第五話『花形役者は鼻が高い』
断続的な虫の鳴き声と、距離の離れたグラウンドから、微かに聞こえてくる、金属バットの打球音。普段ならば、まったく気にならないような些細な音が気になるのは、夏の日差しの所為なのか。
昨日までは、夏の気配すらなかったというのに、夏は突然現れる。我々が油断した一瞬の隙に太陽を従えている。そして、脳天を焦がしそうな暑さが、夏だ、夏だ、夏だ、と夏が夏であることを主張してくる。
夏といえば女の子が薄着になる季節であり、首筋からしたたる神の雫や、夏使用のシャツから透けてみえる魅惑の桃源郷など、楽しみが尽きることはない。だがしかし、メリットの裏にはデメリットも存在する。そう、夏はあついのだ。あつがなついのだ。
この暑さがあるからこそ見ることのできる桃源郷なのだが、たまには涼みたい日だってあるさ。そして本日、水曜日は、部室で避暑地気分を味わえる、スーパー納涼日なのである。
さてさて避暑地に到着しました。さっそく中に入りますか。
僕は控えめなノックをして、静かに部室に入る。どうやら、今日は先客がいるようだ。
窓辺に立つ、物憂げな少女。夜の星空を全て閉じ込めたかのような瞳に、知性を感じさせる顔立ち。流れるような漆黒の髪は腰にまで架けられた天の川のよう。彼女の髪は黒が用いる最大の美を表現している。窓辺に立つだけで絵になる少女、それが、駄洒落創作部、水曜日担当、塔月冬華である。
「ユヅル、閃いたわ」
彼女の小さく整った唇から、閃きが零れたようだ。
「はやいな、期待しているよ?」
窓辺に立つ美少女の発言を緊張の面持ちで待つ僕。
「オートマチックの車が勝手に動きだした、おーっとまっちくれ~」
「……」
塔月冬華は立っているだけで、絵になる美少女だ。立っているだけなら、絵になる美少女なのだ。画竜点睛を欠くとはこのことだろう。神様は最後の仕上げを怠った。その美しい唇は飾りなのだ。美しい唇と透き通るような美声が、美しい言葉を紡ぐわけではないのだ。綺麗にラッピングされた、空箱のような美少女がそこにはいた。
「ユヅル、せめて何か言ってよ!」
白く美しい顔を真っ赤に染めながら、猛抗議してくる冬華。
「相変わらず美しい字を書くなー、スケッチブックも綺麗な字を書いて貰って、喜んでいると思うぞ」
ダジャレのクオリティは一旦置いておくとして、冬華の字は誰に見せても恥ずかしくない、素晴らしい出来栄えであった。ダジャレのクオリティは一旦置いておくとして。
「違うわよ、ダジャレの感想を言ってよ!」
「ありがとう、おかげ様で暑い夏も乗り切れそうだよ」
「私のダジャレが寒いっていいたいのね?」
あれ? こんな真夏に納涼気分が味わえることに感謝をのべたはずが、彼女の綺麗な横顔はどうにも不服そうだ。
「いやー、それにしても綺麗な字だな、冬華は水泳の他にも書道もやっているのか?」
彼女は何をやらせてもそつなくこなすのだ。一部を除いて。
「書道は小学生の時に少しやっていたわ、今は水泳部とこの部活だけよ」
塔月冬華といえば、全国大会に出場するほどの実力を持つスイマーで、その容姿と得意の泳法から、水を翔る蝶とまで呼ばれている。ユーモアに関しては、水をかけてやりたい腕前だ。
「綺麗な容姿をしていると、字も綺麗になるのかね?」
何気ない疑問をふんわりとトスしてみた。
「え? あの、その、う~の」
ゆるやかーなトスをあげたのに、あたふた、あたふたが止まらないようだ。
「UNO?」
僕はトランプ派なんだけど?
「え? いや、何でもないわ……」
変なやつだ、いや、うちの部員は変わり者だらけだからな。常識人の僕が浮いてしまっている。
「じゃあ、次は僕の番だね」
「えぇ、人の作品にケチつけたことを後悔しなさい」
そう言って僕に向かって鋭い視線を突き刺す冬華。うん、悪くない。いや、むしろクセになる!
「冬華がダジャレを投下する」
「まるで、爆弾みたいな言いぐさね」
「爆笑ならいいけれど、場の空気が木端微塵だからな……」
「よく人の発言に、そこまで明け透けに物申せるわね!」
冬華は怒った時に足を組み替える癖がある。そのたびに僕の視線は誘導されてしまう。これが噂の視線誘導か。どんどん怒らせていこう。
「そういえば、もうすぐ水泳の大会があるらしいけど、ここにいて平気なの?」
「タイムも順調だし、身体を休めるのも仕事のうちよ。それに、この時間は気分転換にもいいのよ。水中にいる時の自由な感じがするし、居心地もいいの」
彼女の笑った顔は、ただそれだけで絵になる。僕の心の額縁にそっと飾っておくとしよう。
「そう言ってもらえると部長としても鼻が高いよ」
冬華がそんな風にこの時間を過しているのかと考えると、なんだか誇らしい気持ちになる。
「新しいのが浮かんできたわ」
冬華が小さな口を開いた。
「すぐ沈みそうだけど大丈夫?」
「大船に乗った気持ちでいなさい!」
その豪華客船、確実に氷山行きだよな……。
「眉毛から突然、まー湯気が!」
あまりの出来栄えに眉をひそめる僕。
「相変わらず綺麗な声だなー」
ダジャレのクオリティは一旦置いておくとして、冬華の声は、万人が賛辞を呈するような、透明感のある澄み切った美声だ。ダジャレのクオリティは一旦置いておくとして。
「違うわよ、ダジャレの感想を言ってよ!」
なんだかデジャヴュってる気がする。
「滑り止め塗ろうか?」
あまりにも既視感がすごかったので、新たな提案を投げかける僕。
「そんな物があったら、とっくに塗りたくっているわよ!」
自覚はあったのか。悲しい自覚である。春乃がブラックボックスのような危険性を秘めているとすれば、冬華はブラックアイスバーンのような危険性を持ち合わせている。一見なんてことはない場所で滑るのだ。
「まぁ、ほら、あれが、ほら、な?」
「急に言葉の供給が止まったわね、具体的に点数をつけて頂戴!」
「えーと、字の綺麗さと声の聞きやすさを加味して、20点かな」
字と声は綺麗なんだよな〜。
「引くほど低いわね、ちなみに配点はどうなっているのかしら?」
「字の綺麗さで10点、声の聞き取りやすさで10点」
「実質0点じゃない!」
「大丈夫だよ、世の中見た目が重要だし、言葉の中身よりも誰が言ったのかが重要であり、偉人の名言は偉人が言うから名言になるのさ。あんなの普通の人が言ったら迷言だよ」
「ユヅル、あなた、私を励ましていると見せかけて馬鹿にしているわね?」
「察しはいいよね」
流石は学年トップの成績を誇る冬華だ。
「完全に馬鹿にしているじゃない! 怒るわよ!」
そう言って足を組み替える冬華、まんまと視線誘導される僕。み、みえ、みえない……。
「怒りが足りないのか?」
「何の話よ?」
「え? あぁなんでもない。次は僕の番か、『花形役者は鼻が高い』」
僕に花型役者の経験など皆無だが……。
「確かに学芸会とかで主役に選ばれると鼻が高いわよね」
「本人よりも親の方がね」
「どういうこと?」
大きな瞳を不思議そうにパチクリする冬華。
「自分の子どもが劇の主役に抜擢されれば、親としては鼻が高いだろ」
「そういうことね、気にしたことなかったわ」
「冬華はどうせ、その容姿と声だから、小学校の6年間はずっと主役かヒロインだろ?」
さぞかし華のある花形役者だったに違いない。
「どうせって、なによ! アリスとシンデレラと白雪姫はやったけれど、そもそもうちの小学校は演劇じゃない年もあったわ」
もはや、プリンセス独占禁止法で逮捕されるレベルだな……。どうでもいいけど、プリンセス独占って響きが魅惑的過ぎる。
「それだけやれば十分だろ、うちの親なら鼻が高いどころか、ピノキオになるぞ」
うちの母はすぐに調子に乗るタイプだ。少し煽てただけで、猿よりもはやく木に登る。
「ピノキオはやったことないわね、私、嘘がつけないから」
「僕はこんなにも嘘がつけるのにピノキオも出来なかったよ。母さん、息子が木の役でごめんよ。毎年ビデオカメラで撮影してくれていたけれど、あれじゃあ、6年分の木の成長記録だよね……」
「木の役だって大事な役割じゃない、1年生でやっていた小さな木が、6年生の頃には大木になるわけでしょ? 感動的だわ」
必死にフォロー態勢に入る冬華。
「僕、中学生の時に成長期きたから、小学生の6年間はずっと小さな木だった……」
「そ、それは残念ね……」
気まずそうに視線を逸らす冬華。
「やるなら、最後までなぐさめろよ! この沈んだ気持ち、どうしてくれんのさ!」
「私の気の利いた洒落で引きあげてみせるわ!」
「アトランティス大陸が見えてきたよ」
無料で深海2万マイル気分が味わえるなんて最高だね。
「私のダジャレでどこまで沈むつもりなの⁉」
「水圧には注意が必要だね」
「心配ご無用よ! マチュピチュまでエスコートしてあげるから、気圧にだけ注意してなさい」
得意げな顔で言い張る冬華。
「空中都市まで引き上げるとか大した自信だな」
不安しかない……。
「いくわよ! 『モノレールにも乗れーる』」
「知らなかったよ、モノレールでもマントルまで潜れるなんて」
「私のダジャレって核の外層まで沈むクオリティなの⁉」
「一歩間違えれば、内核まで抉りとっていたよ」
「もはや、地球の危機ね」
怒るのを忘れた冬華が言った。
「いやー、しかし、案外、神様にも平等なところがあるのかも知れないな」
「急にどうしたのよ」
訝しげな表情でこちらを見つめる冬華。
「文武両道、眉目秀麗、才色兼備、全てを兼ね備えたようにみえる塔月冬華にも、これだけ重大な欠陥が隠れていると思うと、世の中ってやつは、いがいにバランスがとれているのかも知れないな」
「……」
顔を真っ赤にして、非難のまなざしを送信してくる塔月さんとこのお嬢さん。流石にいいすぎたかな?
「四字熟語まで並べてほめたたえないでよ、そんなに言われると恥ずかしいじゃない……」
あれ? 伝えたいことが綺麗に半分こされているよ? 話半分できくってこういう意味じゃないよね?
「あれ、話ちゃんときいていました? まるっと半分着信拒否されていましたよね?」
「半分だけでこんなにも褒めてくれているの?」
なんで残りの半分も褒められている前提なの? 驚異的なポジティブさだな。さすが、褒められ続けて育ったやつは違うぜ。僕にポジティブのお裾分けしてくれ。
「冬華は前向きだよな、そのうえ上昇志向だし、『上昇志向の至高の思考』だな」
「それは流石にほめすぎよ」
「ダジャレの嗜好は最悪だけどな」
「嗜好なんだから好きにさせてよ!」
顔を真っ赤にして憤慨する冬華。なるほど、今日は白なのか、やっぱり白が一番! 清純万歳! 顔が赤いから一人紅白歌合戦だね! めでたし、めでたし。
「まー、そんな怒るなよ、水泳部らしく水に流そうぜ?」
「そのしたり顔に水をかけてやりたいわ」
昨日も言われたけれど、僕のしたり顔ってそんなにむかつくの? 今度、鏡でセルフチェックしないといけないわね。美意識って大事!
「水も滴るいい男ってな具合で、今日はお開きにするか」
「そうね、してやった感を拭い去れば、いい男に見えなくもないかもね?」
蠱惑的な茶目っ気をたたえながら、試すように言ってみせる冬華。
「さすがの僕も、冬華と並ぶとスッポンだよ」
心はいつでもスッポンポンだ! うん、いらない一言だ。
「当の本人は月である自覚はないわ、塔月だけにね」
僕もこんな風なしたり顔がしたい。そう思わせるには十分な程、魅力的な表情が浮かんでいた。
月並みな表現をさけるとすれば、月が綺麗ですね、なんて詩的な愛の伝え方をするところだった。ロマンチストな漱石さんに平伏。
「珍しく冬華が上手いこと言ったところで、綺麗に終わりますか」
「珍しくは余計よ、明日は黒坂先生の日ね、よろしく伝えておいて」
「了解、伝えておくよ、じゃあ、また金曜日な」
「じゃあね、今日も楽しい時間をありがとう」
「お、おう」
こういう台詞がすんなり出てくるあたりが、花形役者の所以なのだろう。それに比べて、お、おうって、僕の大根役者っぷりが、凄まじく道化だな……。
そうして自分の三下っぷりに落ち込みながら、部室を後にした。