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翌日もその次の日もそのまた次の日も地下の小部屋を尋ねたが、男は自身に関することを一切話してはくれなかった。気が付けば私たちが城に戻ってから一週間が経っていた。そんな日のこと。
「もういい加減何か聞きだしてくれよ」
「そうしたい気持ちはやまやまなんだけどね……」
いつも通りイセベルは部屋に入るとドアに凭れて腕組をし、目を瞑る。
「おはようございます」
「……またお前さんかよ」
「あなたがいろいろ話してくれるまで毎日通い続けますよ」
「魔族ってのは暇なもんだねえ」
「魔族じゃなくて精霊ですってば。まあ私は人間ですけど」
この一週間の中で、少しずつ男性は私への態度を軟化させている。私が言葉を交わす唯一の相手であるからかそれとも人間だと信じてくれたのか、実際のところはわからない。
「いろいろ話してくれたらあなたを帰せるんですけどね」
「そんな上手い話があるか。話が済んだら殺すつもりだろうが」
「私が絶対にあなたを殺させません」
「けっ。お前さんじゃ頼りねえよ」
侵入に関する事情を洗いざらい話してくれたなら、私は誰に何を言われようと彼を人間の世界に帰そうと決めていた。結界を通ってこちら側に来られたと言うことは、同じ場所を通って向こう側へ戻れるのだろう。まあそれはそのときに考えるとして、とにもかくにも何かしらの情報を聞きださなくてはならない。どうしたら話してくれるだろうと昨夜ベッドの中で考えた結果、まずは自分の話をしてみることにした。
「あなたが余りにも話してくれないので、今日は趣旨を変えて私の話を聞いてもらいまーす」
「なんだよ、いきなり……」
おほん、と一つ咳払いをする。
「私はね、違う世界から来たんだ」
男がぎょっと目を向く。その反応がどこか懐かしい。私もここへ来たばかりの頃は信じられないことばかりだった。
この世界に来てからの衝撃的な日々のせいで遠くなりかけている記憶に思いを馳せ、ひとつひとつ言葉にしていく。小さい頃のこと、家族のこと、黒猫のこと、それから。
「お母さんとお父さんと三人で暮らしてて、あ、父方も母方もおじいちゃんおばあちゃんはいたんだけど、別に暮らしてたの。で、お父さんとお母さんは共働きで、私は小さい頃から保育園に最後まで残ってる子だったし、小学校の近くの公民館に預けられてたんだ」
「よくわかんねぇ言葉ばっかりだな」
「えーっと、この世界の人間の子どもたちも学校には通うよね?」
「ああ、まあ経済的になんとかなってる家の子だけだけどな」
「私が元いた世界で暮らしてた国ではね、一応子どもたちは全員学校に通うことになってたの。で、学校が終わってから両親が帰宅するまでの間、私は学校の近くの別の場所で預かってもらってたんだ」
「……なんとなくわかったような」
同じ人間が住む世界と言えど、私がいた世界とここではシステムも環境も何もかもが違いすぎる。元の世界では説明する必要なんてないようなことでも、詳しく説明していかないと伝わらないのかもしれない。これは結構面倒な作業だと思って居ると、男がまあ、と言った。
「俺に構わず話を続けてくれ」
「大丈夫? 理解できます?」
「いちいち説明されてたらいつまで経っても話が終わらんだろ」
「じゃあ……。私が七歳のころにお父さんが黒猫を拾ってきて、それからは両親がまだ帰って来てなくても家に帰るようになったの。猫が居てくれるだけで寂しくなかったし、私たちはある意味姉妹みたいだった。友だちを作るのが上手じゃなかった私は、人間の友だちより正直猫と過ごすほうが楽しかった」
私は黒猫を妹のように思っていたけれど、彼女はときどき毛繕いのつもりか、私を舐めることもあった。そう言う意味では私の方が自分の子どもか妹のように思われていたのかもしれない。
「中学に上がっても高校に上がっても大学に入っても、私にとってその黒猫は特別だった。だけど私が十九になった歳に死んじゃったんだ。悲しくて悲しくて何も手につかなくて、学校はなんとか行けてたけど、なんにも予定が無い日とか一日家で布団に包まってた。一年ぐらい経ってやっと少しずつ思い出話もできるようになってたんだ。そんなときだった」
蘇ってくる。何の変哲もないあの日。午後から二コマの授業を終えた家路。いつもと同じように自転車を漕いでいた。そして。
「あ……」
思わず声が漏れる。冷や汗がこめかみを伝って落ちた。あの日。私は道路に飛び出した黒猫の子どもを見たんだ。その姿が飼っていた黒猫と重なって。そしてそこに大きなトラックが猛スピードで突っ込んでくるのも見ていた。あれだけ大きなトラックだったら、もしかしたら子猫はタイヤとタイヤの間をすり抜けて無事だったかもしれない。だけどあのとき、あの咄嗟の状況のなかじゃとてもそんなことまで考えられなかった。死なせたくない。その一心で、私は道路に飛び出した。黒猫に向かって精いっぱい手を伸ばして走った。けたたましいクラクションとブレーキの音がした。そしてなんとか黒猫を抱え込んだ、気がする。長く急ブレーキの音が不意に消えた。そして。
次に目を開けたら、絵具のような原色の青が目の前に広がっていた。
道路に飛び込んでからこの世界に来るまでに何があったかを覚えていない。動悸がする。
「おい、大丈夫か」
気遣わしげに声を掛けてくれた男性にも、返事をすることができなかった。
迫る大型のトラック。あんなのにぶつかったら人間なんて一溜まりも無いのだろう。どうして今まで考えて来なかったのか不思議なくらいだ。どうして、どうやってこの世界に来てしまったのか。もしかして、ここはあの世とやらなのかもしれない、と。
「私、……死んだのかな」
「なに言ってんだ……?」
「あのとき私は死んで、だからここに来たの……?」
「気味悪いこと抜かすなよ」
「ここって死んだひとたちの世界なの?」
「はあ? 馬鹿にするのも大概にしろ。こっちは必死で日々生き抜いてるんだからよ」
「だって私、この世界に来る前に事故に遭ってるの。あんなんで助かるわけない」
「だとしてもお前は死んだかもしれねぇけど、そっちの都合で俺まで死んでることにされて堪るかってんだ」
「……ごめんなさい」
男性は長い溜息を吐いた。
「ちょっとこっち来い」
そして手招きならぬ、顎をしゃくって私を呼んだ。
「おら、ちょっと俺の額に触ってみてくれ」
「は?」
いきなりのことに素っ頓狂な声が出てしまう。
「ばっ馬鹿野郎! 変な意味じゃねぇよ! 良いから、ほら、触ってみろ!」
戸惑いながらも言われるがままに手を伸ばす。視界の端でイセベルがドアに預けていた体重を、自分の元へ戻したのが見えた。そっと額に触れる。緊張のためなのか、それとも体温調節の為か、うっすらと汗ばんでいた。
「汗……」
「悪かったな!」
「で、これが何ですか?」
「ちょっと待ってくれ」
男性は目を閉じる。これじゃあなんだか風邪を引いたひとの熱を測っているみたいだ。すると男性は、うんうんと声に出しながら頷いた。
「あったけぇ」
「え?」
男性が目を開ける。茶色の瞳が真っ直ぐに私を見つめていた。
「お前の手はちゃんとあったけぇよ」
「だから、何……」
「何って死人の手があったけぇわけねぇだろ」
「あ……」
思わず手を引いてしまった。男性の額に触れていた右手を左手でぎゅっと握りしめる。异温かい。ちゃんと。血が通っている温度だ。
「お前さんがどうしてここに来ちまったかは知らねぇが、少なくとも生きてはいるんじゃないのか」
「そう、なのかな……」
「そうだろうさ。まあ、考えてもわからねぇことってのは、今考えるべきじゃねぇ問題ってもんだ。その内吃驚するぐらいあっさりとわかるときが来るかもしれねぇ。だがお前さんが信じられなくても、俺は信じられるけどな。そのあったかさが死んだやつのもんのはずがねぇ」
「……ありがとう」
右手を握ったままそう言った。
「おう」
その短い返事に、絶対にこのひとを助け出そうという思いがより強くなる。そのためには彼に関する色々なことを聞きださなければならない。




