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にゃー。
「……え?」
唐突にこの場に似つかわしくない猫の鳴き声が響いた。辺りを見回しても猫らしきもの、猫族の者は見当たらない。むしろこの部屋にはアルス、イエロ、カランバノそして私の四人しかいないのだ。
にゃお。
聞き覚えのある声だ。懐かしくて、優しい。絶望と悲しみに侵されて、希望を探すことさえ頑なに恐れていた心にそっと温かい風が吹き込んでくる。
にゃあ。
そう。そうやっていつも私が寂しいときには傍にいてくれた。
「やっと謎が解けたよ」
アルスがいつもの穏やかな笑みを私に向けた。
「何故人間であるきみが我々と言葉を交わすことが出来るのか、実は不思議に思っていのだ」
「え……?」
「そういうことだったのだね。ほら。きみにも視えるかい?」
アルスが指した私の右肩あたりに、温もりを感じる。そしてそれが頬に触れた。ざらっとした痛みを感じるような感触だった。それは、まるで猫の舌で舐められたように。
「やっと姿を見せてくれた。美しい黒猫だね。流星、きみのことをまるで妹のように思っているようだ」
「妹って……」
そう言われて思い当たる節がある。私の方が早く生まれているのに、彼女はいつもそうった。私を護るべき存在だと見なして、私の世話をしているかのような行動をすることがあった。ずっとずっと一緒に暮らしていたのだ。私がひとりぼっちの夜も、傍に居てくれたのだ。
「クロちゃん……」
にゃー。
今思えば子どもらしい安易で捻りの無い名前だと思う。けれど私がその名を呼ぶたび、時には嬉しそうに時には気だるそうに応えてくれていた。彼女の命は尽き、身体は朽ち果てたけれど。
「今までずっと傍にいてくれたんだね」
にゃー。
当たり前でしょ、心配でとても放っておけないわ、そう言われているような気がした。ひとりぼっちでこの世界にやってきたと思っていた。だけどずっとクロちゃんがそばに居てくれた。
「きっときみは彼女を通して、私たちの言葉を理解したり話したりしていたのだろうね」
右肩が温かい。一緒に暮らしていたときも彼女はよくこうやって肩に飛び乗ってきた。ときどき爪が当たって痛かったけれど、それすら笑っていた。視界に涙が満ちていき、そして溢れた。どうしてだろう。決して忘れていたわけではないのに、随分長い間彼女の存在を自分から切り離してしまっていたような気がする。ずっと傍にいたことに、私は気が付けなかった。やっと気が付けるようになったのだ。
にゃおん。
今まで、だけじゃないわ。言葉にしてそう言われたわけではないけれど、確かにそう言っているように思えた。彼女の存在は、私には視えない。だけどあの頃と同じ温もりをしっかりと感じる。それがゆっくりと移動して、左胸の辺りで止まった。
「これからも、だね」
にゃー。
温もりが凍りついた私の心に入りこむ。諦めたほうが楽だなんて、そんな考えはもう捨てたい。璃久みたいに最期まで、大切なひとたちを護るために絶望に抗いたい。
温もりに満ちた左胸に触れる。渦を巻いているのがわかる。温かな光が渦を巻き、それが少しずつ解けて身体中を巡る。首から頭へと登っていき、毛先まで一本一本行き届く。
「カンナ、おまえ……!」
身体中が温かい。こんな感覚は久しぶりだ。薄い金に色を変えた髪を梳くと、星の光が舞い散った。胸に渦巻く光を感じる。
「力が戻ったのか?」
目を見開き、問いかけるカランバノに頷いて見せた。
私の力の源は、クロちゃんと過ごした日々の思い出だ。彼女を慈しんだ記憶。彼女を愛する想いが、精霊たちの世に癒しを齎す流星の力そのものなのだ。
誰の説明を受けなくとも自然と理解できた。心が温かいもので満たされている。こんな安らかな気持ちになったのは久しぶりだ。流星の力が戻った。もう少し早ければ、もっと救えたひとがいたかもしれない。そう思うけれど、今は目を瞑ろう。やっと私にもできることが見つかったのだ。今は精いっぱいやらなければ。
「カランバノ」
白い巨躯に手を翳す。左胸から光が溢れだし、腕を伝わっていくのを確かに感じる。
「……あまり無茶はするなよ」
「わかってる。今ここで私が倒れるわけにはいかないもん」
どこからともなく風が生まれ、髪がそよぐ。眩しい光が舞った。以前と異なるのは、目を閉じる必要がなくなったということだ。視界をシャットアウトし、脳内で懸命に想像しなければ力を使うことはできなかったが、今では癒えていく怪我の状態を見ながらでも力を使える。
眩い光に全身を包まれたカランバノからは、あっという間に数々の傷は消えて行った。力を止めて、ふうと短く息を吐く。一筋の汗がこめかみを伝った。
「どう?」
私の問いかけに、カランバノの身体がもう一度光を放つ。私の力が及ぼしたものではない。白い巨大な狼の影は光の中でするすると解けていき、やがて人型へと変わった。
「……良さそう、だな。人型を取れるくらいの力も戻っている」
「よかった」
「お前は大丈夫なのか?」
「私も平気だよ」
カランバノは自分の手を、拳を結んだり開いたりしている。まるで感覚を確かめているかのようだ。そんなにも長い間、人型を取っていなかったのだろうか。なにはともあれ、カランバノが無事でよかったと改めて思った。
「それじゃあ、私行ってくるね」
カランバノもアルスまでも怪訝な顔をした。
「行くって何処へだ?」
「下に。怪我してるひとを少しでも助けてあげなくちゃ」
「何人いると思ってるんだ? それでもしもお前が倒れたら……」
「わかってるよ。だけど……」
戦が始まるかもしれないと、皆が戦わなくてはならなくなるかもしれないと聞いた日から今までの日々が脳裏を過る。誰もが命を賭けていたそのときに、私は流星として特別待遇を受けてきたにも関わらず、何もしてあげることができなかった。傷付いたひとを目の前にして、心のなかで謝ることしかできなかった。そして私はもどかしさの中で、いつもまにか絶望に甘んじるようになっていた。皆が一緒なら死んでもいいなんて、もう嘘だ。皆が一緒だからこそ、もっと生きていたい。そのためにできることがあるのなら、やるしかない。
「前みたいな無理はもうしないよ。しないって約束する。だけどやっと私にもできることが見つかったの。それを無駄にしたくないんだ」
「カンナ……」
「カランバノはもう散々戦ったでしょ。次は私の番だよ」
「ならば俺も共に行こう」
「いい。カランバノはここで休んでて。あとアルスが変なことしないように見張って。いざとなればイセベルもいるし大丈夫だよ」
「お前は、本当に……」
それきり、カランバノは押し黙った。きっとこれ以上私が何を言っても揺らがないことを、彼はもう知っている。そして私にしかできないことを果たすことが、私にとっての誇りなのだということも。
「前にさ、戦いから戻ったら聞いてほしいことがあるって言ってたでしょ? 聞くよ。だから私の話も聞いてよ。今度こそ、戦いが終わったら。ね、約束しよ」
「……ああ。約束、だな」
「うん。……じゃ! また!」
カランバノ、イエロ、そしてアルスの顔を順に見て、踵を返した。私にはなにもできないと諦めていたころとはまるで違う。身体中に活力が漲っているのを感じる。




