21
結局その日は再びグラシアさんと話すことは叶わなかった。グラシアさんが暮らす大きな屋敷で催された私たちを歓迎する宴に招待され、様々な世代の狼族と食事を共にした。皆の口ぶりを見て、どれだけこの里で里人らにカランバノが愛されて育ったのかを知った。カランバノが里を出て王の直属で働くことを喜びながらも寂しいと感じ、そしていつかはこの里に戻ってくることを心待ちにしているのだと、異口同音で何度も繰り返し聞いた。夜宴は夜遅くまで続いた。
「……ねえ、カランバノ」
「なんだ」
里での滞在中、無償で宿を貸してくれるという提案があったので私たちは素直に甘えさせてもらうことになっていた。屋敷からその宿へと向かう夜道、ようやく私はカランバノとふたりきりになることができて、口を開いた。
「その……、どうする?」
「そうだな……」
はあ、と重たい溜息が聞こえる。里を東西に流れる小川の畔で、私たちは足を止めた。穏やかに流れる水面に月の光が反射して綺麗だ。
「もう気が付いていると思うが、母は俺たち狼族の長だ。そして俺はその息子で、里長は代々世襲制だ。つまり母の後は俺が引き継ぐことになっている。……幼いころから母は俺が立派な長になり、一族を治めることができるような男になれるように気にかけていた。もう随分と前から自分が長くは生きられず、俺が未熟なまま里長の椅子を引き継ぐことを予想していたんだろう」
「うん。私に言った息子とアルス殿をよろしくって言葉も、もう……長くは生きられないことがわかってる人が言う言葉みたいだった」
「母は長い間ずっと、自分が死ぬ遠くない未来のことを想定して生きていたんだ。次第に弱っていく身体を引き摺って、ずっと……」
水面に映る月のようだ。揺れて揺らいで滲んで、今にも消えてしまいそう。カランバノの背が、いつになく弱弱しく見えた。月光を浴びる薄氷色の髪がその儚さを一層際立たせていて、恐ろしくなった。今この瞬間、瞬きをしたらいなくなってしまうんじゃないかって。
「カランバノ……」
「俺はずっと逃げていた。弱っていく母から。……母の言うとおりだ。俺は未熟でうつけだ。いつか長の職を受け継ぐときのために幼い頃から鍛錬していた。俺が強くなれば、母の病は治り元の気丈な母に戻ってくれると期待していた……。けれど容態はどんどん悪化していき、母は歩きまわることすら難しくなった。それでも、動けなくても、母は長としての務めを果たしていたのに……、俺は城から騎士を募集する案内が来たとき、俺はこの里から、母から逃げだしたくて二つ返事で受けた。母が……死ぬという現実から、少しでも目を反らしたかったんだ。今ならわかる。俺はずっと逃げて、逃げて逃げて逃げ続けてここまで来てしまった」
ぐっと握る拳に力が込められたのがわかった。掛けるべき言葉が見つからない。私は余りにもカランバノのことを知らなさすぎる。カランバノは滅多に自分のことを語ってくれないから。私はそんなカランバノに、何も聞いてこなかったから。何も知らない。彼が今どんな言葉を欲しているのかも、わからない。
「最後に会ったときにはまだ、ずっとではなくとも人型を取ることができていた。……それが今では全くできなくなり、狼の姿でさえ会話すら辛そうだった……。もうすぐなんだな。いつかだと思っていた、母が死ぬという未来は、もうすぐそこまで迫っているんだな。俺が逃げている間に」
カランバノがこんなにも自分やその周りに関して話すのを聞いたのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。もっと早く聞いておけばよかった。心からそう思った。私はいつも自分のことばっかりだと、自分を責めたくなる。だけど今はそんなことよりもやるべきことがある。目の前で哀しみと無力感と、必死に戦うこの人を助けてあげなければ。
「逃げて……でも、ここにまた辿り着いたんだよ」
カランバノがこちらを向く。何が言いたいのか探るように、私の目を覗いている。その視線もグラシアと似ている。だけど今、私の頭の中は真っ白だ。自分が何を言いたいのか、私自身でさえわかっていない。
「逃げて、私と出会って、ここに戻ってきたんだよ。私をここに連れてきたいと思ったんだよ。新しい可能性に賭けてみたいと思ったんだよ。哀しみから目を反らすのを止めて、駄目もとでも希望に縋ってみようとしてるんだよ。それは逃げずに立ち向かおうとしてるってことじゃないのかな」
カランバノはまだ何も言わない。端正な顔が歪んでいる。哀しみや後悔が、彼の顔を歪めている。そんな表情は見たくないな。やっぱりイケメンには笑っていてもらわないと。
「私、明日もう一回お母さんに会ってくる。流星の力を試してみる」
「カンナ……」
「私みたいなのがさ、希望だなんて頼りないかもしれないけど、……今は信じて。駄目だったときはまたそのとき一緒に考えよう」
カランバノの瞳が揺れた。泣くかもしれないと思った。抱きしめてその背を擦ってあげたい。だけどきっと誇り高い彼はそんなことを望みはしないのだろう。
「よしっ、今日は充電するために早く寝るぞー! じゃあね、カランバノ! おやすみ!」
帰る場所は同じなのに、手を振って別れる。私だけが歩きだして、カランバノは立ちつくしたままだ。月に雲が掛かり、辺りが暗くなる。どうか今はそのままで。彼が涙を流せますように。
「……おやすみ」




