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私たちは交代で二十四時間傷病者の看病に当たっていた。グラシアさんの訃報を聞いてから一週間後のこと、交代でやってきたプリマヴェラさんが疲れの滲む笑顔で告げた。
「カランバノ様が流星様にお話があるそうで御座いますよ。中庭でお待ちになっているはずですわ」
カランバノと最後に言葉を交わしたのは、まだ雪の深い頃だった。忙しさにかまけてもう数カ月話していないことになる。それにグラシアさんの死を知って一番衝撃を受けているはずの彼にすぐに会いに行くことすらしなかった。かける言葉が見つからないのを忙しさのせいにして。
もしも彼が哀しんでいたら寂しがっていたら、私に涙を見せてくれたなら、せめてそっと寄り添おう。
ワンピースを軽く叩き、中庭に向かった。重い扉を開くと、湿り気のある風が緑の香りを運んできた。先ほどまで血の臭いに塗れていたせいか、やっと深く息を吸えるような気がした。
カランバノは硝子の璃久像の台座に凭れ、腕組をして目を瞑っていた。辺りは暗くなり始め、ちらほらと星が輝いている。夕暮れの橙色の灯りが、璃久とカランバノの影をより濃くしている。その光景がなんだか絵になるようで、声をかけるのを躊躇った。だけど私が来たことなんてもうとっくに気が付いているのだろう。
「久しぶり」
ほんの少しだけ声を出すのに勇気が必要だった。カランバノはゆっくりと目を開け、台座から背を離した。
「ああ、そうだな」
久しぶりの再会でどんな表情を見せるのかと思えば、彼は静かに微笑んだ。いつものどこか冷たさを感じさせるものではなく、穏やかで綺麗な笑みだ。私は意表を突かれた。もっと疲れたような表情をするものだと思っていたからだった。
「元気だった?」
「まあな」
風が吹く音がする。近頃は草花も鳥たちも静かだ。
「……お前は?」
「え、私? 私もまあ元気だけど」
「プリマヴェラから聞いた。怪我人の手当てをしているのだろう」
「うん。それぐらいしかできないしね」
「あまり無理をするなよ」
「無理なんかしてないよ。カランバノこそ……」
無理しないでよ。と言いかけて口ごもる。触れたい話題がある。グラシアさんのことだ。グラシアさんの死を無視してカランバノと話すことは妙な違和感がある。だって私たちこそ最も彼女の死を重く受け止め、悼むべき立場にいるのではないだろうか。
「俺は平気だ」
飲み込んだ言葉に気が付いたのか、カランバノがそう言った。
「……そっか」
彼が何のために私を呼んだのか、わからなくなった。てっきりグラシアさんの話をしたいのだと思っていた。私を呼びだしたわりには、自分から口を開かない。何か話したいことがあったのではないか。それを上手く引き出してあげられない自分に苛立つ。
「長が、死んだ」
それは突然だった。ぽつりと零すように平坦な声が落とされた。
「うん。アルスに聞いた」
「そうか……」
「うん……」
「それならば話が早いな」
「え?」
「狼族の長は代々世襲制だ。母である先代が死んだとなれば、次は俺が長を継ぐことになる」
「そう、だね」
そう相槌を打ちながら、心臓がやけに高鳴っていることに気が付いた。背筋をぞわりと冷たいものが這う。祈るようにその目を覗きこむと、それは何処までも穏やかに凪ぐ水面のようだ。
「長である者は一族を率いなければならない。……俺は戦線の仲間に合流し、指揮を執ることになった」
「うそ……」
頭で事実を理解するよりも先に、口が勝手に動いていた。だってカランバノが戦場に行くなんて信じられない。グラシアさんが命を落とした場所に行くだなんて信じられない。
「嘘じゃない」
「どうして……」
「だから俺が新しい長になるからだ」
「そうじゃなくて……っ」
何て言えばいいのかわからない。この状況を覆す劇的な一言が思いつかない。気ばかりが焦る。何か言わないとカランバノが戦争に行ってしまう。
「もうアルス様にも許可を頂いた。明日の朝、出立する」
カランバノは相変わらず穏やかに微笑んでいる。似ている。そりゃあ母子なのだから当然だ。笑った顔にグラシアさんの面影がある。それに恐怖を感じた。彼が母親と同じ道を辿っていくような気がして。
「どうして笑っていられるの?」
「いずれこうなることはわかっていた。母が出発前に挨拶に来たときから覚悟はしていた」
「だからって……!」
身体に寒さからではない震えが来る。子どものように大声で泣き喚きながら駄々をこねてしまいたかった。どうして誰も行きたくはないと言ってくれないのだろう。死にたくないと言ってくれないのだろう。
「……私を置いてかないでよ」
凍てつく氷を思わせる男は、一瞬だけ笑みを崩し驚いたような顔をした。
「戦場にお前を連れて行くことはできない」
「じゃあ行かないで!」
「……カンナ」
「行かないでよ、カランバノ」
やっと言えた。ずっと誰にだってこうやって言いたかった。探していた言葉はこんなに簡単なものだったのに、どうして今まで言えなかったのだろう。グラシアさんにだって、本当は言いたかったのに。
「お願い。行かないで」
薄青色の瞳を真っ直ぐに見据えて、一音一音を噛みしめながら言った。美しい瞳が陰り、視線を反らされる。拳を握るのが見えた。何かを堪えるように下を向く。
「お願いだから……っ、わっ」
強い力で腕を引かれた。私はよろよろとその腕の中に収まった。彼の熱をこんなに間近で感じるのは久しぶりだった。温かくて懐かしい。泣きたいわけでもないのに涙がこみ上げてくる。今までにないような力で抱きしめられると、その身体が少しだけ震えているのに気が付いた。それがどうしようもなく可哀想で、カランバノの背に両腕を回した。
ずっとこうしていたい。
静かに心が呟いた。ずっとこうしていたい。近くにいたい。顔が見たい。声が聞きたい。触れていたい。冷たそうに、他者を拒むように見えるけれど本当は違う。言葉を選ぶのが下手で、感情を表すのも下手で、誰よりもずっと強そうに見えて、ひとりで生きていけそうなほど強く見えて、本当は誰よりも弱くて寂しがりなんだ。そんなひとを護ってあげたいのに。ときに私を激昂させ、孤独にもさせ、なのに穏やかで温かい、この気持ちの呼び名が未だにわからない。ただずっとこうしていられたらいいのに。
「カンナ」
「なに?」
「俺が帰ったら、……話を聞いてほしい」
「帰ったらって……」
「聞いてほしい。俺のこと、母のことも。お前になら話せる気がする」
「じゃあ今話してよ。戦いになんて行かなくていいよ。私、いつだって聞くから」
「カンナ。必ず帰る」
「……いや。そんなこと言わないで。行かないでよ……っ」
カランバノの背に回す腕に力を込めた。この手を離せば、もう二度と触れあえないような気がする。
「お願い、カランバノ。行かないで。行かないって言ってよ。ここにいるって……、お願い」
「すまない」
行かないで。そう言いたかったのに、もう声が出なかった。しっかりと抱きしめて離したくないないのに腕がするりと解け、足から力が抜けて自分では立っていられなくなった。視界が霞む。瞼と瞼がくっ付きそうになり、カランバノの顔が見えたり消えたりする。
「カランバノ……」
どうにか名前を呼び、手を伸ばそうとしたがもう手は動かなかった。カランバノは切なげに顔を歪め、小さな声で何度も私に謝っていた。意識が途切れる直前、私を抱えていないほうの手の指先が私に向けられているのが見えた。ああ、何か魔法を掛けられたのだと理解するのと同時に視界が真っ暗になる。
お願い、行かないで。
もう一度そう口にしたのかどうかはわからなかった。




