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境界付近の辺鄙な土地を抜け、人間たちの世界の中心に進むにつれ、それでも地上は栄える様相を見せた。
「もうじきだ」
ジュリアンが呟く。
「もうじきに我が城に着く」
「うん」
人間たちを治める王が住む城へ連れて行ってほしいと言ったのは、私だ。そもそもは城でなくとも世界で一番高い場所であるならどこでも構わなかったのだが、それが城であった。世界の全てを見渡すことは不可能でも、少しでもそれに近い場所に行きたいのだ。
「もしもお前の策が失敗すれば、我らは侵攻を再開せねばならなくなる」
「うん。……わかってる」
ジュリアンの言葉に頷く。心臓が大きな音を立てている。口の中も乾いている。目的地が近付くに連れて緊張が増す。もともと小心者の私が緊張しないわけがない。元の世界に居たころは教室内での六人グループの発表のリーダーになることさえ、私には荷が重かったのに、結果的に今では世界の命運を握ってしまっている。風にはためく髪からは絶えず星の光が舞っている。
不思議だ。今までのことが、すべて。猫を助けようと思って車道に飛び出して、気がついたら木が動く不思議な世界に居て、王様は竜で、いつのまにか凄い力を持ってて、いろんなひとたちに出会って。あれよあれよとここまで来たけれど、本当にたくさんのことがあった。いつのまにかなんとなく適応してしまっていたけれど、改めて思い返せば不可思議なことばかり。こんな世界でやってこられたのは、優しく受け入れてくれたひとたちがいたから。そして彼らが精霊という名を冠した、私が愛する動物たちであったからだ。
なんだかとても清々しい気持ちだ。この世界に来て、本当に良かった。元の世界に居た頃は自分自身も周りの人たちも好きじゃなかった。大切に思えていなかった。だけど今は、命を賭けてでも護りたいってひとがたくさんいて、彼らは少なからず私を想っていてくれる。それだけで、もう充分だ。背中があったかい。温もりと鼓動を絶えず感じている。彼が、ここにいる。心が満ち足りている。たぶんこんな感情を、幸福だと呼ぶのだろう。
「見えた。あれだ」
遠くに見える城は、境界を越えてから今までに見た建物とは一線を、それどころか幾線も隔している。横にも縦にも巨大だ。城自体が世界を分断する壁のように、その場所に圧倒的に君臨している。両端が最も低く二階建ての民家の背丈と変わらないぐらいだが、中心に向かうにつれ、次第に背を高くしている。最も高いところはどれくらいあるのだろう。少なくとも一番端の建物を十ぐらい重ねたぐらいはありそうだ。その一番高い塔の天辺には鐘が付いており、その先には四角垂の屋根がある。鐘楼の、鐘が吊るしてある部分。その縁に人が立てそうなぐらいの幅があった。
「アルス! あの城の鐘のある塔に降ろしてほしい!」
「了解した」
直ぐにアルスは速度を緩め、鐘楼に向かって高度の調節をし始めた。
「ジュリアン、私、あそこに降ります!」
すぐさま同じ内容をカランバノにも伝えた。
鐘楼に近づくと撞木が見えた。人が撞くのだから、人が立てるぐらいの余裕があるのは当たり前か。どくんどくんとまるで目の前の撞木に撞かれているかのように、心臓が大きく脈打っている。私なんかが本当に戦いを止めることができるのだろうか。不意に弱気な思いが首を擡げてきて、慌てて打ち消した。できるかできないかじゃなくて、やるしかない。そんな言葉を耳にしたことがあるけれど、まさしく今がそのときなのだろう。
ふと下を見下ろすと、城下町や城の辺りで空を見上げている人影がいくつも見える。訳を知らない市民が竜が飛来するところを見たら恐怖を覚えるかもしれない。もしくは自軍が負けたと誤解することも有りうる。そこまで思い至らなかった自分を責めた。だけどそれは許可したジュリアンの責任でもある。そういうことにして無理やり頷いた。
アルスは黒い巨躯を鐘楼へと寄せ、翼を羽ばたかせたまま水平を保つ。まず戦士が飛びうつり、ジュリアンがそれに続く。私も下を見ないようにしながら跳び移ろうとして、カランバノに腕を取られた。
「カランバノとアルスはちょっと待ってて」
「此処まで付いてきて、今更そんなことはしない」
そう言って鐘楼へ跳び移り、手を伸ばす。私は肩を竦めてはみたものの、内心では嬉しかった。ひとりでないことが心強い。差し出された手を取り一思いに飛び降りた。そうして全員が背から降りるとアルスは人の姿へ変わり、同じく鐘塔の縁に並んだ。
目を閉じて鼻から大きく息を吸い込むと乾いた土の臭いがした。風にも同じく砂が含まれているようで肌がざらつく。いつの間にか夜は完全に明け、雲ひとつない青空に太陽が燦々と輝いている。見える範囲内の世界を見渡す。この世界のどこかにジョシュアもいる。彼と出会い別れてからもう数カ月が経つ。もしかしたらもう彼の娘さんは亡くなっているかもしれない。だけど今もどこかで自分の死を、愛する人の死を、ただ怯えて待っている人がいる。彼らを救おうと血を流す人がいる。その報復をしようとするひとがいる。想いは哀しみや憎しみに染められながら、そうやって繋がっている。
それを今、断ち切る。戦いで無理やり断つのではなくて、世界に癒しと許しを齎すことで。
風が吹いて髪がたなびき、星の光が散る。地上から離れたこの場所では生活の喧騒も空を飛ぶ竜の身体が風を切る音も無い。ただただ静かだ。自分の鼓動だけがやけに響く。
「大丈夫か?」
カランバノがすぐ右隣にいて、その奥にはアルスが。反対側にはジュリアンと兵士がそれぞれいる。皆何をしようとしているのか、碌な説明もしていないのに、私を信じて着いてきてくれた。それだけでもうありがたい。心臓はまだ暴れている。現実から目を背けて布団に潜って目を瞑っていたい。その気持ちは変わらない。だけど。
深く息を吸う。そして自分に言い聞かせるために口を開いた。
「大丈夫」
私がやらなくちゃ誰がやる。私自体はちっぽけだ。本当につくづく嫌気が差すけれど取るに足らない存在だ。だけどそんな私でも璃久と同じ力を継いだんだ。全てを賭けて世界を護った少女の力を。それにこんな私を信頼して一切合財を託してくれているひとたちがいる。だからやらなければならない。
「いきます!」
暖かい胸に手を当て、目を閉じる。呼吸の音。心臓が動く音。それからずっと優しい唄が聞こえている。子守唄の代わりにでも母が唄ってくれていたのだろうか。聞き覚えのある懐かしい唄だ。大きく息を吸う。私はその唄の歌詞を知らない。だけど誰かの声音になぞって唄えばきっと大丈夫。璃久が全ての力を使い果たした後、光になったように、私もまた光になって消えていくかもしれない。もっと別の何かが待っているかもしれない。だけど大丈夫。皆のためだから。もう一度自分にそう言い聞かせ、口を開いた。




