12
翌朝目覚めたときには、もう完全に身体のダルさは消えていた。感覚としては流星の力も元に戻っていそうだった。エントランスでゴタさんと落ち合い、私たちは昨日と同じようにイルカに跨った。今日は街から少し離れた、資源となる海藻たちや水生植物の群生地を見に行くらしい。街から見て北の方角にそれはあり、堕獣が出る南部とは真反対なこともあって危険はないだろうとのことだった。
そこに辿り着く、少し手前の場所でのことだった。
「誰か来るぞ」
カランバノがそう言った。確かに前方から男性と思われる人魚が三名、こっちへ向かってくる。
「何か様子がおかしくありませんか?」
プリマヴェラさんが怪訝そうに言った。彼らは急いでいるように見られる。近づけば近づくほどにわかる。彼らは必死の形相でこちらに向かって来ているのだ。
「ゴタ!」
その内の一人が、ゴタさんの名を呼んだ。
「一体なにがあったの?」
肩で息をする男性が、震える指先で今来た方向を射した。
「……だ、堕獣が現れた。しかも二体もだ。逃げれるやつは逃げたが……、あとのやつがどうなったかわからねぇ。……すまねぇ、ラグーナのことも見失っちまったんだ」
「うそ……っ」
ゴタさんはそう言うやいなや、群生地のほうへ泳いでいく。今までが私たちに合わせていてくれたのだとすぐにわかるほどの、速さだった。
「カランバノ、行こ!」
「そうだな」
カランバノの目の色が変わる。指示を出したのか、私たちを乗せるイルカが泳ぐ速度を増した。この世界のひとは、精霊の力を持たない生物たちとも心を通わせることが出来る。不思議な力で、支配することもできるのだ。
振り落とされないように身を低くする。カランバノが先頭を切って、プリマヴェラさんはぴったりと私の横に付いてくれていた。
すぐに目的地が見えてくる。海藻や水生植物の群生地と聞いて、想像していた場所とはまるで違っていた。それは森だ。海の底に広がる森だった。イルカたちがそこに突入すると、光が遮られて辺りが薄暗くなった。
薄気味が悪いと言うか、なんだか嫌な感じがする。
こんな場所にゴタさんは一人で入っていったというのか。
名前を呼んでみるべきなのだろうか。だけど大声を出しちゃいけないような、そんな気がする。そんなことをしたら、バレてしまうから。
「…………ラグーナっ!」
擦り切れるような声が聞こえたのはそのときだった。この三日間聞き続けているいくぶんか耳に馴染んだはずの声なのに、まったく違うもののように聞こえる。
「ゴタさん!」
だから叫ばずにはいられなかった。
「――流星っ……!」
カランバノの押し殺した怒声が飛んでくる。
私の声に誘われて、それはやってきた。
「あっ…………」
言葉を失った。紡ぐ言葉が見当たらない。だってそれは一目で堕獣だとわかるのに、今まで見てきた堕獣とは違う。違いすぎる。グロテスクで恐ろしい。肌を冷たいものが舐めていく。思わず身震いをした。
「あ、ああっアあ、アアあああうあア」
それは、声を上げてこちらに手を伸ばす。悲鳴をあげてしまいそうになった。
伸ばされた手には指が五本ある。肌色の腕だ。三つある頭の内の一つも、同じような色をしている。頭髪もある。目もある。鼻もある。睫毛もある。口も、唇も。
「ああああアアアあアあああアあアア」
呻くように叫ぶそれは、人の形をしている。
正しく表現するのならば、堕獣の中に人の形を成したものが摂りこまれている。苦しいのかもがくように、他の獣たちと混ざり合った身体を揺するたびに濃紺の髪が揺らめいた。
「プリマヴェラ!」
「……っう……!」
カランバノが鋭くプリマヴェラさんを呼ぶのとほぼ同時に、何かが吹き飛んだ。咄嗟にプリマヴェラさんが放った強烈な水流に押し流されたそれは獣の頭を持つ堕獣だ。新しく現れた堕獣に気を取られていると、茂みから新たな影が飛び出してきた。
「ラグーナ!」
青い髪と小麦色の肌が美しい、ゴタさんだった。幸いにも彼女は無事だったようだ。
「ゴタさん!」
「ラグーナ……っ!」
私のことなんてまるで目に入らないかのように、彼女が一心不乱にその名を呼ぶ。その視線の先にいるのは。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
獣と混ざり合って咆哮する、一体目の堕獣だった。
こんなときに限って私の勘は気が付きたくもないことを、教えてくれる。
例えば彼らの関係とか。
ラグーナと呼ばれる堕獣の中のひとは、ゴタさんにとってとても大切な存在だったんじゃないかとか。
「いやだ……ラグーナっ、いやよこんなの……やだ……」
涙をぼろぼろと零しながら声を詰まらせ叫ぶゴタさんを、最早理性を感じさせない堕獣がその複数の目で捕らえた。
「ゴタさん……っ!」
こんなときですら名前を呼ぶことしかできないなんて。
そんな無力な私とは打って変わって、カランバノは素早く飛び出しながら腰に提げた剣を抜いていた。そして振りかぶる。
「やめてよ……っ!」
目を開けていられないような眩い閃光が放たれて、カランバノに直撃した。
「カランバノ!」
カランバノは数メートル吹き飛ばされて、それでも体勢を立て直した。いぶかしむような顔をしているのが見て取れた。
「――はあっ!」
また別の方向では、プリマヴェラさんがもう一体の堕獣が移動するのを、風の魔法を使い水流を操って阻止していた。彼女は前にも言っていた。自分の能力では時間を稼ぐことはできても敵を倒すことはできないと。となれば一刻も早くカランバノに一体目を倒してもらい、二体目の討伐に回ってもらわなければならない。――けれど。
先ほどの閃光は電撃だったのか。まともに食らったカランバノの、剣を握る右手が小刻みに不規則に震えている。
「なんのつもりだ……!」
眉間にはいつになく深い縦じわが刻み込まれ、鋭い眼光はゴタさんを捕らえていた。
「それはこっちの台詞よ! ラグーナは、……このひとは、……私の婚約者なの……!」
ああ、なんて残酷なのだろう。神さまがいるのなら、どうしてこんな惨いことを平気でやってのけられるのか、尋ねてみたい。
「私の婚約者になんてことするつもりなのよ……!」
叫びながらゴタさんは泣いている。大粒の涙が、その目から止め処なく流れ落ちている。余りにも痛々しいその姿と声音に、私の胸が潰されそうだ。
誰に言われなくたって、本人が一番よくわかっているのだろう。
わかってしまっているのだろう。
「一度堕獣に成ったひとは元には戻れない! ここで斃さなければやつは一生力を求めてひとを喰らう化け物のままになるんだぞ!」
「そんなのいや……っ、いやだよ、ラグーナ……いや……」
「斃してやることが、俺たちができる唯一こいつを救ってやれる方法だ!」
「いや……っ!」
両手で耳を塞いで首を大きく振るゴタさんに、ラグーナを取り込んだ堕獣がゆらりと近づいている。カランバノはそれにちらちら視線を送っているが、ゴタさんはまるで気づいていない。
ゆっくり一歩一歩とぜんまい仕掛けの玩具のように、堕獣は足を運ぶ。
だからまさか急にそれが加速するなんて、たぶん誰も思わなかった。
「危ない!」
イルカから身を乗り出した。ずるりと内股がイルカの背を滑って、私の身体は真っ逆さまにゴタさんの元へ落ちていく。
「流星!」「流星様!」
カランバノとプリマヴェラさんの声が見事に重なった。
私はこんなときに役に立つ魔法が一切使えないけれど。だけどそれでもこんな悲嘆に暮れさせたまま、彼女を死なせるだなんて絶対にしたくない。
ゴタさんがかけてくれた魔法のおかげで、水の浮力を一切無視できる私の身体は、重力に魅かれて一直線に彼女の元へ落ちていった。悲しみと当惑のなかで我を忘れた彼女の身体を突き飛ばすことは、容易だった。
ゴタさんの身体が青い髪を靡かせて転がるのを見たのと同時だった。
背中を何かが掠めていった。掠めたどころじゃないのかもしれない。抉り取られたような気もする。
「うっ、くう……」
上手く世界を見ることができない。白かったり赤かったり黒かったりする。遠くない未来に訪れるであろう二撃目に備えて歯を食いしばったが、いつまで経ってもその瞬間は訪れなかった。
頬に海底の白い砂が触れる。ぼやけて見える世界の片隅で、胸を剣で貫かれた堕獣が静かに倒れていくのが見えた。ゴタさんが何かを叫ぶ声が聞こえる。もう一体の堕獣の咆哮。吹き荒れる風の音。凍りつくような鋭く尖った音。幾重にも重なる雷鳴。それから。
「――カンナっ!」
私の名を呼ぶ、その声。
安堵感すら覚えて意識を手放そうとしたその瞬間だった
まだ手が届く距離に、ラグーナを取り込んだ堕獣が横たわっている姿が目に入った。
「……うっ」
手を伸ばすと背中が激しく痛む。それにも構わずにより遠くへ、あの虚ろな目を見開いたまま動かなくなった哀れな獣へ腕を伸ばすと、もはや自分が痛みを感じているのか否かさえわからなくなった。視界にちかちかと光が飛ぶ。
それでも右手が、微かに獣の骸に触れた。
お願い。せめてこれぐらいのことはさせて。
力を求めるばかりに理性を失った獣に、それに食まれた青年に、そしてその恋人に、わずかばかりだったとしてもどうか癒しと救いを。
感覚がない。だけどゴタさんが泣きながら縋り付く獣の身体が光を纏っていた。もう少し。どちら側が上なのか下なのかわからない。音がしているのかしていないのかわからない。自分がどんな姿勢でいるのかわからない。
それでも光が弾けとんだ。
ああ、どうかその一粒でいいから愛しいひとの元へ還りますように。
祈らずにはいられない。だけど、もう何も見えないよ。
――愛しているよ。
どうかその声が、泣いている彼女に聞こえますように。




