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夜の当番が終わり、次に備えて身体を休めようと湯浴みを終え、部屋で寝る支度をしていたときのことだった。ベッドの上だと張り詰めていた糸が急に切れ、眠気が押し寄せてくる。そんな中、戸を叩くけたたましい音と切羽詰まった声が飛んできた。
「流星様! 失礼致します! 流星様!」
聞き覚えのあるその声は、もともと城で働いていた使用人で今はともに怪我人の介助に当たっている女性のものだ。眠気を引き摺りながらベッドを出て、戸を開ける。
「……どうしたんですか?」
「カランバノ様がっ……!」
その名前を聞いた瞬間、さきほどまで感じていた身体の重さも疲労も眠気も微塵も感じないほど彼方へ消えて行った。
彼女の言葉を最後まで待っていられずに走りだした。裸足で冷たい廊下を駆ける。すれ違うひとがぎょっとして振り向く。息が切れる。そんなことはどうだっていい。早く行かなくちゃ。彼の元へ。
中庭に飛び出すと、朝日が睡眠不足の瞼を焦がす。それでも見えた。純白の狼が弱弱しい足取りで、心なしか足を引きずるようにして、ふらつきながら門を潜るのを。介助をしていたひとびとが支えんと駆けよっていく。一歩一歩足を踏み出すたびに、無数にある傷口から鮮血が溢れて落ちた。
「ああ……」
生きている。完全な狼の姿を見るのはこれが初めてだけれど、見間違うはずがない。あの薄青色の瞳。生きている。カランバノが、生きている。
駆けよるとその大きさがわかる。グラシアさんも大きかったが、カランバノはそれを越える。
「こっち!」
もう辛うじて立っている状態のカランバノを、空いているスペースへと誘う。薄青色の瞳が私に向けられても、私が映りこむことは無い。それほどに朦朧としている。ただ聞こえる音と本能を頼りに動いているようだ。
「そう、ここでいいよ」
開けた場所へ辿り着くと、カランバノは倒れこんだ。衝撃に砂埃と血しぶきが上がる。
「カランバノ、おかえり……」
荒く息をする口元にそっと駆け寄った。
「カランバノ様が戻られたのですね! 流星様、早く治療を致しますわよ!」
共に夜の番を終えたプリマヴェラさんが騒ぎを聞き、駆けつけてくれた。
「はい!」
その他にも幾人ものひとがカランバノの手当てを手伝ってくれる。傷口を拭いても、純白の毛並みにこびり付いた古い血液は落ち切らない。止血をしようと布を当てても、白い布がすぐ色を変えていく。
「カランバノ、大丈夫。カランバノは死なないよ。ねえ、そうでしょ」
真っ赤に染まった布を取り換える。両手で力を込めて抑えた。これが人型のときであればもっと楽だったかもしれない。けれど最早変身するほどの力が残っていないのだ。
神さま、どうかお願いします。これほど強く祈ったことはないかもしれない。私の何を奪ってもいいから、殺されたって怒らないから、どうかカランバノを助けてください。
今流星の力が戻るなら、死んだって構わない。カランバノを救えるのなら私の命なんて安い。
ぽろぽろと涙が白い毛並みに落ちて行く。汚れた両手でそれを拭った。泣く必要なんて無い。カランバノは助かるのだから。何度もそう言い聞かせた。
「止血できましたわ!」
プリマヴェラさんが叫んだ。私が抑えている傷口も段々と血の量が減ってきた。血が止まった傷口には次々にすり潰した薬草が塗られ、清潔な布が当てられた。銃を受けたような小さな穴もあれば、大きな切創もあった。このひとは本当に戦場を駆けてきたのだと、実感する。
「やっと止まった……」
最後まで血を流していた傷口も、どうにか止血することができた。傷口を軽く拭き取り、薬草を塗り、布を宛がう。カランバノは荒い呼吸を繰り返している。
「カランバノ様ならきっと持ち直してくださいますわ」
「そうだよね。きっと……」
改めて見ると本当に酷い有様だった。すでに塞がっている傷も合わせるととても数え切れないぐらいに全身に傷を負っていた。こうまでして戦って、倒れそうになるのを堪えてここまで戻って来てくれた。
「帰って来てくれて、よかった」
涙で視界が歪んだ。顔を拭ったときに付いたカランバノの血と混じって赤くなった涙が落ちる。
「おかえり、カランバノ」
そっと頬に手を伸ばした。頭部だけで私の身長くらいありそうな大きな身体。精霊の力を持った狼の姿。恐ろしさは無かった。
帰って来てくれた。再びこうして会うことができた。今はそれだけが心から嬉しかった。嬉しさを噛みしめるとともに猛烈な疲労が襲ってきた。
「少しだけだから」
今は一緒にいたいから。大きな狼の口元で身体を丸めると、鼻がひくっと動いた。
もしも私の中に少しでも流星の力が残っているのなら、頭から丸ごと食べられたって構わない。皮膚や骨が溶けて、眠っている力が内側からカランバノを治してくれるのなら。
そんなことを考えていると意識は深い眠りの中に落ちて行った。




