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「私、恨んでなんかないから……っ、わっ」
突然吹き抜けた一陣の風が髪を草を巻きあげ、咄嗟に手で顔を庇った。そして再び広がる視界のどこにも少女はいなかった。結局彼女は最後まで振り返らなかった。今の彼女の居場所である大樹へと帰って行ったのだ。同じ、というには重すぎる運命を背負った少女との別れは、余りにもあっさりとしたものだった。
悲しいのか寂しいのか切ないのか、とにかく胸が苦しくてそれを振り払うかのように、彼女がしたように鼻を啜った。そして皆がいるほうを振り向く。
何か感じるものがあるのか、アルス以外の五人も押し黙っている。アルスは少し俯き加減で、長い黒髪の影になって表情が良く見えない。
「行ったのだね」
「え?」
「彼女の戻るべき場所に」
「でもまだ璃久は……」
「わかっている」
黒い瞳が遠くを見た。そこには世界と世界の境界、結界と大樹が映し出されている。聡明な王は何も語らずともすべてを察するのだろうか。
「わかっている。此れからは私が此の世を護らなければ……」
独りごちるように、ここにはいない誰かに語りかけるように落とされた言葉に私は胸を貫かれた。その姿が余りにもあの少女の面影を湛えていたからだ。この世界を護ることに全てを賭け、そしてひとりぼっちになった少女に。彼をそんな目には合わせたくなかった。
一歩、二歩、三歩と近づいて、そして彼女がしたように背伸びをして、その首に腕を回した。璃久よりも背の低い私だと更に身長さが広がり、半ばぶら下がるような形になってしまっているが、そんなことはどうでも良い。このひとをひとりぼっちにはしたくない。
誰かの幸福のために、犠牲になってほしくない。
何か声をかけたいのに、良い言葉が全く浮かんでこない。こういうときの自分の不甲斐なさに毎度毎度腹が立つ。腕にきゅっと力を込めた。そっと、恐る恐る私の腰に腕が回された。顔は見えない。璃久の感情が私に染みついて残っているのかもしれない。彼の悲しみをなんとか慰めてあげたくて、私は左手でアルスの後頭部を抱いた。
大丈夫だよ。私が居るから。アルスに全部を背負わせたりしないから。
心の中で何度も呟いた。光を失った私にできることがあるのかさえわからないけれど。
璃久のときのように、私たちもしばらく抱き合ったままでいた。
「……ありがとう、流星。もういいよ」
「……うん」
腕を解き切らないまま少しだけ身体を離すと、整った顔がすぐ近くにある。何度も何度も繰り返し思う。なんて美しいのだろうと。だからこそ悲しみが似合い過ぎて、恐ろしくなる。
「もう離しておくれ。此れ以上こうしていたらきみの意志を尊重できなくなる」
「私の意志?」
アルスはやっと悪戯っぽく微笑み、そしてぐっと声のトーンを落とした。
「私の妻にしてしまいたくなる」
「なっ……」
驚きと気恥かしさで後ずさった私に、アルスはいつもの穏やかな笑みを向けた。そして一つ息を吐くと皆のほうに向きなおった。
「時間を取らせてしまって済まなかったね。さあ帰ろう」
境界線上にあるという境界警備隊の駐屯地に戻るイセベルとジャーマさんとはここで別れることになり、私たちは見送りを受けることになった。
「またね、イセベル」
「おう。次に会うときにはもう少しマシな顔になっとけよ」
「……ハイ」
先頭がカランバノ、その次にアルス、プリマヴェラさん、私、イエロという隊列になり、歩きだした狼の上で二人を振り返る。手を振ると、イセベルが軽く手を上げて応えてくれた。そんな私と引き換えに、前を行くアルスは一切振り返らなかった。その姿はまるであの星の少女のようだった。
海は歌い風は踊り山は猛る
姿を手に入れた姿なきものたち
祈ろう 我らの地に癒しが齎されんことを
星 天より流れ落ち 我らの痛みを癒さん
総てを賭けて世界を護る少女の声が旋律をなぞる。願いと祈りを込めて彼女は唄っていた。誰かに届くようにと唄っていた。
私はずっと彼女の声を聞いていた。きっとずっと昔から。




