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闇の色をした波が、月の光を浴びてきらきらと輝いている。心地のいい音に耳を澄ます。どうして波の音はいつだってこんなに優しいのだろう。何度でもここに帰ってきたい気持ちにさせる。砂浜にしゃがみこみ、目を瞑り暫くその音に聞き浸っていた。
「カンナ」
波の音よりも私を安心させる声がして、私は嬉々として目を開けた。白に見間違うほどの青色の髪と氷山を思わせる瞳。
「ここにいたのか」
「カランバノもここにいたんだね」
しゃがみこむ私の横で、彼は立ったまま海を眺めている。真っ暗な世界で月明かりとカランバノだけが明るく光って見える。
「綺麗だね」
「そうだな」
「なんか懐かしいね」
「懐かしい?」
「もう一回海に行きたいと思ってたんだ」
「そうだったのか」
「うん。海、好きなんだ」
波の音以外なにも聞こえない。静かで暗い世界にたったふたりきり。何も恐ろしいとは思わない。こうして並んで海を眺めていられたら。怖いことなんてなにも起きない場所でふたりでいれたら。私はきっと幸せだと思う。
「……いつかまた連れて行ってやる」
「今このままここにいれたら、私はそれでいいよ」
「カンナ」
カランバノが静かに首を振った。
「約束する。いつか、必ず」
その言葉が雫となって落ちて、地面に染みを作る。そこから少しずつ世界が綻んでいく。わかっていた。これは私の精いっぱいの現実逃避だと。戦いの無い場所に逃げてしまいたいと願う私の夢なのだと。夢の中のカランバノが滲んでいく。暗くて穏やかな世界は光に暴かれる。
目を覚ますと私はまだ白い狼の口元で眠っていた。身体を起こすと誰かが掛けてくれたのであろう薄いシーツが落ちた。
「カランバノ……」
名前を呼んでも反応が無い。ただ腹部が上下することが、彼が生きているという証明だった。
カランバノの世話の担当は専ら私になった。プリマヴェラさんが、私がカランバノに懸りきりになることを許してくれたのだ。毎日傷口を拭い、新しい薬草を塗り、布を清潔なものに変える。目を覚まさない内は食事の世話はしようにもできない。
身体を擦ったり声を掛けたりしながら、気がついたら傍で眠りに落ちているということが多くなった。
何日もそんな日を繰り返して、泣けてくる日もあった。城へ無事帰り着き治療を受けても、その後で容態が急変して死んでいくひとをたくさん見送ってきたのだ。真っ黒な不安が心にまとわりつく。振り払おうとしても拒めない。そんな日は白い毛並みに顔を埋めて、泣いた。早く目を覚まして。この不安を焼き払って。口の中でそう呟きながら。
カランバノが眠っている間にも戦況は悪くなっていく一途を辿っていた。ひとびとの間には、口に出さないだけで、絶望にも似た諦めが広がっていた。いつ城が攻め込まれてもおかしくないのだ。戦場は目と鼻の先にある。
だが諦めと言うのは、こうも心を軽くするものなのかと感動さえ覚える。アルスは私たちを護ってくれると言うが、もう無理だと思う。私たちが今までの暮らしに戻ることは不可能だと思う。きっと私はこの場所で死んでいく。その現実に出会ったとき、私は不思議と穏やかな気分になった。戦争が始まるとき、皆が城を出て戦いに行ってしまうときはあんなにも絶望と怒りに満ちていたのに、今は希望にも似た平穏が心の中に広がっている。
それはきっと、死ぬときは皆一緒だとわかったからだ。
私が誰かを失うことも、私だけ置いていかれることも、もうなくなる。
それは私にとって唯一の救いであり、希望だった。




