『鎖ノ姫』 第二章 「5」
浴衣に着替えると、お風呂で火照った身体を覚ますために、僕は再び広縁の椅子に腰を掛ける。
今なお輝く『枯山水』が、さっきよりも眩しく見えるような気がして、僕は意識を反らすように視線を夜空へ持ち上げる。
月の明かりは、この街の明かりに負けている。
それほどまでに、遊郭の光は強い輝きを放っていた。
「急に元気がなくなったね……? どうしたの? 慣れない長風呂の所為で、具合でも悪くなったかしら?」
「いや、そんなんじゃ……なくてですね」
そうは言うものの、僕の声量は明らかに小さくなっていて、これを聞いた誰もがきっと僕が元気ではないことに気づくだろう。それぐらい小さく、尻すぼみになってしまった声。
誰もが気付くようであれば、無論カンナさんだって気づかないわけがない。
対面する席には座らず、彼女は僕の側に寄って椅子の縁にゆったりと腰を下ろした。
「……もしかして、私の所為? もしそうなら謝るわ、ごめんなさい」
「ち、違いますよ! そんな、カンナさんが謝る必要なんてこれっぽっちも」
「じゃあ、どうしてそんな顔をしてるの?」
「それは……」
言い淀んで、その間を埋めるようにカンナさんの手の平が僕の頬を包む。
それは男を誘惑するのではなくて、子供を慰めるような優しい手つき。
その心地良さは、今すぐ身体を全て預けたいほどに温かで魅力的で、だからこそ、僕はそっと拒んだ。
「私じゃ、お役に立てないかしら?」
「お気持ちは凄く嬉しいです。嬉しいんですけど……その、僕にも、どうしたらいいのかって、まだ分からないんです。分からないから、僕はこうして……」
旅を、している。
旅と言えば聞こえはいいが、これといった目的地を目指しているわけではない。
ただ各地を漠然と歩いて、ふらふらと彷徨っているに過ぎない。
あの日からずっと……僕はこうして逃げ続けている。
「何だか……その、辛気臭くしちゃったね。このままお話しててもつまらないだろうし、そろそろお開きにしましょうか。今度はもっと、チヒロも楽しめるように私も頑張るから」
「……すみません」
「でも……いつか気が向いたら話して頂戴ね? 私の身の上だって教えたんだし、一緒にお風呂だって入ったのよ? もうお客と遊女の関係じゃなくて、言わば私たちは友達みたいなものじゃない。違う?」
初めて会ったあの日から、カンナさんはとても義理堅い性格をしているというのがよく分かる。
そんな溌剌としたカンナさんの言葉に、僕はほんのわずかばかりの元気をもらったような気がした。
「カンナさんって」
「なあに?」
「……イイ人、ですよね」
「イイ女、よ。何せ私は『金色神楽』。この『枯山水』で最上の遊女ですもの」
自信と誇りに溢れたカンナさんの表情は、何処となく子供っぽくて、だけど、とても晴れやかだった。
※
カンナさんと別れ僕は【月】の正面玄関へ。
一人きりで戻ってきた所為だろうか、守衛の人にやや怪訝な顔をされたが僕は何食わぬ顔で出て行くと、正面の神楽坂を下って、そのまま広場へは向かわず用水路へと続く裏手に向かう。
本音を言うと、堂々と街を歩けるような気分じゃなかった。
それは僕が女と知られてしまったから、ではない。
この件に関しては、去り際にカンナさんが他の人間には口外しないことを約束してくれた。
女同士、友達ならひとつくらい秘密を共有するのもアリじゃない? とはカンナさんの言。
何処までも義理堅く、人情に厚い彼女の姿勢に僕はただただ尊敬の意を抱くばかりだった。
なら、どうして僕の歩みが鉛の靴を履いているかのように鈍く重たいのかといえば。
「……」
神無月の夜風が、半ば放心気味の僕の頬を叩くように吹きつける。
今が仕事中だと思いだすのに数十秒も掛かってしまって、いざ気持ちを切り替えようとしたその時だった。
――じゃぷ、ざぷ……
不意に、用水路の方から水音が聞こえた。
いや、もちろん用水路なのだから水が流れていて当然のこと。
僕が耳にしたのは、そういった水路で水が流れて立てる音とは違う、例えるなら今しがたまで入っていたお風呂の、湯船のお湯が揺れるのに近い音。
不審者の可能性も視野に入れながら、僕は意識を研ぎ澄ませ音の出所を探る。
正面、右、左に順に視線を送って――水路の中に蠢く黒い影を見つけた。慌ててランタンを取り出し明かりを点けて持ち上げる。オレンジ色の光が僕の視界をぼんやりと照らし、夜闇を溶かしこんだような水路に光が差し込んで行く。
「だ、誰だッ…………って、ゆ……ユウキ……?」
ゆらり、と振り返った顔。
包帯で覆っていない片目と視線が衝突して、僕はハッと息を呑む。
水路の中にいたのは、ユウキだった。
衣服と呼べるのか怪しいあのぼろ布を着たまま、腰元辺りまで水に浸かって……何を、していたのだろうか。
「…………」
ほんの数瞬の間、その暗い視線は僕を捉えていたが、やがて興味が失せたと言わんばかりに顔を背け、ユウキはあの枯れ木のような腕で水をすくい、身体に浴びせ始めた。
「そ、そんな場所で何して……」
「…………身体、洗ってる」
「そんな、用水路なんかで……! と、とにかくそこから出て! 風邪引いちゃうって……!」
縁にランタンを置いてから、衣服が濡れることな露ほどにも気にせず僕は用水路に飛び込むとユウキの側へと駆け寄る。
晩秋の水は、時間帯も相まって相当に冷たい。
それこそ、僕は風呂上がりだから余計に冷たく感じるのかもしれない。
刺すような冷たい痛みを堪えながらユウキの細い腕を取り、やや強引に引き寄せる。
「……ッ」
一瞬、ユウキの顔が小さく歪む。
強く引っ張りすぎたかと手を離したその時、ふと、手の平にぬるりとした感触が伝う。
「え……?」
暗がりでよく見えなくて、僕は縁に置いておいたランタンに手を伸ばす。
「……!!」
ユウキを掴んでいた僕の手の平が、真っ赤に染まっていた。
咄嗟に、僕の視線は今まで掴んでいたユウキの腕に伸びる。
「え、な……怪我し、て……!?」
明かりに照らされたユウキの腕、だけではない。
腕も、脇腹も、水に沈んだ足にも、ユウキの頬にも、切り傷や裂傷といった傷が至る所に見える。
怪我だなんて、生易しいモノじゃない。
大至急医者に診てもらう必要があるような大怪我ばかりだ。
「な……あ!? どうしたのこの身体!? 何が、あって……!!」
「……別に」
「別にって……そんな訳ないでしょう!? 早く医者に診てもらわないと、大変な」
「…………別に、こんな程度じゃ死ねない。あの人も、それを承知でやってるんだから」
「あの……人……?」
ユウキの言葉に、耳を、疑った。
今のユウキの一言はつまり、この怪我の原因が人為的なモノであるという証左。
誰かが、ユウキをこんな目に遭わせたという決定的な一言。
胸の内から熱い何かがカッと膨れ上がって、抑えが利かなくなる。
「だ、誰が……誰がやったんだ!! 君にこんな、酷い事を……!!」
沸々と湧いてくる怒りが火柱のように燃え上がって思わず叫び声が上がる。
その時だった。
「…………フ」
ユウキが、笑った。
それは、あまりにも唐突で、この状況から何ら脈絡のないタイミングで、一瞬、僕は見間違いか何かかと思った。
「……ユウキ? 何で、笑って……うわッ!」
唖然としていた僕の虚を突くかのように、ユウキの身体がふわりと跳ね、僕の胸に飛び込んでくる。
血だらけの身体のまま、その細い腕を蛇のように僕の首へと絡ませ、互いの鼻先が触れ合うほどの至近距離に接近する。
「……いま、イイ顔……したね?」
「な……? 何、言って……」
「ヒトを、殺した顔」
「……ッ!!」
突拍子もないその言葉に、僕は怖気が奔って、強張った身体はユウキの腕が掴んで離さない。
「それも……一人や二人じゃないね……十人くらい、カナ?」
「な……何で、それ、を……んッ!?」
ユウキの顔が更に急接近したかと思うと、その唇が僕の唇の上から覆いかぶさって、温かくて柔らかい感触が僕の口の中を侵す。
ユウキの舌が、僕の口の中で舌に触れて、暴れて、かき乱していく。
何が起こっているのか、どうして、何をされているのか。
理解しようとする思考が追いつかなくて、ユウキの成すがまま、無理矢理に苦い快楽の波を浴び続ける。
ユウキの手が僕の胸を押しつけ、水路の縁の壁に背中がぶつかる。
そのあまりにも華奢すぎる手のどこにそんな力があるのか、拒絶しようと僕の身体を前へ前へと動かそうにも、何故か微動だにしてくれない。
息が、苦しい。
胸が、苦しい。
「……ぶ、は、やめ……って!!」
そんな一方的な愛撫を、僕は我慢しきれずどうにか跳ね退ける。
大きな水音を立てながら僕とユウキの距離が離れて、僕が息を整える音と、ユウキの微かな息遣いだけが水路の中で響いて、消えていく。
「……な、何なの……い、いきなり……け、怪我してるんだから、そんな、変なこと……を、してる、場合じゃ……」
「………………甘い、味」
絡んだ唾液を楽しむかのように、闇の中、ユウキは咀嚼している。
そんな様がおぞましく、しかし、どうしようもないほどに妖艶で、それは正真正銘の遊女のような出で立ち。
濡れたぼろ布は否応なしに彼女の四肢を浮き彫りにして、カンナさんのような美しさとは真逆の、触れれば破滅に導くかのような危うい色香が溢れている。
「こんな、意味の無い怪我なんて……気にしなくて、いいのに」
「い、意味の無い怪我なんて……」
「……だって、もう、癒えてるモノ」
「え……」
御覧、とでも言いたげにユウキは自らの両腕を広げ、その身体を僕に示して見せる。
枯れ木のようなあまりにも細い腕、あばら骨の浮いた脇腹、薄氷の笑みをたたえたその貌。
その何れをも紅色に染めていたあの痛々しい傷や怪我が――ゆっくりと、治癒していくのが見えた。
「…………え、な……んで……」
至る所にあった切り傷や裂傷は、まるで花が蕾を閉じるかのようにゆっくりとその傷口を閉じていき、青ざめていた個所も見る見るうちに健康的な血色を取り戻していく。
信じられないと僕が呆けている間に、ユウキの傷は血の汚れを残したまま完治してしまった。
自分でも、言っている意味が分からない。
その直後、混乱した僕の頭に追い打ちをかけるような言葉がユウキの口から紡がれる。
「……私は、ね。鬼の血が混ざっているの。半分は人間で、もう半分は、鬼」
「……何、言って……」
「その所為でね、生半可な怪我じゃどうってこと、ないの。痛みこそあれ、私の意思なんかお構いなしにすぐ治ってしまう。私はもうとっくに死にたいのに、なかなかどうして、死ねない身体になってしまってるの……」
「……」
絶句する僕を見ながら、ユウキは艶美な声で続ける。
「……だから、ね。私をひと思いに殺してくれそうな、そんな人を待ってた。そうしたら……ア、ナ、タ。そんなに殺しているのだから、頼めば殺してくれると思ったのだけど…………」
「ま、待って……そ、そんなに、って、どういう……? ぼ、僕は」
「あぁ……言い忘れてた」
今までに見たことが無いほどの、愉しそうなユウキの表情。
ふと、彼女は片目を覆っていた包帯を解いて、改めて僕へと向き直る。
ぞく、と背筋から全身までに走る悪寒。
ユウキが包帯で覆っていた左目は、黄昏をそのまま注いだかのような、淡く、暗い色に染まっていた。左右で違う色合いの双眸に見据えられ、僕の心臓はユウキに掴まれてしまったかのような窮屈さに苛まれる。
「視えるのよ……この眼。映った人の、過去とか……ね」
「…………!」
くすくす、くすくす。
掴んだままだったランタンの光が不意に明滅して、ユウキの愉しそうな表情に陰を差し込む。
――ざぷ……、ざぷ……
底無し沼から這い出るかのような、ユウキの鈍重な足取り。
一歩、また、一歩、と水路の水をかき分けながら、ユウキは再び僕へと向かってくる。張り付いた薄ら笑み、クモが獲物に手を伸ばすかのように広がる細く白い両手、黄昏色と漆黒色の双眸に映る僕の姿。
ユウキの手が、僕に触れる。
「……どう、して」
「…………」
辛うじて出せた言葉がユウキの耳朶に届いて、僕のうなじに伸びていた指先がぴたり、と静止する。
仮に、ユウキの言葉が本当だったとしても。
仮に、ユウキの言葉の何処かに、嘘があったとしても。
一つだけ、聞きたい。
「ユウキは、どうして……死にたいの?」
「……どうして?」
口から出る言葉が震えている。
寒さの所為か、まだ感情が昂っているのか。自分でもよくわからない。
「何の理由もなく、ただ死にたいだなんて……普通は思わない。どうして、ユウキは」
「じゃあ、私も聞くわ。どうして、あんなに人を殺したの?」
「…………そ、それ……は……」
止まっていた指先が動き出して、ユウキの唇が僕の鼻先に触れる。
息遣い、鼓動、眼差し。
胸の動悸が激しすぎて、正常に呼吸が出来ているのかすら怪しい。
「視える、って言ったでしょう? 私の眼には、ハッキリと視えるの。アナタが人を殺したこと、アナタが人を殺した時、どんな表情をしてたのかも……ね」
真綿で首を絞められているような、どうしようもなく不快で逃げ場のない苦しみ。
ユウキの口から出てくる言葉全ては、呪詛という名の刃のように僕の心の隙間に深々と容赦なく貫いていく。
「……とても、愉しそうな顔ね」
ランタンの明かりが――――消える。




