7 桜堂世羅の場合
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『――あぁ。
ようやく辿り着いた。
その『可能性』に。
君が出逢わせてくれたんだ』
● ● ●
夢を――視ていた。
そんな気がする。
それがどんな夢だったのかまでは覚えていないが、後になって振り返れば、『遊戯場』で目を覚ます度にそんな感覚に捕らわれていたような気がする。
それは、ある種の既視感――いや、既知感にも似た何か。
現時点では知るはずのない『何か』を視ていたような、そんな不可思議な感覚だった。
「………………」
桜堂世羅の……魔術師としての観点から思うに――
微睡と覚醒の狭間で揺蕩う思考の間隙に。
『――此処は特異点と化しているんだよ。
過去と未来と可能性が混在し、現在が歪んでいるのさ』
得体の知れない何者かの言葉が、理解を促すように囁きかけられていた。
――時間の流れが捩れているかのような、自然であるべき物を不自然に歪める異質な空間が形成されているのではないかと思うのだ。
そして、この空間に存在する者たちは、何らかの形で知りうるはずのない情報を得ることになる。
淡雪のように溶けて消える夢の残滓のようなものでしかないが、確かに蓄積される類のものでもある。
今はまだ閉ざされている扉の向こう側で、鍵が差し込まれる刻を待つかのように。
それはまだ意味を持たない一つの真実。
あたしはそれを知り、同時にそれを忘れていく。
「………んぅ………」
ゆっくりと目を開いた世羅のボヤけた視界には見覚えのない天井。
「ここは……?」
余韻のように残る雑音の残響で、はっきりとしない頭を持て余しながらの呟きに、
「昨夜の寝床だ。部屋は変えている」
落ち着きのある声が、即座に応えとなって返る。
声の聞こえた方へと視線を動かせば、窓際にわざわざ椅子を置いて座っている戒がいた。
手元の『PDA』に視線を落としたままの戒は、
「どうもお前は寝間着の類を着て寝られないタイプのようだな。寝相が悪いというよりも、布団と肌の間にある衣服の感触を無意識下で排除しようとしているように見受けられる。要するに眠りながら服を脱ごうとしているわけだ。だが、深く沈んだ睡眠下の意識――いや、この場合は『思考』というべきだろうな――が正常に回転していないのだから、過程の中でやや歪な体勢になってしまうのは必然なのだろう。つまり朝の惨状はそうした結果に至るまでの過程に過ぎなかったわけだ。もう少し時間を空けていればよかったのだろうな。
まあ、目を覚まさずに結果を得られるのは大したものだと思わないでもないが、誇れる特性とは言いがたいと個人的な感想で締めくくらせてもらおう」
ヨクワカラナイことを長々と語った。
「………………あんた、どうしているの?」
疑問を正しく疑問として認識が出来ていない中途半端な状態。まだ半分ぐらいしか覚醒していない意識を持て余しながら、世羅はゆっくりと上半身を起こしていく。
その拍子に毛布が滑り落ちたが気にはならなかった。
気にするべきだったと後悔するまでにそんなに時間はかからなかったんだけど。
「お前から離れている理由の方が少ないが。奇襲の可能性を完全に否定できない状況で、たかが羞恥を理由に危険を犯すのは愚かだ」
「あたしの羞恥心を、たかが呼ばわりされるのは微妙に腹が立つけど……」
「ならば、危険を度外視して、放置しておけばよかったか?」
「そんな返しが来るのはわかっていたから、素直にお礼を言わせて貰うわ。ありがと」
「ああ。回復はしたか?」
ポチポチと『PDA』を操作している戒は、視線を世羅に向けることさえしなかった。
無関心にも似た態度に少しばかりムッとしながらも、ようやく意識がはっきりしてきた世羅は簡単に身体の調子を確かめる。
体の各所を軽く動かし、ついでに魔力の循環具合を確認した上で『普通』といえる程度には、体調が回復しているのを実感した。
「それなりにね」
「そうか。なら、準備を整えろ。必要になりそうなものは用意している」
立ち上がった戒が指差した先には、結構な荷物が軽い山となっていた。
「わかっ――へ?」
うなずきかけて、ようやく自分が下着姿なのだと気づいた。
制服を着ていないどころか、ブラにいたっては片方が大きくズレてしまっており、半ば十八禁描写寸前という有り様である。
それなり以上に女の子の魅力を内包したプロポーションをしているという自負はあるのだが、安売りのように見せびらかす趣味がないのは言うまでもないだろう。
だからといって、何かのマンガのように取り乱すのもプライドが許さない。
「………………………………………………………………どーゆーこと?」
様々な感情が去来している胸中の嵐を必死に抑えながら、氷点下の視線で睨みつけてしまうのも無理はないと思う。
状況的にはどう考えても『アウト』なのだから。
「それについては語ったつもりだが」
つまりは、寝ながら勝手に脱いだということらしい。
半信半疑ながらも毛布を捲ってみると制服が散乱していた。
「………………」
今の今まで知らなかった――あるいは無意識に目を反らしていた――自分の真実を見なかったことにした。
「理解したか?」
視線を向けてきた戒は、実験の経過を見る研究者のように至極冷静な眼差しをしている。
世羅のかなり際どい半裸に対して、『服を脱いでいる』以上の感想を抱いていないのは明白である。興奮して襲われても困るのだが、そういう反応もなんだかプライドがズタズタにされたような気分になる。
ラブコメのような展開に持ち込むゆとりのある環境でもないので、やり場のないフラストレーションに世羅はしばらく身悶えをした。
閑話休題。
例によって、不承不承ながらもシャワーシーンというサービスカットをゲスな連中に提供してから、身支度を整える。
寝ている間に戒が用意してくれた『必要になりそうな物』の中には、衣服もあったのが意外だった。明らかに適当に選びました感が満載だったけれど、それでもありがたい。
あの学園の制服自体は嫌いではないのだが、路上で寝転んでいたのをそう何日も着続けたいとは思わない。血痕があるし、あちこち破れてるしで、事実上使用不可でもある。
「えっと……」
あと、非常に反応に困ったのだが、下着の類もあった。
どのツラ下げて盗ってきたのか興味があるが追求はしないと誓った。
意外と気配り上手な戒に感謝しながら、着替えをする。
動きやすさ優先のパンツスタイルで、肌の露出も抑え目になるようにコーディネート。主義に反するのだが、色は地味系を選んだ。
私服は基本的にスカート類を好んでいるので、微妙に落ち着かない着心地である。
さておき。
「機会があれば、新しい服を調達しておきたいわね。持ち出し自由なら経費の節約になるわ」
新しい靴に履き替えながらのなんともなしの世羅の呟きに、
「案外と余裕だな」
こちらに背中を向けて食料関係の入っているらしい袋をゴソゴソしている戒が、やや呆れの成分を宿した調子で応じた。
「アタフタしてるよりもマシでしょ?」
クールに返しながらも、単に一週回って冷静になっただけなのだという自覚はあった。
「うん。準備完了♪」
姿見の前でくるりと一回転して、満足の笑みを浮かべる。
「もう、夕方ぐらいじゃない」
時計を確認すると、時刻は午後五時を過ぎたぐらいだった。
随分と長く休ませてくれたものだ。
敵襲がなかったのも大きいのだろうけれど、この『遊戯』に積極的に関わる気がないと言っていたのが紛れもない本音だったという証拠でもある。
戒にしてみれば、今の状況は暇つぶしのようなものなのかも知れない。
「桜堂世羅」
「フルネームで呼ばな――わっ!」
相変わらずの呼び方への抗議の声が驚きに変わったのは、戒が何かを放り投げてきたからである。
そこそこの勢いで飛んできたそれは、『PDA』だった。
「あたしの?」
「そうだ」
「なんで、戒が………って、あぁ、そーゆーことね」
必要になりそうなものを用意しにいっている時に、持っていたのだろう。
ある種の索敵の役割も受け持つ『PDA』は、発信機的機能も併せ持つ。故にそれを所持していなければ、敵に発見される確率の軽減が望めるという理屈が成り立つ。
「理解が早くて何よりだ。説明の手間が省ける」
「ありがと」
深い眠りに落ちている世羅を放置するという戒の選択。
ある程度の運要素も含まれてはいただろうけれど、そこには個人的に自信があるし、結果論的に無事だったので深くは考えないのが無難と判断する。
失態を犯したのは世羅なのだから、戒に抗議をするのは筋違いだ。
「ああ」
――と、代わり映えのない淡白な返事だけど、それが今では戒らしいと思える。
それから、早めの夕食を取りながら『PDA』を――より正確にはその中にある情報を、自分の目で改めて確認する。
「特定の範囲内――参加者を中心とする半径二百メートルに入れば、参加者の位置情報が『PDA』で得られるのね」
わざわざ声に出して確認しているのは、戒が己の知る限りの知識を用いた補足説明をしてくれるからだ。
「そうだ。だが、それはあくまでも平面の地図上での話で、場所はわかっても位置までは特定できない。こうしたホテルの場合は、ホテルにいるのはわかっても、何処の部屋にいるかまではわからないというわけだ」
試しに『PDA』を使って確かめてみると、世羅の現在地はホテルの場所で光点が点滅している。
確かにこれでは場所は特定できても、位置まではわからない。
「必須アイテムではあっても、万能アイテムではないということね」
「不親切といえば不親切な設定だが、親切であればそれはそれでゲームとしての興を削いでしまう。敵を探すのもゲームの内だが、あっさりし過ぎていてはつまらない。バランス……いや、この場合は難易度の調整というべきだな」
こだわりというには、嫌な感じであった。
「クリア条件の一つが、初期に配布された自身の『PDA』を『遊戯』終了時まで所持し続けること。その機能を損なうレベルの破損をした場合は失格となる――ね。あんたが『PDA』がクリア条件に関係しているって言ってた意味がやっとわかったわ。あの時はそこまで聞けなかったからね」
「ああ。そういえば、そんなルールもあったな」
戒にとっては、特に意識するまでもないことだったのだろう。
言われて始めて思い出したというような素振りである。
「そのルールを逆説的に考えれば、他の参加者の『PDA』を奪って壊せば、致死罰で脱落させられるということでもある。誰かが見えないところで機械を壊すだけなのだから、罪の意識を軽減させられるという精神作用もある。なにしろ、自分の手で殺す必要がない。結果としては同じなのだが、人は自分に都合よく自己の認識を歪められる」
「………『PDA』を奪ったり奪り還したり、それを用いた取引をするのも、『遊戯』の醍醐味の一つになるのね」
「そういうことになるな」
些か行儀の悪い食事を片手間に、ある程度のルール確認を終え、現状の把握も済ませた。
「あたしが寝てる間にも、やっぱり『遊戯』は動いているのね」
そろそろ開始から一日が経過しようとしている中盤戦への移行ともいうべき段階で、既に三十人以上の人間が脱落しているという事実は、決して軽くはない。
より正確には、『狩人』が五人。『獲物』が二十八人。
意外なのは『狩人』にも脱落者が出ているという点だが、世羅がそうであるように『牙』を持つ『獲物』がいたと考えるのが妥当か。あるいは欲の皮の突っ張った『狩人』たちの同士討ちかも知れないが。
戦場が広大に設定されているとはいえ、やはり容易に切り抜けられる『遊戯』ではなさそうだ。
故に、可能ならば、仲間でもある戒の戦力を把握しておきたい。
「ところで、確認だけど………戒のあれって、『闇の衣』なのよね?」
何気ない風を装って、世羅はすぱっと切り込んだ。
思い切りは重要だと自己暗示をしながら。
「そう呼ばれる代物らしいな」
ピクリと不快げに眉を動かしながらも、初遭遇時とは違って対応は冷静なものだった。
地雷を踏んだあの時に浴びせられた殺意に、表面上は笑顔を装えたのだが内心では生きた心地がしなかった。
また戒にあんな殺意を向けられるのはとても嫌だったので、かなりビクビクしながらの踏み込みだったのだが、事無きを得られてホッと安堵の一息。
「説明がいるか?」
「出来れば、ね」
戒はしばし思案をするように視線を上向けてから、
「簡単に言ってしまえば、『闇』を纏えるようになる代物だ」
「闇、ねぇ……」
「あくまでも便宜上の呼称であり、実際には科学とは異なる理屈で成立している『何か』だ。細かいところまでは知らん」
「まあ、そうでしょうね」
どちらかというと、そっち方面に関しては世羅の方が専門だ。
魔術。あるいは魔法。
ある一つの術式を道具の形に固定し、魔力を燃料として駆動させる――それが『魔宝具』と呼ばれる代物であり、『闇の衣』はその一つとなるのだろう。
魔術師の集合体のような組織とも、『夜の国』とも縁が薄い個人経営のような『桜堂家』の人間としては、父親の所有している魔術書などでしか知りえない伝承じみた貴重な『魔宝具』の情報が得られるので、知識欲優先で耳を傾ける。
正直に打ち明けると、実演込みでの解説だとなおうれしいのだが、さすがにそれをお願いする度胸はなかった。
「闇は内側に飲み込んだ万物総てを『無』に還す能力がある。また闇を纏う者を中心にした半径二メートルを効果圏内として、その身に迫る害意ある攻撃を消し去る自動防御機能も備わっている」
「あんたが剣を形成してたりするのも、『闇の衣』の能力の一端なの?」
「衣として纏っている質量の一部を固めて特定の『形』にすることも可能だ。形状が剣なのは使い勝手がいいからだ。基本として俺が触れているのが発動条件の一つであり、例えば剣を手放せば、闇は即座に霧散して衣の一部に戻る」
「ほうほう。ふむふむ」
戒は意外なくらいあっさりと自身の『力』を開示していく。
それは間違っても世羅を信用しているという意味ではなく、知られたところで現状に大差が生じないという判断からなのだと素直に思える。
世羅の実力を侮っているわけでもないし、今後に敵対する可能性を無視しているわけでもなく、ただ単純に聞かれたから答えた。
それだけの話に過ぎないのだろう。
――まあ、もっとも、戒の口ぶりはどちらかというと自身の把握範囲内での性能であり、本当にそういう代物であるという確定情報というわけではなさそうだったが。
有用かどうかという点以外は、使う道具にも無頓着そうな印象だから、必要以上に調べたりはしていないのだと思える。
強いて付け加えるなら、戒にとっての『闇の衣』は地雷的な記憶を含んだ代物でもありそうだからという点も含めて。
「あとは身体能力を常人離れたした超人……の領域にまで強化してくれる。普通車程度なら、サッカーボールやバスケットボールぐらいにしか感じないぐらいにな」
つまり、その手のボールと同じ感覚で蹴り飛ばせるという意味なのだろう。
常識的に考えればふざけた話だが、その常識を足蹴にする光景を既に見ているのだから野暮な突っ込みはするまい。
「言葉にされると、なんだかふざけてるみたいな感じになるわね」
「否定はできないな」
ふっと笑うように口から呼気を漏らす戒。
「ちなみに、その『強化』は任意? それとも常時?」
世羅の質問に、戒はほんの少し訝しげな色を瞳に混ぜた。
その意図がわからなかったのだろうけれど、制御の出来ない常時強化型と装備者の意思で切り替えの可能な任意型では、利便性が遥かに異なるのは言うまでもない。
「任意だ」
流石は伝説級というべきか。あまりの便利さにレンタルしてもらいたくなる。
勇気をぎゅーぎゅー振り絞ってお願いしてみようかな――などと思う世羅だが、この手の魔宝具は所有者を選ぶ代物でもある。
実力が足りなければ、恐らくは闇に飲まれて消え去る羽目になるに違いない。
今の世羅ではどう考えても実力不足なのは疑う余地がない。
「大体はそんなところ?」
「あぁ、これ以上の説明は思いつかんな」
――とはいえ、さすがに『切り札』的なものは隠しているのだろうと思っている世羅だった。本当に手の内の全てを明かしているようだったら、それはいくらなんでも自暴自棄なものを孕んだ危うさを感じるし、そんな迂闊さでは『裏側』で生き残れない。
「そ。」
得た情報と自分の戦力を根底に据えて、この『遊戯』の性質を並べ立てて、有効な戦術と今後の行動方針に頭を巡らせる。
ベッドの腰かけている世羅は足を組み変えて、口元に手を添える。
圧倒的に必要な情報が足りていないが、それでも今後の展開の想像はいくらでも出来る。
こうした場面で楽観論を信奉するのは愚考に他ならず、むしろ悲観的な方向性に思考の焦点を合わせる。
幸いなのは、常人レベルならば寄せ付けないほどの実力を持つ戒が、戦力として計算できることだろう。
仮に。
これが世羅個人であったならば、五人ぐらいに囲まれただけであっさり『遊戯終了』という末路が約束される。
根本的な意味で、魔術師という人種は実戦向きではないのだ。
「……ふぅん」
一分よりは長く、三分には届かないぐらいの時間を思考に費やした世羅は、最終的に大した意味を含まない呟きというには曖昧な音を口にした。
「それで、お前はこれからどう動くつもりだ?」
黙りこんで思案に沈んだ世羅に声をかけるでもなく、中断していた軽い食事を再開していた戒が顔を上げる。
「――まあ、自分の立ち位置を考慮すると、篭城するよりは動き回った方がいいような気がするのよね」
運営の連中に悪意を抱かれているのだから、『遊戯』内で始末するために何らかの手段を講じられている可能性は高い。
不安要素しか見当たらないので、居場所を特定されないように動き回るべきだと思う。
運悪く『狩人』に遭遇した場合は、手早く迎撃すればいい。
………戒が。
「妥当な判断だな。なら、適当に徘徊するか?」
「無目的にウロチョロするのは主義じゃないから………、そうね。とりあえずは爽馬に逢いに行くのはどう?」
生き残るのが前提条件ではあるが、それ以外にこれといった目的はない。
だからこそ、今の時点で考えられる暇潰し――というには些か以上に剣呑だが――を提案する世羅だったが、戒は不快げに目を細めた。
「なら、今後は別行動だな。何処へなりとも勝手に行くがいい」
「超速攻の別れっ!」
「この件に関しては交渉の余地がない。あいつと顔を合わせるとロクな展開にならん。ならば近づかないのが無難な選択だ」
ある程度の想像はしていたけれども、それ以上に取り付く島もなさそうだった。
あの時は適当に流された感があったのだが、戒と爽馬が初遭遇した時に一体何があったのだろうと改めて追求したくなる。
どういう展開から、あの戦闘に繋がったのか――それを知っておく必要があるような気がするのだ。
戒は語りたがらないだろうから、とりあえずは爽馬を当てにすることにした。
そういう意味でも――
「まあ、仕方ないわね。確かに、あなたたちが再会するにはまだ早いし、もう少し地均しをしておく必要もありそうだものね。なにより、あたし自身も爽馬の事をほとんど知らないわけだし――
――雑音。
無意識下、ほんの刹那、
雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。
――まず、最初に目を閉じた――
かつて見た美しい記憶を守るために――にめたるれ忘をさ醜の界世た見てつか。
――光を知った眼差しを、再び闇へと閉ざした――
雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。
今はまだ意味のわからない情報の小波が通り過ぎていく。
雑音――。
――だから、爽馬を知るために逢いに行ってくるわ」
………っ………何だろう?
ほんの一瞬だけ、喋っている途中に意識が揺らいだような違和感を覚えながらも、世羅はそれを表情に出さないように努める。
「俺に断りを入れる必要はない。勝手にすればいい」
相も変わらずの素っ気ない返答に、自然と苦笑が滲む。
「これからすぐってわけじゃないわよ。もうしばらくは一緒に行動させてもらうわよん♪」
戒の返答は、本気の舌打ち。
傷つくなぁ。
「……しかしだ。他人を言えた義理ではないが、あいつは相当な危険人物だ。進んで関わろうとするお前の心中が理解できん」
「あんたが危険人物なのを否定するのは難しいけど」
「…………」
「少なくても自分に害があると判断しない限りは、手を出さないタイプだと思っているわよ」
違う? と上目遣いで問いかけると、戒は否定も肯定もせずにその流れのままに続ける。
「仮に俺がそうだとすれば、あいつは逆に近寄ってくる者は悉く『敵』だと即断して、それを排除するのに躊躇がないタイプになる。老若男女の区別がない極端な無差別派ではないにしても、実力行使に迷いはないだろうな。お前も例外にはならない」
「わかってるわよ。それでも放っておけないのよね」
放っておけない――自然と口から出た言葉に、しかし違和感はない。
それは戒に感じたある種の使命感にも似て、それ以上に深いところで雁字搦めになっている悪辣な『何か』を紐解かなければならないような印象がある。
「何故だ?」
「強いて言うなら、ただの『勘』よ」
それは、そのままの意味でもあるのだが、同時に全てでもない。
頭の中がムズムズする不自然な違和感が、時折、意識の片隅に混じるような感覚がある。
まだ詳細を掴みきれていないので明言は避けるが、その違和感の中に含まれている『何か』が、岸本爽馬の存在を強く意識している。
ある意味においては、戒よりも。
面倒さ。厄介さ。
そういう意味では、爽馬の方が遥かに手間取りそうで、気にかかってしまうのだ。
もっと端的に評するならば、戒よりも爽馬の方が気に入らない。
気に入らないものを、気に入らないままでいるのは好きじゃない。
だから、自分なりの手段で正したくなってしまう。
その善し悪しは暗幕の向こうに閉ざされているが、何かがあるのがわかっていて手を伸ばさないのは主義に反するので、とりあえずは関わりを持つのが結論なのだった。
「そんな曖昧な感覚に生命を懸けると?」
「そうよ」
「そうか」
戒が馬鹿を見るような一瞥を向けてくる。哀れみですらなかった。
少しはこちらの内心を察して欲しいと無茶な気持ちを抱かせる、そんな冷たい視線に乾いた笑いが漏れる。
「それで、アレの行方に当てはあるのか? 無駄に広い戦場で、特定の個人を探すのは困難だと思うが」
「爽馬には『目印』を付けておいたわ。だから、その糸を辿れば再会は難しくないのよ」
「余計な発言だったようだな」
手抜かりのなさを褒めてくれてもよさそうな場面なのに、むしろ煩わしく思われているかのように顔を顰められる理由がわからない。
まさかのまさかではあるが、心配だから行かせたくないとか思っているのだろうか――などと考えて、ありえないと放り投げた。
「……まあいい。お前が動くというのならば、これからがお前の『遊戯』の開始になる。お前も戦う手段があるなら、今の内に準備を整えておけ」
「そうね」
ポケットをゴソゴソ。
世羅が例の腕輪を邪魔に思いながら左手に装着したのは、ビー玉サイズの赤、青、黄、緑、茶の五色の宝玉を、それより一回り小さな白黒の玉で左右を挟んだブレスレットだった。追加で赤、黄、緑の三色三種の指輪を嵌める。
ブレスレットは各属性の蓄積量がそれなりの代物。指輪は切り札的なもの。あとは生活の傍らで蓄積量を増やしている無属性仕様の晶石をいくつか服の各所に仕込んでいく。
手持ちの手札で組める最善手を整える。
――ちなみに、暴発すれば連鎖反応でかなり盛大な『花火』になってしまうので、取り扱いは慎重にしなくてはならない。
「まっ、とりあえずはこれくらいかしらね」
「それがお前の『武器』か」
「正確には、補助具の類ね。あたしの魔力の総量は『マジパネェ』とかいうレベルらしいんだけど、一度に取り出せる量がそんなに多くないのよ。無駄にスタミナはあるけれど、瞬発力が足りないようなイメージをしてもらえばわかりやすかしらね」
「………………そうか」
わかっているのかいないのか、どちらかというと後者寄りではないかと思えてしまう戒の相槌だった。
「その欠点を補うために、あらかじめ外側に蓄積したもので補填するようにしてるの。要するに足し算の理屈ね。場合によっては掛け算にもなるけど」
「? よくわからん」
「魔術については予備知識のない人に口で説明すると曖昧な感じになるのよね。実際に見せた方が早いんだけど、見たい?」
「お前の無駄に長そうな薀蓄を聞きたいとは思わないし、魔術とやらにも興味はない」
「それはそれで腹立たしいというか、傷つくというか。反応に困るわね。実際のところ、あんたの『闇の衣』もこっち側に属してるのよ?」
わずかに眉を動かす戒だったが、世羅の言葉に食いつきはしなかった。
むしろ、口を滑らせてしまったという自覚が世羅にもあったので、それは幸いだったといえる。それはどういう意味だと素直に質問をしてくるよりも、不興を買う可能性の方が圧倒的に高かったのだから。
「戦力として期待していいのかを知りたいだけだ」
緊張のレベルを上げるわずかな沈黙を挟んでから、戒は肩を軽く上下させた。
「足手まといにはならないわ」
「そうか」
戒が首肯する。
信頼や納得とは無縁のものだろう。
現段階において、世羅の存在は、戒にとって『当てにはしないが、面倒ぐらいはみてやるか』程度に過ぎないのだと理解している。
多分、それだけでも破格の扱いといえるはずだ。
本来ならば、そもそも関わり合うことすらないはずで、何一つとしてメリットの提示さえ出来ていないのだから。
「なら、そろそろ移動をするぞ」
ペットボトルのお茶を飲み干して、戒は腰を上げる。
「そーね」
世羅は軽く肩をすくめて、同意を返す。
簡単な後片付けを済ませて、荷物を片手に部屋を出る。
部屋から出るその一歩が、自ら選んだ戦場への第一歩なのだと自覚しながら。
「そういえば………」
どこか白々しさを感じさせる調子で、まだ部屋の中にいる戒が口を開く。
「一つ聞き忘れていたことがあったな」
「何よ?」
「お前は何者だ?」
「にゃ?」
しばらく、その問いかけの意味を理解できなかった。
今の段階でそのような問いかけを受けるとは思っていなかったからというのもあるが、その時の彼の表情がどこか罰の悪さを隠そうとしているようにも見えたからだ。
気のせいといってもいい程度の淡さで、それでも世羅には見逃しようもなくはっきりと。
だから、こみ上げてきた嬉しさを隠そうともせずに、悪戯っぽい上目遣いをしながら『にゃふん♪』と心からの微笑を浮かべた。
魅了の一つもしてやろうと意気込んで。
「それは、あたしには興味を持ってもらえたと解釈してもいいのかにゃん?」
招き猫っぽい手招きのおまけも付ける。
「さぁな」
腕を組み壁に背を預けた戒の言葉はやっぱり素っ気ないものだったが、先の問いかけをなかったことにするつもりはないようだった。
大変よろしい傾向だと思えたので、素直に答えようと決める。
よくよく考えれば、それを誰かに告げるのは初めてだったのに気づいた。
それがなんだかとても感慨深かったので――
「あたしは、魔術師よ」
殊更になんでもない風を装って、その上で誠実なまでに真実の響きをのせて、その言葉を告げた。
「そうか」
彼の返答はそれだけ。
世羅にはそれで十分だった。
今はまだ――という注釈は付くが。
「そうよ。多分、お披露目の機会はあるだろうから、楽しみにしててね♪」
ウインク付きで告げた言葉を聞いた戒が、部屋から出てくる。
「――では、これから戦場に赴くお前に、かつて俺も告げられた言葉を贈ろう。………『その意志と力を持って、己が生に足ることを証明するがいい』――それこそが、お前がこれから身を投じる戦場の唯一無二の理だ」
戒の手で、部屋のドアが閉じられる。
告げられた言葉とその音が『何か』を決定的に変質させる。
「結構。その意味を理解しておくわ」
――この瞬間を境に、桜堂世羅の『遊戯』が始まる。
次からようやく話が進みそう……かな?




