26
目が覚めた部屋に連れ戻され、ベッドに入っても一向に眠気が訪れる気配は無かった。私が何か軽率なことをしないよう見張り役のつもりか、プリマヴェラさんがベッドのわきの椅子に腰かけて、気遣わしげな視線を投げてよこしている。
白い天井は、何時間見つめ続けても代わり映えしない。朱色の枠に囲まれた障子の向こうが次第に明るくなってきた。もう朝だ。一睡もできなかったし、隣にいるプリマヴェラさんもそれは同じだ。付き合わせちゃって悪いことをしたかな。せめて寝たふりだけでもすればよかった。
今の私は空っぽだ。光を失って、身体の中が空洞になったよう。いろんな思いが湧き上がってくるのに、それらすべてが形を成す前に跡形もなく消えていく。悲しいとか寂しいとか悔しいとかそんなんじゃなくて、ただ凪いでいる。激情を感じるような気がするのに、その一方で何も感じない。
カーテンが勢いよく開けられる。また遅刻するよ。ねぼすけさん。朗らかな笑いを含んだ声が聞こえる。
「……おかあさん」
早く起きてきてね。もうご飯できてるんだから。早くしないと冷めちゃうよ。その声が障子の向こうに消えていく。待って。起きるから。待って。
「お母さん!」
引き戸を開ける。手入れの行き届いた緑の庭にかかる石造りの小さな橋の上に、見慣れた姿があった。環奈、おはよう。仕事に行く準備をしながら私の朝ごはんを作ってくれるから、もう寝巻姿じゃなくてすっかり出勤用の服装をしている。じゃあお母さん、先行くね。環奈も気をつけていってらっしゃいね。にっこり笑ってこちらに背を向ける。
「待って! 行かないでお母さん!」
ベッドを飛び降りて部屋を出た。廊下から庭に下り、部屋の窓から見たあの石造りの橋にたどり着く。けれどそこにもうお母さんの姿は無い。
「お母さん……、私も一緒に帰りたいよ」
「流星様!」
プリマヴェラさんが追いかけてきてくれた。心配や迷惑をたくさんかけているのはわかっている。どうかもう面倒だと突き放してくれたらいいのに。だってこんなに良くしてもらう理由が無いのだから。
「力が無くなるんだったら、ついでに元の世界に戻してくれたらよかったのに」
「お部屋に戻りましょう? お身体が冷えますわ」
「ひとの願いを聞いてきた私の願いは、誰が叶えてくれるんだろ」
「どうかそんな悲しい顔をなさらないでくださいな」
温かい手に、私の冷えた両手が包まれた。
「流星としての力を失っても、貴女は貴女のままですわ」
「……実際そうなのかも。本来の私はあんな力持ってなかったわけだし。だけどね、それじゃあこの世界で生きられないんだよ……」
「わたくしがこれからも今まで通り流星様のお手伝いをさせていただきますから……」
「それじゃダメなんだよ。だって嫌だよ。助けられるばっかの生活なんて嫌なのに……」
自分一人では部屋の灯りを点けることさえできなかった。今までは生活面で助けてもらうぶん、力を使ってこの世界のひとの役に立とうと思ったのに。
「どうしよう、ほんと……。どうすればいいんだろ」
それしか言えなかった。出口のない迷路みたい。ずっとずっと同じことを問い続けているのに、いつまで経っても答えが見つからない。プリマヴェラさんは何も悪くない。むしろ嬉しいことばっかり言ってくれる。だけど今はその親切心に包まれたところで、何も解決しないのだ。だからそっと手を離した。驚きと悲しみで目が見開かれる。ごめんなさい。心の中でつぶやくだけで、声に出して伝えることさえできなかった。言葉を失くしたプリマヴェラさんを見ていたくなくて、私は歩きだした。一歩踏み出してから行く宛てなんて無いことに気がついた。
「もうやだ……」
つんと鼻に痛みが走る。また泣くのか私は。泣いてばっかりで何もできない。背後で立ち尽くすプリマヴェラさんに気付かれたくなくて、必死で声を抑えた。それでも肩が小刻みに上下し、うっうぇと情けない声が漏れる。
「流星様……!」
まるでお姉ちゃんのようなプリマヴェラさんはすぐに私の異変に気がついてくれた。さっき振りほどいた手で、そっと背をさすってくれた。尚更涙がこみ上げてくる。立っていられなくてしゃがみこんだ背を、ずっとずっと優しくなでてくれる。拒んだのに。傷つけたかもしれないのに。身体の震えと嗚咽が止まらない。
「其処で何をしている」
静まり返った冬の大地で、霜の降りた草花を踏みつぶしたときのような声だ。小さいのによく通る。誘われるように顔を上げると、相変わらず重たそうな着物を着たグラシアさんが廊下から私たち二人を見下ろしていた。
カランバノと同じ薄青色の瞳が細められた。
「……泣いていたのか」
泣き顔をしてきされて、でも今更目を拭うわけにもいかず、ただ黙っているとグラシアさんが一つ溜息を吐いた。
「流星殿、付いて来なさい」
「え……」
「早く来ぬか。それとプリマヴェラと言ったかの、お前も寝不足なのだろう。流星殿は妾が暫し預かる。お前は少し休め」
「でも……」
プリマヴェラさんが控えめに抗う。
「お前にまで倒れられたら我が息子が困るのが目に見えるようでな」
グラシアさんは片方の口角を上げ、鼻で笑った。
「さあ来い」
プリマヴェラさんはグラシアさんに向かって敬礼する。こうなったらもう私は大人しく着いていく他無かった。




