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今日も今日とて、私は中庭を見下ろせる渡り廊下で壁に凭れかかるようにしながら景色を見ていた。もう中庭にはいつかのようにひとびとが集うことは無くなった。あんなに賑やかで綺麗な場所だと思っていたのに、今では殺風景で冷たさを感じる。温かな思い出と冷たい現実が交錯して、胸に染みた。視界がぼやける。
「お主は本当に泣き虫だな」
不意に懐かしい声がして、零れ落ちそうだった涙がすんでのところでなりを潜めた。ゆっくりと振り返るとそこには、格調高い白い着物を纏ったグラシアさんが呆れ顔で立っていた。
「グラシアさん……!」
予期せぬ再会に、久しぶりに胸が温かくなった。
「顔が見たくて探しに来てみれば、また泣いているではないか」
「……ごめんなさい」
肩をすくめて見せると、グラシアさんは小さく溜息を吐いて腕組をした。
「尤もこんな状況では主が泣きたくなるのもわかるがな」
それは私に向けてと言うよりも自分自身に言って居るかのように聞こえた。
「でもグラシアさんが来てるなんて知りませんでした。他の種族のひとたちは見かけてたけど」
「先刻到着したばかりだからな」
「わざわざ里長自ら来るなんて、どうしたんですか?」
「如何したも何も……。此れより狼族は境界へ向かう。其の前にアルス殿と話しに来たのだ」
「境界へ……?」
「ああ。妾ら狼族は多種と比べ戦闘に優れた種だからな。戦となれば前線に出ねばならぬ。無論駆り出されるのは狼族だけではないがな」
どくんと心臓が身体の中で飛び跳ねる。グラシアさんが前線に行ってしまう。お世話になった狼族の皆が一番危ない所へ行ってしまう。口が渇く。そんな私の姿を見てグラシアさんは少しだけ笑った。
「なに、直ぐに戦闘とはなるまい。其れに馬鹿息子は此処に置いていく」
「え?」
「彼奴は竜王騎士であるからな。最期まで王の傍に侍るのが仕事であろう」
「でも……」
きっと今のカランバノなら、自らも前線に立ち母や故郷の仲間らと肩を並べて戦いたがるだろう。母をひとりで行かせたくはないはずだ。だけどグラシアさんはそれすらもわかっているのだろう。総て見通したうえで、カランバノを置いていくのだ。
「それにな、妾は戦を怖いとは思っておらぬ」
グラシアさんは端正な顔に慈悲深い笑みを浮かべた。その包み込むような柔らかい笑顔は、母親の顔だ。
「お主のおかげだ。流星殿」
「私の……?」
「ああ。お主が連れて来ねばあの馬鹿息子は妾が死ぬまで里に戻らなかっただろう。お主のお蔭で再び彼奴の顔を見ることができた。それにお主がおらねば、妾はとうに死んでおった。病に蝕まれ、床から出ることさえ叶わずにな」
「グラシアさん……」
押し殺したはずの涙が再び込みあげてきて、睫毛が濡れる。瞬きをしたら零れてしまいそうだ。そんな私にグラシアさんは歩み寄り、そしてそっと抱きしめてくれた。
「お主には感謝してもしきれぬ。お主らの為に戦うのならば、本来ならとうに失っていたはずの命を賭して戦うとしても惜しくはない。寧ろ誇らしく思う。あのまま寝たきりで死んでいくより、最期まで誇り高き狼族の一戦士として戦うほうがいい」
それでも私はグラシアさんに死んでほしくはないのだと、言えなかった。心からの願いなのに最早誰にも言うことはできない。仕方が無いのだと言い聞かせるしかなかった。平和で身近なひとが死ぬなんてことが滅多に起きない世界で育った私とは、覚悟もなにもかもが違うのだと。
「お主はほんに泣き虫だからのう。お主が泣かずに済む世界を手に入れねばな」
背中を擦ってくれる手が温かい。私はグラシアさんの胸に顔を埋めて何度も頷いた。私が泣かない世界は、グラシアさんを含めた皆が笑って生きていてくれる世界だから。
「馬鹿息子、馬鹿娘どもを頼む」
私の涙が乾く頃、そう言ってグラシアさんは去って行った。
戦場へ向かう彼女は、余りにもあっさりと去っていく。その背を見ていつか言われたことを思い出した。
大袈裟な別れの言葉はいらない。また会えるのだから。




