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「まさか竜の背に乗る日が来るとはな」
金髪の男が水平線に姿を消そうとしている太陽を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「私もこんなこと想像さえしなかったよ」
男は溜息を吐いた。
「我が名はジュリアン。人間の世を統治している父の代わりに、此度の遠征の指揮を執っているのだ」
「私は環奈。別の世界から来たんだけど、流星の力のお蔭で精霊の王の元に置いてもらえてるんだ。この白い髪のひとがカランバノで、今乗せてくれてるひとが私たちの王、アルスだよ」
「そうか……。我は今、魔王の背に乗っておるのだな」
「もう、だから魔物じゃなくって精霊なんだってば」
私が訂正すると金髪の男はさも愉快そうに大きな口を開けて笑った。
「お前は本当に変わった女だな」
「……よく言われるけど」
「魔物たちのなかで良く今日まで生きてこられた。よほど悪運があるのだな」
「精霊たちは危ない存在じゃないもん」
「……そうなのかもしれないな」
ジュリアンは静かにそう呟き、目を伏せた。
「境界を越え城まで来る間に様々な景色を見た。どれも我等の世界よりよっぽど美しいものばかりだった。其れに比べ我らの世界は……、お前の云う通りだ。滅びに向かっている。己の欲の限りを尽くしてきた我らに下された天罰なのかもしれぬな」
「え……?」
ジュリアンは自嘲の笑みを浮かべ、それきり黙りこんだ。
竜の背に乗った四人は誰も口を利かなくなる。アルスの翼が風を切る音だけが聴覚を占める。目下には精霊の世界が広がっている。新緑に色塗られた世界は穏やかで、美しい。言葉ではなく、この景色がジュリアンに何かを訴えかけたのだろう。
そして次第に空が白んでくる。もうすぐ日が昇る。また新しい一日が始まる。そんな頃だ。
「じきに境界だよ」
アルスの声ではない声がどこからか響いてきて顔を上げる。竜の首が向く先に視線を移すと、そこに不思議な光景が広がっていた。璃久が光となりそして姿を変えた大樹が安らかに立っている。しかしもはやそこには璃久の存在は微塵も感じられない。あの大樹は世界を分断する役割を終え、樹としての生命は維持しているものの、静かなる眠りについているのだ。問題なのはその奥だ。樹の先、僅か数メートルのところからまるで視えない線でも引かれているかのように、全く違っている。さながら別の色しか持たないパレットで絵を描いたかのようだ。青々とした精霊たちとの世界の先、かつて璃久の結界があった場所からは茶色と灰色の色褪せた世界が広がっている。余りの差に言葉を失くした。奇妙なのだ。こんなにもはっきりと、目に見えて世界の色が異なるものなのだろうかと。
緑と灰の境界を越えた頃、ジュリアンが閉ざしていた口を開いた。
「此れが我らの住まう世界だよ。干ばつが起こって水源が枯れ、作物や木々も次々に朽ちていく。未だ残っている地域もあるが、全市民の食糧を賄えるほどでは、とてもない」
ジュリアンの言葉通り、ところどころ樹が立っているものの、枝は痩せ、葉は付いていない。乾ききった地面はひび割れを起こしている。風が吹くと細かい砂や誇りが舞いあがり、景色が濁った。ぽつぽつと人が暮らしていそうな家が並ぶ地帯がある。それでも何を食べて命を繋いでいるのか不思議なほど、周りには何も無い。この寂れた集落のどこかにジョシュアも暮らしているのだろうか。
「我らは……、我ら人間は。魔物たちを軽蔑し、憎んできた。我らの世界をこうも陥れたのは奴らなのだと。魔物たちの呪い、魔の力に我らは苦しめられているのだと」
「それは……」
私の反論を、ジュリアンが首を振って制した。
「解っている。きっと我だけではないのだろうな。もう総ての人間が理解しているだろう。だが今更後戻りはできぬのだ。結界が解けた今、魔界へ侵攻せねば我らは滅びを待つのみになる。そんなことはできぬ。できなかったのだ……」
どの道留まっていれば滅ぶだけ。それならば禍々しい世界に侵攻するより他にない。その選択が間違っていたとしても。違和感に気づいていたとしても。易々と生きることを諦められるはずがない。その想いは、どこか私たちが抱えているものと似ている。世界に善悪なんてない。ただそれぞれの立場が違うだけ。だからと言って安易に人間たちを許すわけにはいかないけれど、ただそうなのだと感じる。
「諦めることなど、到底出来ぬ。妻と我が子の命を……」
ジョシュアの話が頭の中で再生される。彼にも妊娠している娘がいた。そもそも彼は娘を救うために境界を越えてやってきたのだ。妊娠することはできる。だが子どもが母親の腹の中で成長し、出てくるのを待つばかりの頃になるとどういうわけか母子ともに死ぬ。そんな奇病が流行っていて、もう何年も子どもが誕生したと言う話は聞かないのだと。
「妻はもう八ヶ月目になる。一刻も早く何とかしなければ、彼女も子供も……死ぬ。其れが解っているにも関わらず、優しい目をして腹を撫でる妻に、運命だから諦めろ、人間は滅ぶしか無いのだ、などと誰が言えるだろうか」
ジュリアンの堅く握りしめられた拳が震えている。事情を知っているのだろうか、後ろの戦士も顔を歪めた。それぞれの立場がある。私がもしジョシュアやジュリアンの立場にいたら、きっと大切なひとを護るためにできることはしたいと必死になったかもしれない。その結果相手の事情を想いやる余裕なんて失うかもしれない。正しいのは自分だ。敵は悪なのだと言い聞かせて。
立場の異なる多くのひとびとの想いや望みが交錯し、複雑に絡まり合ってしまったことを憂う。全ての始まりはきっと愛や希望や、暖かいものだったはずなのに。
そっと目を閉じると、色んなひとの顔が浮かんでくる。傷付き治療中に死んでいったひと、娘のために危険を冒したジョシュア、結婚式の日に幸せそうに微笑んでいたプリマヴェラさん、私が泣かなくて済む世界を作るために戦地へ赴いたグラシアさん、愛するひとと誇りのために必死で剣を振るうイセベル。
彼らのことを思えば、人間たちの事情を聞いても仕方ないで済ませることはとてもできない。だからこそ私のような存在がいるのだと思う。人間でありながら精霊に属し、どちらも持ちえない能力を持った私が。
複雑に絡み合い哀しみへと色を変えた想いを、救うために。




