまうのだ。もし、この時、ぼくが、本当に女であったならば、ぼくには、この彼の申し込みを拒絶することはできなかったであろう。彼は、そのくらい演技がうまかったのである。

僕は、 9

「いやです]

とはっきり云い、

「帰ります。」

と云って、ドアをあけた。

すると、彼はもうあきらめたらしく、

「今晩は遅いし、もう何もしないから、泊っていきなさい。」とやさしく云った。

しかし、ぼくは、こういうことのあとだけに泊る気にもなれず、

「けっこうです」

と云って、夜の町の中に飛び出していった。

これが、ぼくの始めてのホモ経験だった。

いま思うと、彼は、立派な紳士だったと思う。彼は、ぼくが承知するまでは(もっとも、このときは、彼が感ちがいしたのだけれど)決して、手を出さなかったのだから……。

それに比べると、二番目に会ったモロッコのホモは、ひどいもんだった。ぼくがモロッコのタンジールという海岸で、海水浴をしている時のことだった。この時は、わがまるこぽーろ旅行団の森本団長と一諸だったのだけれども、ぼくが海岸で泳いでいて、浜辺にいる森本団長のところにかえろうとして、砂浜にあがると、一人の毛むじゃらの大男が近づいてきて、ぼくに「グッドボーイ!」などと、云いながら、いきなり、ぼくの局所を、大きな手で握りしめたのである。

ぼくは、あまりの急な出来事に、声をあげることも出来ず、しばらく、金しばりにでもあったように、手も足も動かせなかった。その間に、すぐそばにいる森本団長の方をみると、彼はニヤニヤ笑っているだけで助けようともしないでいる。とんでもない奴だ。親友が痴漢に襲われているのに何んの手助けもしないなんて。(あとで彼にどうして助けてくれなかったのかと問いただすと、彼もあまりの不意の出来事なので、どうしていいかわから

らなかった、とのことだ)

ぼくは、やっと我にかえると、その毛むじゃらの大男の腕をおもいっきりひっぱたいて、一目散に海の中に逃げ込んだ。

三番目のホモは、始めのホモ氏とよく似ており、やはり、親切だった。ぼくがスペインのおみやげに持ちかえった水筒と黒のベレー帽は、この男に買ってもらったものだ。この男は、あとで、この男の家に遊びに行くと、住所だけきいて、そのまま、遊びに行かなかったのだけれども………。

話をメシェッドにもどそう。

ぼくは、このようにホモにたいしては、ある程度のメンエキを持っていた。ところがこのメシェッド小学校の先生は、少しちがっていた。それは、どうちがうかというと、ぼくがいままで接してきたホモはいずれも男型のホモだった。すなわち、ぼくを女として口説こうとしてきたのだ。しかし、この小学校の先生は、あきらかに女型だった。

タクシーの中で、あの手、この手とねちねちくどくのだ。ぼくがその片手をときどき、ビシッとひっぱたいてやると、

「あらっ」

と少しテレるようにして、また、さわる。

ぼくは、この手のおかまが一番、きらいなのだ。なぜかと云えば、それには、いやな思い出があるからだ。

それは、ぼくが高校の時、ぼくの家のちかくに、三十をちょっと過ぎたぐらいのおかまが、住んでいた。そのおかまは、ぼくが高校からかえって来ると、イヤラシイ目つきで誘ったり、純情なぼくにエロ本やブルーフィルムなどを見せては、ぼくがおどろいてまっかな顔になるのをニヤニヤしながら見ていたりするのだ。

ところが或る日曜日、そのころ、ぼくはある女学生に夢中になっていたのだけれど、その彼女とデートをしているところに、このおかまがひょっこりあらわれて、

「あら、哲ちゃん、しばらく遊びにこないと思ったら、こんなところでおデートなんてしてるのね。にくたらしい人!」

なんて云って、せっかくのデートをぶちこわしてしまったのだ。その時以来、ぼくは、すっかり彼女にきらわれてしまい、ぼくの初恋も、このおかま野郎のおかげで、はかなくやぶれてしまったのだ。

それ以来、ぼくは、おかまを見るとヘドが出るくらいの、にくしみをこめたまなこで見つめてやることにしているのだ。

タクシーが停って、ぼくが先に降りると、そこはメシェッドのバスターミナルだった。

先生は、このバスターミナルのほぼ中央にある、小さなバス会社にぼくを連れていった。

どうやら先生は、ぼくの云ったことを聞きまちがえたらしく、アフガニスタン領事館ではなくて、アフガニスタン行のバス会社にぼくを連れてきたのだ。どっちみち、アフガニスタンに行くときには、バス会社を見つけなければならないのだから、その手間がはぶけたようなものだと、そのバス会社で、アフガニスタンまでのバスの値段や、出発の時刻などをくわしく聞いて、それを手帳にキチンとメモした。そして、そのあと、もう一度、は

っきりと、

「アフガニスタン領事館に連れていってくれ。」と頼んだ。

先生は、今度は、わかったらしく、また、タクシーに乗って、街の西の方へむかった。メシェッドのタクシーは(メシェッドとはかぎらず中近東はだいたいそうであるが)お

もしろい。行先によって、同じ方向なら、手をあげれば、タクシーの定員までは乗せてくれる、つまり乗り合いタクシーである。料金は一人五リアルで、町のすみからすみまで、乗ることが出来る。市内バスが三リアルであるから、結構、タクシーを利用するものも多かった。

アフガニスタン領事館は、ナシャリスイー通りをちょっと東にはいったところにあった。受付にいくと閉まっている。受付時間をみると八時から九時の間で、時計を見る。と、もう十時を過ぎていた。

まあ、場所だけでもわかればいいと思って帰ろうとすると、大使館のはす向いに、英語で、アメリカンスナックとかいてあるカフェがあった。ちょうど喉も乾いていたところだったので、先生を連れて中にはいると、そこは、メシェッドにはめずらしくイギリススタイルのスタンドカフェで、アメリカ人らしい老夫婦が経営していた。

多分、アフガニスタン領事館にビザを取りに来るヨーロッパ人を目当てに始めたのであろう。サンドウィッチや、ヨーロッパ製のカンヅメなどがたくさん置いてあった。

コーヒーを注文すると、やはり、ヨーロッパスタイルのミルクコーヒーで、味もけっこういける。

ひさしぶりにうまいう―ヒーを飲んだものだ、といくらかいい気持ちになって、またもとの霊廟のところへ引き返えした。

彼にひきつれられて、霊廟のまわりのホテルを十五、六軒ぐらいあたって、やっとお昼近くなって、テヘラン通りを五〇〇メートルぐらい南に下ったところのパキスタン人経営のホテルに泊れることになった。

三人のいるところにもどったのは、お昼をちょっと過ぎたころで、団長は、ぼくの顔を

見るなり、カンカンの顔で、

「この馬鹿、いままで、どこを、ほっつき歩いていたのだ。」といきなり、どなった。

ムッシュは、もう飽きれてしまって、地面のところに、あぐらを組んでいて、ボンボンにいたっては、みんなの荷物の上に大の字になって、ひっくりかえっていた。

あいかわらず、まわりの人ごみはすごい。

それでも、ぼくがホテルをみつけたこと、アフガニスタン行のバスの事務所にいって、値段と時刻表を調べてきたことなどを報告すると、三人は、

「よくやってくれた。」

とすぐ気げんをなおしてくれた。

先生は、まだ、しつこく、手を離そうとしない。ぼくは、どうにかここで、この先生と手を切ろうと、ていねいにお礼を云って、別れようとした。ところが先生、ホテルまで送っていくと云う。

ホテルの前まできて、やっと、お引きとりを願うとき、先生は、前から目をつけていたらしく、ぼくの左手のくすり指にしてあった、例のイスタンブールのマジック・リングを

指さして、

「私と貴方との思い出のために、その指輪を下さらない。」などと云いだした。

ぼくは、やらないと、またあれこれうるさいと思って、それに、もうこの先生と一緒にいるのに耐えられなくなっていたので、素直に、これをプレゼントした。すると、彼は、

満面によろこびをたたえて、

「もし、私に会いたくなったら、いつでも、連絡してね。」と、ぼくにアドレスの書いてある紙片をおいて帰っていった。

〝おまえなんか、二度と会いたくないよ。〟

ぼくは、彼の姿がみえなくなるのを見はからって、その紙片を破り捨てた。

彼にずっと握られどおしだった左の手のひらは、ビッショリと油汗をかいていた。ぼくは、ホテルにはいるなり、洗面所で、まんべんなくその左手の汗を洗い流した。

その時、団長がうしろからはいってきて、

「それにしても、おまえは、よく、ホモに好かれる男やなあ。」

と意地悪げに笑いながら、そういった。団長は、ぼくがヨーロッパでホモに襲れそうになったのを知っていたのである。

部屋は、二階の左端で、テヘラン通りに面していた。ベッドはシングルが二つしかなく、下はペルシャ絨毯がひかれていた。それで、ムッシュがトランプを取り出して、カードの大きいのをひいた順から、ベッドに寝ることになった。結局、ぼくと団長が負けて、シュラフ(寝袋)をひいて絨毯の上に寝た。

昨日から、ずっと徹夜だったせいか、我々四人は、すぐに眠ってしまい、目をさました時は、もう外は、真暗だった。腹が減ったのでちょうど、ホテルの真ん前にあるくだもの屋にいって、メロンをたくさん買い込んできた。わがまるこぽ―ろ旅行団が最も尊敬する元祖マルコポーロも東方見聞録の中で、イランのメロンのうまいことをほめていたが、さすがにうまい。それに、第一、値段がばかみたいに安い。日本で、一個、八百円も千円も

するものが、たったの十二、三円だ。もっとも、ホテル代が、一日百二、三十円だから、イラン人にとっては、さほど安いものではないかも知れないが、それにしても、旅行をしている人にとっては、たしかに安い。ところが人間というものは、おもしろいもので、まして、我々みたいに長い間、世界中を旅行してあるいていると、その国にはいると、その国の物価に順応してしまう。その典型的な例が、このメロン買いである。日本のお金に換算すると、一円か、二円のねだんのちがいであるが、その一円や二円を値切るために、三十分も一時間も時間をかけるのだ。一つのくだもの屋で、どうしても負からないときは、別のくだもの屋にいく。そこでも負からないときは、もう、意地になっても、また、他のくだもの屋にいく。やっと一円を負かすことに成功すると、我々はよろこんで十個も二十個も食べられない分まで買い込んでしまう。そして、残してもしかたがないと云って、そのメロンの真中のいちばんあまいところだけを食べて、まわりの部分はそのまま捨ててしまう。日本でそんなことをしたら勘当もんだ。イランでしかできない高価なお遊びである。

夕闇、コーラン(経典)でも読んでいるのか、霊廟の中から、グワーンという声が重々しく、町中に響きわたっていた。


お食事のあとは、水たばこを吸うべし


翌朝8時に起きて、アフガニスタン領事館にビザをとりにいった。おそろしくリッパなヒゲをはやしたおっちゃんが、でてくると、二・三の質問をしただけで、すぐに、二週間のトランジェットビザ(通過ビザ)をくれた。そのあと、例の大使館のはす前のスナックで、サンドウィッチとコーヒーという簡単な朝食をとった。

いったん、ホテルにもどったあと、今度は、霊廟の近くのバザールに遊びに行くことになった。このバザールは貴金属が以外と安い。トルコ石は、本当はここが本場なのである。

その他、 ペルシャ絨毯がただみたいな値段で売られていた。また、ここの貴金属店は両替商も兼ねていたのだ。

バザールを出て、メシュッドにきた時始めてはいった、レストランにはいった。昨日と同じオムレツをたのむと、手廻しがいいのか、すぐにオムレツが出てきた。

我々が食事をしているとき、隣りのテーブルに三人のイラン人がはいってきた。おやじに一言、二言、何か云うと、おやじは、そのテーブルの上にフラスコのお化けみたいなものを持っていった。そのフラスコの口からは、二本の棒が出ていて、片方は、その棒の上

に小皿がついており、その中に大きなスミが二つ程乗っていた。もう片方の棒は、そこから、コイル入りのガスホースみたいなものが出ており、その先に、金ピカ細工のほどこしてある喫口がついていた。これがいわゆる中近東珍品の一つ、水パイプであった。

これを、二人は、つぎつぎに廻し飲みにしていた。

我々四人は、最初、ものめずらしそうに、その水パイプをながめていたのだけれども、

そのうち、ボンボンが、

「おもしろそうだから、喫ってみないか。」と提案し、それじゃあ、一ちょう、やってみるか、ということになって、さっそく、おやじに水パイプを持ってこさせた。

フラスコのビンは、だいたい高さが五十センチぐらいあって、煙草は、スミの下にはいっていた。まず最初に、めずらしいものならすぐに飛びつくボンボンが、吸口におそるおそる口をつけた。

「どうや、味は。」

「なんや、わからへんな。ちょっと、喫ったぐらいでは……。」

「もっと、強く喫ってみ。」

「そうか。」

ボンボンは、ぼくにけしかけられて、おもいっきり、息を吸うと、水まで吸い込んでしまったらしく、

「ゲホン」といって水をはきだした。「あほ′おまえが変なことをいうさかい、水を飲んでしまったやないか。」

「おまえが鈍感なんだよ。ほら、こっちにかしてみろ。」

ぼくは、ボンボンから、吸口を取り返すと静かに息を吸いこんだ。

息を少し吸うと、フラスコの水が、ボコボコと云う。確かに、ボンボンが云った通り、少し吸ったぐらいでは、全々、味はわからない。それでといって、だんだん息を強くしていくと、やっばり、水を飲んでしまった。

「やっぱり、むずかしいや。」

「どれどれ、オレにもやらせてみろ。」

団長とムッシュが乗り出してきて、同じようにやってみたが、やはり、うまくいかなかった。四苦八苦のすえ、何んとか、息の調整ができるまでには、四人とも、かなり、息切れをおこしていた。

この水パイプ、以外と喫うのに肺活力が必要なのである。思いっきりすう、ちょっと手前の呼吸で喫うとちょうど、うまくいくからだ。夢中になって喫っていると、喉が痛くなってきた。あまり、強く吸い込むので、煙が、直接、喉の方にいってしまうためだ。すると、おやじは、我々のそんな醜態に同情したのか、お茶をサービスしてくれた。

〝喫茶店〟という言葉は、日本よりも、イランの方がピッタリなのかも知れない。


イラン風呂屋のマッサージは命がけ


メシェッドには四日いた。明日、アフガニスタンに向うという最後の晩、我々四人は、ひさしぶりに風呂にいった。

というのは、昼間、アフガニスタン行きのバス会社に行って、切符を買った帰り道、偶然に、風呂屋をみつけたのである。フロ屋まで、少し遠いので、タクシーで行くことにした。

ヨーロッパでは、バスに乗るのもおしくて、歩いた程なのに、中近東では、フロ屋に行くのにもタクシーに乗っていく、とは、我々も、ずいぶん、出世したものである。

ところが、タクシーに乗って、

「フロ屋に行け。」 l

と命じたところ、タクシーは、我々が行こうとしている風呂屋とは、まるっきり反対の

霊廟の方へ行ってしまったのである。我々は、あわてて、フロ屋に行け、と何回も云うのだけれど、タクシーの運ちゃんは、承知したとうなずくだけで、そのまま、霊廟の回りを廻り始めた。タクシーは霊廟の回りを半分廻ったテヘラン通りとちょうど反対側の通りを五十メートルぐらい走って、止まった。

運ちゃんが、ここが風呂屋だ、と指さす方をみると、確かに、ちゃんと風呂屋と看板が出ていた。どうやら、メシェッドには、何軒もフロ屋があるらしい。

ここの風呂屋は、我々が昼間、見つけた風呂屋よりは、ずっと規模が大きかった。

イランの風呂屋というのは日本の風呂屋とよく似ている。入口のところは、ちゃんと男と女にわかれているし、おまけにちゃんと、番台まである。ただ、日本の風呂屋とちがうところは、男湯と女湯の位置が逆なのと、女湯は、絶対にのぞけないようになっているという点であった。ところでこの風呂屋、なかなか、設備も、デラックスであった。まず、番台のすぐわきが更衣室になっており、そのとなりに浴漕とシャワー室があり、その奥が保温室(ヒータ ―などがないかわりに床があつくなっている)になっており、ここではマッサージをやっていた。浴漕も、大衆浴漕と個室浴漕とにわかれており、我々は、四人一諸だったので、大衆浴漕にはいった。

ところがここで、一つだけ困ったことがおきた。他の三人は、ちゃんとタオルを持って

きていたのだけれど、ぼく一人だけが、タオルを忘れてきたのである。しかたがないから、からだを洗うときは、ボンボンにでもタオルをかりようと、フリチンで浴漕にはいろうとしたら、先にはいっていた二人のイラン人がものすごい見幕で怒るのだ。ぼくは、最初、何を怒っているのかわからないでいたら、一人のイラン人が顔をそむけるようにして、ぼくの局所の部分を指さして、何かで隠せと云っているのだ。

何かで隠せ、といっても隠すものがないんだから、隠しようがない。

しかたがないので、両手で押さえるようにして、はいることにした。これは、他の三人

が大笑い。ぼくも、自分の恰好があまりにもおかしいので、思わず吹きだしてしまったら、二人のイラン人は、ものすごい顔でぼくをにらみつけた。どうやら、イランという国、隠すのは、女の顔だけかと思ったら、男の大事なところも、外ではもちろん、風呂屋でも、ちゃんと隠さなければいけないらしい。

ひさしぶりの風呂でさっぱりして、保温室に行くと、たのみもしないのに、まってましたとばかり、マッサージ師がやってきて、フリチンの僕を最初につかまえた。

まあ、それも、イランの可愛い子ちゃんがからだを揉んでくれるというのなら、少し多いくらいの金をだしてもおしくないのだけれど、このマッサージ師、からだの大きいプロレスラーみたいな男なのだ。その男が、大きいゴツゴツした手で、力まかせに揉むのだか

ら、どうしようもない。〝痛い〟などと悲鳴をあげるもんなら、ますます調子にのって、力をいれる。そのうちに、はがいじめ、キーロック、コプラツイスト、などプロレスのわざみたいなものが飛びだしてきて、最後に首に空手チョップをうけた時には、さすがのタフネスぼくも、ノックアウトを喫してしまった。

第一ラウンドが終ったところで、このマツサージ師から逃げるのには、お金を払うことしかないと悟り、五リアルの金を払って、やっと、試合終了。

すると、このマッサージ師は、今度は、対戦相手をボンボンにきめたらしく、ボンボンの方に向っていった。あわてたのはボンボンだ。二・三分前に、あまりにも、一方的な試合をまのあたりに見ているので、つかまってはたいへんと、保温室の中狭しと逃げまわった。

フロ屋を出ると、メシェッドの街は、いくらか風が出てきていた。我々は、この風を快よく感じながら、モスクの回りを歩いた。途中、あいている店で、魚のカンズメや、メロン、ザクロ、パンなどを買い込んだ。これは、明日の国境越え用の食料であった。


国境は昼休み


国境行のバスがメシェッドのバスターミナルを出発したのは朝の七時だった。

メシェッドを出るとすぐまわりは砂漠になった。ところどころ乳房の型をとったような屋根の家が見える。イランもここまでくると、土の家が多くなった。

九時頃、左手遠くに、大きな湖が見え始めた。なんという湖だろう、と思って地図を広げてみたら、そんな湖は、地図のどこにも見あたらない。

その時、団長が突然、大声で云った。

「あれが有名な蜃気楼や。あんな、大きな蜃気楼なんて始めてみたわ。」

そういえば、バスがいくら走っも、その湖は地平線のところで、水面がかがやいているだけで、ちっとも近づいてこない。外気はもう四十度を越したであろうか。夜は、毛皮を着なければいられないくらいなのに、昼間になると、もう上半身は素裸かだった。バスのまわりの景色がかげろうのように、ゆらゆらとゆがんで見えた。

十一時過ぎに、タイパットに着く。ここで、一且荷物を降ろして、ベンツのミニバスに乗り変えた。

タイバットというのは、イランとアフガニスタンとの国境に最も近い町で、ここに税関が置かれていた。乗り変えたばかりのミニバスは、この税関のある建物の前に横づけされ、運転手が、我々四人のパスポートを持って、建物の中へはいっていった。

このタイバットの税関は、我々、中近東旅行者にとって、最も注意すべき税関なのである。我々は、この建物にはいるとき、一瞬、緊張の念を隠しきれなかった。なぜかというと、我々はギリシアで、中近東をインドから上ってきた日本人旅行者にここの税関は気をつけろよ、とおどかされていたからである。

その日本人旅行者は、ここの税関で、大量の麻薬を持ち歩いていたデンマーク人のヒッピーグループが、全員射殺されたのをまのあたりに見てきていたからである。

我々は、もちろん麻薬などは持っていなかったし、ちょっと気になる品物といえば、デンマーク製のポルノ写真ぐらいであった。もしそれが発見されれば、それら全部を税関にあげてもいい、と思っていたのだが、それでも、一種の恐怖感は隠しきれなかった。しかし、実際は以外とあっけなかった。

一時間ぐらい待ったであろうか、バスの運転手がパスポートを持って帰ってくると、税関の役人がちょっとバスの中をのぞいたぐらいで、別に我々の荷物を調べることはなかった。でも、やはり、隣国の人間の取り調べはきびしく、この庭いっぱいに荷物の中身をぶちまけられた男もいた。

タイバットから、イラン国境までは一時間ぐらいだった。国境についたのは午後一後半、国境の事務所にいくと事務所は閉ざされていた。

運転手に聞くと、国境は午後一時から午後三時まで昼休みだ、という。我々はあきれてしまった。しかし、あきれてみたところで、国境は通れるわけではないから結局、「勝手にしろ。」とあきらめて、リックの中から、メシェッドで買った国境越え用の食料を取り出して、事務所のちょうど日陰になっている場所で食事にした。

食事が終わってしまうと、もう他にやることがない。その時、ボンボンが、事務所のうしろの方から、ダンボール箱をみつけてきたので、暇つぶしに、ブリッジを始めた。

「砂漠の中の国境でブリッジをやったのも俺達ぐらいだろう。」と変に得意になったりしていた。


センチメンタル国境イランの国境とアフガニスタンの国境の間は中立地帯になっていた。これは両国間の摩擦を少なくするのと、お互いの国を牽制する意味もあって、国と国との間に緩衝地帯を設けておくためだ。日本のような島国は、海がそのような緩衝地帯を兼ねているし、大きい河をはさんで国境をもうけている国々もある。しかし、このような完全な緩衝地帯としてもうけてある十四~五キロにわたる中立地帯を横断するのは、我々四人とも始めてだった。

ミニバスは、遮断機をくぐると、ちよつとした小高い丘を越えて、そのあとは、砂漠の中を地平線のかなたへどこまでも真すぐにのびている道路をばく進した。

ところがこのあと、とんでもないことが起こったのである。ミニバスは、五キロと行かないうちに砂漠の真中で突然、停車した。すると、運転手は、貴方達との約束は、ここま でだ、と云って勝手に、我々四人の荷物を降ろすと、あっというまにいま来た道をもどっていってしまった。

あわてたのは我々である。こんな何んにもないところで、おまけに砂漠だ。

我々は、さっき、イランの国境でみた軍隊の銃座を思った。もし何か、ことがおきたら、いっせいに撃ちだして来るであろう。そうしたら、たちまち、我々はイチコロだ。おまけに無法地帯、死体も絶対に見つからないだろう。

我々は恐しくなった。中近東にきて始めて、恐怖ということを知ったのである。

確かに、我々にも手落ちはあった。さっきのミニバスはイランの国境までという約束だったのである。

タイバットでミニバスにのりかえたとき、イランの国境まで行くのとアフガニスタンの国境まで行くのでは、料金が倍もちがった。我々は、てっきり、イランの国境とアフガニスタンの国境はくっついているものと思っていた。

実際、ヨーロッパの国境でも、その前に通過してきたトルコの国境とイランの国境でも同じ建物の中にあった。これは、ミニバスの運転手が我々四人をごまかしているのだなと思って、我々は、イラン国境までの料金しか、払わなかったのである。ところが、実際はイランの国境とアフガニスタンの国境の間には中立地帯があった。その中立地帯の真中に我々がいるということも事実だった。

イランの国境で出国手続をとってしまった以上、もうイラン国には帰れない。我々に残された道は前進しかない。アフガニスタンの国境まで歩かなければならないのだ。

我々は、しかたなしに重いリックを背追って歩きだした。

誰もしゃべろうとしない。しゃべるのがおしいのだ。何かしゃべるくらいならそれだけ歩いた方がましである。

この先、どのくらいの距離があるのだろうか。

道は真すぐで、日暮の地平線はうす暗くて何もみえなかった。

ぼくはこわかった。どうしょうもなくこわかった。それと同時にどうして、自分がこんなところまできたのかを悔いた。

こんな姿を日本にいる友達の誰が想像できるだろうか。

横浜まで送りにきてくれた友達の顔が一つ一つ目に浮かんだ。ヨーロッパに着いたら、おまえ達にも、ヨーロッパの女の子を箱詰にして送ってやる、と元気に飛びだしてきたときの顔ぶれだった。なつかしかった。そして、むしょうに日本に帰りたくなった。ぼくが日本を出た時は、アフリカはおろか、中近東に行く、などとは、夢にも思わなかった。ただ、ぼんやりと、ョーロッパを旅行すれば、それで満足だったのである。

ところが、ヨーロッパを放浪しているうちに、何か欠けているものがあるのに気がついた。

それは、太陽だった。

北欧の太陽は、あまりにもつめたく、見るにしのびなかった。

南欧の太陽は、まぶしいくらい明るかったけれど、何か物足りなかった。

ぼくは、もっとギラギラするような、熱くて、熱くて、耐えられないような、それでいて、ときどき、うしろから吹いてくる風が、たまらなく、心よいような太陽が欲しかった。

そして、その太陽が沈むとき、その太陽はもう、どうしょうもないくらい真紅で、町はずれの砂丘の上に、立てひぎをたてて座った自分の影が大地に長く尾をひくのを夢みた。

だから、スペインのバルセロナのユースホステルで、アフリカ帰りの青年に砂漠の話を聞いたとき、ぼくは、いてもたってもいられないような気持ちになった。ぼくはその青年の話に、カミュの「異邦人」の中で、ムルソーが正午の砂丘の上で、頭上からジリジリ照らす太陽に、眉毛にたまった汗が目に流れ、目が見えなくなり、あたりの静かすぎる熱い沈黙に耐えきれず、ピストルを引く、あの戦慄を思い浮かべ、「アラビアのローレンス」の中の長い夕陽の隊商の列を思った。

その時、ぼくのアフリカ行きがきまった。

モロッコのマラケシの日没は、熱く、長く、哀しかったし、アルジェリアのオランの砂浜は、白く、碧く、やさしかった。

朝焼けのカサブランカ行の汽車は、太陽が窓ガラスを、キラキラたたいて、まぶしかったし、夕焼けのアトラス山脈越えのバスは、鋭角の谷間に、バスの長い大きな影を黒いかげろうのように映しだしていた。

それは、苦しかったけれど、美しい力強い思い出だった。

ヨーロッパにもどって、また、へいたんな日々を暮すうちに、急にまた、あの時のような年活を再現したくなった。

そして、ぼくは、とるものもとらずに中近東に向ったのだった。

その時、ハッと我にかえって、ぼくは、自分の足もとの長い影を見た。振りかえると、 いま、まさに、日没の真紅の太陽が、西の地平線のかなたに沈もうとしているところだった。

〝そうだ。ぼくは、この太陽を見るために、わざわざ中近東くんだりまでやってきたのだ〟ぼくは、他の三人がどんどん、先にいってしまうのもかまわずに、しばらく果然と、そこに立ち止まっていた。

目から涙があふれてきた。それは、こわいとか、さびしいとかいうものではなかった。沈みゆく夕陽が、あまりにも、うれしかったからである。

すると、自然に、ぼくの口からアラーの神という言葉が洩れて、ぼくは、地平線のかなたを、祈るような眼で、じっと、見つめていた。


日本人びいきのアフガニスタン国境二時間程して、やっと、アフガニスタン国境にたどりついたときは、もうあたりは真暗闇だった。アフガニスタン国境は、道路をはさんで、向って左側が税関、右側が警察だった。

我々は、まず税関で、簡単な手続きをしたあと、警察の建物にはいった。しかし警察の建物の中にはいった瞬間、取り調べの警察官の、あまりの横暴さに、驚いた。

我々より先にきていたイラン人や、パキスタン人などは、まるで犬や猫のように、乱暴に部屋の片すみの方に押しやられて、係官はパスポートをチラッと見ただけで、床にポンと投げ捨ててしまう。

彼らは、どうしていいのかわからず、おろおろしていた。

すると、その中の一人がパスポートにいくらかのお金を添えて差し出すと、係官は、ニャッと笑って、その金を自分の制服のポケットにねじ込んで、その男のパスポートに判を押した。それを見ていた他の男達も、次ぎ次ぎと、パスポートにお金を添えて、差し出し、判をもらった。ワイロがあたりまえのように通じる世界なのだ。

我々は、それをまのあたりに見ていたので、各自一ドル札を一枚ずつ用意して、その係官の前に立った。ところがこの係官、我々が日本人であることを知ると、急にやさしくなり、言葉使いもていねいになって、別にお金もうけとらずに静かにパスポートを見始めた。

そして、パスポートの検査をしている間に、タバコを吸えと出してくれたり、給仕に、お茶を持ってこさせて、振舞ったりした。

四人のパスポートを馬鹿ていねいに見て、我々のビザが、二週間のトランジェットビザだと知ると、

「こんな二週間ぐらいのビザで、アフガニスタンを見ることができますか。ここですぐ、

申請して、一ヶ月でも、二ヶ月でもいられるビザを取りなさい。」などという。

我々は、今晩中に、ヘラットに行きたいと思っていたので、出来るなら、手続きを早くすましたいと思っていた。ところがこの係官、我々四人を気にいったらしく、なかなか、離してくれない。

「カブールに着いたら申請する。」

と云ってようやく、解放してもらった時は六時をとっくに過ぎていた。

警察の建物を出ると、左側のさっきの税関の建物の前に、四・五台のジープが止まっていた。我々が近づいていくと、どうやら、外国人旅行者目あての、ジープらしい。

団長が、ヘラットまで行くか、と聞くと、このジープ組合の親方みたいな男が出てきて、

(この男だけが背広を着ていたのでそうみえた)一人、 一ドル出せば、行くと云う。一ドルは少し高いと思ったけれど、もうその時は、無法地帯を歩ってきて、クタクタに疲れていたので、涙をのんで、その男に一ドルづつ、四ドル支払った。

ジープは、うしろの荷台が向いあってベンチになっており、上に幌がかかってある旧型のフォードだった。

我々四人が乗り込むと、さっきの親方がやってきて、

「あと、二人程、乗せてもいいか。」ときいた。

我々は、てっきり、四人で借りきったものだと思っていたから、

「いやだ。」

とことわると、その親方は、そう云わずにたのむ、と強引に、二人のアフガン人らしいうす汚ない男たちを荷台のうしろの左の方に乗せてしまった。

ジープは、イスラムカラーを経て、ヘラットヘ向った。

途中、検問所があるらしく、ジープは何回か停車して、いちいち、チェックを受けた。

そのたびに、ジープのうしろの幌をあけて兵隊が銃を突きつけた。

ちょっとこわい感じである。

でも、十四・五才の助手みたいな少年がいて、その少年が、ジープが止まって、また走るたびに、わざわざ、ジープが少し走りだすのを待っていて、うしろから走ってきて飛び乗りをしていた。それだけかと思っていたら、ジープが走っているときに、うしろのあおりのところに足をひっかけておいて、両手をはなしたり、あおりのところに立って、幌の上に乗ったりした。我々がほめてやるとますます、図にのって、おかしな曲のりなども、ご披露した。

一度、ガタンと、ジープがバンクの上に乗りあげたとき、その少年は、ジープから落ちそうになり、団長が彼の腕をつかんでやると、少しテレていた。

「馬鹿!」


ヘラットの夜の女は、毛皮屋のかあちゃんだった


ジープは、夜のヘラット街道をメチヤクチャな運転で飛ばしていった。ベンチが板のせいか、ヘラットに着いた時には、尻がすごく痛かった。

ヘラット着、午後九時。

ジープが着いた地点から少し西に歩るくと毛皮屋、くだもの屋とあって、そのとなりにホテルがあった。ホテルの名は、アリアナホテルと云い、どうやら、ヘラットでは、一番上等なホテルらしい。値段をきくと、ベッドが三〇アフガニで、床が十二アフガニだった。

(一アフガニは約五円)

結局、ベットが二つある部屋にして、あとの二人は、床で寝ることにした。

部屋に行くまえに、お腹が空いていたので、このホテルのレストランで食事をした。

言葉がよく通じないので、ボンボンが調理室にいくと、若鳥のシチューがあると云う。

じやあ、それでいい、と その晩は、大枚二〇アフガニを払って、若鳥のシチューとライスを食べた。

食事のあと、部屋にいって、誰がベットで寝るかをブリッジできめることにした。三回トータルで勝負をきめ、また、ぼくと、今度はムッシュが負けた。

団長とぼくが、部屋で、荷物の整理をしている最中に、ムッシュとボンボンは、さっき、ホテルまできた途中にあった毛皮屋に、毛皮を見にいった。

それから、二〇分もたたないうちに、二人はあわてて帰ってきて、団長とぼくに耳よりな話を持ってきた。そのみみよりな話とは、女の話であった。ボンボンとムッシュがその毛皮屋で、毛皮を見ているときに、その毛皮屋のおやじから、一〇ドル出せば、女を一晩世話するという話をもちかけられたのだ。二人は、その時、そんなことは、予期してもいなかったので、団長とぼくのところに相談をしにきたのだ。「チャンスだ。女の顔が見られる。」

団長とぼくは、同時に同じことを云って、おたがいに、顔を見合わせた。

確かに、チャンスである。 H

もともと、アフガニスタンという国は、回教徒の国の中でも、最も、戒律のきびしい国で、この国で、酒と女は、まず、絶対不可能といってもいいくらいなのだ。

これまで、随分この国を旅行してきた人達の話を聞いたけれど、女を抱いたなどと云う話は、いっぺんたりときいたことはなかった。というよりも、女や子供の姿さえ、みたことがないというありさまなのである。

たまに、町かどで、女を見かけたとしても頭からすっぼり、チャドリという衣服をまとっていて、目の部分も、フェーシングの面より、もっとこまかい網の目のようなもので、隠されていて、ほとんど外からは、顔もみえないという状態であった。

この国、もっとも、首都のカブールなどは近代化の波に乗って、若い人達の間でも、チャドリを脱いで町に出る人も増えてきたようだが、いったん、カブールの郊外に出ると、まして、カブールからほど遠いヘラットなどでは、まずチャドリを脱ぐなどとは、考えられないことだった。

女や娘たちは、ほとんど、家から外に出るなどということはなく、たまに外出するときでも、家の裏の方から隠れるように出て、隠れるように入る生活だった。

団長の話によると、(団長は日本にいた時、シルクロードの研究をやっていたらしくなかなかくわしいのだが、ときどきあてにならないことも云う)これは、長い歴史的背景があるからだと云う。

〝アフガニスタンという国は、古くは、アレキサンダー大王、ジンギスカン、チムール王と、たくさんの民族が、入れ替り、立ら替り支配したところでありました。そして、戦争があるたびに、物は掠奪され、男は皆殺しに逢い、女は強姦され、すべて連れさらわれていきました。それがたび重なるうちに、人びとは、不安で、夜も寝むれないようになり、女達は、外に出なくなり、隠れて住むようになりました。〟本当か、嘘か、よくわからないが、団長はそう説明した。

そういえば、東洋のどこかの国でも、太平洋戦争に負けたとき、アメリカの兵隊がやってきて、女と見ると、片っぱしから姦して、連れさっていってしまうという噂が広まり、女たちは、髪を切り、男に化けたり、山奥に逃げ込んだりしたことがあったっけ―。

それに、アフガニスタンの女性は、一生、自分のだんなさん以外の男には、その素顔を見せることは、ないそうである。おまけに、そのだんなさんも、結婚式が終って、お床入りするまでは、お嫁さんがどんな顔をしているのか、わからないそうで、ブスの女たちにとっては、天国のような国だった。

そういえば、我々四人は、アフガニスタンにはいってから、まだ一度も、女の顔はもち ろん、姿さえ、見たことがなかったのである。

そこに降って湧いたような話だ。これを確かめないという手はない、というわけで、我々の中からだれか一人毛皮屋にいって、女を買ってくることになった。

当然、自羽の矢は、ボンボンにたてられたわけだが、どうしたわけだか、いつもなら、真先に飛びついてくるはずのボンボンが、以外と尻り込みしてしまって、話にならない。

それで、二番目に若くて、好きだということで、ぼくに、その役目が廻ってきた。ぼくだって、イヤだった。

第一、こんな、なにがなんだかわからないような国で、ノコノコ、女買いなどに行ったら、何をされるか、わかったものではない。

それに一〇ドルは高すぎる。イスタンブールだって、五ドルだったのだから、いくら、オールナイトだからといっても、こんな物価の安い国での一〇ドルは大金だ。

それで、ぼくが、

「それにしても、一〇ドルは高いよ。」

と話を逃げようとすると、団長が、

「いや、高くないよ。何にしろ、いままで、シルクロードの女と寝たなんて云う話など、聞いたことがないんだから、これは、ぜひ、体験すべきだよ。そのための費用だったら、一〇ドルだって安いくらいだよ。それに、イランでは、ボンボンが実験したのだから―」「あれが実験か。あんな可愛い女との実験なら、ぼくだってしたかったよ。ところが、こんどは、どんなのが出てくるのかわからないんだぜ。」

「いや、何ごとも、体験、々々。別にヘビが出てくるわけではないし――この体験は、我がまるこぼ―ろ旅行団の大切な資料にもなるのだから。」「そうだよ。ヘビを出すのは、おまえの方じゃないか。」とボンボンにからかわれて、少し気分が軽くなったとき、

「ようするに、これは、大切な実験なのだから、費用は、我々四人で分担しようじゃない

か。」

というムッシュの提案で、二ドル半なら悪くない、と、ぼくも急にその気になった。しかし、それでも、ぼく一人では少し不安なので、ボンボンを部屋に残して、団長とムッシュが付き添っていくことになった。

ぼくは、まるで、両親付き添いの小学校入学みたいな恰好で、好奇心と不安が入りまじった変な気持で、その毛皮屋に乗り込んでいった。

ところが、その夜の女とは、何にを隠そうこの毛皮屋のおやじのかあちゃんだったのである。

ここでふたたび、団長のお話。

〝むかし、むかし、この地方には、親しくなった旅人に、一夜の妻を貸す、というおもし ろい風習がありました。(注、この地方はあまり豊かな土地ではなく、旅人をもてなそうとしても、もてなすものがなかったので、てっとりばやい方法として、妻を貸したものと思われる。)

旅人は、おおいによろこび、故郷にかえると得意になって、このことを話しました。すると、それを聞いて、この地方に来る旅人が、多くなり、そのうちに、旅人の中にその一夜妻に、お礼だと云って、お金をあたえるものがあらわれました。妻を貸すことが、お金になるということを知ったこの地方の男たちは、さっそく、組合をつくり、妻を貸すときには、かならず、一定のお金を取ることになりましたとさ。チョン、チョン。〟


荒野の七人〝真昼のしゃがみションベンの巻〟


カンダハル行は、アフガン郵便バスというアフガニスタンでは一番大きいバス会社のバスだった。

なぜ、郵便バスと云うのかと云うと、このバス会社は、私営の郵便局も兼ねているからだ。

ヘラットを朝の七時に出た。

バスは、しばらく、両側にポプラ並本の続く中央通りを行き、並本が切れたところで、右に曲がって、一直線に、砂漠をばく進していた。町のはずれには、飛行場があった。もっとも、飛行場といっても、砂漠の何んにもない平地のところに、飛行機が降りてくるだけで、真中に、ポツンと、立っている小屋が、管制塔らしく、屋根の上に一個の吹き流しが、たなびいていた。

我々の乗ったバスが、ちょうど、飛行場のわきを通っているとき、南の空から、自い双発機が、ゆっくりと降りてきた。

カンダハルまで、いい道路が続いていた。これは、ソ連が援助して作った道路で、コンクリート道路だった。

アフガニスタンという国は、昔のナセル大統領の時のアラブ連合のように、アメリカとソ連の両方からの援助で成り立っている国である。実は、このあと、カンダハルからカブールに行く道路を通るのだが、こちらの道路は、アメリカの援助で作ったものである。もっとも、これらの道路は政治色が強く、いったん、この地方で何かが起きれば、ソ連の軍隊は、この道路を使って、侵略してくるし、アメリカは、この道路に軍用機を着陸させる手はずになっている。

中東の火薬庫と云われるゆえんは、この辺に原因があるのかも知れない。

ときどき、砂漠の中を、北へ移動する遊牧民に出っくわす。たくさんの羊をつれた、大集団であり、ところどころに、大きな黒いテントをはって、いくつもの群落を成していた。

ところで、この郵便バスは、ときどき変な時間に停車したりする。そのたびに、乗客はもちろんのこと運転手や助手まで降りてしまうのだ。

砂漠の中の何んにもないところで、バスが止まったとき、ぼくは、ションベンを我慢していたので、膀胱が破裂すんぜんだった。

乗客をかき分けるようにして、バスを降りて、回りを見廻すと、ちょうど右手に何かの史跡のあとみたいな、土塀が見える。

ぼくは、その土塀のところに走っていっておもいっきり、放水をした。

ところが、気持ち―い、とからだを、ブルルッと振って、うしろを振りむくと、何んとそこには、七人のアフガン人が立っているではないか。

彼らは、ゆっくり、ぼくに近ずいてきた。彼らの目線は、あきらかにぼくの局所の部分にそそがれていた。なぜかといぇば、ぼくは、まだ、ピストル(?)を抜いたままだったのだ。

少しづつ、ぼくが後ずさりする、それと同じ歩調で、彼らは前進した。

熱い重くるしい沈黙が流れた。

後ずさりしながら、気がつくと、ぼくは、もう背中を上塀にピッタリとつけていて、あとがない。彼らが、ぼくの前で、ピタッと、歩調を止めたとき、ぼくは、おもわず、両手で目をふさいだ。

〝やられる〟次の瞬間、彼達は、自分のピストルを出すと、土塀の前にしゃがみ込んで、土堀にむかって、放水をし始めた。

実は、この土塀、中近東式野外トイレだったのである。アラブ人は、一般に立ってションベンをしない。立ってするのは、日本人かヨーロッパ人である。ぼくは、一度、モロッコで、ションベンをしていたとき、たくさんの子供に取り囲まれて、まいったことがある。

彼らにとっては、立ってションベンをするなどということは、信じられないことだったのである。

少し汚ない話だが、ぼくは、こんな砂漠の中の水もないところで、(普通、中近東では、トイレのあと始末には、紙のかわりに水を使う)いったい、大きい方は、どうゆうふうにして処理するのか、少し興味を持った。

それで、彼らには、悪いのだが、バスの方に帰るふりをして、土堺のはしのところで、彼らの一人の行動をジーと見ていた。するとその男は、上のかたまりをヒョィと手でつかむと、それでおしりを拭いたのである。その仕草が、あまりにもおかしかったので、ぼくは、おもわず、吹きだしてしまった。

バスが、ときどき止まるのは、もちろん、トイレの為でもあったが、それが目的であったわけではなかった。本当の目的は、他にあったのだ。

このバス、実は、お祈りの時間に合わせてバスを停車させていたのである。

アフガニスタンは、回教の国である。それも、回教徒の国の中では、もっとも信仰の強い国であった。彼らは、日の出直前、日の出直後、真昼、日没直前、日没直後、計五回西 の空にむかって、膝まづき、うずくまるようにして、頭をたれて、静かにアラーの神に祈りをささげた。

我々無神論者でも、それは、何か、胸にジーンとくるものだ。それが、日没のセンチメンタルかどうかはわからないが、砂漠の自然の中での彼らのきびしい生活の合い間に行なわれるお祈りは、我々にとっては、感動そのものだった。

お昼頃、バスは、橋のたもとのドライブインの前で止まった。川には、まったく水はなく、ドライブインと云えば、聞こえはいいが本当は、ただの堀立て小屋の食堂だった。

かまどらしきものが外にある。そのドライブインの入り口のところで、おやじが注文をとっていた。シチューとライスを頼んで中にはいると、食堂は、男ばかりであった。

バスの中には、二、三組の女や子供連れの客もあったのだが、これは、以外だった。

すると、ちょうどムッシュが座ったうしろのところに黒いカーテンをした人口があり、店の者らしい男が、出入りしていた。

男が入って行くとき、チラッと中を覗くと、そこでは、女や子供たちが座ってかくれるようにして、食事をとっていた。

どうやら、この国は、食事をするときでも男と女は、別々らしい。レストランでのしのび逢いなどは、ここでは、遠い国のお話だった。

食事が終って、外に出ると、バスのところにブドウ売りが来ていた。ブドウ売りの袋の中をみると、大きい緑色のマスカットがあった。二アフガニ(十円)出すと、両手の中に持ちきれないくらいのブドウを入れてくれた。

ところがこのマスカット、ほこりだらけのブドウで、洗うこともできず、しかたなしにハンカチを取り出して一粒、一粒、ほこりを拭きとって食べた。それにしても、水がわりのブドウは、あまくてなつかしい味がした。


フランス人麻薬中毒患者突然、我々四人を襲う


カンダハルは、アフガニスタンでは、一番南にあり、パキスタンとの国境までは、一〇〇キロぐらいで、カラチに降りるのにも、一番近い位置にあった。

アフガニスタンという国は、国全体がほとんど山岳地帯で、ヘラットから、カブールに行くのには、途中に大きな山脈があるので、いったん南に迂回してから、ふたたび、北上しなければならなかった。その一番南に迂回した地点が、カンダハルだった。

カンダハルには、年後八時項着いた。

ちょうどバスの中に、カンダハルのホテルの息子が、乗っていて、泊るのなら、安くしておくから、オレのホテルに来い、と強引に、我々四人を引っばっていった。

ホテルの名前は、カイバルホテルといい、バスターミナルから、少し北にあがった王宮の門のそばにあった。一見、砦ふうな、それでいて、中にはいると、以外ときれいなホテルだった。ベットもちゃんと四つあり、宿泊料も二十アフガニと手頃だった。

いったん、部屋に荷物をおいて、食堂兼居間にでると、二人のフランス人がお茶を、飲んでいた。二人は、我々が食事をとっている間じゅう、ジーと我々の方を見つめていた。

一人の方は、あごヒゲをはやした中肉中背の普通の男だったが、もう一人の方は、骨と皮がくっつくくらい痩せほそっていて、目だけがギョロギョロしていた。

我々の食事が終った時、その痩せた方が我々のテーブルのところに近ずいてきて、何にやら、小さなビンをポケットから取りだすと、買わないかと勧めた。小ビンの文字は、フランス語で書いてあるので、意味がよくわからなかったけれど、団長が、直観で、それが麻薬であるのを見破って、そんなものは、我々には必要がないと断った。

どうやら、この痩せほそった男は、重症麻薬中毒患者で、団長の診断だと、廃人になるのも時間の問題らしかった。

我々が部屋にもどろうとすると、今度は、さっきのこのホテルの息子がやってきて、小さなカードを売りつけた。その小さなカードには、英語とドイツ語で、国際学生証と書いてあったが、まるっきりのインチキカードだった。

部屋にもどって、しばらく雑談などをしていて、さあ、寝よう、というとき、いきなり部屋の入口のドアが、勢いよく、開けられた。飛び込んで来たのは、さっきの痩せほそったフランス人で、手には、注射器を持っていた。そして、はいってくるなり、あたりを大きく見廻して、その注射器を持っている右手を高々とあげると、ドアのすぐ左端に寝ていたぼくめがけて迫ってきた。

口をカァーと大きく開けて、目はただギラギラと輝いているだけで色がまったくない。

そのフランス人が、ぼくの腕をとろうとした瞬間、ぼくは、その注射器を持っている右手を大きくはらっておいて、ベットから横飛びに床にころがった。目標を失ったフランス人は、今度は、ぼくの隣りのベットに寝ていたムッシュに向っていった。

ムッシュも必死で窓ぎわに逃げた。それと同時に、団長もボンボンもいっせいに飛びおきて、窓ぎわの方に来たので、ちょうど我々四人が並んだ形になって、そのフランス人と向きあった。その時になって、我々四人とも一時は、動揺したものの、やっと冷静さをとりもどして、四対一なら、別に恐いことはないと、逆に、にらみかえした。すると、そのフランス人は、急におとなしくなって、部屋を出ていった。

時間にして、数分の出来事だった。しかし、恐怖は、そのあとにやって来た。

もし、我々が寝ていたならばと考えると、急に恐ろしくなった。あんな大量もの麻薬を、一時に、注射されたら、いっぺんで、心臓マヒをおこして死んでしまう。それにあのフラ ンス人の血相といい、その目といい、あれはまさに、狂人のもの、そのものであった。

我々は、もう一度、今度は寝ているときに襲ってきたらと考えると、おちおち、寝むることもできなかった。おまけに、このドアは鍵らしい鍵がかからない。それで、我々四人のジーパンにつけている皮のバンドをはずして、それを、ムッシュが持っていた洗櫂物を乾すためのロープとつないで、ちょうど真中の部分をドアの取手のところに結んで、両端を、ぼくとムッシュのベットの足に結びつけた。

もし、無理やりにドアを開けようとすると、二人のベットが同時に揺れ動いて、二人のどちらかを起こすためであった。そして、万が一の場合を考えて、ぼくは、ドイツで買ったゾーリンゲンのナイフを鞘を抜いて、枕もとに、突き立てた。

そのようにして、いったんは、床についたものの、四人とも目が冴えてしまって、寝むれない。結局、見張りも兼ねて、四人で一晩じゅうブリッジをやることにした。


夕暮れのカンダハル殺人事件


カイバルホテルから、カンダハルの中心街に抜けるのには、王宮の前を通って、バザールを突っきっていくのが近道だった。

お昼頃、我々は、明日のカブール行のパスの予約をしに、郵便バス会社の事務所に行った。事務所は、バザールの入口の広場になったところにあり、ここには、他の二、三のバス会社も一諸にあった。

バスの切符を買うと、我々は、バザールにはいっていった。

ここのバザールは、毛皮屋や、宝石屋はなく、カジ屋やナベ屋やトタン屋など日用工業品ばっかりで、一軒だけ、馬車屋があった。

バザールを抜けて、広い道に出ると、その広い道に出たところの正面が女学校だった。

ちょうど学校の下校時間で、十人ぐらいの女学生が、門を出てきた。

十四、五才というところか、頭から自いチャドリをかぶっているものの、顔は、隠していなかった。

そして、その中の二人が我々の方に歩いて来たので、これは、てっきり、我々に話でもあるのか、と早合点して、ぼくが、フラフラ彼女達の方に近ずいていくと、彼女達は、いそいで、顔を隠すようにして、逃げだしてしまった。

せっかく女の子の顔がよく見られると思ったのに、

と、ぼくのとった行動に対して、他の三人は、非難ゴーゴーだつた。

街の中心は、円型上のサーカスになっており、ヘラットヘ行く道路のかどのところに銀行があり、北側には、ホテル兼レストランと普通のレストランと二つのレストランが並ん であり、その隣りはくだもの屋とタバコ屋だった。このタバコ屋であるが、これが不思議なタバコ屋だった。なぜかというと、このタバコ屋には、ョーロッパのほとんどのタバコがおいてあり、値段もヨーロッパで売っている値段よりもずっと安いのだ。たとえば、イギリスのダンヒルというタバコは、イギリス本国では、二二〇円するものがここでは、たったの七〇円であった。これは安いと、さっそくそのタバコに飛びついて、一人二個づつ、合計八個のダンヒルを買った。

お腹が空いてきたので、食事をとることにしたのだが、これがまた、たいへんだった。

二つ並んだレストランの前にくると、両方の店から、若い呼び込みのあんちゃんが飛び出してきて、我々四人を店に引き入れようと、必死だ。

手前のレストランのあんちゃんが、シシカバブ五本で五アフガニ(二十円)だと云うと、ホテル兼レストランのあんちゃんが、五本で四アフガニだという。手前のあんちゃん、負けんじと、シシカバブ五本とお茶付きで四アフガニでどうだ、と切りかえす。ホテルのあんちゃん、とうとう頭にきて、シシカバブ五本とお茶とライス付の大サービスで四アフガニでどうだと焼けくそ気味に怒鳴った。すると、とんでもないことを云う奴だ、と手前のあんちゃんがホテルのあんちゃんに組みついた。真昼のサーカスで、二人は、我々四人のことはそっちのけで、取っ組み合いのケンカを始めてしまった。

我々は、ポカーンと、しばらく、開いた口がふさがらなかった。どこの国でも、とかく食べ物屋という商売は、生存競争がはげしいようである。

すると、その時、ホテルのおやじが飛びだしてきて、我々のところに来ると、

「にんぽん、すき!すき!」

とおかしな日本語をしゃべった。

驚いたのは、我々である。こんな世界の果てまで、日本語が進出してきているのかと変に感心しながら、日本語を話すおやじがいるのなら安心だと、このホテルのレストランにはいっていった。

ところが、このおやじ、しゃべれるのは、この〝にんぽん、すき!すき!〟という言葉だけで、他に、英語すら、話せなかったのだ。我々は、あきれたが、それでも、たった一 言、一生懸命におぼえたらしい日本語にめんじて、このホテルで食事をとることにした。

このホテルのレストランは、ちょうど三階のサーカス側に突き出したテラスの上にあった。

早速、おやじに、さっきの呼び込みのあんちゃんが云っていたシシカバブ定食(シシカバブ五本とお茶とライス付で四アフガニー)を注文するとライスは別料金だと云う。

それでは、約束が違う、と、我々は、断固、シシカバブ定食を主張した。そして、もし、それでも駄目なら、となりの店に行くとすこし強気に、おどかすと、おやじは、シブシブ、それを承諾した。

食事が終って、いったん、馬車で、カイバルホテルに引きあげると、ベットの上で、夕方まで、ゴロゴロしていた。陽ざしがとても強く、ボンボンがお昼頃、洗濯したジーパンが、夕方には、もう、乾いていた。

夕方になって、また、お昼に行った街のサーカスのところのレストランに、例のシシカバブ定食を食べに行こう、ということになった。

我々四人は、あのシシカバブ定食が気にいっていたのである。第一値段も、べらぼうに安いし、(このカイバルホテルの夕食は、十二アフガニ)それに、味もなかなかよかった。ところが我々四人は、夕方、このレストランに行ったばっかりに、たいへんなことを目撃してしまったのである。

我々が、また来たよ、という調子でホテルにはいって行ってシシカバブ定食を注文すると、おやじは、またか、と例のしぶい顔をして、それでもとなりのレストランに客をとられるのが厭らしく、今度は素直に、かつ迅速に、定食を運んできた。

おやじが、テーブルの上に、定食を四つ並べて、立ち去ったあと、ぼくがそれでは、飯にありつくかとシシカバブの串に手をかけながら、ふと、下のサーカスの方をみると、二人の男が向いあって、何か、云い合っていた。ここのホテルのあんちゃんととなりのレストランのあんちゃんが、また、お客の取り合いで、ケンカでもしているのかと思ったら、どうやら、そうでもなさそうであった。

そのうちに、一人がナイフのようなものを抜いて、それで、いきなり、もう片上方の男の胸を突いた。

刺された男は、刺した男に、凭れるようにして地面に倒れた。刺した男の顔の半分が、返えり血をあびて、真っ赤になった。

一瞬の出来事だった。

我々四人は、たいへんなことを目撃したもんだと思った。当然、サーカスのまわりの店 から、人々が飛び出して来るかと思ったら、これが、誰も知らんぷりをしていて、近づいて行こうとしない。

そのうちに、その刺した男は、刺された男を、ヒョイッと、担ぎあげると、街の闇の中 に、悠然と消えていった。

我々は、血の気が、からだじゅうから、サーッとなくなっていくのを感じた。

恐ろしかったのである。

人殺しの現場を見たのが、恐ろしかったわけではなかった。恐ろしいのは、そのあとであった。

街の人たちが、目のまえで人殺しがあったことに対して、何んの反応も示さなかったからである。

もし、我々の中の誰か一人が、いまのようにして、うしろから、いきなり、刺されたとしても、いまのように、何もなかったように片ずけられてしまうであろう。

そう云えば、中近東で、行方不明になった日本人がたくさんいる、ということをチラッとヨーロッパで耳にしたことがあった。その日本人達も、このようにして、殺されていったのであろうか。

我々には、もうこれ以上のことは考えることが出来なかった。

いま、我々は、どうしょうもないくらい緊張していた。

昨日のフランス人といい、また今日のアフガン人の殺し合いといい、我々は、やはり、とんでもないところまできているのだな、ということを感ぜずには、いられなかった。

我々は四人とも、イランとアフガニスタンの国境を越えて以来、少し、安心してか、息を抜いてきていた。しかし、現実は、少しの油断も、許されない、たいへんなところなのだ。

我々は、ここでもう一度、一人一人の気持ちを入れ替える決心をしなければならなかった。

旅は、まだ、終っていない。これから始まるのだ、と―。


カブールまで、あと五十キロ


翌朝も、空は、気持ちがいいくらい晴れ渡っていた。

午前七時発のアフガン郵便バスは、今度はアメリカが造った舗装道路を、 一直線に走った。

今日は、一番、うしろの席である。珍らしく、我々四人のまえの座席に若いチャドリをかぶった女が座っていた。となりの若い男の様子から察すると、どうやら、この二人、新婚さんらしい。若い男が、ときどきチャドリの下から手を入れて、何か食べ物を渡してい るのを、新妻は、はずかしそうにして、受け取っていた。

どこに行っても、新婚さんはいいもんだ。

ぼくは、そのとき、イタリアのアドリア海に面した小さな漁村での結婚式に招待された ときのことを思い出した。

ちょうど、ぼくが、ヒッチをしながら、この名もない漁村に着いたとき、この漁村は、村じゅうをあげての結婚式だった。おめでたい日にこの村にやってきた珍入者としてぼく

は大歓迎をうけ、お祝いの席に招かれて、大プリン責めにあった。時季は、真夏で、純自の花嫁衣裳が、真昼の太陽の光を受けて、まぶしかった。

あの時の冷めたいプリンが食べたい、などと、思い浮べていると、突然、どこからともなく、異様な悪臭が、漂ってきて、いきなり、現実の世界にひきもどされた。この匂い、どう表現していいかわからないが、とにかく、臭さいのである。

「誰だ、やったのは。おまえか、それともおまえか。」と団長がさわぎ出した。

「早く、横の窓を開けろ。」

しばらく、風を通してみたものの、どうにも、この悪臭が抜けきらない。抜けきらないどころか、ますます、匂ってくるのだ。

我々四人のせいでないとするとまえからだ、とボンボンが立ちあがってあたりを見廻すと、どうやら、この悪臭の原因は、まえの座席の新妻らしかった。

若い男の様子がおかしいので、四人で覗き込むようにして見ると、その若ぃ男は、新妻が洩したあと始末をしているようであつた。

若い男は、我々が覗いているのに気がつくと、あわてて、その始末したものを、まえの座席の下に隠してしまった。

たいへんな新婚旅行もあったものだ。こんなことを日本でしたら、即刻、離婚ものだろう。

それでも、新妻は、はずかしいのか、窓の方をうつ向いていた。チャドリで顔は見えないが、おそらく、そのチャドリの下の顔は真っ赤であろう。肩のところが、かすかに震えているのが、よくわかった。

しかし、洩すのも、しかたがないことなのだ。なぜかと云ぇば、彼女もしくはアフガンの女たちは、いったん、バスに乗ったならば決っして、外に出ようとはしないのだ。

男たちが、バスが止まるたびに、外に出て、トイレにいったり、お祈りをしたり、食事をとったりするのに、彼女たちは、絶対に外に出なかった。従って、糞尿を催しても、ただ、たれ流す以外は、方法がないのである。

それにしても汚ない話である。

これでは、色気も、美人もだいなしであった。

お昼になって、バスは、小さな町に止まった。

我々は、食事をするために、バスの止まったところと五メートルも離れていないレストランに行った。

ところが、レストランにはいるやいなや、我々は、一瞬、ドキッとした。

カンダハルのホテルで、夜中に、我々四人を、狂気の姿で襲ったフランス人が、そこで一人で食事をしているではないか。

彼は、我々が這入って来たのを知ると、ヤァー、と、まるで何事もなかったように、気安く声をかけてきた。

「今日はどこまで行くのか。」ときくので、

「カブールだ」と答えてやると、

「またカブールで会えるね。」とうれしそうに云った。

我々は、彼のとなりのテーブルで食事をしたものの、どうも妙な気分だった。

〝本当に、我々四人を襲ったことなど、覚えていないのだろうか〟

我々がときどき、彼の方を見ると、彼は、笑顔で、我々の方を見ていた。

食事が済んで、バスが走り出してから、一時間もたたないうちに、ボンボンが腹痛を訴えだした。

団長が薬を与えて、それから一時間ぐらい我慢しただろうか、そのあと、「もう、我慢出来ないから、バスを止めてくれ。」と云い出した。

しかし、バスは、さっき、お昼に止まったばかりだから、日没のお祈りの時間までは、止まりそうもなかった。

中近東に入ってから、いままで、他の三人は、一度や二度は、下痢の経験をしていたのだけれど、ボンボンだけは、不思議と、何を食べてもあたらなかった。それが自信になってか、他の三人が飲まないものや、食べないものを、平気で、ガツガツ食べてみせて、その超人ぶりを他の三人に見せびらかしてきたのだ。

ところが、この超人が腹痛をおこしたものだから、他の三人にとっては、またとない仕返しのチャンスと、意地悪くからかった。

「オレなどは、メシッド行のバスの中で4時間もフン闘したのだから、ボンボンも、それくらいは、我慢しろよっ。」とぼく。

「それとも、まえの女のように、たれ流しをするか。」と団長。

すると、ボンボンは必死に、歯を喰いしばりながら、

「ばかいえ――、オレだって、日本男児だ。そんなたれ流しなどは、死んでもするか。」と強がって見せた。

しかし、とうとう、我慢することが出来なくなって、ボンボンは、パスの運転手に、止 めてもらうように、交渉にいった。

それから三〇分程、経ったであろうか。バスは、あるガソリンスタンドのまえで止まった。もっとも、ガソリンスタンドといっ ても、砂漠の中にドラムかん一個がおかれているだけであった。

バスのドアのところで待機していたボンボンは、このときとばかりに、外に飛び出し、一目散に道路の土手のところめがけて走っていった。

ところが、バスが給油を終えても、ボンボンは、まだ、もどってこない。それでも、我々は、バスの運転手は、ボンボンが降りたのを知っているのだから、ボンボンが戻ってく

るまでは、バスを走り出させるようなことはするまい、と安易に考えていたのだが、バスは、意に反して、走り出したのである。

我々三人が、うしろから大声で、

「ストップ!ストップ!」と叫んだものの、通じないらしく、バスは、どんどん行ってしまう。

あわてて、うしろをみると、ボンボンが、ジーパンを手で押さえるようにして、走ってくる。

しかしボンボンの必死のマラソンも、だんだん遠くに離れていって、やがて、見えなくなった。

カブールヘ、あと、五〇キロという地点の出来事だった。



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