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下へ降りて行くと、敵が攻めてきたときに慌てて中庭から慌てて運び込まれた怪我人は、あらゆる部屋という部屋に収容されたらしく、廊下は平穏を取り戻していた。ときどき戦士や使用人たちが行き交うが、それ以外は静かだ。
このまま何事もなく終わってくれたら、どんなにいいことだろう。だけど数時間後か数日後かはわからないけれど、人間たちがこの城まで攻めてくるのはもはや避けられない未来だろう。そんなときでも怯まず、うろたえず、私にできることをやらなければ。
大広間の巨大な扉の脇の石壁に背を預け、首をこくりこくりと前後に動かしている戦士の姿が目に入った。頭の動きに合わせて雪のように白いポニーテールがゆらゆらと揺れている。
「……おつかれさま、イセベル」
その傍に座り込み、手を翳した。顔は粉塵や煤、血で汚れている。彼女は疲れた身体を引き摺り、隊長が不在の隊を懸命に率いていた。そして今は彼の帰りを待ちわびている。
彼女の身体に光を注ぎ込む。怪我も疲れも癒えるように。それが終わり、立ち去ろうとしたとき、イセベルが薄く目を開けた。
「かあさま……?」
そうぽつりと呟くと、また瞼は閉じられた。
グラシアさん。あなたは私を娘にしてくれると言ったけれど、私はきっとあなたの本当の子どもたちには到底及ばないと思う。ときには自分の想いまで隠して、ひとのため世のために戦っている。傷だらけになって死ぬかもしれない怪我を負ってまで。私はそんなふうにはきっと、できない。だからこそ私は彼らを護りたい。彼らが戦わなくても済むように、世界を導きたい。
イセベルの頬にこびり付いた粉塵を手で拭い、今度こそ背を向けた。最も怪我人が多くいる大広間の扉を押しあけた。床一面に隙間なく怪我人たちが並べられ、呻き声が反響している。横たわるひとびとの間の狭い通路を使用人たちが忙しなくあちらこちらと歩きまわっている。
プリマヴェラさんの姿はすぐに見つけることができた。足もとの患者を蹴飛ばさないように気を付けながら駆けよると、彼女も気配に気が付いたのか、手当てをしていた手を止め、顔を挙げた。その顔がぱっと明るくなる。
「流星様!」
そして立ちあがり、できうるかぎりの速度で駆けよって来て、飛びつくように抱きしめられた。
「よかった……! ご無事だったのですわね!」
「うん。プリマヴェラさんも無事でよかった」
「わたくしは、全然なんともありませんわ。ああ、本当によかった……!」
その声に嗚咽が混じるのを聞き、プリマヴェラさんの背をそっと撫でた。
人間たちが攻め込んできたそのとき、非戦闘員は城内へと退避しなければならなかった。だけど私は自らの意志で、逃げられないカランバノの傍に留まることを選んだのだ。自分が死ぬとかそういうことは一切考えていなかった。ただこのままのカランバノをひとりきりで置き去りにするわけにはいかないという想いしかなかった。いつ敵が侵入してくるかわからない差し迫った状況で、とある使用人は城内へと続く扉を閉めるのを、私が来るまで待っていてくれた。私を見捨てるわけにはいかないと思ったのだろう。だけどプリマヴェラさんは、私を見捨ててくれた。私を待たずに扉を閉めたのだ。そうしてくれて、本当に助かった。あのままではきっと城内にまで敵が侵入していただろう。私のわがままを許し、そして城内のひとびとを護ってくれたプリマヴェラさんの判断に、私は感謝していた。けれど一方で彼女には私を見捨てたという罪の意識に苛まれていたのかもしれない。私は自らのわがままで、彼女に負わなくてもいい痛みまで負わせてしまっていた。
「ありがとう、プリマヴェラさん。あのとき扉を閉めてくれて、本当に嬉しかった」
「でも、わたくしは……」
「プリマヴェラさんはいつだって私の気持ちを優先してくれるね。いつも本当に感謝してるよ」
「流星様……」
そう声を詰まらせながら私の顔を見た途端、目が見開かれた。
「髪が……、もしかして」
「そう。力が戻ったんだ」
プリマヴェラさんは両手で口を覆った。信じられないという表情そのものだ。
「だから協力してほしい」
「わたくしにできることでしたら、なんなりと致しますわ」
「ありがとう」
そう言って改めて大広間を見回す。本当に数え切れないほど多くの人が傷を負って臥せっている。自分自身に頷いて、プリマヴェラさんの目を見据えた。
「本当は今すぐ全員を治してあげたいんだけど、私の力は使い放題じゃない。限界を越えるとたぶん、倒れる」
プリマヴェラさんが頷く。
「今は倒れてる暇なんてないから、治療に優先順位を付けたいんだ。まず重傷者と戦えるひとを優先しようと思って……、だからさ、その」
「わかりましたわ。対象になるひとを選り分けましょう」
「ありがとう」
「いいえ。流星様のお手伝いをすることが、本来のわたくしの仕事ですもの。……それに」
プリマヴェラさんの笑顔に首を傾げると、彼女は人差し指を立てた。
「やっと敬語を止めてくださって、嬉しいのですもの」
「あっ!」
そうだ。ずっと敬語を使って話していたけれど、今は自然と外れていた。プリマヴェラさんは、疲労の滲むその顔で、それでも悪戯っぽく笑った。
「さあ、ひと頑張り致しましょう!」
ふたりで患者の元を周り、流星の力が必要なひとには治療を施す。そうでないひとは、心苦しかったが、飛ばした。私が倒れてしまえば、救えるはずのひとも救えなくなると自分に言い聞かせて。
重傷者、重篤者を五十人ほど癒すと、眩暈が襲ってくる。そうなれば無理をせず休息を取る。それを繰り返しながら日々を送った。その内に一日に癒せるひとの数が増え、傷の癒えた者は戦士たちに合流した。しかし新たに戦地から傷付いた帰ってくるひともおり、力を使えども使えども怪我人がいなくなることはなかった。
そんな日々のなかで最も嬉しかった瞬間は、境界警備隊が、満身創痍になりながらも城へと帰還したことだった。隊長の代わりに城の中で戦士たちを纏めていたイセベルが報せを受け、真っ先に飛んで行った。そしてジャーマの顔を見た瞬間泣きだす姿を、その頭をジャーマが優しく撫でる姿を見て、私まで鼻を啜った。
だが彼らの帰還は、悲報を供だったものだった。アルスに用があるからと、ジャーマさんは治療も受けずにそそくさと去っていき、私はプリマヴェラさんと手分けして怪我人を部屋に案内した。
最前線で戦っていた境界警備隊の隊長が返ってきたということは、もはや敵を食い止める戦線は無くなった。いや、この城まで迫ってきたのだ。これでもういつ攻め込まれてもおかしくない状態となった。竦みそうな足を、涙を拭うイセベルの姿が励ましてくれた。
もう彼女が、彼女の想い人が戦わなくてもいい世界にしよう。
そのためには今自分ができることを精いっぱいやらなくてはいけない。息を一つ吐いて、怪我人が待つ部屋へと戻った。
境界警備隊が帰還して二日目の夜のことだ。大広間で怪我人を癒していると、けたたましい音とともに扉が開かれた。
「人間軍が迫っている! 戦える者は手を貸してくれ! 動ける者は至急上階へと避難しろ!」
飛び込んできた戦士の声に、治療を施していた怪我人が顔を挙げた。
「……ついに来ちまったみたいですね」
「そうだね」
「まあ治してもらったぶん戦いますから。流星様は安心してください」
そう言って豹の青年はにかっと歯を見せて笑った。
「……無理は、しないでね」
「もちろんっす! 流星様に拾ってもらった命をみすみす捨てるわけにはいかないっすから!」
「流星! いるか?」
扉へと目を戻すと、イセベルが立っていた。
「ここだよ!」
そう手を挙げると、ポニーテールを揺らしながら駆けよってくる。
「聞いたか? 人間軍がもうすぐそこまで迫ってる。お前もさっさと上に行け」
「まだ大丈夫だよ。敵が来るまでにまだちょっとは時間あるでしょ」
「戦えないお前が、ぎりぎりになって逃げ遅れたらどうする?」
「手遅れになる前には絶対逃げるから。もう少しやらせて」
「……くそっ。いざって言うときにあたしが護ってやれるとは限らねぇんだからな」
「わかってる。無理はしないってカランバノにも約束したから」
イセベルはちっと舌打ちをして、忙しそうに大広間を出て行った。
「あたしが護ってやれるとは限らねぇ、か……」
思わずひとりごちて、笑ってしまった。いつだって口こそ悪いものの、私のことを気遣ってくれている。戦いが終わったら、イセベルともゆっくり話がしてみたい。そうすれば今度こそ本当に友だちになれるような気がする。
足を負傷していないひとや程度が軽く自力で動ける者たちは続々と大広間を出て行った。おそらく他の部屋でも同じように移動が始まっているだろう。そのなかで私はひたすら残されたひとたちの治療を行っていた。
大広間に残るのは、あと二十と少しぐらいか。ひとりの治療を終え、立ちあがった瞬間、くらりと来た。思わず膝を着く。正確に数えていなかったからわからないが、今日はもう百五十に近い数の怪我人を癒していたと思う。だけどせめてここにいるひとは癒してからでないと、逃げる気にはなれなかった。脳裏に浮かぶカランバノの顔に、ごめん、短く謝って次の患者の元へ足を向ける。それは唐突にやってきた。急にぷつんという音がし、何も見えなくなった。暗闇の中で身体が重力に引かれ、冷たい床に頬をぶつけ、そして感覚が途切れた。




