03
ぼんやりと視界が明るくなる。灰色の世界が映った。眠たい。なんだか身体がとっても重い。私は寝ていたみたいだ。今も横たわっている。あれ……私いつ寝たんだっけ。ていうか何してたっけ。眠る前のことを思い出そうとする。原色の青い空。白い雲。大きな惑星がいくつか。動く木の森。私はその中を――落ちていたんじゃなかったっけ?
身体がびくっと揺れて、飛び起きた。正確には飛び起きようとした。
ジャリという重たい音がして、私はベッドに引き戻された。
なにこれ。驚いて音のしたほうを見ると、両手首に金細工の施された太い腕輪が嵌められていた。そしてすぐにそれがただの腕輪でないことに気が付く。何故なら腕輪からは同じく金色の太い鎖が、ベッドに繋がっているのだから。そして改めて自分が置かれている環境に目をやる。石造りの壁と床の小さな部屋。そこに今私が横たわっている木製の粗末なベッドがあるだけ。そして部屋の一方は鉄格子になっている。例えるならこの部屋はまるで牢屋みたいだ。鉄格子のから外を覗きたい気持ちに駆られるが、腕輪と鎖が邪魔をする。どうしよう。
「す、すいませーん……」
とりあえず声を出してみた。誰かいないかな。せめてどうしてこんな場所に閉じ込められているのか知りたいんだけどな。
「すいませーん、誰かいませんかー」
返事がない。
「すいませーん! 誰か! 居ませんか!」
まだ返事がない。もう。大きく息を吸い込む。両腕を鎖の範囲で持ち上げて、思い切り振った。
「すいません! 誰かー!」
ジャリジャリジャリジャリ。
私の声と鎖が揺れる音が反響した。もう一回。
「すいま……っ」
「うるさい!」
遠くから声が返ってきた。誰かいる!
「誰か! ちょっとこっち来てください! 話をしましょう!」
複数の足音がする。だんだんと近づいてくる。そして私が居る小部屋の前で止まった。
「あ、あの……っ」
突然暗闇から現れたそのひとを見て言葉を失った。
「まったく……。目が覚めたと思えば急に騒ぐ」
看守か警備員かなにか知らないけれど、そのひとは、強いて言うなら世界史の教科書で見る中世ヨーロッパの騎士が着ているような服を着て、羽飾りの付いた帽子を被っている。そこまでは許す。
え、コスプレですか? って思わなくもなかったけど百歩譲って許す。問題は下半身だ。変な意味じゃない。だってそのひとは顔も含め上半身は普通の、といってもやっぱりどこか西洋風の風貌の男性なのだ。だけどその下半身は、馬だ。上半身が人間で下半身が馬なのだ。なんだっけ。映画で見たことが。なんだっけ、名前……。
「ケンタロウ……?」
「は?」
首を傾げる私に、そのヒトは思い切り眉間に皺を寄せた。
「とりあえず連れてこいって言われてるんだ。行くぞ」
格子戸の鍵を開けて、ケンタロウ(仮)が近寄って来る。足音は二人分だ。そして私の両手首をベッドに繋ぐ鎖を外した。
「あ、ありがとう」
「手を出せ」
言われたままに両手を差し出すと、鎖が外された腕輪がまるで強力な磁石のようにお互いに引き合って、くっ付いた。
「なにこれ!」
引き離そうとしても私の力じゃびくともしない。
「外れないよ、それ。両手拘束されてても転ばずに歩けるだろ。付いてこい」
ケンタロウ(仮)はさっさと部屋を出て行ってしまう。私はベッドから降りて急いでその後に続いた。
「ねえどこに行くの?」
「お前をお呼びになってる方がいる」
「それだれ?」
「行けば分かる」
「わかるのかな……」
だってわからないことだらけだよ。ここはどこで、私はどうしてここにいるんだろうとか。あなたはどうしてそんな仮装をしてるのかとか。
壁に下げられた松明の灯りを頼りに、薄暗い石造りの廊下を歩くと階段があった。それを登っていくと窓から光が差し込む明るい場所に出た。どうやら私が居た場所は地下だったらしい。ケンタロウ(仮)は黙々と歩いていく。階段をひたすら上がる。正直息が上がる。大学に入学してから運動する機会もなかったし、やっぱり体力落ちてるんだな……。
それに引き換えケンタロウ(仮)は器用だ。四本の足を縺れさせることなく使って、どんどん進んでいく。
私が肩で息をし始めたころ、遂に階段は終わった。今度は赤い絨毯の敷かれた広い廊下を突きあたりまで進んでいくと、そこには大きな扉があった。
「ここだ」
ケンタロウ(仮)が息を吸って吐き、扉を叩いた。すると扉はひとりでに静かに開いた。
「ついてこい」
言われるがままに付いていく。扉の先は、これまた別世界のようだった。建物の中のはずなのに木々や花々といった植物が咲き乱れ、細い川が流れている。それにも関らず鬱陶しい湿気は感じない。ケンタロウ(仮)は川を飛び越え、私は飛び石を伝って渡った。室内版森が開けた。そこには外界を臨む大きな窓と、執務机があった。
そして窓の前には二つの人影がある。
「アルス様、お連れしました」
ケンタロウ(仮)が頭を下げた相手に見覚えがあった。窓から外を眺めていたその人がゆっくりとこちらを向く。窓越しの空は相変わらず、目が痛むほど鮮やかな青だ。逆光で表情まではわからないが、その人物の動きに合わせて美しく長い黒髪が流れた。私が落ちていくとき、私を見ていた人だ――。
「ご苦労だったね。下がって良いよ」
「はっ」
ケンタロウ(仮)は顔を上げると、整った回れ右をした。そしてすぐに足音は小さくなっていった。一人取り残された私は動けずにいた。二つの人影はそれ以降動かないし話さない。どういう状況なのこれ。ケンタロウ(仮)の様子からして偉い人っぽいけど、どうすればいいの。ちゃんとしたマナーとか作法とかなんかいろいろわかんないんだけど。ていうかこの沈黙はなに。この人が私を呼んだんじゃないの。え、私から話を振れって? そのための間なのこれ?
「あ、あの……」
「此方にお出で」
ケンタロウ(仮)を下がらせたのも私を呼ぶのも、黒髪のほうだ。もう一人の白髪っぽい比較的短髪のほうは先ほどから微動だにしない。表情がわからないのが怖い。呼ばれるがままに近寄ってもいいのかな。でもそれ以外になにもないよね。自分に言い聞かせるように頷いて、黒髪のほうへ歩みを進める。だんだんとその顔が見えてくる。
正直驚いた。史上稀にみる美貌だ。白い肌。鼻筋は通っている。切れ長の涼しげな目は深い緑色。そして薄い唇。整い過ぎている。作られた芸術品のようだ。
傍に行くと、黒髪は静かに微笑んだ。その笑顔には慈愛さえ籠っているように感じた。そして巨大な窓には扉が付いていたらしく、それを開けた。
「カランバノは此処で控えておいで。さあ、きみは私と共に」
どうやら白髪のほうの人はカランバノという名前らしい。彼の前を通り過ぎていくというのに、私には一瞥もくれなかった。彼は彼で整った顔をしていた。黒髪に続いて潜った扉の先はテラスになっていた。手すりに凭れて、黒髪がこちらを向く。長い髪が風に揺れる。
「あの、あなたは……」
「私の名前はアルス。きみは人間だね」
「は、はい……?」
そうとしか答えようがなくて、私は頷く。
「きみは何処から来たのだい?」
何と答えるべきなのか考えあぐねて口ごもる。そもそもここは日本なのだろうか。アルスもカランバノと呼ばれた男も日本人離れした容貌をしている。
「……いいかい。此処はね、本来ならば人間が来るべき場所じゃないんだよ」
その言葉に弾かれたように顔を上げる。まじまじと深緑の瞳を覗きこんでも、どこにもふざけているとか茶化しているという様子はない。彼は大まじめにそう言っているのだ。
「どういうことですか? だって……」
目の前にいるあなただって人間でしょうと言いかけたとき、アルスが私の心中を見透かしたように首を横に振った。
「私は竜だよ。そして部屋に居た騎士を見たかい? 彼は狼なのだよ」
「はぁ……」
何かを口にしかけて言葉を失い、情けない声が漏れた。
「此処は精霊たちが住まう世界。そして私は此処を統治する王だ」
「精霊……? じゃあなんで私はそんなところに」
その問いには答えられないとでも言うようにアルスはもう一度首を振る。
「此の世界には流星に纏わる伝説がある。星、天より流れ落ち、我らの痛みを癒さん、とね。此れは推測に過ぎないが……、きみは其の流星ではないかと思うんだ」
「はあ……」
今度こそ溜息が出た。わけがわからない。流星がどうとか。伝説がどうとか。そんなものになった覚えはない。私はただのありふれた女子大生だ。
「きみは突然空から落ちてきた。……それに其の容姿」
状況を飲み込むことができず黙りこくっていると、コンコンとテラスと室内とを隔てる巨大なガラス窓を叩く音がし、狼だという白髪の男がドアを開けた。
「御話し中失礼致しますが、アルス様。魚族らより使いが参りました」
「わかった。向かおう。カランバノ、私の代わりに流星を部屋に案内してくれ」
「流星……で御座いますか」
「そうだ。此の少女は流星だよ。私たちの伝説のね。きみはこれから流星の身の回りを護ってやってくれ」
カランバノの顔にははっきりと疑念の二文字と拒否の意が浮かんでいる。うん、わかるよ気持ちは。だって私だっていきなり流星って言われたって意味わかってないもん。それでも王の勅令には従わざるを得ないのか、カランバノは納得のいかない様子を見せながらも私を案内してくれた。
私に宛がわれたのは王の温室のような自然あふれる部屋ではなく、寝台とテーブルとちょっとした家具がある普通の寝室だった。
「この部屋を好きに使え」
「ありがとうございます」
「そのうちに使用人が着替えを持って来るだろう」
「……はあ」
「お前がいることは未だごく一部の者しか知らない。迂闊に出歩くな」
「……ほう」
「この世界の者たちはお前たち人間が嫌いだ」
「……そうなんですか」
「言っておくが」
カランバノはそう言って、私を見下ろした。なんていうか、見た目は人間でも狼に睨みつけられるのって結構怖いものだ
「俺はお前が流星だなんて信じていないからな。王の命令に従っているまでだ。少しでも不審な動きをしてみろ。そのときは俺が必ずお前を討つ」
そんなものはないのに、喉元に剣でも突き付けられているような思いがした。勝手に身体が震える。初めて感じる。これがきっと本物の殺意なのだろう。
カランバノはそんな私を一瞥して、溜息を吐いて部屋をあとにした。一人残された私は、その場に座り込んだ。涙が溢れてくる。もう、怖すぎ。
泣き疲れて、気が付けばベッドで眠っていたようだ。部屋のドアをノックする音で目が覚めた。開けるべきか迷い、そして開けた。
「はじめまして」
そこには羊の角を生やしたお姉さんが立っていた。ふくよかな体にくるくるの巻き毛は、カランバノには欠片ほども見当たらない優しさが現れていた。
「は、はじめまして」
「あなたが流星様ですね? わたくしはプリマヴェラと申します。アルス王よりあなた様の身辺のお手伝いをせよとの勅命を承りました。何とぞよろしくお願い致しますね」
ぺこり、と頭を下げる。その姿はかつて自分の世界で見ていた日本人の動作と同じで、なんだか安心した。
「んー……、なんか一応流星ってことになってます。よろしくです。プリマヴェラさん」
「嫌ですわ。さん、だなんて。どうぞ呼び捨てにしてくださいませな」
「いやいや、それはなんていうか……」
失礼かなーと、と両手をぶんぶん振って拒否する私を見て、プリマヴェラさんは花の蕾が綻ぶような穏やかな笑みを浮かべた。
「うふふ。伝説の流星様が現れたと聞いたからどんな方かと思いましたけど……、随分と可愛らしいかたですね」
「かわっ……かわいくはないですよ。全然……」
「まあ。ご謙遜なさって。そうですわ。わたくし、あなた様の衣装をお持ちしたのでした」
そういって差し出されたのは数点の、柔らかそうなワンピースだった。といっても日本で着ていたようなものとは全く違い、丈の長いシンプルなドレスのようだ。
「……私にこんな服が似合うかな」
「似合いますわ。きっと。そうですね、まずはこのピンクのものなど如何でしょう」
「着てみます……」
「お手伝い致しますわ」
そこで改めて自分が着ている服の特異さに気が付いた。もちろん日本で着ていれば浮くことの無い、ジャケット、ブラウス、スカートにパンプスといった格好だ。それでもこっちの人は、アルスもカランバノもプリマヴェラさんも、みんながみんな中世ヨーロッパの貴族が着るような格式の高そうな装いをしているのだ。どう考えても、目立つ。
ジャケットを脱ぐと、プリマヴェラさんがすぐに手を差し伸べてきた。一瞬迷いつつも渡す。ブラウスとスカートを脱ぐときは逡巡した。だって恥ずかしいし。でもプリマヴェラさんは慣れているのか、全くそんな様子を見せなかったかので意を決し、脱いだ。もちろんパンプスも。
ピンクのワンピースに腕を通す。見た目通り柔らかくて軽くて着心地がいい。
「やっぱりお似合いですわ」
プリマヴェラさんが顔の前で手を合わせて、にっこりと笑ってくれた。
「えへへ、ありがとうございます」
「お次は髪とお化粧ですね。あら……」
そう言って、プリマヴェラさんは私の目のすぐ下、隈ができる辺りに指を這わせた。突然のことに思わず固まる。
「もしかして、お泣きになったのかしら」
図星だ。涙の跡でも残っていたのか。眠りに落ちる前、私は確かに泣いていたのだ。素直に答えるのも恥ずかしくて、私は小さく頷いた。
「なにかあったのかしら。わたくしに話せるようでしたらぜひ話して」
プリマヴェラさんに手を引かれて、私たちは並んでベッドに腰掛けた。背中を擦りながら隣にいてくれる彼女に、安堵とそれから勝手に友愛の情を覚えた。
私はことの次第を話す。人間以外のものたちが暮らすという世界に来て、突然流星だとか言われて戸惑っていること。揚句カランバノに酷いことを言われたということ。プリマヴェラさんは全面的に私の味方になってくれて、頬を膨らませながら、わたくしもカランバノ様のことは好きではありませんの、と悪戯っぽく言った。打ち明けたこととその笑顔によって、私の心も少しだけ軽くなる。
「さあ、今日はお化粧は止めましょうか。もう夕暮れ時ですし、髪だけ整えることに致しましょう。それから食事を摂って湯浴みをして、早めにお休みになるほうがいいですわ」
「そうですね、泣いちゃって顔もぼろぼろだし……」
「こっちへ来てくださいな、ここに座って」
プリマヴェラさんが、机の前の椅子を引く。私は小さくお礼を言ってそこに腰掛ける。すると彼女は、壁に掛けられたカーテンを開けた。私はてっきりその向こうには窓があると思いこんでいたのだが、違った。淡い紫色のカーテンの奥から現れたのは鏡だった。
「へ……」
そしてそこに映る自分の姿を見て、絶句した。そういえばこの世界に来てから自分の姿を客観的にみるのはこれが初めてだ。髪の色が、変わっている。元の世界では私は女子大生にありがちな色の抜けた明るい茶髪だった。それが今は、一体何回ブリーチしたらこんな色になるのだろう。それぐらいに明るい、というよりむしろほとんど色素が残っていなさそうな、白に近い金髪になっている。そして心なしかその髪がきらきらと輝いているのだ。
「綺麗な髪ですね」
プリマヴェラさんが優しく櫛を通すと、光が舞った。
ああ、確かにこれは星の輝きみたいだ。
手慣れた手つきで髪を整え結ってくれたプリマヴェラさんは、一旦退室してその後で食事を用意してくれた。それが終わると今度はお風呂場まで案内してくれて、なんと入浴の手伝いまでしてくれた。自分の貧相な裸を見られることに多大な抵抗を感じたが、そうされるべき立場であるのだろうと自分に言い聞かせて、甘えさせてもらった。その晩ベッドに入り、なんとかカランバノに会わずに過ごせますようにと天に祈った。