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息を飲む美しさとは、きっとこういうことなのだと思う。美しさのあまりに涙を流すのは、これが初めての経験だ。それほどまでにこの世界の海は雄大だった。私たち一行が浜辺に着いたのは日没の一時間ほど前だった。白い砂浜も青い海もすべてオレンジ色に染められて、それがだんだんと宵闇のピンクと紫に変わっていく。黒にも見える水面に、浜辺から沈みゆく太陽までを繋ぐ光の道が現れる。寄せては返す波の音がひどく優しい。包まれている。そう感じた。ああ、アルスのあの瞳は色こそ違うものの、海のようだ。
言葉を失くした私たちはただ静かに水平線に日が沈んでいくのを見届けた。
「ほんとに綺麗だ……」
そんなありふれた言葉でしか表現できない自分の語彙力の乏しさを恨みたくなる。こんなに心を打たれる景色に出会ったことが無い。すべてのものを赦したくなるような、すべてのものに感謝したくなるようなそんな思いに駆られた。
「連れてきてくれてありがとう」
指先で目尻に溜まる涙を拭いながら、並んで立ちつくす二人に向けて言った。
「この景色を見せるためだけにここに連れてきたかったわけじゃない」
「え?」
「使いの者が来るはずなんだがな。俺たちの到着が予定より遅れたからか……、入れ違ったかもしれないな」
「どういうこと?」
「遅れたとはいえ……、彼らが王の使者を無下に扱うはずがありませんわ」
「確かにそうだな。……ああ、噂をすれば、だ」
どうやら状況を理解していないのは私だけのようだ。
「ねえ、どういうこと?」
「あれを見てみろ」
そう言われてカランバノの視線の行き先を辿る。黒に染まった波が打ち寄せ、砕かれて白に変わる。波の合間に丸い物体が幾つか浮かんでいるのが見えた。それがだんだんと波打ち際に近づいてくる。その物体がひとの頭部だと気が付くまでに、そう時間は掛からなかった。
「ちょっと! あれ、ひと……?」
「そうだ」
足が立つ、水深の浅いところまでやってきたのだろう。そのひとたちが身体を起こすと、全身が見えた。女性が三人と男性が二人の計五人は、私たちの前までやってくると、皆等しく胸に五芒星を描き祈りの姿勢を取った。そして顔を上げる。
「ようこそいらっしゃいました。流星様。そして王の使いの方々」
なんというか、目のやり場に困った。原因は彼らの装いにある。三人の女性は皆、整った顔をしているしスタイルもとてもいい。すらりと長い足と細い腰。そして豊満な胸。そのしなやかな肢体を隠そうとしない装いだ。具体的に言えば上半身は、元の世界的な言葉で表現するとブラしかしていない。しかも肩ひもは無い。さらにそのブラは色鮮やかな貝殻だ。メルヘンだ。お伽噺の絵本のなかでこんな格好を見たことがある気がする。ちなみに下は薄い生地を何枚を重ねた様な、柔らかそうなスカートを履いている。ただものすごく深いスリットが入っている。
「出迎えに感謝する。すまないな、到着が予定より遅れてしまった」
「お気になさらないでください。わたくしども一同、皆様のご到着を心待ちにしておりました」
そんな健康的美女と繊細に作りこまれたようなカランバノが会話をしている様は、絵になる。絵になりすぎる。
「皆さまが城に滞在される間、彼らのことはこの二人にお任せください」
女性は、私たちの後ろで伏せている狼たちを見やった。それと同時に彼女の後ろに控えていた男性二人が、私に礼をして狼の元へ歩いて行った。ちなみに男性は上半身は裸で、下は濃い色の腰巻を巻いている。
「さすがに精霊の力を持たない者を連れていくことはできないのです」
「任せる」
「ありがとうございます。さて、それでは参りましょうか」
「ああ」
そう言うと三人の女性は海に入っていく。カランバノもプリマヴェラさんも何食わぬ顔をしてその後に付いていく。
「まままままって! 行くってどこに?」
「言っただろう。海だ」
「海ってだって……、海の中ってこと?」
「そうだが」
「む、無理だって……! 私当たり前だけど水中じゃ息できないし、そもそもプールでだって泳げないのに!」
「流星様、御心配には及びません。わたくしが力をお貸し致します」
「力を貸すってどうやって……」
「どうぞこちらに来てください」
女性やカランバノたちがいるところは既に深そうだ。女性の胸が隠れるあたりまで水がある。自慢ではないが、私はほぼ泳げない。足が着くプールでさえ二十五メートルが限界だし、海には浮輪無しでは入れない。それでも恐る恐る一歩を踏み出した。ひんやりと冷たく感じる海水がさらに不安を煽る。皆が居る場所まで行くと、背の低い私の肩が隠れるぐらいの水があった。
「それではいきますよ」
女性が私の手を握る。水中なのに、海水とは別の水の流れを感じる。その水は私の全身を覆うように巡った。今まで感じていた海水の冷たさが消える。
そして女性がとうとう海中に潜る。手を握られていた私も否応無く引き込まれた。
「まっ、……うわあっ」
という自分の声が、海中ではっきりと聞こえたことに驚いた。ゆっくり瞼を開けると、ゴーグルをしていないにも関わらず、景色を見ることが出来た。目の痛みもない。
辺りを見回すと同じように他の女性に手を引かれたプリマヴェラさんと、誰の手も借りていないカランバノがいた。
「流星様、苦しくはありませんか?」
私の手を引く女性に聞かれた。
「大丈夫です」
と答えて気がつく。地上となんら変わりは無く呼吸をしている。
「これも魔法の一種なんですか?」
「ええ、そうですよ。わたくしたち魚族は主に水魔法を得意とします。水魔法を使えない方が海を訪れるときは、海の中でも苦しくないように少しだけ手助けさせて頂いているんです」
「……なんていうか便利だなー」
「さあここから城まで泳いでください、とは言えませんので迎えを呼びます」
片手が離される。女性は自分の首にその手を当て、口を開いた。でもなんの声も音も出なかった。だけど視界の隅でカランバノが少しだけ顔を顰めるのが見えた。人間よりも優れた聴力を持つ狼には、なにか聞こえたのだろうか。女性が口を閉じて一分も経たないうちに、遠くからこちらに向かって泳いでくる影が見えた。それは三頭のイルカだった。
「やばっ」
思わず呟いてしまった私をどうか責めないでほしい。だってイルカが目の前にいるんだもん。水族館のショーでしか見たことがないイルカが目の前に居る。三頭はそれぞれ私、プリマヴェラさん、カランバノの前で止まった。
「どうぞお乗りください。彼らが城までお連れ致します」
イルカに乗るなんてそれもまた夢のようなことだ。こんなことが現実に起こるなんて。感動する私と対照的に、カランバノはとくになんの反応もせずに跨った。プリマヴェラさんも続く。ごくりと唾を飲み込んで、私も跨った。座り心地は、狼の背のほうが良かった。つるつるしてなんとなく心もとないのだ。背びれにそっと掴まる。
これ、落とされたりしないよね……?
「それでは参りましょう」
三人の女性が先頭を切って泳いでいき、それに私たちを乗せた三頭のイルカが続いた。心配とは裏腹に狼よりもゆっくりと進んでくれたおかげで、どうやら振り落とされる心配は無さそうだ。海の景色を楽しむ余裕もある。
そして私は気が付いた。前を行く女性の、ゆらゆらと揺れるスカートの間から大きな魚の尾びれのようなものが覗いていることに。
貝殻のブラ。尾びれ。思いつくものは一つしかない。
人魚だ。私たちの前を行く彼女らは人魚なのだ。どうしよう。やばい。幼いころになりたいものがあった。それがまさしく人魚なのだ。某アニメ映画も人魚姫を題材にしたものが一番好きだ。私はお姫様よりも魔法使いよりも人魚になりたかった。憧れの存在が目の前にいる。この世界はまるで小さな子が夢見る世界を、そのまま具現化したみたいだ。
深さはどんどん増していくが、それでも苦しいと感じることは一切無かった。次第に増えていく海の住人たちの姿。魚のままの姿をしたものもいれば、上半身が人間で下半身が魚の、人魚の姿をしたものたちもいた。下半身が他の生物であるひとも見かけた。それぞれが皆私の姿を認めると、流星の祈りをしたのだった。
「ここがわたくしたちの街でございます」
と案内された場所がなんとも素敵だった。元の世界のテレビ番組の特集で見たことがある、海底に沈んだという都市アトランティス。それが実在するのなら、こんな感じなのではないだろうか。地上にある街を、そのまま海に沈めたようだ。ただアトランティスと異なるのは保護される魔法が作用しているのか、潮水に晒されて痛んでいるということもなさそうなことだ。木々の代わりに生えているのは、海藻類。珊瑚も見受けられた。通りの上を泳いでいく。正面に見えてくるのは、ギリシャのパルテノン神殿のような幾つもの大きな柱のある白い石造りの建物だった。
「あれがわたくしたちの城でございます」
大きな門を潜り抜けると庭のような空間が広がっていた。そこを通り過ぎると城の玄関であるこれもまた大きな扉があった。その前で私たちはイルカから降りた。
「ここから先に彼らは入ることができません。申し訳ありませんが、ご自分の足で歩いて頂くことになります」
イルカから降りた私たちは、地上と同じように海底に立つことができた。水の流れに翻弄されることもなかった。
「あなたがたは泳ぎより歩くことに慣れていらっしゃるかと思いまして、泳ぎではなく歩ける魔法を掛けさせて頂きました」
そんな調節までもできるのか。魔法が使えたら本当に便利なんだなあ、と感心する。まあ私は使えないのだけども。
そこで二人の人魚とは別れ、私に魔法を掛けてくれた女性だけが残り、魚族を司る王の元まで案内してくれることになった。広い廊下ですれ違うひとたちは皆、歩かずに泳いでいた。
部屋と言うよりは巨大なダンスホールのようだった。高い柱に囲まれた円形の開けた空間。天井にはなんとシャンデリアまで吊るされていた。その最奥にとてつもなく大きな二枚貝が口を開けていて、そのなかに玉座が設えられていた。
そこに座るのは、まさしく真珠だ。
「よくぞいらっしゃいました。私はアルス様より海を統べる命を承りました、魚族の長ペルラで御座います」
ペルラと名乗る人魚の女王が胸に手を当て頭を下げると、艶やかな薄縹色の髪がするすると白い肩を滑って落ちた。元の世界で青い髪の人を見かけても、お洒落だとは思っても人工的でどこか違和感を拭えなかったが、この人の髪は人目見ただけでわかる。天然ものだ。眉の色も瞳の色も揃っている。
というか。ペルラさんが美人過ぎて忘れていたけれど、海の王は女性なのだ。
「私は流星警護の任を帯びました、狼族のカランバノと申します。此方が流星の身の回りの世話を担当しておりますプリマヴェラと、流星様で御座います」
改めて丁寧に紹介されるとどうしていいのかわからない。とりあえずぺこりと頭を下げるプリマヴェラさんと同様にしてみた。
「流星の来訪は吉兆の報せと云います。お目にかかれて光栄です」
ペルラさんも他のひとびとと同じように、胸に五芒星を描き両手を組んだ。一族の長を務めるようなひとなのだから相当位が高いのだと思う。そんなひとを相手に失礼なく振る舞うって一体どうすればいいんだ。
私が迷って何も返せないでいると、ペルラさんが微笑んだ。
「海底は地上とは何もかもが異なりますでしょう。どうか存分に楽しんでいってください」
「……ありがとうございます」
で、いいのかな? ていうかそもそもどんな目的でここに来たか知らないし。世界を知るための旅って言ったって具体的になにするつもりなんだろう。
「ただ注意して頂きたいことが御座います。ここから南へ一時間ほど下ったところに最近堕獣が多く出現しております。どうかくれぐれもそこへは近寄らないようにしてください」
「堕獣……? 海の中にも堕獣がいるんですか?」
「ええ、残念ながら。さらに折悪しく、最近ではその数を増やしているようなのです。腕の立つ騎士たちに寄って一定の区間にその行動を留めておりますが、この先どうなることか……」
「そうなんですね……」
ちらりとカランバノを見ると、静かに首を横に振られた。私の思惑は常に筒抜けってことか。後でもう一回話してみよう。
その日の夕食は王の使者でもある流星を精いっぱい饗す豪華な食事が用意された。マリー・アントワネットの映画に出てくるような長いテーブルに、私、カランバノ、プリマヴェラさん、そしてペルラさんが付き、食事を共にした。スープや前菜から始まるコース料理のような呈で、なんとメインディッシュは魚料理だった。ひやりとして思わずペルラさんを盗み見たが、何食わぬ顔をしてフォークとナイフを用いてそれを食べていた。
旅の道中でハムは食べたが、なんというかペルラさんは魚族なわけで、そんなひとが精霊の力を持たないとはいえ同族である魚を食べる光景は少し異様にも思えた。
精霊の力を持つ、持たないがすべてを左右する。それはとてもシンプルでわかりやすくて、残酷なように思う。
食事を終えた私たちはそれぞれ与えられた部屋で眠りについた。海の中でも熟睡はできるらしかった。
翌朝私は地上と同じようにプリマヴェラさんに身支度を手伝ってもらい、ペルラさんの元に向かうことになっていた。
「おはよう」
「ああ」
カランバノが挨拶を返さないことにも、悲しいかな、もう慣れていた。
「ねえ昨日の堕獣がいるって話なんだけどさ、私たちでどうにかできないかな」
「どうにかってどうするつもりだ」
「えーっと……やっぱり倒して、私が浄化してあげるって感じかな」
「お前のその甘い考えは何処から来るんだろうな」
「はあ?」
眉間に皺を寄せ、静かに首を振る姿に真剣にかちんときた。甘い考えって、だっていつもそうしてきたのに。
「いいか。ここは地上じゃないんだ。俺たちは魔法のおかげで地上と同じように生活で着ているが、水の中なんだ。戦おうと思っても戦闘用の魔法が上手く作用しないこともあるし、どうなるか実際わからない。そんなリスクを背負ってまで堕獣を倒す必要は、今は無い」
言われている意味はなんとなくわかる。例えば水中で雷の魔法をぶっぱなしたら、皆感電死しちゃうとかそういうことなのだろう。だけどそれじゃ納得できない。
「でもほっとけないよ。堕獣の数、増えてるって言ってたし。もしもなんかあったらとかって考えるとさ」
「海にも腕の立つ騎士はいる。堕獣ぐらい始末できるだろうさ。……いいからもう行くぞ」
そうなのだろうか。腑に落ちないまま、歩き出したカランバノの背を追うしかなかった。
「昨晩はよく眠れましたか」
昨日の大広間のような場所へ行くとペルラさんが穏やかな微笑みで迎えてくれた。
「おかげさまで。ありがとうございます」
「さて、貴女様がたには自由にこの海底の都市を見て頂いて構いません。が、それでは何ですし案内役をひとり付けましょう。昨日ここまでの案内をさせたゴタを城門で待たせております。彼女は私の優秀な部下です。しっかりと役をこなすでしょう」
「わかりました」
「それから彼女にも言われるかもしれませんが、くれぐれも南部には行かれないようにお気を付けください。いつ堕獣が出るかも分かりません」
「……はい」
胸をせり上がる思いを飲みこんで頷いた。こんなとき私が戦える魔法を持っていたらと考えてしまう。もしくは私には関係の無いことだと割り切れてしまえたらいいのに。




