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世界が静寂に閉ざされた。昨日の夜更けから降り始めた大粒の雪は、たちまち景色を白く塗り替えた。吸いこむ空気の冷たさを肺で感じるようになった頃から、草木たちはお喋りをやめ、鳥族が空を飛びまわる姿を見る機会も減った。この世界の総てのひとたちがそれぞれの場所でそれぞれの方法で冬を越すのだという。
そんな最も静かな季節を迎える頃プリマヴェラさんは仕事に復帰し、カランバノとも相変わらずだ。結局あの日のことについては謝れていない。次に顔を合わせたときにはお互いに気まずさを感じながらもまるで無かったことのようにしていた。
それまでの総てを壊すような事件はこんな平穏で代わり映えの無い日常にこそ起きてしまうものなのかもしれない。
いつもと同じ酷く冷え込む明け方。何度も寝がえりを打ちながら私は自分がもうすぐ目を覚ますことがわかるような、そんな浅い眠りを繰り返していた。
――環奈。
少女の声で名前を呼ばれた。誘われるように目を開ける。私の瞼が開き切る直前。
――あとは、頼む。
不可視のその声が光となって弾ける。そんな光景が脳裏をよぎって、被っていた布団を跳ねのけた。一瞬にして眠気も気だるさも吹き飛ぶ。耳元で五月蠅いほどの動悸がしている。何もしていないのに息が上がる。呼吸が苦しくて左胸を抑えた。冷や汗がこめかみを伝って落ちて行く。嫌だ。嫌な予感がする。震える足を叱咤して立たせ、私は着替えもせぬまま部屋を出た。
出来うる限りの速度で辿り着いた扉は叩くと自ら開いてくれる。部屋の中の小川を飛び越え、陽射しを多く取り込む壁一面が硝子のその場所へ向かう。人影がひとつあった。彼は私を振り返ることもせず硝子越しに空を見上げ、呟いた。
「祖母上様の声が聞こえたような気がしてね」
「璃久の声……、アルスも?」
「きみにも聞こえたんだね」
「うん。……ねえ、なんか嫌な予感がする」
アルスは曲げた人差し指を細い顎に添え、ゆっくりと瞬きをした。
「祖母上様の声ときみの嫌な予感。思い当たる節が無いわけではないね」
「私も。あんまり考えたくなかったけど」
璃久の声を聞いた瞬間から、さらに言えばその声が光となって消えた瞬間から、私はそれを感じていた。予感などではなく、既に起きてしまった事実なのだど理解していた。
「結界が消滅したのだね」
理解しつつも拒んでいたその事実を、アルスの穏やかな声で音声化されると否応なく受け入れざるを得なくなった。私は糸で引っ張られるようにこくんと頭を落とした。
「そうだと思う」
自分の総てを賭けてこの世界を護り続けてきた璃久は、ついに持てる力を使い果たした。そして力を継いだ私と血を継いだアルスに声を残し、光となって消えた。
この世界では使い果たされた精霊の力は光となって空気中に還る。そして新たな命が生まれるとき、その力は巡り巡って再び宿るのだという。命は循環している。
だとすれば璃久もその輪廻に組み込まれているのだろうか。別の世界からやってきた璃久もこの世界の一部となれるのだろうか。
言いようのない不安に心が染められていく。一人きりで布団の中で丸まっていたい。そうして目を反らしている内に嫌なことすべてが夢のように終わってくれればいいのに。誰かと顔を合わせる前に逃げるようにしてアルスの部屋の前を去った。




