25
起きなくてはいけないような気がするけれど、まだ眠い。重たい瞼を開けられない。もう少しだけ眠ろう。寝がえりを打ち、布団の中に潜り込む。だってなんかとっても疲れてるし。……どうしてこんなに疲れてるんだっけ。二度目の寝がえりを打つ。カランバノとグラシアさんの屋敷を尋ねて、そして。
飛び起きるとそこは見慣れぬ部屋だった。赤い柱に白い壁。ベッドの上で錆ついた脳を働かせる。私、いつの間に眠ったんだっけ。グラシアさんは結局どうなったんだっけ。頭が鈍く痛んで思い出せない。額に手を当て、俯く。傾けた頭につられて黒に近い茶色の髪が視界に落ちてくる。この色、懐かしいな。高校を卒業して初めて髪を染めるまでずっとこの色だった。染めていなくても真っ黒ではない私の髪。高校の頭髪検査ではよくひっかかってたな。
あれ……。違和感を覚えたのは、そのときだった。私の髪の色は、この世界に来た時に白に近い黄色のような色に変ってしまったんじゃなかったっけ。背中をそろりと蛇が這うような、嫌な感じがした。言いようの無い不安が首をもたげている。胸から黒い靄が溢れて、喉までせり上がり呼吸を苦しくさせる。どうして。髪の色が元に戻っているのだろう。それよりも気になることがある。無いのだ。あったはずのものが無い。この世界に来てからずっと感じていた胸の中で渦を巻く光の気配が全く感じられないのだ。怖い。私は一体どうなってしまったんだろう。どうなってしまうのだろう。
当たり前にあったはずのものが急になくなるとこんなに心細く感じるなんて。つい数か月前までは無いことが当たり前だったのに。グラシアさんの病があまりにも重篤過ぎて癒すために今まで以上の力を使ってしまって、一時的に底をついているだけなのか。それとも。
唐突に部屋の引き戸が開けられる。驚いてそちらを向くと、カランバノが立っていた。
私を見て、そして目を反らす。
「気がついて、良かった」
「グラシアさんはどうなったの? 病気は? 流星の祈りはグラシアさんにも効いたの?」
「実際にその目で見たほうがいい。立てるか?」
「うん」
立ちあがろうとすると急に頭が重くなって、うまく支えられなくなったかのように身体が傾く。すかさずカランバノが抱きとめてくれた。
「ごめん。ありがと」
「無理をするな。もう少し休んでからでもいいんだぞ」
「ほんとに大丈夫だから。グラシアさんに会いたいし」
「そうか……」
カランバノに支えられながら廊下を歩く。中庭を横切るときに、オレンジ色の夕日が輝いているのが見えた。もうすぐ日が暮れる。
グラシアさんの部屋に来るのはこれで三度目だ。カランバノが声を掛けると凛とした声で返事があった。よかった。ひとまず最悪の事態にはなっていないみたい。
引き戸が開けられる。目にも鮮やかな金色の屏風の前に、白い狼はいない。
「おお、もう身体は良いのか?」
代わりに居たのは白を基調とした、濃淡がそれぞれ異なる青色の小袖、長袴、単衣などを幾重にも重ねた、十二単に近いのだろうか、豪奢な着物を纏い、足もとまで及ぶ長く白い髪を持った美しい女性だった。
言われなくとも分かる。グラシアさんだ。
「グラシアさん……」
人の姿にはなれないと言っていたのに。立ちあがることさえ辛そうだったのに。肌は透き通るように白いが、それでも頬には朱が指している。
「お主のお蔭で再び此の姿に為ることが出来た。やはり室内で生活するには此方がより都合が良いのう」
そう言って笑う狼族の長は、まるで少女のようにも見えた。迫りくる死の恐怖から逃れ、自由に羽を伸ばすことを手に入れたのだ。
「病気は治ったんですね」
「ああ。お主のお蔭だ。心から感謝致す。有難う」
「良かった……」
「まさか本当にあの病が治るとはな。お主の力は奇跡そのものだ」
「奇跡……」
そうかもしれない。奇跡としか言いようがない力を、私はこの身の内に持っていたのだ。自然と胸に手を当てていた。やはり、ない。私に宿っていた奇跡は、消えてしまった。そう思うと泣きたくなった。だけど堪える。今はグラシアさんの病気が治ったことを、喜ぶ場面なのだ。ぐっと唇を噛んだ。
「お礼も兼ねて夕餉を用意する。如何か呼ばれていってくれ。妾も久方ぶりに息子と食事がしたいしな。それにお主ともだ」
「お世話になってばっかりで……、すみません」
「そんな遠慮をするな。お主は妾の命の恩人だ」
グラシアさんは手を叩いていつもの案内係の少年を呼び、何か耳打ちをした。少年は小さく頷き、礼をするとあっという間に部屋を出て行ってしまった。
「して、その髪は如何したのだ」
正直今はその件については触れてほしくなかった。誰にでも一目で分かってしまう変化ではあるが、できることなら私自身が落ち着くまで放っておいてほしかった。
「……わかりません。そもそも私の髪はいつこんな風になったんですか?」
「わからぬ。祈祷の最中、妾は目を瞑っておったからな」
「……お前が倒れる直前だ」
後ろめたいのかあまり目を合わせようとしないカランバノが、重たげに口を開いた。
「流星が祈っている間、母上の身体は輝いていた。他の者たちを癒したときと同じようにな。だが今までに無い長さだった」
「どれくらいやってたの?」
「一時間は越えていた」
「え、そんなに?」
今まではほとんど一瞬で治すことができていた。そんなにも長い間力を使い続けたことは一度も無い。
「そして次第にお前の髪から光が失せていき、祈りが終わる頃にはその色になっていた」
「そっか……。それで私は倒れた」
「ああ」
「其れ以外に何か調子の悪い個所は無いのか。妾を救う代わりに主のような少女に余計な痛みを負わせたくはない」
言おうか言わまいか一瞬考えた。言葉にしてしまえば、揺るぎない現実になってしまいそうで怖い。胸に当てた手をぎゅっと握る。一度深く息を吸って吐いた。
「私は流星の力を失ったのかもしれません」
「なっ」「なんだと」
母子の声が完全に重なった。やっぱり親子なんだなあ、と口元に笑みが宿る。俯くと握りしめた拳が震えていた。いや、それだけじゃない。全身が震えている。
「ここに、……あったんです。ずっと胸の中に光が渦巻いているのを感じていました。だけど今は何も感じない。何も無いんです」
ふたりは口を開けたまま、黙ってしまった。絶句というやつか。静寂が恐ろしい。
今はグラシアさんの回復を喜ぶときだ。泣くような場面じゃない。だけどもう限界だ。目の奥が熱くて、鼻水が垂れてくる。
「流星っ……」
カランバノが私を呼ぶその言葉が、今は悲しすぎた。もう限界。涙が一雫、頬を流れるのを合図に私は部屋を飛び出していた。屋敷を出て街を抜けていく。力を使って疲れ果てている身体はいまいち上手く動いてはくれない。
「わっ」
足がもつれて転んだ。頬が地面に触れている。起き上がらなくてはと思うのに身体が持ち上がらない。情けなくて虚しくて、だらだらと涙が出る。もはやそれを拭う気力もない。転がったまま声も上げずに泣いている。酷く滑稽で無様で不気味だ。もう夜はすぐそこ。こんな時間にこんなことをしていたら、通りがかる里人に怪しまれるに違いない。だけど動けないのだ。ネジの切れたぜんまい仕掛けのおもちゃみたいに。壊れてしまった。壊れてしまったのだと思う。力を失った流星は、果たして流星と呼べるのだろうか。だとすれば私は一体何者なのだろうか。この世界でどうやって存在していればいいのだろうか。
考えがすべて絶望に染まっている。止め処なく溢れる涙は頬を滑り落ちて地面に染み込んでいく。いいな。いっそ私も涙の雫のように静かに消えてなくなれたらいいのに。私、なんかもうぼろぼろだ。そう思うとさらに泣けた。
急に世界が一転した。地面と草、積み上げられた石垣しか見えていなかったのに突然日が落ちて暗くなった空が映る。そして薄青色の厳しく優しい瞳も。
「おい、カンナ、大丈夫か」
本当にいつ見ても憎らしくなるほど整った顔だ。第一印象は最悪だった。あの冷たく鋭い目で私を殺すと言った。私が流星だったから彼は殺さなかったのだ。もしそうじゃなければ。ただの人間だったのならどうしたのだろう。ただの人間になってしまった今は、どうするのだろう。私が流星でなければこうして長い時間を共にすることもなかった。泣いている私を慰めてくれることもなかった。私を気遣ってくれることも護ってくれることもなかった。すべては私が流星だったからだ。流星でなければ彼との接点すら無いのだ。
もう今までみたいに一緒にいることも、できなくなるのかもしれない。
涙でぼやけて、その顔が見えない。怖くなって手を伸ばした。ちゃんと触れられる。その距離にいる。もしかしたらこれが最後なのかもしれないと思った。嫌だな。私。どうしてこんなことを思うんだろう。
カランバノの口が動く。何か言っているはずなのに、うまく理解できない。悲しいな。なんだかとっても悲しい。最初を思い出す。私を殺すと言ったあのときのこと。
「……もう殺してもいいよ」
ただの人間に戻ってしまった私を、憎き敵である種を、殺してはいけない理由がもう無いから。会えなくなるなら、もういっそ、近くにいる今がいい。
「カランバノが、私を殺してよ……」
「カンナ……っ、もう黙れ」
「この世界にいる資格が、私にはもう無いんだよ。大事に想ってもらえる理由がもう無いよ」
「そんなことはない……!」
「魔力も持たずにこの世界でどうやって生きていけばいいの。元の世界で学んだことなんて何一つ通用しないのに、……ずっと誰かに頼らなくちゃ生きていけない。そんなのは嫌だよ」
「喋るな、カンナ」
「カランバノ、私もうこの世界で生きていく自信がないよ……っ」
城の中庭や旅の最中の出会いを通して、私はこの世界に自分の居場所を見つけていた。そのはずだったのに、今はどこを探しても見当たらない。
「そんなことを言うな」
カランバノに体重を預けて起していた上半身を、強く抱きしめられた。そして頭に重みを感じる。彼の頭の重みだろう。カランバノの腕の中は暖かい。ずっとこうしていれたらいいのに。何も考えずにただ温もりの中でまどろんでいたい。
身体が浮きあがるのを感じて、抱え上げられたのだと気づいた。
「屋敷に戻ろう。今はまだ休養が必要だ」
どこに連れて行かれようがどうでもよかった。自分のことなのに、私にはまるで関係のないことのように思えた。




