『鎖ノ姫』 序 章 「1」
――これは、僕が見知らぬ遊郭に迷い込んでしまった時の話。
※
神無月の夜。
鬱陶しい曇天のお陰で、今宵の月明かりも期待できない道の真ん中。
鞄に吊る下げていたランタンを持ち上げ、僕は手にしていた小さな紙切れに視線を落とす。
先刻休んでいた宿場町から北へまっすぐ、半日もすれば人通りの多い大きな街道にぶつかって、あとは道なりに行けば都に辿り着ける。よほどの馬鹿じゃない限り道を外したりしないだろうし、街道には一定間隔で旅人用の小屋があるから目立つし迷うことは無いだろうよ。
僕のために、わざわざ簡単な地図まで書いてくれた気の良いおじさんはそう言ってくれた……のだが。
改めて、視線を右と左とに動かす。
大きな街道なんか見当たらない。
それどころか、人っ子一人の姿も見つからないし、旅人用の小屋とやらの影も形も何も見つからない。
つまり、僕はおじさんの言うところのよほどの馬鹿になるというわけらしい。
軽く溜息を吐いてから、まぁ自分が方向音痴なのは薄々自覚していたし、もしかしたらこうなるんじゃないかなぁ程度には覚悟してたから、あまりショックと言う程の物は無かった。
……無かったけど、そりゃあ、まぁ、釈然としないものはある。
前を見ても後ろを見ても、ランタンの明かりで辛うじて浮かび上がった視界の中には似たような木々がただただ乱雑に並んでいて、何処へ進んでもまたここに戻ってきてしまうのではないかと錯覚させる。
「弱ったなぁ……こんなことなら、もう少し無理してでも食料買っておくべきだったかも」
滞りなく都に着く体で出て行ってしまった所為で、手持ちの携帯食料は既に底をついてしまっていた。
仕方なく外套の内ポケットに紙切れを突っ込むと、腰に吊っていた打刀の鞘が揺れる。
残り少ないランタンの燃料を気にしながら、しかしこのまま立ち止まっていても埒が明かないと判断し僕は歩き出した。
せめて誰でもいいから人に会えればまだ救いはあるのに、奥へ進めば進むほどに獣や虫の声すら聞こえなくなっているような気さえする。
景色は一向に変わらず、野宿は已む無しかと覚悟を決めた辺りで――ふと、闇の向こうに小さな明かりを見つけた。
「……何だろ? 誰か、いるのかな」
明かりがあるということは、つまりは人がいる可能性があるというワケで。
まさに僕は水を得た魚のような勢いで、明かりの方へと疲れた体に鞭を打って走り出す。乱立する木々の合間を、時々はみ出た根に引っかかって転びそうになりながら駆け抜けていく。近づけば近づくほど、その明かりは強さを増していく。
そして、不意に視界が開けた瞬間、思わず足が止まった。
「え、これ……街……?」
目の前に現れたのは、既に真夜中に近い時間帯だろうというのに、まるで小さな太陽のような強烈さで輝く街だった。
いや、街と呼ぶには少し規模が大き過ぎる。
周囲には見上げるほどに大きな壁と浅い堀が張り巡らされていて、それだけを見れば城郭といって差し支えのない堅牢な印象を抱かせる。
だが、その壁の向こう側からは件の眩い光がこの夜を切り裂かんと漏れ出していて、そんな様を観察するように眺めながら僕は堀伝いに西へと歩いていく。
やがて、門が見えてきた。
「こんな場所に、街があるなんて話……あったかな……?」
僕が目指していた都は大きな川を二つもまたぐ巨大な橋が目印、と聞いていたので既に情報とずいぶん違っている。
さして大きくも広くもない橋は開けっぱなしの門扉に繋がっていて、守衛の姿は見えない。こういう場所には守衛や門番と言った人間が必ずいて、入国の際に色々と検査をしたりするのが通例なのだが。
「入って……見ようか」
明かりのある街ならば人がいるのは必然で、道に迷って途方に暮れていた僕にとっては正しく渡りに船だ。
門番の許可も得ずに勝手に入るのは少々気が引けたが、ここに居ない人を無理に待つ道理もないし、何も街の真ん前でわざわざ野宿することもないだろう。やや木目の新しい橋を渡って、僕は街の中へと踏み込んでいく。
入ってすぐは生活感のある市街地、さらに奥へ奥へと進んでいくとまた別の塀とぶつかった。
外周と同じような浅い堀と高い塀が巡っていて、塀の向こう側はまた別の区画となっているらしい。何か大きな建物のようなものも見えるし、眩い光もその区画の方から漏れ出ている。僕が今いるこの辺りはごく一般的な居住区画のようで、当たり前だが何処の家も明かりが消えている。
徐々に紅葉しつつある街路樹の道を堀伝いに進んでいくと、やがて塀で覆われた区画へ続く橋が見えてきた。先と同様に門番の類は見当たらなかったが、その門扉からは黄金と見紛うような輝きが溢れ出ていた。
まるで、光と影の街。
趣の良し悪しはともかくとして、少なくともここまで歩いてきた僕の抱いた感想は概ねそんな感じだった。
今まで旅をして色々な街を見て回ってきたが、こんな街は初めてだった。
微かな緊張と期待とを頬に張り付けたまま、僕の歩みはそのまま門の向こう側へ吸い寄せられるようにして進んでいく。
「うわ……ぁ……!」
新たな門の奥へと一歩踏み込んだ時、僕はあまりの衝撃に感嘆の声をこぼすので精々だった。
光と影の街の、正しく其処は絢爛豪華な“光”。
今僕の目の前で、詩歌に聞くような桃源郷が現実の物となっていた。
煌びやかな店が軒を連ね、道行く人々は黄金色の粒子を纏っているのかと言わんばかりの美しい女性ばかり。
無論、それらの隣を歩く男子諸君も何処となく気品がある面構えで、何というか、田舎者丸出しの僕が物凄く浮ついているような気がしてならない。
そして、ここまで進んできて一つの言葉を思い出した。
「遊郭……だ」
旅をしている間に何度か耳にした、貴族や武家のような気品ある人御用達の社交場、あるいは、真夜中の遊技場。
実際にこの目で見るのは初めてで、いざ目の当たりにしてみるとその輝きにこの身が焼かれるような心地になっていた。
……主に、気恥ずかしさで。
実を言うと、聞いていた話と言うのがここでナニをするだのというやや生々しく、かつ、たまたま聞いた時が酒の席だったということもあって、歯に衣着せぬような直球なお話ばかりだったので、良くも悪くも未熟な僕にはあまりにも刺激が強過ぎた。
だからこそ、周囲から矢のように飛んでくる冷ややかな視線に貫かれて萎縮するのは至極当然。
引き返そうとも思ったが、ここで引き返したら却って情けないのでは、という一種の気位が働いて、かと言えば正面の道を堂々と歩く勇気はなかったので、僕はそそくさと左側に反れて、頬が熱いのを我慢しながら素知らぬ顔を装おうと努力しながら歩いていく。
しかし、この場所を“遊郭”と意識してしまった所為からか、道行く女性陣の着崩した和服から見える色白が気になって落ち着かない。うっかり見ないようにと自然に下降していく視線でロクに前も見ないまま進んでいくと、
「ちょいと、そこのおにーさん」
「……は、はい?」
突然横から首筋を撫でるような甘ったるい声が飛んできて、僕は驚いて軽く飛び上がってから声の聞こえた方向に首を動かす。
当然だが、女性が見える。
見世物小屋のような柵で囲われた大きな部屋の中から、たっぷりと化粧の臭いを漂わせた麗しい女性が、絹のように滑らかな指先を妖艶に踊らせながら僕に向かって手招いている。その細い眼差し、甘い口調、一挙手一投足の全てに蕩けるような色香が滲んでいて、例えば僕が御無沙汰な殿方だったならば喜んでその指先に頬ずりをしていたかもしれない。
「よかったら私と一緒に遊んで行かなぁい? 疲れた体も心も癒して、何もかも忘れさせてあげるわよ?」
「え、えと…………?」
彼女の仕草は、確かに遊郭の遊女らしく艶やかで甘美だ。
しかし、今の僕の瞳に映っていたのは、惜しげもなく誘惑する彼女の身体や声でもなく――その、向こう側。
遊女たちが犇めく小屋の一番端っこでただ一人、他の遊女たちとは明らかに異質な格好をした少女の姿だった。
目の前の遊女は、当然ながらそれなりの生地で誂えられた色鮮やかな和服やかんざしと言った風に飾り付けが施されている。
それに対し、僕の瞳に映り込んだ少女は辛うじて衣服と呼べそうなぼろ布を一枚着せただけで、男を魅了するような化粧や装飾品の類は何処にも見当たらない。
何より、ひと際僕の目を惹きつけたのが――少女の右足首に見えた枷と、錆びた鎖。
強過ぎる光が生んだ、それはあまりにも濃密で異質な影。
異様としか言いようがなかった。
周囲に少し視線をずらせば、そこかしこで艶美な笑い声が聞こえると言うのに、少女が蹲るその一点だけ、この街の影が凝縮されているかのような重苦しい闇が漂っていた。
「あの、奥の……」
「ふふふ、もしかしておにーさんってば、この街に来るのもこういうトコに来るのも初めてかい? だったら、お姉さんが色々と教えて」
そんな誘い文句も何処か遠くに感じ始めた辺りで、
「キャアアアアアア!!」
突然、絹を裂くような女性の悲鳴が聞こえてきて、ふわふわ心地だった自我がハッと瞬時に戻ってきた。
道行く人の視線が、ふ、と悲鳴のした方へと一瞬伸びるが、我関せずと言った所作ですぐに首を回して、隣の男女に向かって愛想笑いを浮かべ始める。
目の前の女性も、最初は僕の斜め後方に訝しげな視線を送ってから、しかし他と同じように何事も無かったと言わんばかりの仕事用の笑顔に切り替えた。
「今のは……?」
「いえいえ、この街じゃたまにあることなんでお気になさらず」
「いや、でも……ご、ごめんなさい!」
「あぁ、ちょっと!」
お詫びの言葉を乱暴に捨ててから僕は声のした方に向かって走り出す。
理由としては二つ。
一つ、単純に悲鳴の正体が気になったから。
二つ、これを口実に上手いこと彼女のお誘いから逃げれるから。
通り過ぎる人の視線を追いかけながら、やがて円形の広場のような場所に辿り着いて、そこに小さな人だかりが出来ているのが見えた。
人だかりの中心には先ほどの遊女と同じような女性が一人と、それから顔を真っ赤にしながら女性の腕にしがみつく男性が一人、同じような顔をした男性が側に一人。まばらな人だかりの隙間から窺えた。
「せっかく降りてきたんだからいいじゃないかい今夜ぐらい。金は倍……やや、三倍、五倍は出そう!」
「だから、私はね……!」
「ちょっと、失礼!」
僕が飛び出してどうなるのか。
そういった後先の勘定を細かく考えるよりも先に、身体と声とが飛び出て、そのまま僕は女性と男性との間に無理矢理割って入り込む。
ぱちん、と腕を払ったのと同時、掴みかかっていた男は姿勢が崩れてその場にどさりと大きな尻餅をついた。呆けたような半眼でぱちぱちと瞬いて、ややあってからその顔に激昂の色が加わる。
「て、てめえ!? いきなり何しやがる!?」
「この人が困ってるじゃないですか。女の人に絡み酒だなんて、大の大人がみっともない」
「は……はぁ!? この、俺様が誰だと知って」
後ろの男に目配せすると、二人とも懐から小刀を抜きだして周囲から「ひっ」と小さな悲鳴が漏れる。
件の女性を後ろに下げつつ、僕は右手を腰元へと伸ばし、馴染んだ鞘の感触を指先に当てる。
「やっちまえ!」
「おらぁ!」
「……ったく!」
二人の男が突っ込んでくると、僕も合わせて前に踏み込む。
真正面から鼻先をつついてくる強烈な酒の臭い。
酔っ払いの男二人を相手に抜く必要もない。
馬鹿正直な小刀の刺突を軽く往なして、男が勢い余ってふらついたところを、鞘に収まったままの打刀で手首に叩きつける。痛みと衝撃であっさりと得物を失って、それでも一矢報いようと焦点が定まっていないような眼で睨んできても特にどうとも思わない。
躍起になっただけの拳打が当たるわけもなく、頃合いを見計らって男の側頭部に向かってもう一撃を叩きこむ。呻き声を上げるよりも先に意識が失せてしまったらしく、そのまま二人の男は地べたにぶっ倒れてしまった。
「……えっと、大丈夫……でした?」
安全確認のつもりで呟いて振り返った瞬間、小さな歓声と拍手が上がって僕の方が面食らう。
「か、かっこいいー!」
「兄ちゃん、やるねぇ!」
予想以上の反響に頬っぺたの辺りがしっかりと熱くなった頃、落ち着きを取り戻したらしい女性がゆっくりと歩み寄ってきて、僕の手をごく自然な動作で握りしめる。
「ありがとう、助かったよ。こういう作法を知らない客ってのは意外と難儀でね」
「いや、そんな……ぃ!?」
心臓が胸を破って出てきてしまったのではないかと不安になるほどの衝撃に、思わず僕は反射的に手を引っ込めてしまった。手を握ってくれていた遊女は、とても不思議そうな表情を浮かべて軽く首をひねった。
怖気が奔るほど美しい、透き通るような白金色の髪。
腰元まで垂らしたその長い髪は、彼女がほんの僅かに身動ぎするだけで風に揺られる稲穂のように穏やかに流れ、よく磨かれた黒曜石のような艶美な瞳には底知れぬ引力が備わっている。
僕の手を取っていた指先もまるで処女雪の如き、見つめていれば無意識に吐息がこぼれてしまいそうなほど綺麗で、華奢でありながら言い知れぬ色香も見え隠れしている。
一瞬、神様にでも見染められてしまったのかと思ってしまったほどの衝撃。
「わ、わわっ、うわ……!」
もっとざっくばらんに言ってしまえば、とてつもない美女が息が掛かりそうなほど間近に顔を近づけていたので、僕は礼節も何も弁えず、ただただ自衛本能のみで身体を動かして彼女から三歩ほど後ずさってしまった、というワケである。
僕の動きが止まってから流れる、やや気まずい沈黙。
ぱん、ぱん、ぱん。
拍手じゃない。
不意に、何処からか手拍子のようなモノが聞こえた。
「カンナも、それにそこの旅人さんも、そこまででいいかい?」
知らない声に旅人と呼ばれ、ようやっと落ち着きを取り戻した僕の前に現れたのは、妙齢の女性と守衛と思しき男性が一人。
サッ、と血の気が引いて自分の顔が青ざめていくのが分かる。
「……あ! えっと、これは、その……!」
「はいはい、一部始終は見てたから安心なさいな。別にお前さんを捕らえようだとか考えてないよ。……あぁ、アタシはアズサってんだ。ここで立ち話ってのも何だし、よかったら一緒にウチの事務所までご足労願えるかい?」
「わ、わかり……ました……」
突然現れた女性にちょいちょいと手招きされ、僕はこの街で一番大きな建物へと向かっていった。




