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つい先日のことを思い出して込みあげてくる照れや恥ずかしさを振り払い、アルスに向き合い、口を開いた。捕われた男性がジョシュアという名前であること。彼自身が結界に亀裂を入れたのではなく、たまたま裂け目を見つけたこと。人の世が滅亡へと向かって居ること。子どもが生まれない謎の病のこと。アルスと、ともにいたカランバノ、イエロ、ジャーマさん、イセベルも皆一様に静かに話を聞いてくれた。私が話を終えると、アルスはいつもの優しく深みのある声でありがとうと言った。
「つまり彼には結界を壊す力があったあけでも、悪意が在って侵入してきたわけでもないということだね」
「そう。だから……、ジョシュアを人間界に帰してほしい」
「それは甘すぎるんじゃねぇのか」
イセベルが腕組をしたまま、私を真っ直ぐに見た。
「そいつが嘘をついてないっていう証明があるわけでもねぇ。それにだいたい侵入者を悪意がねぇってだけで、易々と帰しちまっていいのかよ」
イセベルの言葉に他の四人は無言になる。恐らく皆、彼女に少なからず同意しているのだ。それもそうかもしれない。結界ができてから今まで誰ひとりとして人間はこの世界に入って来られなかった。それなのに突然ふらりと現れた男が、無害であるとは限らない。そうでなくとも不穏因子は一つでも消しておいたほうがいいのかもしれない。
じゃあどうして私は知り合って間も無い彼を、生かして帰してあげたいと思うのだろうか。同じ人間だから? 言葉が通じるから? 悪い人ではないのだと、どうして信じられるのだろうか。元の世界にも悪い人間はたくさんいたのに。
「……だけど、ジョシュアはわかってるって言ったんだ。人間たちはずっと自分の世界に悪いことが起こるのは、魔族……、精霊のせいだと思ってたんだよね。だから攻めてきて何回も戦争があったんだよね。だけどジョシュアはね、本当はそれが全て精霊のせいじゃないってことわかってるって言ったんだよ」
「わかってたならどうして……!」
「わかってたけど、それでも何かを恨まないと生きていられなかったんだよ。娘に子どもができて嬉しいはずなのに、このままじゃ娘もその子どもも死んじゃうってときに、自分は父親なのに何もできないって思いたくなかったんだよ。そんなふうに思っちゃったら、もう動けなくなるから……」
だから恨んで、恨んで、ここまでやってきたんだよね。人の世はいつだってそうだったのだろうと思う。萎える足を恨みで奮い立たせて、精霊の世界まで侵攻してきた。本当に笑っちゃうぐらい滑稽で愚かだ。だけど。
「この世界に来て精霊である皆の姿を見て、この世界のひとたちを見て、私は美しいなって思った。美しくて正しい。私が気づいていないだけで皆もなんか駄目なとことか、本当はあるのかもしれないけど……でも誇り高くて正しく生きているんだと思った。私欲の為とか無益に誰かを傷つけることもしないし。……でもだからね、余計に自分がちっぽけな存在に思えた。私は私のことで手いっぱいで、いつも不安で、隠してるつもりでもイライラしてカランバノに当たったこともあったよね。……人間ってさ、こんなんなんだよ」
悲しいぐらいに愚かなの。精霊たちや動物たちのように真っ直ぐ生きることが、どうしてもできない。
「本当に弱くて馬鹿で自己中心的でさ、……人間で居るの嫌になっちゃうぐらい。だけどね、子どもや大切な人を想う気持ちは人間も精霊も同じだと思う。ジョシュアだって愛する存在を護りたくてここに来たの。そこに他の意味はないよ。この世界を攻めるために来たわけじゃない。上手に言えないけど……、私が言いたいことは……」
わかってるって、言ったんだ。彼は確かに私にそう言った。わかってると認めてしまえば、もう精霊たちのせいにして恨み続けることができなくなることを、知っていたはずなのに。
「彼はもう間違った理由で、精霊たちを恨んでなんかない」
話していて泣きそうになる。弱さのせいなのか一体何なのかわからないまま、皆の視線を一身に受け止めて私は話を続ける。
「それにね、今彼を帰さなかったら彼の家族とか、周りの人は彼を探すと思う。そしてこっち側に来たことにも気づくと思う。それでさ、もし私たちがジョシュアを殺しちゃったら、その恨みは今までとは違って本物になっちゃうんだよ。そうしたら本当に仇打ちのために人間たちが攻めてくるかもしれない。戦いが起こればまたこっち側にも被害が出て、より人間たちが憎らしく思えるでしょ。きっとそうやって恨みは連鎖してくの。だからもうここで立ち切るべきなんだと思う」
自分がただ綺麗事をつらつらと並べているということはわかっていた。この世界の歴史をよく識ることもせず、彼らの憎しみを理解しないままで、なんて重みの無い言葉だろうと我ながら思ってしまう。こんなことがいいたいのだろうか。私は。本当に。
――。
「え……?」
名前を呼ばれた気がして、辺りを見回す。肺と喉がじりじりと焼けつくように痛む、この臭い。立ち込める粉塵。土埃。そして大砲の音。世界が赤くなったり暗くなったり色んな色に変わる。誰かの叫ぶ声がする。ここは。一歩後ずさると、何かに踵が当たった。恐る恐る下を向くと、そこには。
「ああ……」
黒とも深い緑ともつかない長い髪を持った男性が倒れている。言われなくても何故かもうわかるのだ。彼は竜だと。白い肌を真っ赤に染めて、瞳を閉ざしている。嘘だ。と思った。どうして彼が、こんな。だって護ったはずなのに。私が。彼を護ったはずなのに。何故。どうして。
「どうして……っ、オルヒダ!」
「流星?」
一気に空気が肺に流れ込んでくる。肩で息をすると、次第に視界が開けてくる。肺を焦がすあの臭いはもうしない。見慣れたアルスの部屋だ。黒髪の竜の王が両手で私の肩を掴み心配そうな目で覗きこんでいる。ああ、よかった。やっぱり無事だったんだね。私はちゃんとあなたを護れたんだよね。
「オルヒダ……」
「どうしたんだい。流星……? 私の名前を忘れてしまったのかな」
竜が苦い笑みを浮かべた。
「私の名前はアルスだよ」
「アルス……」
そうだよ。アルスだ。見慣れた作り物めいた整った顔。吸いこまれそうな深緑の瞳。間違えるはずもないのに、一体どうしたと言うのだろう。前にも見たことがある。私はあの荒廃した場所に行ったことがある。そのはずなのにあれがどこだったのか、訪れたのはいつのことだったのか、全く思い出せない。それにアルスと間違って呼んだ名前にも聞き覚えがある。オルヒダ。彼もまた竜で、私は彼を、――愛していた。ような気がする。だけどこの世界に来て出会った竜はアルスただひとりのはずだ。
けれど戸惑う私よりもさらに驚きの色を露わにしていたのはアルスだった。
「どうしてきみは、祖父の名前を知っているんだい?」
「祖父……?」
アルスは言葉以外から問いの答えを探そうとするように、私の瞳を覗きこんでいる。
「きみが先ほど呼んだオルヒダという名前は私の祖父で、そして先々王のものだよ」
私が愛していたはずのオルヒダはアルスのおじいちゃんで、前の前のこの世界の王様。
「オルヒダは、まだ……」
健在なのかと尋ねるのは失礼なような気がして、思わず言葉を濁した。アルスは私が言わんとしていたことを汲み取り、眉根を下げた。
「きみがこの世界に来る前に他界してしまったよ。残念ながらね」
「そっか……」
それならば一層矛盾していることになる。私がここへ来たときのはもうオルヒダはいなかった。そんなひとを愛すことはもちろん、出会うことさえできないはずだ。そもそも出会った記憶も無いのだ。それなのに何故か大切に想いあっていた感情の残滓が胸の内にこびり付いている。
「アルスの他の家族はどうなの? お父さんとかお母さんとか、お祖母ちゃんとか」
「両親は王位を退き、今は郷で隠居しているよ。祖母のことは……よく知らないんだ。祖父の治世に起こった人間との戦いの中で戦死したとの記録は残っているが、父も幼かったころだからね。父も祖母のことは何も覚えていない。それに祖父に尋ねてみても多くは語らなかったらしい。だが一つわかることは、中庭に女性の像があるだろう?」
蔦の這う硝子でできた女性の像。こくんと頷くとアルスも頷き返してくれた。
「あれは祖父が祖母を悼んで創らせたものらしい。それに若くして妃を亡くしても、祖父は後妻どころか妾をとることもしなかった。それだけ祖母を愛していた証があるのに、何故私たちには思い出話のひとつも語ってくれないのかと皆で不思議に思ったものだ」
そうしてアルスの祖母でありオルヒダの妻であったその女性は、一族きっての謎に包まれた存在となったのだという。
「そっか」
そう呟いてみたものの謎は深まるばかりで、何一つ納得のいく答えは見つけられなかった。
「どうしてアルスのお祖父ちゃんの名前を知ってたのか、自分でもわかんなくて」
アルスは長い指で顎を掴み、思案顔になった。
「わからないことは今知るべきじゃないことなのかも。わかったらまた、言うよ」
ジョシュアの言葉を引用して、そう言った。
わからないことだらけだ。どうしてオルヒダを知っていたのか。どうして彼を大切に思っていたのか。あの喉を焼く臭いがする荒れ果てた場所はどこなのだろうか。私は誰を護ろうとしていたのだろうか。そうだ。私は護ろうとしていたのだ。誰にも死んでほしくなくて誰も失いたくなくて、傷付いてほしくさえなくて。毎日そんなことを祈っていた。明日も皆に会えますように。誰もいなくなっていませんように。そう思っていたんだ。
人間と精霊の誤解から生まれた拗れた関係を正したいだとか、そんな大それたことなんて考えていられなかった。ただただ大切なひとと、これからも一緒にいたいと思っていただけだ。




