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人間たちが挙兵し、精霊界に向かっているという情報が入ってきたのは、狼族、獅子族、虎族ら戦闘に長けた一族の戦士たちが境界警備隊と合流してすぐのことだった。その頃には一切の雪が解け、季節は春を迎えていた。
精霊軍はかつて結界があった境界戦場で人間軍を待ち構えている。あくまでもこちらから進軍することはしない。この方針も平和を愛し無益な戦闘を拒む精霊たちだからこそのことだと言えた。しかしそれは背水の陣とも言える。境界で戦う精霊たちのすぐ後ろには、私たちが普通に暮らす世界が広がっているのだから。すでに境界周辺を生活圏にしていた精霊たちは徐々に避難を始め、城で暮らしている者もいる。
数え切れないほどの溜息を吐いた。もうすぐ戦争が始まるというのにいつまで経っても実感が湧かず、私にできることなんてひとつも見つからない。偶然にも廊下ですれ違ったカランバノは私に目もくれず足早に去って行った。その目は遠くを見つめ、凍てついていた。何か予期せぬ事態が人間たちに起きて、引き返してくれないかと、そんなことばかり繰り返し祈った。
だけどただの少女の願いなど、誰も叶えてはくれないのだ。
両軍の前線が衝突したとの連絡が入った。この頃アルスの部屋にさえ呼ばれなくなった私は、めっきり笑顔が減ったプリマヴェラさんに聞いた。そうなってもまだ現実を受け入れようとしなかった私に、刃が向けられたのはすぐのことだ。
戦闘が始まって少しすると、戦地で倒れ、まだ息のある傷病者が城へ運び込まれるようになった。彼らは大広間に運び込まれ、非戦闘員から治療を受けた。治療とは言っても傷口に薬草を塗りこんだり、食事の世話をされたりするだけだった。怪我人が運び込まれるようになってから城は慌ただしさに包まれ、階下の喧騒が私の部屋にまで届くようになった。いつもの渡り廊下から中庭を見ると、自分の足で動ける程度の怪我人が治療を受けているのが目に入った。鎧はあちこち凹み変色し、血が滲んでいる。だが身体が回復すると、皆戦場へと戻っていくのだ。
そんな彼らの姿を見て、私は殴られたような衝撃を受けた。心臓に刃を向けられているかのような恐怖を感じた。これは間違いなく現実なのだ。
部屋に籠る私の世話をする以外は傷病者の手当てに当たっているプリマヴェラさんに、私も仲間に入れてほしいと頼んだ。彼女は気遣わしげな表情をし、押し黙ったがすぐに頷いた。迷いが無いわけではない。流星としての力があれば彼らを一瞬にして癒すことができたのに、私にはもうできない。ただの人として、多くのひとの前にでることは恐ろしく感じた。だけどだからこそ、私は民の期待を裏切った罰を受けるべきだとも思う。罵倒されたって、甘んじて受け入れよう。そう誓ったのだ。
人間は銃を使うらしい。戦士の身体には切創に混じり、弾丸を受けた痕もあった。傷口を清め、薬草を塗り、清潔な布を充てる。厨房で拵えられる食事を運ぶ。他のひとに混じって城内を走りまわっているうちに、あっという間に一日が終わっていく。戦場へ戻る戦士を見送るときには、その背にそっと祈った。彼らが再び戻って来られますようにと。
城へ運ばれてくる者は、まだ良い。戦場で倒れ、二度と戻って来られない者もたくさんいるのだ。私は、だけどそんな彼らのことをできるだけ頭の外へ追いやるようにしていた。
でなければとても動けないのだ。
戦線は次第に後退してきていた。剣と剣では人間に並ぶとも劣らない精霊であったが、弾を防ぐ術が無い銃を相手に苦戦していた。しかし精霊たちもただで負けているわけではなく、魔法を駆使し人間らにも甚大な被害を与えているのだと言う。私はそんな戦況も詳しく知ってしまわないようにしていた。良くない報告を聞き、この胸に僅かに残る希望まで攫われたくないのだ。ただひたすら目の前の仕事に集中していた。夜は疲れ果てて沼に落ちるかのように眠った。そうしてなんとか日々を送る私が、久しぶりにアルスに召喚されたのは、新緑が美しい季節になってからのことだった。
扉は私の力を必要とせず、ひとりでに開く。その奥には屋外のような室内が広がっている。覆い茂る草木と足もとを流れる小川。飛び石を伝って向こう側へ渡る。初めて来たときは驚いたものだけれど、もう慣れてしまった。気が付けば私がこの世界に来て一年以上の月日が流れていた。
「おはよう、アルス」
室内に居たのはひとりだけだった。大方イエロは伝令にでも走りまわっているのだろう。精霊たちが住まうこの世界を治める唯一の王。緑がかった黒く長い髪と深緑の瞳。作り物めいた整い過ぎた顔立ち。形の良い唇の端を軽く上げた。
「おはよう、流星」
笑う表情なのに、笑っているようにしか見えないのに、笑っていない。その違和感に胸騒ぎがした。私の顔が強張ったせいかアルスは目を伏せた。
「……きみには話しておかなくてはいけないと思ってね」
どきりと心臓が大きな音を立てる。知りたいけれど知りたくない。知ってしまえば知らなかった頃には戻れなくなる。だけどアルスがそういうのなら、私が知らねばならないことなのだろう。例え私自身が傷付いたとしても。
「なに……?」
「グラシア殿が、戦死した」
止まった。なにもかもが。一秒前まで煩く音を立てていた心臓も、背後で聞こえていた水の流れる音も、呼吸も、思考も、時間も何もかもが止まった。口の中が乾き、両唇がくっ付く。
「え……?」
それだけの音を絞り出すことに苦労した。
「先刻前線から連絡が来てね。本当は手負いで城に一時帰還することになっていたんだ。だが昨日の日が落ちる頃、敵軍の追手に追いつかれ、部隊長を含む追手の首と引き換えに自らも斃れたのだそうだ。立派な最期だった……とのことだ」
アルスの言葉が映像となり、頭に流れ込んでくる。純白の毛皮を血液で汚しながら、護衛と共に城へ向かう。そこへ敵の小隊が現れ、彼女が理解できない言葉を語気を荒くして放ち、手にしていた銃を構えた。そうして彼女は笑ったのだ。きっと。笑ったのだと思う。包み込むような柔らかい笑顔を見せたのだ。カランバノやイセベルの母として。総ての狼族の子らの母として。偉大なる母は自分に死を悟り、せめて若い命を護ろうとした。彼女を護るためにと宛がわれた護衛の青年を護るため、敵へ猪突猛進していった。そして相手の首を食いちぎると同時に銃撃を受けた。鮮血が舞う。それでも彼女は笑っていたのだと思う。そして言うのだ。
馬鹿息子、馬鹿娘どもを頼む。
映像の中のグラシアさんと目があった。
「このこと、カランバノは?」
自分の声が震えている。声だけじゃない。手も足も震えていた。か弱く震える手を握り締めて拳を作る。歯を強く噛みしめていないと今にも嗚咽が漏れそうだ。視界が滅茶苦茶に歪む。歪んだ先に薄い青色の切れ長の瞳が見える。お主はほんに泣き虫だ。そう言う声が聞こえそうだ。
「カランバノにもイエロにも伝えたよ」
「そう……」
カランバノはどう思ったのだろう。たったひとりの母親はついに最期まで実の息子を置き去りにしていった。長いすれ違いを越え、分かり合い共に過ごした時間はあの一時だけだったのかもしれない。もう二度と会えないところに、たったひとりで行ってしまったのだ。
グラシアさんは死んでしまった。もういないのだ。どんなに願ってももう会うことはできない。嘘みたいだ。夢みたいだ。現実感が希薄で、悲しいのかさえわからない。だってまだ一月ほど前に会ったばかりだ。私たちのために死ぬことは誇らしいと言っていた。そんなの嫌だと、どうしてあのとき言えなかったのだろう。誇りとか名誉とかそんなものどうでもよかったのに。私に理解できないこの世界のひとたちにとって大切なものがあったとしてもそんなこと知ったことか。私はグラシアさんに死んでほしくなかったのだと、どうしてあのとき言えなかったのだろう。
「うっ……」
喉の奥で声が詰まる。アルスが近づいてきて、そっと背中を撫でてくれる。その手のぬくもりが、グラシアさんの腕の中の温度を思い出させる。泣き虫だと呆れる声。不安を拭ってくれた力強く優しい言葉たち。今になって思う。私が流星の力を失ったことを受け入れられたのは、それがグラシアさんのために使った結果だったからなのだと。義理の娘になればいいと悪戯に笑う声。何もかもが知らない間に私を支えてくれていた。
もっとたくさん話したかった。聞きたいことがたくさんあった。それなのに。
ぽろぽろと大粒の涙が零れていく。顎を伝って服を濡らす。首元を濡らす。足の力が抜け、座り込みそうになるのをアルスに支えられる。その腕にしがみつき、胸に顔を埋めた。ほんの少しの躊躇いのあと、私を抱く腕にぎゅっと力が込められた。
身体を震わせて枯れるほどの涙を流す。
私はとても哀しい。一人では立っていられないほどに。




