38
ごしごしと目を擦って瞬きをする。世界を分断する結界のせいで向こうは見えない。僅かに草の香りを孕んだ風が涙を乾かし、ひりひりとした痛みだけが残った。
大きく息を吸ってゆっくりと吐く。さあ皆のところに戻ろうと振り向いたとき。
そこにはいないはずの人物がいた。どうしてか私はその人がここにいるはずがないことを知っていた。森から出て少ししたところに皆は立って、こちらを見ている。私と彼らとの距離はおよそ二百メートルぐらいだろう。表情は見えないが、それでも驚いている様子は無い。突然少女が現れたにも関わらず、だ。
彼女の存在には違和感がある。風に靡き光をまき散らす金色の髪を掻き上げ、黄金色の瞳で私を見据えた。黒いミニスカートが揺れている。黒地に白い線の入った大きな襟に黒いリボン。見覚えがある。見慣れている。だけど、それはこの世界での話ではない。
「やっと会えたな」
セーラー服をはためかせ、彼女は口を開いた。誰かもわからないその声に懐かしさを感じた。
「えっと……」
「この世界の暮らしには慣れたか?」
「慣れた、けど……」
「それはよかった」
そして彼女は少しだけ声のトーンを落とした。
「あたしが呼んだのだからな。この世界で苦しんででもいたら責任を感じるところだ」
「え……?」
私を呼んだ。彼女が。セーラー服を着ていると言うことは少なくとも大学生の私よりは若いはずだ。そんな少女が私をこの世界に呼んだのだと言う。それに気にかかる点がある。
その髪と瞳の色だ。
「どういうこと?」
「始めに言っておくよ。あたしも流星だ」
星色に輝く髪と黄金の瞳。それは確かに流星だった頃の私と同じだ。私の混乱を察したのか、彼女は言葉を続けた。
「と言っても過去のだけどな」
「過去の?」
「話せば長くなるが……、聞くか?」
「ここで聞かないって言うわけないでしょ」
「そうか」
セーラー少女がふふっと笑ったかと思うと一瞬にして景色が変わった。そこは風が吹き抜ける草原ではなく、見慣れたアルスの部屋だ。けれど執務室に座るのは、別の王。オルヒダだ。彼は私たちの存在に気が付かないのか、机上の光る文字が浮かび上がる書類に目を落としている。
「あたしは元の世界では普通の女子高生だった。けどあるとき頭を強く打ってだな。気がついたらこの世界にいた。あたしがここに来たときに世界を治めていたのは、現王アルスの祖父オルヒダだった」
その瞬間の少女の視線に切なさを見つけた瞬間、私はぴんと来た。もともとはそんなに鋭いほうでは無いかもしれないけれど、今まで身を隠していた女の勘とやらが急に本領を発揮した。そして知らずの内に、アルスが立っていたはずの方向に目をやる。まさか。伝説があるということは以前にも流星がいたのかもしれないとは考えたことが在る。だが何時の時代の誰だったかと言うことはわからない。それがまさか。
「今とは違って当時世界は荒れに荒れていた。人と精霊は絶えず争い、どちらにも大きな被害が出ていた。あたしは知らない内に手に入れた不思議な力で傷付いた精霊たちを癒しながら、あたしも戦っていた」
「た、戦ってたの?」
「そうだ。もともと護られるよりも護るほうが性に合ってたからな」
「……どんな女子高生生活を送ってたの」
と言った私の言葉は華麗に流された。
「とはいえ状況が収まっていたときもあった。その間は穏やかで美しいこの世界を存分に楽しんだよ。そして十七でこの世界に来た私は、知らぬ間にこの世を治める王オルヒダと恋に落ち、二十歳で結婚し子どもを授かった」
書類に目を通していたオルヒダが顔を上げる。その表情があっという間に和らいだ。視線を辿っていくとそこにはセーラー服では無くこの世界のドレスを着た少女が、目の前にいる姿より少し大人びた様子で赤ん坊を抱いていた。彼女はオルヒダの元まで来ると赤ん坊をそっと渡した。いつか私が腕に抱えていた赤ん坊だ。
「名はエウリオ。元気な男の子だった」
その声に視線を戻すともう一人の流星はセーラー服ではなく、子どもを抱いていたときと同じ深い青色のドレスを身に纏っていた。
「あたしはこの世界でオルヒダとエウリオと共に生きていくことを決心していた。それに親になるというのは不思議なことでな、……何としてでもエウリオを護ろうと覚悟していたんだ。だから息子が生まれて一年が経った頃、再び戦が始まるとあたしは剣を持ち戦場を駆けていた。……お前も見ただろう?」
やっとわかった。アルスの部屋、――王の間で初めてオルヒダに会ったときも、オルヒダが赤ん坊ごと抱きしめたことも、土埃の舞う戦場でのことも、すべては今目の前にいるもう一人の流星が経験したことだったのだ。だから知るはずの無いオルヒダのことを知っていた。彼を大切に思っていたという記憶があったのだ。だとすれば、あの戦場での最後の記憶は。
深夜のテレビの映像が切り替わるみたい。砂嵐が吹き荒れて、去る頃にはそこは灰色に色褪せた大地だった。あちこちから煙が上がり、地面には血を流して倒れる人間の死体が転がっている。
「あなたはここで死んだの……?」
「それが少し違うんだ」
鎧を纏った流星が肩で息をしている。腹の辺りに怪我をしているのか、真っ赤な血が鎧の隙間からぽたぽたと垂れている。半ば剣を杖代わりにしてかろうじて立っている彼女の周りにどこからともなく敵が集まってくる。隣で苦しげに喘いでいた狼が舌打ちをした。そして。
――くっ……、追手が来たか! 流星様、一旦退いてください! わたくしどもが退路を開きます! その内にオルヒダ様がいる陣までお戻りください!
血を吐きながら、それでも王妃を護ろうと立ちあがった彼に、流星は一言嫌だと言った。そうしている間にも敵の軍勢はどんどん近づいてくる。血まみれの二人にはもはや追手が来ようが来まいが同じ未来が待っているようにも思えた。
だが粉塵に塗れても輝きを失わない星色の髪を持つ彼女は違っていた。
その場で祈るように両手を組み、目を瞑った。やがてその胸から光が零れ広がっていく。足の先を通って地を這い、さらに深く。組んだ手を解き、高く突き上げると指先から空に向かって何処まででも光が伸びて行く。揺れる髪の先から細く細く幾重にも別れ交差し、伸びて行く。どこまででも届きそうな輝きは、流星の全身を包み込み、そして飲み込んだ。彼女の身体は光そのものと化し限界まで膨らんだ光の渦は、弾けた。
その光は優しく、全ての過ちを許すかのように世界を貫いた。
その光は厳しく、過ちを繰り返すことを咎めるかのように世界を貫いた。
あまりの眩しさに一瞬目を閉じてしまった。そして再び目を開けるとそこには一本の巨大な樹が立っていた。結界に生じた亀裂の横に立っていたまさにあの巨大樹である。
さきほどまで流星が立っていたその場所に大きな樹が静かに立っていた。そしてその向こう側は、こちら側とは何かが違っている。つまり。
「あなたは人間界と精霊の世界を分ける結界を張って、大きな樹になったってこと?」
「そうだ。だからあたしは死んだとは言い切れない。流星の力を使って……、いや流星の力そのものとなって世界を分ける結界を創り、この地で門番をするために樹となった。それから長い年月二つの世界は互いに干渉せず、争いも起きることは無かった。だが」
「亀裂が入った……?」
「ああ。それはあたしの限界を意味する」
「え?」
「あたしの力はもう尽きようとしている。そして力が尽きたとき、この結界は完全に消滅する。そのときが本当の意味であたしが死ぬときだ」
「そんな……」
「環奈」
両肩を強い力で掴まれる。金色の瞳が揺れている。
「結界が無くなればまた人間は攻めてくるだろう。だから……、だからお前を呼んだんだ。心からこの世界を愛してくれる人間が、死にゆくあたしの代わりにこの世界を護ってくれる人間が、再びこの世に現れるように祈ったんだ」
そして彼女の願いは叶い、私はこの世界に降り立った。お父さんやお母さんにお別れを言うことも無く。
「……怒っているか。あたしの勝手な願いで見ず知らずの世界に連れて来られたことを」
この人が全ての始まりだったんだ。この人がいなければ、祈らなければ、私はここにはいなかった。大学を卒業して就職していつかは結婚なんかもしたりして、普通の人生をきっと歩んでいたはずだ。私はそれを手放したんだ。手放さざるを得なかった。だけど。
「わかんないよ……。元の世界にいたら手に入れられたかもしれない未来を失ったけど、でもこの世界に来て得たものもあるし。それはきっとこの世界に来なければ一生手に入れられなかったと思うから。だから怒りたいのか、……それとも感謝してるのか、わかんないの」
「……そうか」
流星は驚いたような、それでいて嬉しそうな顔をした。その表情を見て、夫や息子が暮らす世界を護りたい一心で、余所の世界から連れて来られる人物のことなど一切省みなかった純粋すぎる自分本位の行動を、深く反省しているのだろうと思った。だけど反省はしているけれど後悔はしていなさそうだ。それしか大切なひとたちを護る方法が無かったのだから。それに彼女は覚悟していたのだ。人一人の人生を歪めてしまうことを。
「お前には護ってほしいんだ。この世界を」




