08
最初の目的地が海であると聞いたとき、私は喜びで踊りださんばかりだった。元の世界にいるときから、海が大好きだった。季節外れや夕暮れ時の静かな海で、ぼんやりするのが好きだ。まあ、実家から海は遠く滅多に行けることは無かったのだが。だから尚更嬉しく感じたのかもしれない。
それでも海へ行くまでには丸一日以上かかるそうで、初日の夜は野宿することになった。元の世界にいたら断固として拒んでいただろうが、この穏やかな森の中で眠ることを嫌だとは思わなかった。木々の間の開けた場所に五頭の狼が大きな円を作り、真ん中で火を焚いた。城から持ってきたパンに肉を挟んだだけの簡単な食事を摂り、横になった狼に背を預けて座っていると急に睡魔が襲ってきた。
「……なんか急に眠くなってきた」
「慣れない移動をしたんだ。無理もない」
「乗ってるだけっていっても結構難しいんだね。何回かほんとに落ちるかと思ったもん」
「そうだろうな。ゆっくり休んで明日に備えろ」
「うん」
「流星様、お休みになるならせめて毛布を掛けてくださいな」
プリマヴェラさんが荷物から毛布を出して、掛けてくれた。
「ありがとう」
火が弾けるぱちぱちという音、風の音、揺れる葉の音、地面の冷たさ、狼の身体の温かさ。どれもが心地いい。次第にうつらうつらし始める。ぼんやりとする視界の中で、カランバノがこっちを見ていることに気が付いた。何か言いたそうなその瞳は、けれどいつも何も言わない。なに。って聞いても答えてくれなさそうだ。そんなことを考えていたら眠っていた。
翌朝、香ばしい匂いに釣られて目を覚ますと、すでにカランバノもプリマヴェラさんも起きて行動していた。二人とも私より後に眠ったはずなんだけどなあ。そして私はもふもふに塗れて、朝まで熟睡していたらしい。自分の想定外の逞しさに、感心と呆れを感じる。
「あら、おはようございます流星様。只今お食事の準備をしておりますので」
プリマヴェラさんはたき火で、朝食用の肉を焼いてくれていた。この世界の食事は元の世界とそんなに大きくは変わらない。動物の肉も食べるし野菜も食べる。食材になる動物や植物は皆、精霊の力を持たなかったものたちだ。例えばカランバノのような狼でも、精霊に愛された者は人型を得て騎士や警備兵などと言った職を得ることが出来るが、精霊の力を持たない者は私たちを乗せて走ってくれている彼らのように、使われる側になるのだという。カランバノが教えてくれたその話を私はとても不思議な気持ちで聞いていた。
同じ種族として嫌じゃないの、と。すると彼は、同じ種族だが同じ存在ではない。だからこそ俺たちは食糧や騎乗種となる者たちに敬意を示さなければいけないがな。といつも通りの落ち着いた声音で答えてくれた。
それからの私は日々の食材に、より感謝するようになった。
プリマヴェラさんが作ってくれた簡単なサンドイッチも、空気の美味しさがより美味しさを引き立てる。
「ねえねえ、カランバノ」
「なんだ」
「ちゃんと寝れたの?」
「お前に心配される必要がないぐらいにはな」
「ほんとさ……」
「なんだ」
「他に言い方無いのかよランキングナンバーワンだよね」
「お前は……」
カランバノの額に思いっきり深い皺が刻まれる。そんなやりとりを見てプリマヴェラさんが可笑しそうに笑った。良い朝だ、と思った。
朝食を摂り終え、簡単にストレッチをし荷物を纏めるプリマヴェラさんを手伝った。二人で片づけをしているとプリマヴェラさんが小さな声で呟いた。
「流星様はカランバノ様の扱いがお上手ですわね」
「へ? 私が?」
「ええ。カランバノ様がしてやられたなんて顔をされるところを始めて見ましたわ。みなさん恐れ多くてとてもあんなこと言えませんもの」
「……それはなんていうか、私たちが仲悪いからじゃないかな」
「あら、傍から見ると仲がよろしいように思いますけど」
そう言って含み笑いをするプリマヴェラさんに、私は言葉を失くした。仲が悪いって言うか、仲良くなる方法がまったく見当たらないんだよなあ……。
ときどき前を行くカランバノや並んで走るプリマヴェラさんに質問をしながら、走っていた。そんなときだった。先頭を行くカランバノが鋭い声を出した。
「止まれ!」
それを合図に五頭の狼は足を止め、それぞれに低く唸り歯を剥き出しにする。
「なんなの?」
「……静かに」
カランバノが私を黙らせて視線を張り巡らす。ちらりと振り返ったその表情はいつになく険しい。さすがの私も不穏を感じて、押し黙った。
「プリマヴェラ、流星を頼む」
「はい」
そう言うとカランバノは狼を降り、プリマヴェラさんが狼ごと私の後ろに回る。そして一頭の狼が私の傍に寄ってきた。私が乗っている狼も威嚇するかのようにうなり続けている。
「……来るぞ!」
一頭の狼が吠えるのとカランバノがそう叫ぶのと、剣を抜くのはほぼ同時だった。私たちの進行方向の斜め右の木々の間から、何かが飛び出してきた。それは一気にカランバノに襲いかかる。ギィンと重たい音がした。それはカランバノが剣で、向かってきた何かを退けた音だった。
何か、としか言えないそれは正確には三つの頭を持った獣だった。ライオンと牛と鷹の頭部と尾は蛇だ。それが二足歩行で立っている。二本の腕も脚も、そのすべてがバラバラだった。異なった特徴を携えている。ひどくちぐはぐな生物だ。
三つの頭がそれぞれ違う声音で咆哮する。
「なにあれ……」
「あれは混合獣です。精霊の力は必ずしもわたくしたちの味方になってくれるわけではありません。彼らは精霊の力に飲まれたものの集まり。理性を失い力を求めて彷徨い、獲物を殺して食し己の一部に加えるのですわ」
「そんな……」
「あれのように精霊の力に飲まれたもののことを、堕獣と呼びます」
三つの頭と二つの腕と二つの足と尾がそれぞれにカランバノを狙う。貪欲に純粋な衝動に従って。力に飲まれる前はそれぞれ別の個体だったのだろう。それがひとつの生命体となって理性を失う。精霊の力を持たない狼からですら意志を感じるのに、彼らの感情はどこへ行ったのだろう。美しいカランバノとつぎはぎだらけの生物が対峙する様は、ひどく残酷なものに思えた。
華麗に立ち回るカランバノの動きは何処までも計算されつくされていて、容易く尾を断ち切る。腕を切る。鷹の頭を切り落とす。痛覚は共有されているのか、残り二つの頭が悲痛な叫びを上げた。胸が、引き裂かれそうだ。見ていられない。
最後にカランバノが、混合獣の胸を貫いたことによってちぐはぐな生命は活動を止めた。森に静けさが戻る。知らないうちに狼の背を降りて、動かなくなった混合獣の元へ駆け寄っていた。
「おい……っ」
カランバノの声が聞こえる。私はばらばらになった生物の断片を一か所に集めた。
「堕獣になったものは二度と精霊には戻れない」
肩を掴まれた。だけど私は混合獣から目を離せなかった。
「ごめん……」
そんなことしか言えなくて。だけど祈りを込めて胸の前で星を切った。
すると私の胸から光が溢れて、混合獣のバラバラになった身体を包み込む。そして身体は光を纏って光とともに小さな粒子となって空気に漂った。その一粒が私の胸へ戻って来る。言葉も聞こえなければ映像を見たわけでもなく、ただずきんと胸が強く痛んだ。力に飲まれ言葉を失くした彼らの、形なき想いだと思った。
「うん、わかったよ……」
あなたたちの無念は、痛みとして私の胸に確かに刻まれたから。
私の心の言葉が通じたのか、光は霧が晴れるかのように消えていった。
「お前は堕獣までも癒せるのか……?」
「わかんないけど、安らかに眠ってほしいとは祈ったよ」
薄青色の瞳が珍しく見開かれていた。プリマヴェラさんの表情にも動揺の色が滲んでいる。
「俺たちこの世界の住人は死んだら身体を失い、光となって精霊に戻るんだ。そして新たな身体に宿り、転生する。少なくともそう信じられている」
「うん」
精霊と言うのは、元の世界で聞いたいわゆる魂みたいな扱いのものなのか。
「だが堕獣は死んでも精霊に戻ることができず、生まれ変わることができないんだ。輪廻から外れた存在になる。それをお前は……救った」
堕獣として斃れた彼らは、しかし光となって大気に消えた。精霊してこの世界を漂い、やがて新たなる身体に出会い生命を受ける。私は、私の力は、死せる者にまで影響を及ぼすことができるのか。話が壮大過ぎて、いまいちピンと来なかった。
「……行こう、カランバノ。プリマヴェラさん」
光が消えた場所に背を向け、狼の背に座る。彼の首筋をそっと撫でた。さっき受けた痛みを、消えたはずなのに感じる気がした。
私の横を通り抜け、それぞれの狼に跨る二人に小さな声で呟いた。
「もし、この先また堕獣に出会うことがあったら……。戦ってほしいな。私にできるなら癒してあげたい」
それを望まれているのか、わからないまま。
光となった堕獣は、空に消えた。巡り巡って再び生を得るために。私は本来であれば転生をすることが叶わない彼らに、導きを与える。反対に私が出会えなかった堕獣たちは、力を求めてこの世を彷徨い理性も意志も失くし、やがて訪れる死を待つ。
自分の役目の重さに息が止まる思いがした。傷ついた者たちに癒しを与える力。流星である私にしか使うことができないという力。ならば私が癒してあげられなかった者たちは、苦しみから救われることはないのだろうか。
「……ああ」
背中から声が返ってきた。こういうときぐらい、少しでもいいから振り向いて目を見て答えてほしかった。