百九話 王都動乱中② (メルクーア)
魔物の直進する先には王城。ここは魔物と王城の間にある通り。
「まったく。たまに外に出てみればこうなるか」
溜息をついて買い物袋を【空間魔術 格納庫】に仕舞い、愛用の杖を取り出す。
「雑魚の癖に数だけは一丁前に」
歩いて前進してくる姿は軍隊を思わせる。さらに、空には飛行型の魔物に騎乗している魔物までいる。
「逃げろ、姉ちゃん! 数が多すぎる。あんた一人じゃ無理だ!」
メルクーアを目に付いた市民が心配して叫ぶ。
ここは越後屋の様に慈善で守ってくれる者のいない。当然この数を見て立ち向かおうとする勇気を持つ者もいない。
誰もが他の誰よりも早く前に進もうとして他者を蹴落とそうとする。
「【空間魔術 天候操作:雨】」
王都一帯に雨を降らせる禁術。これで王都全体は雨雲に包まれ、雨がメルクーアを独壇場にする。
他の舞台でこの雨が恵の雨となるかまでは考慮していなかった。
「これで一気に楽になる」
アリアが雨を利用して効果を増大させた雷や氷。メルクーアは他にも風・水属性も使う。それだけの魔力量も並行使用の許容量もスキルもある。
「しばらくは魔物の素材に困ることも無くなるな。――それじゃ、私のために、死んでくれ」
地だろうが、空だろうが対して変わりない。豪雨地帯の中は魔術の乱舞が繰り返され、抵抗することも許されずにその身を殺戮されていく。
水は雨で視界を遮り、矢となって空中の敵を貫く。風は敵の向く手を阻み、刃となって切り裂く。氷は……。雷は……。光は……。闇は……。
雨が豪雨へと変わり始め、魔物とメルクーアを濃霧が覆う。
先の攻撃で雑魚共はだいぶ始末できたのに魔物からも避難住民からも雨で見えなくしたのには訳がある。
人型の魔物は街を道順通りに歩いてきてくれる。他の魔物もそれに伴う。それが破壊して回るよりも近道だから。
「キシャアアアァァァァ!!」
だが、違うのもいる。それが今、建物を踏み倒してこちらに接近中のヒュドラだ。
雨はそのための目隠し。
住民ヒュドラ見る。住民悲鳴上げる。住民ヘイト稼ぐ。ヒュドラ獲物喰らいつく。
もしくは、
ヒュドラ住民見る。ヒュドラ毒吐く。毒住民弱らせる。ヒュドラ獲物喰らいつく。
どのみち被害が増大。弱るだけならまだマシで、その毒だけで死に至ることも考えられる。どのみちパニックを起こして私の邪魔になる。
「俺たちも加勢するぞ! あの姉ちゃんに続け!!」
こういうのいるんだよ。劣勢だったら真っ先に逃げる癖に優勢になった途端に要らないリーダーシップ発揮して手柄を持っていく。で、
『こいつは俺が仕留めたんだ』
……お前がしたのはラストアタック横取りしただけ。と腹立つことこの上ない。
「ここは大丈夫。他のところに行ってあげて!」
豪雨地帯の向こう側から声が聞こえる。いや、市民に被害が出れば、ご主人が私を詰ってくれるか? メルクーアはそんな(市民たちにとっての)超危険思想を思いついてしまった。もし、ほんの少しのヒュドラの毒に触れてしまった場合、力のない市民たちでは苦しむことなく即効で死に至ることだろう。
欲にまみれた考えは振り払う。
「いや、任せてくれ。ここで退いちゃ男が廃る。俺たちにもあんたの手伝い、させてくれ!!」
邪魔になるって正直に言ってあげた方がいいのか?
「……必要ない。邪魔だからどっか屋内で縮みあがっていろ」
なんでこんなところが似ちゃったんだろ。余計な一言がつい出ちゃう。
それでも声を上げている男が豪雨地帯に入り込む。
男は見る。暗い雨の中で真っ先に視界に映るは、十八もの赤い光。二対ずつ浮いているその光は、何かの眼だとわかる。九つの双眸。九つの長い首。
貴族とは違って学の薄い平民でもわかる。絵本によく登場する9の首を持った多頭竜。
牙に致死性の毒が付着しているため、無遠慮に接近は出来ない。ヒュドラの身体からは時折毒の霧が吹く。それだけでも面倒なのに竜種であるため、牙そのものの力は全てを穿つ。おまけに魔法耐性が異常に高い。物理体制も鱗の強度から獲得している。
ヒュドラを認識した男は恐怖に顔を歪ませる。続々と男に連れられた者が豪雨地帯に。その度にヒュドラを見て恐怖する。
目の前の姉ちゃんが何と戦っていたのか。相手は魔物。それも大部分をやられて烏合の衆になった魔物じゃなかったのか。
ここで男は目の前の姉ちゃんの言葉を思い出す。
「そんな。姉ちゃん、俺たちのために犠牲になるっていうのか!」
誰がお前らの犠牲になんかなるものか。
「みんな行こう。あの姉ちゃんの気持ちを無駄にするな」
去っていくなら、最初からしゃしゃり出てくるな。メルクーアの笑顔の仮面があまりのイラつきに剝がれていく。
メルクーアを脅威に感じ取ったのかヒュドラが竜息の構えを取って頭を三つこちらに向けている。
メルクーアは即座にブレスの気配に勘付き、そうはさせまい、と雨雲から落雷を落とす。こうして雨雲を用意しておくと詠唱の時間も、もっと言えば無詠唱にかかる魔力と数瞬のわずかな時間さえも取っ払える。無詠唱があるなら無駄に聞こえるかもしれないが、そういった数瞬さえも一流になってくると邪魔になったり遅く感じさせたりする。
しかし、世界はそう甘くない。
速さだけではどうにもならないのだ。
相手は竜種。耐性が高すぎる。たったの雷一撃じゃ怯ませることもできない。
竜息が吐かれる。
メルクーアに向かって直線に突き進む。今更回避は不可能だ。転移で免れることはできる。その場合、他の首がメルクーアを追うこととなる代償を払うことになるが。
もちろん、龍人であるメルクーアに竜息は鱗の防御力に阻まれて通じない。
気を使っているのは、被害者となる他人。
今の竜息で背後の何人が死んだことだろうか。王城にまでは竜息も到達してはいないようだ。
メルクーアは弱者が死ぬことに何の興味もない。けれども、無為に死んでいくのはシオン同様に好まない。
人は何かのために死んでいくべきだと考えている。
その他にも、ご主人が忌避するのは自分のものを壊されることだ。主の中ではこの国はまだ所有物と心のどこかで思っているのだろう。
できるだけ被害は最低限に抑えたい。
「【召喚魔術 精霊:氷精霊 プリセアピナ】」
氷精霊の出現で一部の雨が雹に変わる。
一方のヒュドラは落雷で与えたダメージは自身の持つ爆発的な自然回復能力で無傷の状態に戻ってしまっている。
「もう周囲には目撃者もいない。空間魔術を使う。プリセアピナは私の防御を頼む」
氷精霊はメルクーアの前に浮遊し、氷の防御を固める。その後ろでメルクーアは目を閉じて集中する。
ヒュドラが動くだけで街は破壊されていく。
口から飛ばされてくる毒弾をプリセアピナが氷に変えて質量を増やし、落とす。
いつまでも防がれることにイラついたのかヒュドラがまた違う動きを取る。
最初の竜息、あれはまだ他に気を張る必要があるために他の首に警戒をさせていたが、時間が経つにつれて警戒は薄れ、伏兵がいないことを理解する。
よって、もう全力の竜息が放てるのだ。
九つの首すべてがメルクーアとプリセアピナを捉える。
無言でプリセアピナがヒュドラに手をかざす。氷精霊魔術の使用だ。
雨と風で冷える身体に雨を利用した広範囲凍結魔術。ヒュドラは氷に拘束されて動きを強制的に止められた。
その甲斐なく首の一つが口から炎を吐く。急激に膨張した氷は破裂し、粉々になる。
至近距離で炎を爆裂させた首の一つだが、自然回復で治っていっている。
「早いな」
目は閉じているが、【空間魔術 空間識覚】で第三の視点から俯瞰視しているメルクーアが自然回復能力を観察している。
ヒュドラにとっての最大の売りである首は失うわけにはいかないものだ。それを一時的に一本消費してまで拘束を解くことを優先した思考にメルクーアは驚き、単純に回復する速さに驚いている。
ついさっきまで失っていた首がもう生え変わってこちらを見てニヤリと笑う。
精霊でも止められない。
この世界のヒュドラは炎が使える。皮肉なものだ。摩耶たちの世界線の地球の歴史ではお前はギリシャ神話の大英雄ヘラクレスに傷口を火で焼かれて、再生能力を失わされたというのに。回復能力は学園都市で出現したサテュロス以上だな。
豪雨の中でメルクーアたちとは別にシオンの姿がある。今はアリアの勇者化を見届けていたはずだが?
「おっと」
ヒュドラの竜息の準備が整ってしまっているらしい。
メルクーアの方はまだか。エルを派遣しておくべきだったか? あんなものを使わずとも勝てるだろう。わざわざ威力実験をして……。
被害が増える前に竜息はキャンセルさせておこう。九本の竜息くらいでメルクーアが滅ぶならもっと早くに死んでいる。
シオン?は軽い魔術を使う。ヒュドラが魔術を自分に使われていると感じるくらいに弱くて強い幻術を。けれども、実感のない魔術は防ぐこと叶わず幻なり喰らってしまうが、実感のある魔術は抵抗に動く。それが強力な幻術ならより一層。
抵抗するには竜息を収める必要がある。攻撃にすべてを回してしまっているのだから当然だ。
これだけの時間があれば、メルクーアの魔術も完成する。
しばらく放置していたものを久しぶりに使いたくなる気持ちは理解できるが、今しなくても良いと思うがな。
「【空間魔術 神話崩壊】」
神話崩壊。その名の通り神をも殺す魔術。アシュタロトのオリジナルの術だ。人のものとして作った故に効果のほどは完全な神殺しではなく昇神した亜神や下級位の神ぐらいでないと効果がない。
発現座標はヒュドラの中心。ヒュドラの中心に正方形が生まれ、正方形が消えると同時にごっそりと正方形に合った部分が消失されていた。
座標をいくつも設置しながらの内部消失のこの魔術、とてつもなく演算がかかる。演算処理と思考加速、並列思考を持ち合わせているメルクーアでも少しばかり時間がかかる。実用的とは言えない。耐久性の高い大きな的・試したことのない魔術。この二つがあればメルクーアがこの場でも実験を推し進めようとするのだ。
「次はもっと短くできそうですね。良いデータが取れました」
それでもヒュドラの回復能力は働く。消し飛ばされた部分が治癒を開始した。
――そして、絶命した。
最後までヒュドラは生きようと残るすべてを治癒に回すも間に合わなかったのだ。
神話崩壊はヒュドラが死したにも拘らず止まらない。ヒュドラよりも正方形が大きくなったところで建物や魔物の死骸を巻き込んで消えた。唯一痛みで伸ばしたヒュドラの頭だけが残り、地面に落ちる。
天候操作の効果も切れ、空は晴れやかとなる。
「浄化もサービスでしておきましょうか」
ヒュドラが噴出した毒の霧や滴る毒の液を回収しつつ神聖魔術で浄化する。
こことは別に豪雨地帯だった家の屋根には一本の剣が刺さっていた。