13
祈ろう 我らの地に癒しが齎されんことを
猛々しい男声が旋律に合わせて揺れる。遠い昔に聞いていた懐かしい唄だ。
――なんの冗談だ? これは。早く私を帰してくれ。
――悪いが、私たちはお前を帰してやる術は持たないのだ。
――意味が分からないな。そもそもお前たちは一体何者なんだ。
――私は此の世界を統べる王だ。
――王だと? そうか、翼の生えた王か。あたしは頭でも打ったかな。夢を見ているようだ。
――此れが夢だと、本当に思うか。
話しているのは私……? 少なくとも私は初めに口を開いた人の視点で世界を見ている。目の前にいるのは、私の言葉通り、黒い翼をその背に持った人の姿をした青年だ。
アルスを知っているからだろうか。一目で直感した。彼は竜だ。
王だと言う黒い竜は、だけどアルスじゃない。優しげで穏やかなアルスの瞳とは違い、厳しく気高い瞳が真っ直ぐに私を捉えている。
――……一体なんなんだ。あたしは……どうなったんだ。
――お前は空から現れた。
――空から?
――ああ、空から降ってきた。お前しか持たない特別な力を携えてな。
――どういうことだ?
――敬意を込めてお前を、こう呼ぼう。
竜の王が胸の前で五芒星を切り、指を組んで頭を下げた。
このポーズには見覚えがある。いや見覚えがあるなんてもんじゃない。
――流星、と。
――流星……?
――そうだ。此の世界には伝説があるのだよ。宇宙より星来たりて災厄を打ち払い、癒しを齎さん、と。
――そんな、……あたしはそんな大した人間じゃない。
――いや、お前は充分其の名に値している。来たまえ。
私の足は、黒い竜の王に誘われるがままにその背を追って勝手に動いていく。
あ、ここは。
ようやく気がついた。ここはアルスの部屋だ。出会った日に竜の姿を見せてくれたあのテラスに、私と竜の王は出た。見覚えのある場所。だけどそこにいるのは、部屋の主であるはずのアルスじゃない。彼はどこへ行ったんだろう。
そんな私の小さな不安をよそに、テラスの手すりの向こうには青々とした木々が風に木の葉を揺らしていた。地上の緑と空の青のコントラストが眩いまでに美しい。
――此の世界は美しいだろう。
――……ああ。
――此の世界では如何なる存在もお互いに力を合わせて慎ましく生きている。其処に立つ木々たちの多くも意思を持ち、私たちと言葉を交わすことができる。
――木々が言葉を交わすだと?
――そうだ。木々だけではない。全ての生命がお互いを理解しあうことができる。
――どういうことだ。理解できないな。
――例えば今お前が言葉を交わしている私だ。
――お前がなんだと言うんだ。
――私は竜さ。
その告白に私は少なからず衝撃を受けたようだ。視線が大きく揺れて、大きく二歩後ずさった。
――竜……だと?
――そうだ。お前も翼の生えた王だと言っただろう。此の翼が何よりの証拠だ。在るべき姿に戻ることもできるが……、今は止めておこう。
――本当に……、何なんだここは。
――此処はそういう世界だ。だが心配する必要はない。何も私たちはお前を餌にしたりなどしない。
――……してもらっちゃ困る。
――寧ろ餌となるのは我々のほうだ。人間にとってのな。
この世界のひとたちが人間の餌になる? どういうこと? 確かに元の世界では人間は植物や動物を食べて暮らしていたけれど、元の世界とこの世界に流星以外の繋がりがあるのだろうか。
もう一人の私もその点を疑問に思ったようだった。
――どういうことだ?
竜の王が苦々しげに、その問いに応える。
――此の世界には我々精霊族と人間族の、大きく分けて二大種族が暮らしている。しかしお互いが異なりすぎるせいか……、其の関係は良くない。我々が精霊の力を用いて暮らすのに対し、彼ら人間族は知識と技術を生かして機械とやらを使役している。其れならば其れで良いのだ。お互いにお互いの暮らしを尊重し、干渉し合わなければ其れで良い。だが彼らにとって我々の精霊の力は禍々しく映るらしい。何時からか彼らは彼らの世に混沌が訪れるとき、其れを我々が謀ったことだと考え始めた。我々が精霊の力を用いて彼らの世に災厄を齎しているのだと。そして其れを理由にし、我等の世に侵攻してくるようになったのだ。
人間の世と精霊の世の戦い。
そういえば前に、精霊族がどうして人の姿をするのかカランバノに尋ねた時に、その歴史に戦争があったことをなんとなく聞いたような気がする。そして精霊族は人間を相手にほとんど歯が立たなかったと。この竜の王が治める世ではもう人の姿を借りるようになっている。ということはその戦いはもっと昔のことなのだろうか。
人間である私には、この世界の人間族の考えかたも理解できないわけではなかった。現代ではそんなこともないけれど、昔話ではよくあることだ。洪水は龍神の怒りのせいで起こるとかなんとか。災害を、神さまとか妖怪とかとにかく人間以外の不可解なもののせいだとしてきた。それがこの世でも起こったのだろう。
――我々としても抵抗はしているが、彼らの持つ技術の力は脅威だ。何時何が起ころうとも不思議でない。人間であるはずのお前を前にして言うのは些か憚れるが……。
竜の王は真っ直ぐに私を見た。黒い瞳に、ゆらゆらと憎悪の炎が揺れている。
――我々も人間族を憎んでいる。身に覚えのない罪を理由に引き起こされた戦いに因って、同胞が次々に命を落としてゆく。……此れを恨まずには居られないだろう。
カランバノが、言っていた。彼ら精霊族は人間が嫌いだと。
それはここに由来するものだったんだ。
深くて長い戦争の歴史。きっと多くのひとが死んだのだろう。今はそんなに荒れているようには見えないけれど、今を生きるひとの心にも傷は残ったままなんだ。
罪の無い動物や植物を、人間たちが勝手な理由で傷付ける。
元の世界でも何度も目にした光景だ。
酷いよね。道に捨てられた野良猫を見るたびに、保健所で殺処分されるのを待つ動物たちのニュースを見るたびに心が引き裂かれるかのように痛かった。そんな話を聞くたびに、自分が人間であるのが心底嫌だった。でも子どもの私には何もできなかったから……、だからせめて愛しい黒猫を精いっぱい愛していたんだ。
非道なニュースを聞くたびに、腕の中の温もりに謝罪を繰り返しながら。顔も見たことのない血も涙も無い人間たちを呪いながら。
――……悪いが、あたしには何とも答えようがないな。
私は、私だったら絶対に口にしないような言葉を、凛とした声で竜の王に告げた。
――確かにお前の話を聞いている限りではこの世界の人間が悪い。だけどお前に同調してやれるほどあたしはそいつらのことを知らないし、それどころかこの世界のことをよく知らないんだ。だから何とも言ってやれないよ。
竜の王はその言葉に驚いたような疑うような表情をしたが、すぐに口元を緩めて、鼻で笑った。
――そうか。流星が此の地に辿り着いたからとて、そう簡単に其の力を借りられるわけではなさそうだな。
――どうだろうな。……まあ、あたしが流星であるかどうかは別として協力するかは追々考えてくよ。
――ああ。私はお前の協力が得られるように努めることにしよう。
竜の王が笑みを浮かべた。
あれ、王様の頼みとか流星の使命とかって断っていいものなの? 私ってよく考えずに引き受けちゃったけど。
――我が名はオルヒダ。お前は……。
――あたしは…………――
ゆっくりと目を開ける。あれ、目を開けるの? ってことは今まで目を閉じていたってこと? おかしいな、私ちゃんといろんなものを見たのに。
違和感を覚えながらも瞼を押しあけると、石造りの天井とシャンデリアが見えた。ここはどこだっけ。なんだか頭がとっても重たくて、思考が纏まらない。
「流星様!」
名前を呼ばれたほうを向こうと首を動かした時だった。
「うっ……」
焼けるような痛みが背中を駆け抜けた。
「大丈夫ですか! ああ、どうかまだ動かないでくださいませ!」
どうにか私はベッドに横たわっているらしいことだけは理解できたが、それにしても。
この痛みはなんなんだ。一体なにがあったの。
「すぐにカランバノ様をお呼びしますわ!」
カランバノ。そっか、カランバノ。口を開けるのも億劫で、心の中でその名前を繰り返した。身体がだるくて居心地が悪い。一体何があったんだっけ。目を瞑って考える。水生植物が覆い茂る暗い森。泣いている青い髪の女性と、ひとを取り込んだ堕獣。
そっか。堕獣と戦ったんだ。私はゴタさんを庇おうとして、やられたのか。ゴタさんは無事だったのかな。恋人を失って……今、どうしてるのかな。流星は堕獣に取り込まれたラグーナさんを光に還してあげることはできた。だけど彼を失って悲嘆に暮れる彼女の、心までは救ってあげられない。
どうしたってなにをしたって私は無力だ。特別な力を与えられて異世界に導かれても、なにをしてあげることもできない。あの頃と同じだ。
人間の都合で理不尽に殺されていく動物たちのニュースを見たとき。
腕の中で愛する黒猫が死んだとき。
なにもしてあげられなかった。私は、この世界に来ても彼らに何もしてあげれない。肝心なことは、なにひとつ。私は私が望むような人にはなれない。
「流星、開けるぞ」
遠くからカランバノの声がする。返事ができないでいると、ドアが開けられる音がした。
「お前が目を覚ましたと、プリマヴェラに聞いた。どうだ、身体の調子は」
背中は痛むけど、私は大丈夫だよ。そう言いたいのに、口を開けることさえも今の私には重労働で、軽く頷くだけに留まった。
「そうか……」
そう呟いて目を伏せるカランバノの顔には、珍しく疲労と悲痛の色が滲んでいた。大丈夫? と私が尋ねたい。言葉にする代わりに、薄青色の美しい瞳を見つめた。
「…………悪かった。お前を護れなくて。お前を護ることが俺の務めなのに、それを果たすことができなかった。俺のせいだ。お前がこんな目に遭ったのは」
どうして、そんなことをいうの。そんなんじゃないのに。カランバノはいつだって私を護ってくれてた。危険が及びそうなときは庇ってくれてたし、私が力を使いすぎたときは誰よりも早く気がついてくれた。私が苦しいときは、そばにいてくれたのに。違うよ。カランバノのせいじゃない。私自身のせい。勝手なことをした私のせい。私が自分のエゴを通したせいなんだよ。
だから、お願い。そんな。
「……かなしそうなかおを、しないで……」
私のせいで。
「カンナ……」
私には救えないひとがいて、護れないひとがいて、私のせいで悲しむひとがいる。どうしたらいいのかわからない。涙が出るほど、私は無力だ。
カランバノの顔が、ぼやける。
あの凛とした声で話す私だったら、一体どうするだろう。
私を真っ直ぐに見据えていた黒い竜の瞳を思い出しながら、泥沼のような眠りに沈んでいった。




