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23 蠱毒の悪魔―⑧ 『帰るところ』






 その廃墟に隠されていた地下室に戒が踏み入った時。

 耐え難い腐臭に迎えられて、眉間に皺が寄った。


「………………」


 そこには。

 正視に耐えない光景が、待ち受けていた。


 地下室の中央に、ボコボコと不快音で泡立ちながら膨張と破裂を繰り返す肉塊がぶち撒けられていた。腐り、溶け崩れて、黄ばんだ粘液が滲み出る。不気味な光沢を放つ人間の臓器がいくつも生えては潰れる。どす黒く汚れた血が噴水のように飛び散っている。


 数多の眼球が血の涙を流し、数多の口が耳障りな叫喚を弱々しく歌っている。


 おぞましい装飾を現在進行形で施されているそれは、糞尿のこびり付いたまま放置され続けた廃墟の便器のように穢された人間の成れの果てだ。


 人間という存在を貶める神業的な冒涜だった。


 端的にまともな神経を有した人間がいられるような空間ではない。


 それこそ壊滅的なまでに破綻した精神でも有していなければ、こんな極限まで常識を陵辱したところにはいられまい。


「………………」


 それでも。

 戒は顔を顰めながら、歩を進める。


 びちゃりと粘ついた血の池と化した床の上を歩いていく。


 ぶち撒けられた血塗れの肉塊の真ん中に、そこだけはかつての面影を残したあの女の顔がポツンと浮かび上がっていた。蛇のようにのたくる何かに壊されては、何かの冗談のように再生し続けるのは生き汚さの表れか、それとも……。


「………こぼ、ぢで…………おぺ、が……い………こど……じで………くぱ……ぁい……」


 無間地獄のような苦しみに晒されながらの哀願だった。

 そこに誰かがいるのを認識しているわけでもないだろう。


 ただ一刻も早く、この苦しみから解放されたいと――それだけしか望めなくなったからこそ、それを恥も外聞もなく繰り返しているのだ。


 壊れたラジカセのように。


 その末路は。


 あまりにも哀れで。


 あまりにも惨めで。


 あまりにも情けない。


 だから――



「――断る」



 懇願を一刀両断に切り捨ててから、戒は虫以下に成り下がった肉塊に背を向ける。


 路傍の染みも同然の存在として永らえる。

 似合いの末路としか思わなかったし、ましてや同情など欠片も抱きはしない。


「お前はそこで、死ぬまで生き続けろ」


 おそらくは、もう誰も訪れぬであろう牢獄の扉を閉ざす。


 あるいは、それは己の末路かも知れない生ける死者を囲った墓標を背後に、廃墟に偽装されていた連中の隠れ家を出た戒は虚空を見上げる。


「あぁ……」


 思わず零れた声は、安堵を含んでいた。


 閉ざされた天井から降り注ぐ光が眩しい。

 閉ざされた空間の整えられた空気が旨い。


 ………………生きている。



 ………あぁ(・・)俺は(・・)まだ(・・)生きているんだ(・・・・・・・)



 その事実に、感動にも似た何かを覚えてしまう。


 磨耗し尽くしたと思っている精神でも、どこかを奮わせでもしなければ、そのまま引き摺られてしまいそうなほどに終わった場所(ゼツボウ)だった。


 無性に誰かに逢いたいと――

 孤独(ひとりぼつち)は嫌だと強く思った。


 だからというわけでもないのだろうが。


「やあ」


 現れたのが全く想定外のラスクであっても、戒の内心にはわずかばかりでも歓迎の意図があった。

 それが表情にまで表れたかどうかは定かではないが。


「何をウロチョロしている?」


「君には言っていたと思うのだが、逢っておきたい昔馴染みの気配を感じたのでね。足を運んだというだけの話さ。もっとも、一歩遅かったようだがね」


 相も変わらず、幼女の外見とは裏腹の様になった仕種で肩を竦めて見せる。


「まあ、いいさ。もとより簡単に逢える相手でもないし、何らかの痕跡を探してみる」


 そのまま戒が出てきた隠れ家へと向かっていくラスク。


「忠告をしておくが」


 その背中に声をかける。


「うん?」


 肩越しに振り返る無邪気な顔を見ながら、なんとか穏便に翻意させられる言葉がないだろうかと思う。


「目にすると気分を害するものが転がっているぞ」


 結局はそんな当たり障りのない言葉しか出てこなかった。


 自分の語彙の貧相さに失望するが、アレ(・・)を微に入り細を穿つような表現が出来るような語彙があるのもそれはそれで虚しい。


「はははは。その忠告には感謝するが、ちょっとやそっとで動じるほど細い神経ではないさ。見た目とは裏腹にそれなりに長生きをしているのでね」


「そうか」


「だが、そうだな。少し待っていてくれるなら、私の持ちうる手段で帰還時間を短縮できるように計らうが、どうするね?」


「頼む」


 特に気負いなくその言葉に甘えることにする。


 どちらかというと、アレ(・・)を目撃した後のケアが必要だとも考えてはいたが。


「……ふむ。少し……いや、かなり変わったね、君は。張り詰めていたものが、だいぶ緩和されているように感じるよ」


 幼い顔に大人びた微笑を浮かべて、ラスクは廃墟の中へと踏み入って行った。



 ――その三分後。



 全速力で駆け出してきたラスクが、物陰へと飛び込んだ。


 以下、自粛。

 戒はせめてもの情けで目を閉じ、耳を塞いだ。


「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………うぷっ」


 胃の内容物を全て吐き出し終えたラスクが、青白い顔で戻ってきた。


「忠告はしたぞ」


「いや、アレは心の準備なしで見るもんじゃないね。よくもまあ、あんなものを目の当たりにしておきながら、そんな風にシレッとしていられるものだね」


「所詮は自業自得だろう。グロテスクなのは事実だが、あんなものにいちいち騒ぐほどヒマではない。………胸糞悪くなったのは確かだが」


「軽く腹に入れた後だったのが、なおさらに根深いダメージとなってしまったな」


 どこからともなく水の入ったペットボトルを取り出し、口の中を濯ぐラスク。


「ご愁傷様だ」


「昔はアレ(・・)よりも悲惨なものを目にする機会もなくはなかったのだが、ここ最近は微温湯のような平穏が続いていたのが仇になったな。いや、全く気づかない内に私も丸くなってしまったものだ。あの程度で取り乱すとはな……」


「お前の心情などどうでもいいが、アレ(・・)を見て平静でいられるような奴は、マトモではないと思うがな。この言葉が適切なのかどうかは微妙だが、その人間らしさ(・・・・・)は大事にしておくべきものなんじゃないのか?」


 きょとんという言葉が相応しい表情で、見上げてくる二つの大きな瞳。

 やがて、堰を切ったようにその小さな口から笑い声が漏れ始める。


「………………」


 思わず憮然としたくなる反応だった。


「まさか、君の口からそのような言葉が出てくるとは思わなかったよ」


「五月蝿い」


「おや、気分を損ねてしまったかな?

 しかし、君から頂いた言葉を返すが、君が取り戻しつつある人間らしさ(・・・・・)は大事にしておくべきものだよ。万人全てに愛を囁けとまでは言わないが、傍らにある者にぐらいには見せてやるべきだともね」


「ふん」


 鼻を鳴らして、明言を避ける。


 ラスクの言葉に、いくつかの顔が思い浮かんだのも今は考えない。

 戦場に甘さは必要ない。


「それで――」


「うん?」


「昔馴染みの痕跡とやらは見つけられたのか?」


「あぁ、いたのは間違いないようだが、相変わらず足跡を消すのが上手いようでね、後を追うのは困難だ。正当な手段で会うのは諦めた方がよさそうだ。どうせその内に姿を現すのだから、その刻を狙い打つとするさ」


「なぜ最初からそうしない」


「彼と刃を交えるのは、個人的に遠慮したいのでね」


「戦いが前提なのか?」


「………彼の気質からすれば、そうなるだろうね。

 当初の相手は既に降板しているし、誰が代役に選ばれるのかもほぼ確定したといっていい。残る問題は、彼に目を付けられた哀れ過ぎる獲物が生き残れるかどうかだが、それに関しては楽観論を信奉することにするよ」


 意味深な瞳でこちらを見上げてくる。


 まるでこの先に用意されている『脚本』を読み上げるような口ぶりが著しく癇に障るが、その苛立ちをラスクにぶつけるのが間違っているのは確かだ。


「お前は――」


「うん?」


「どこまで知っている?」


 端的な問いに、ラスクは唇の端をわずかに持ち上げる。


 こちらの言葉に含んだ意図を過不足なく受け取った上で、どこまで語ったものかと吟味するような態度だった。


「………正確に言うならば、私は何も知らない。ただそれ以前に予定されていた『脚本』を盗み見た結果として、大まかな流れを把握しているに過ぎない。それも勤労に励む者たちのおかげで跡形もなく粉砕されている。むしろ、予定通りに事が進んでいると言える部分の方が稀少だね」


「だが、お前は先を見ているような口振りだ」


 何も知らないというわりに、その言葉は流れるようにスムーズだ。

 そこが既に矛盾している。


「手元にある情報を統合することで、見えてくる展開もあるというだけさ。

 この『遊戯』もほぼ終盤と言える。最後の凪の後に、たった十五分間の戦いがある。残る大きなイベントはそれだけだよ」


「………十五分の戦い?」


「この『遊戯』において、彼に許された猶予だ。そういう制限を枷として嵌めなければ、そもそもの『遊戯』が成立しない。それを踏まえても、彼が無差別に動けば、生き残る者がいるかどうかは微妙だがね。幸いというには目を付けられた者が哀れだが、彼はどうやら遊び相手の選定を済ませているようだよ」


「………………………」


 相変わらず、わかるように話をしない相手だというのを再認識する戒だった。

 根掘り葉掘り聞く気にもならないし、自分には関係ないだろうと戒は切って捨てた。


「まあ、いい。では、次の質問だ。

 あの『蠱毒の悪魔』とはなんだ……いや、なんだった(・・・・・)?」


 そして、戒は問う必要のないはずの問いを口にしていた。

 自然に。無意識に。


 知らなければならないと何かに後押しされたように。

 本来ならば抱くべきはずの疑問さえも抱かずに。



 ――明日も、今日のような平和(へいおん)が続きますように――



 耳の奥に響いた幻聴いのりは、酷く虚ろな微笑を想起させた。

 切なくなるほどに。


「知りたいのかね?」


ああ(・・)。アレは気になる」


「……いいだろう。アレも本来の予定からはズレた仕上がりだが、それも踏まえた話をすることで『連中』に対する嫌がらせの一つにでもしておくとしよう」


 わずかに思案するような間を挟み、ラスクは続ける。


「――とはいえ、どちらにせよ、あのお嬢さんにも語ることになるだろうから、二度手間にならないように一緒に話をさせてもらおう」


「どういう意味だ?」


「場所を変える――というだけに過ぎないよ。彼女に目印を付けているので、手間はかからない。ほんの一瞬ですむさ」


 ラスクが手を差し伸べてくる。


「空間を渡る。私の手を取ってくれ」


「わかった」


 その小さな手に触れる。少し冷たかった。



 ● ● ●



 暗転。

 直後に浮遊感。


 そして――


 反射的に閉ざしていた目を開いた時に、最初に目にしたのはプリンだった。


 わざわざカップから皿の上に移し変えられて、フルフルと揺れている。

 そこに銀のスプーンが差し入れられ、一口サイズが掬い取られていた。


 スプーンの持ち手は蓬莱寺香澄であり、ベッドの脇の椅子に腰かけている。


 ベッドには上半身を起こした世羅がいて、夢見る乙女のように両手を合わせていた。目を閉じながら大きく口を開いて、口の中にプリンが運ばれる時を待ち侘びている。


「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。」


 なんと言えばいいのか。


 ほのぼのしていた。


 風邪を引いた可愛い妹を看病する優しい姉のような構図だった。


「あ。」


 戒たちの『出現』に気づいた蓬莱寺香澄の上げた声に、世羅も目を開く。


「――――ひぃぃっ!?」


 そして、戒の姿を見るなり悲鳴を上げて、ピシリと固まった。



 数分後。



「いい加減にしてもらいたいのだがな」


 毛布に包まってプルプルしている世羅に、うんざりした調子で戒は呼びかける。

 世羅がそのような調子なのだから、面白がったラスクは一向に話を始めない。


「………こ、ここ、こんな、屈辱は初めてよ」


「意外と面倒くさい奴だな、世羅は……。

 ………いや、すまん。世羅は最初から徹頭徹尾、鬱陶しくて面倒な奴だった。今さらわかったような口を聞くまでもなかった」


 最初の一言を述べた瞬間に、様々な出来事が走馬灯のように過ぎ去り、即座に訂正の言葉を口にしていた。


「そんな本音は聞きたくな―――――――いっ!!」


 毛布を振り上げてぶん投げてきたが、そんな物が投擲武器になるはずもない。受け止めて、畳んで小脇に抱える。


 ようやく擬似的な天岩戸から脱した世羅は、涙目で真っ赤な顔をして、おまけに荒い息を吐いていた。


「少しは落ち着け」


「落ち着けなくしてるのは、あんたでしょーがっ!?」


「言いがかりも甚だしいな。

 それは何か? 俺にプリンを食わせろとでも言っているのか?」


「どーしてそーなんのよっ!? あんた、頭大丈夫ですかっ!?」


 頭を掻き毟りながら、世羅が喚く。

 体調はもう万全のようでなによりだ。


 もっとも、吐血までしているので楽観視は出来ないし、念のためにでもラスクに診てもらうぐらいはした方がいいのだろうが。


「………楽しみの中断を余儀なくさせてしまったので、俺が手ずから食わせることで詫びの代わりにしてやると言っているのではないのか?」


「ただの一言もそんな要請はしてないわよっ!?」


「なら、世羅は俺にどうしろというんだ」


「出てけ―――――――――――――っ!!」


 犬が吠えるような叫びを、耳を塞いでやり過ごす。


「用が済めばそうさせてもらうが、今はそういうわけにもいかん」


「………………なんでよ?」


 ギリギリと歯軋りしながら、何かをひたすら押し殺して我慢しているような声を出す世羅。


「そこの見た目幼女に聞くことがある。どうせお前も聞きたがるだろうからという先方の意見で、二度手間を省くためにこの部屋を訪ねた。移動の方法については先方に任せた」


「………………………あんたにしては珍しく、こっちの質問を先回りしたわね」


「お前は面倒くさいからな。少しは学習する」


 戒は腕を組みながら、部屋の隅の壁に背中を預ける。


「………むぅ。あんたの成長が嬉しい反面、なんか腹立つ認識されてる感がひしひしとするわ」


「あながち間違った認識ではないだろうな」


「ところで、仲睦まじい君たちの会話にちょっと割り込ませてもらうが、篠宮君」


 面白そうにベッドの端に腰かけ傍観していたラスクが言う。


 床に届かない足がプラプラしている姿と口調のギャップに違和感を覚えてしまうのは、相も変わらずだ。


「なんだ?」


「以前に名乗りは済ませているが。私の名はラスク・フォン・ルーテシア。フルネームで呼ばれるのも御免被るが、せめてラスクと呼んではくれないかな?」


 また面倒なことを言い出しやがった――みたいな表情になる戒。

 自然に零れたため息は、世羅が二人に増えたような気分になり、うんざりしたからだ。


「あ~、戒は頭が弱いから、なかなか人の名前を覚えられないのよね~?」


 嫌な笑みを浮かべながら、横目でこちらを伺う世羅。


「おい」


 その代わり身の早さはなんだ。

 一瞬で悪戯を目論む悪ガキのような瞳になりやがった。


「文句があるなら、呼んであげればぁ……?」


 ニヤニヤと笑み混じりに言われて、無性にイラッとした。


「………………」


「あまり無理強いはしたくないが、少なくても『見た目幼女』はそれなり以上に失礼だと思うのだがね」


「わかった。ラスク・フォン・ルーテシア」


「ふっ。君はなかなか捻くれているな。認めた者でない限りは名前で呼ばないというわけか」


 軽く肩をすくめたラスクは大人の余裕を崩さない。

 見た目はあくまでも幼女だが、雰囲気的な意味で。


「あ~、そういうところはあるわね~。あたしも苦労した苦労した」


「ふむ。手っ取り早い手段があるならご教授願いたいが」


「問答無用でぶちのめしたらいいんじゃないかな」


「ほう。確かに手っ取り早い」


「真に受けるな。ラスク・フォン・ルーテシア」


「君に認められるには、屈服させるのが手っ取り早そうなのは事実なのでね。この場で一戦を交えるか、それとも素直に私の要望に応じるか、二択の中から選びたまえ。せめてもの情けで逃亡を含めた三択にしてやっても構わないが、どうするね?」


 にっこりと幼女の顔で天使の微笑を浮かべながら、その内側から圧倒されるほどの威圧感の放散を開始する。


「ちょ――っ!?」


 さすがの世羅も言葉を失い、わずかに青ざめる。


 見た目は子猫でありながらも、所詮は偽装された皮に過ぎない。その内側に潜む虎の本性が牙を剥き、静かに首を喰もうと圧迫してくる。


「わかった、ラスク(・・・)

 ――これで満足か?」


 渋々というのを隠しもせずに告げると、ラスクも悪戯っぽく微笑する。


「ああ。満足したよ」


 その言葉と同時に放散していた圧力を霧散させるラスク。


「少しばかり冗談が過ぎるのではないか」


「なに、私と君の仲ではないか。お遊びの範疇だよ。まさか本気だと思っていたわけでもあるまい?」


「そうだが………ところで、その顔はなんだ、世羅? 煽った張本人が何を不満そうにしている?」


「なんか面白くない」


 なぜかムスッとしている世羅。


「わけがわからんな」


「くくく。心配しなくても、君の立場を横から掻っ攫ったりはしないさ」


「そ、そんな心配してません」


「そうかい?」


 聞き返しながらも、ラスクは楽しそうに世羅の反応を観察している。


 それがわかっている世羅は何とか表情を隠そうとしているが、意識すればするほどに繕えずに顔を赤くしてしまっている。


 そのやり取りの意味はわからずとも、世羅が手玉に取られているのはわかった。

 正直に打ち明けるなら、わりと愉快だった。


「………ぷふっ」


 同室していながらも、今の今まで楽しげに傍観していた香澄が堪え切れないといったように吹き出せば、即座に世羅が噛み付く。


「お姉ちゃんもそんなところでくすくす笑ってないで――」


「お姉ちゃん?」


 香澄に向かって喚く世羅に割り込む形で、戒は気になった部分を抜粋して呟く。


「あ。」


 ――と、世羅はまた固まった。

 香澄は含み笑いをする。


「ふふふふ。上っ面を繕うのが得意なあんたがこうも取り乱す場面が見られるなんて………あぁ、面白い」


「………………先輩。お願いですから記憶喪失になってください。さっきまでの十分ぐらいでいいですから」


「無理ね。いいじゃない、別に。

 素の自分を見せられるいい友達に恵まれたってだけの話じゃない」


「そうだけどぉ……」


 不服そうに頬を膨らませる世羅にそれ以上は取り合わず、香澄は視線を貝に向けた。


「あんたにもお願いしておくわ。世羅を末永くよろしくね。友人として、あるいは恋人としてでもいいわよ」


「………………………………。」


 自分でも顔が歪んだのがわかった。


「そこっ! 物凄まじく嫌そうな顔をすんじゃないわよ。別に戒と恋仲になりたいわけじゃないけれど、あたしはイイ女なのよ。むしろ、光栄に感じろってーの」


「世羅がいい女なのは認めるがな」


 いい女過ぎて寿命を縮めているのが気に入らない。


 岸本爽馬(あのバカ)絡みの一件では死ぬ寸前までいったのだから、下らない揉め事に首を突っ込むばかりではなく、もう少し自分を大事にするべきだ。



 ――お前は綺麗だから、俺たちみたいな汚れに関わるべきじゃない。



「あ、ありがと」


「だからといって、あまり長い付き合いになるのは遠慮したい」


 微妙に勘違いした風に照れている世羅に、紛れもない本音を告げる。

 具体的には、この『遊戯』が終了すれば、すっぱりと切れてしまいたい。


「言っとくけど、あたしかなり粘着だからね。あんたがちゃんとリハビリするまでは絶対に逃がさないわよ」


 そんな内心を見透かしたように、世羅は『にやぁ~』と嫌な笑みを浮かべた。こちらが嫌がるのを自覚した上で、一切の躊躇なく踏み込むつもりが満載の顔だ。


「勝手にしろ。そっちに関しては諦めた」


 鼻を鳴らしながら、肩をすくめる。


「………さて、そろそろ本題に入ってもらおうか、ラスク。あまり雑談で時間を無駄にしてもいられない」


「寄り道は必要だよ。いつも張り詰めていては、脆くなるだけだからね」


 意味深な光を瞳に宿して、ラスクは言う。


「本題ってなによ……?」


 世羅が口を挟むが、それは当然の疑問だろう。


「例の『蠱毒の悪魔』とやらについて、ラスクの知り得る話を聞く」


「あんたが、どうして……?」


 意外そうに目を丸くする世羅。


 その気持ちはわからないでもない。戒にも理由がわからないのに、その知識は必要だと何かに訴えられているような感覚だ。この遊戯盤(ぶたい)に立ってから、あるいは『遊戯』が始まってから、たまに陥る不可解な違和感。


 耳元で『誰か』が囁いている。今も囁き続けている(・・・・・・・・・)


アレ(・・)は気になる。勘のようなものだが、そうしたものは追求しておいて損はない」


「ふぅん………………………………………まぁ、いいわ」


 何か言いたそうな顔でわずかな思案に沈む世羅だったが、結局は何も言わずにラスクに視線を向ける。


「ところで、あなたもそういうの話をしていいの? いろいろと面倒な制限があるんじゃなかったっけ?」


「この『遊戯』も終盤だ。この先に私がすることも限られているのでね。多少は余った干渉値で連中にささやかな嫌がらせをしてやろうというだけさ。

 それに強いて言うならば、君たちは引き金を引いた(・・・・・・・)のだから知る権利はある」


 この段階で気になる言葉が含まれてはいたが、いちいち問い返していては一向に話が進まない。ひとまず疑問は飲み込んで話を最後まで聞くべきだと判断して――語りたがりは黙るまで語らせておけばいいというやや乱暴な理屈だ――世羅に視線を向けたが、似たような考えのようで小さく首肯を返された。


「………………」


 蓬莱寺香澄は興味深そうに傍観するだけで口を挟まない。


 世界の裏側に立つ者同士であっても、分野違い(・・・・)には口出しをしないということだろうか。


「本来ならば、あの『刃』の少年も同席しているべきなのだが、まあよかろう。理解が出来るような頭の持ち主とも思えん」


 辛辣な物言いではあったが、むしろその方がマシだと思っているような口振りだった。


「そうだな」


「そうね」


「あんたら堂々とひどいわね。まあ、あたしも同感だけどさ」


 そして――


 ラスクは話し始めた。

 胸糞の悪くなる陰謀に翻弄された二つの『悪魔』の話を。



 ● ● ●



「――では、まずは簡単な前置きをさせてもらおう。

 こちら側に(・・・・・)踏み込んだ君たちには必要な認識なのでね」


 ベッドに腰かけていたラスクの身体が、そのままの体勢でふわりと浮き上がる。

 浮遊魔術のようだが、その制御力に世羅は瞠目する。


 同じような魔術は世羅も使えるが、ラスクのような安定した浮遊が出来るような技量はない。精々が高所落下中に、その速度を少しばかり軽減できる程度でしかない。


 やはり、『夜の国』の住人の技量は並外れていると認識を改める。


 まあ、もっとも能力者ならかなり気軽に浮いたり翔んだりするのだが、あくまでも魔術的な視点からすると凄い技量なのである。強いて言うなら、今の場面でそんな技量を見せ付ける意味などないので、演出以上の意味がなさそうなのが玉に瑕だが。


「世羅嬢には既に言ったことだが、世界とは案外と安値で売買されている――という持論を持つ知人がいてね。その言葉通りに今の大多数にとっての平穏は薄氷の上に成り立っており、その裏側では存亡を賭けたグロテスクな暗闘が繰り広げられている。

 こんな『遊戯』などは微温湯としか思えない凄惨な戦いがね」


 虚空に浮かぶラスクは全員を視界に収めながら、立てた人差し指を軽く左右に振りつつ、ゆっくりとした口調で語り始めた。


「………………………」


 脅すような口振りなどではなく、ひどく淡々としたその物言いが、あるいはラスクの見てきた地獄絵図の凄惨さを物語っているような気がした。


 この『遊戯』もまたひとつの地獄なのだと認識していてなお、ラスクはそれを上回るものがこの世界には(・・・・・・)いくらでもあると述べている。悲劇の優劣を競うわけなどではなく、ただ単純な事実として。


「たった一歩、あるいは半歩間違えただけで、世界という盤面は簡単にひっくり返る。

 ――そう。本当に簡単に世界は壊れるのだよ。例えるならば、たった一つの生命が失われただけで、それまでの世界が反転する事さえ在り得る」


 薄い笑みを浮かべたラスクの眼差しに宿る光は、闇よりもなお深い深遠を覗かせていた。

 世羅はおろか、戒でさえも言葉を失うほどの。


 それは――絶望だった。


 今も、この瞬間でさえも心を蝕み続ける彼女の傷痕を垣間見た。


アレ(・・)もそうした悲劇に繋がる『種』だ」


 その奥底で熾き火のような虚無を宿す眼差しで、ラスクは三人を見やる。


「多少は面倒に捻れているので順を追って話そう。

 君たちが遭遇したあの怪物は、『蠱毒の悪魔』と呼ばれる代物だ。人間の魂を無差別に貪り、肥大することで『力』を増し、際限なく増殖していく……ある種の癌細胞のような呪詛で編まれた存在だ」


「………それは、わかってる」


 それに関しては自然と声が沈んだ調子になってしまう。


 世羅の胸に在る(いたみ)は、簡単に癒えてはくれないだろう。


「では、もう少し詳しくいこう。『核』となったのはこの『遊戯』に巻き込まれた参加者(プレイヤー)の二十四人。彼らは扇動者の悪意に翻弄されて、互いに殺し合ってしまった犠牲者だ」


「………………。」


「いつも通りといえば、この上もなく(・・・・・・)いつも通りに(・・・・・・)一人残らず息絶えたところで、負の想念に塗れた魂が呪詛に捕まり、彼らは『蠱毒の悪魔』と成った。そこから先は済し崩しだ。この地で息絶え、未だに彷徨う御馳走(タマシイ)などいくらでも存在している。未練を、怒りを、憎しみを、悲しみを、絶望を、貪り食らい『蠱毒の悪魔』は肥え太る。どこまでも、どこまでも肥大して、やがては世界をも飲み込む怪物と化して逝くのだよ」


「………………………………………あぁ、鬱陶しいな」


 戒が零した小さな呟きに、世羅は視線を向ける。

 彼は直接『蠱毒の悪魔』を見ていない。あれに触れてもいない。


 他所で高みの見物をしていた扇動者を屠っていた戒には、ラスクの語る言葉に明確な実感などは得られないだろう。だが、ビルの屋上で肩を並べていた時に感じた悪寒を、彼もまた感じていたのだ。


 世界が悲鳴を上げたような、拒絶のために身悶えたような――ただ、そこに在るだけで否定されるような存在の気配。


 手の届かぬところで堕ちてしまった彼らを救う術はなく、倒すべき、滅ぼすべき存在だったのは間違いない。


 だが、それらを形成していたのは哀れな犠牲者の嘆きに他ならない。


 その事実が――


 かつて、その手で殺めた人間(ヒト)の姿を脳裏に想起させたのかもしれない。


 自分の耳には届いていなさそうな呟きは、扇動者の背後にいる『黒幕』ともいうべき連中へと向けられたものだ。胸を疼かせる苛立ちで眉間に皺を寄せながら、今も続くラスクの言葉に耳を傾ける戒の姿を切なく思う。


「そもそも『蠱毒の悪魔』の役割とは何か。その配役を振られた哀れな魂たちが演じなくてはいけなかった役割とは何か。不愉快は解答を述べよう。――――それは世界を破滅へと導く『悪魔』を覚醒させるための生贄だよ。餌と言いかえてもいい」


「………な、ん…………だと?」


 理解が遅れたがゆえに、呆けてしまったような声を戒が出していた。


「この地に満たされた生贄を飲み込み、怨念を取り込み、最適なレベルまで肥大したところで握り潰し、『力』の塊と還元する。負の想念で満ちた極上の聖餐として、『悪魔』に捧げられる供物に過ぎない」


 犠牲になった被害者を悼むように目を閉じて、ラスクはため息とともに言った。


「………あぁ……そう、なの……」


 そこまでは(・・・・・)知らなかった(・・・・・・)


 だからこそ、世羅もまた重いため息を吐いた。


 煮詰められたような(ナニ)かの悪意しか感じられない言葉の羅列は、いっそ笑ってしまえたら楽なのにと思うくらい不出来な妄想にしか聞こえない。


 しかし、世羅は背筋を嫌な感触で撫でられた気分に陥る。


 世界を蝕み、貪欲に飲み込んでいく肉塊――『蠱毒の悪魔』に世羅は直に触れ、この『遊戯』に翻弄された犠牲者たちの魂を解放した。


 だというのに……。


 最後は静かに目を閉じてくれた犠牲者たちが、『蠱毒の悪魔』と成るために贄にされた彼らの末路でさえもが、所詮はさらなる悪夢へ捧げる生贄に過ぎなかったという。


 途轍もなく不愉快な思惑だった。

 それを考えられた人間こそが、なによりも『悪魔』のような精神性を有している。


 どこまで……どこまで彼らの魂を蹂躙すれば気がすむのか。


 遅れて込み上げてきた憤激で、視界が真っ赤になった。握り締めた拳の爪が肉を破り、噛み締めた唇がわずかに切れる。


 伝い落ちる一滴の鮮血が、膝の上に落ちた。


「落ち着きなさい。自分を傷つけても、誰も喜ばないわ」


 無意識に俯いていた世羅の頭に優しく手が置かれ、あやすように撫でられる。

 いつの間にか隣に座っていた香澄に、怯える子供を慰めるようにそっと抱き寄せられる。


 その温もりに喉元まで込み上げていた叫びを、ギリギリで飲み込む。


「……うん」


 軋るような声を吐き出して、平静であるようにうなずく。

 それでも、いつの間にか目尻に溜まっていた涙が頬を伝うのを止められなかった。


「最初の予定では『鏖殺の女王(キラークイーン)』を完全に覚醒させるために―――」


 ラスクの言葉は続く。

 どこか他人事のように感情のこもらぬ声が部屋の中に木霊する。


「代替案では()の『悪魔』を目覚めさせるために――『蠱毒の悪魔』を贄に捧げることで、連中は強力な『駒』を得る」


「回りくどい話だな」


 不快さを隠しもせずに、戒が吐き捨てる。


 万象全てを我らの意のままに。

 貴様ら全ては我らに操られる傀儡に過ぎぬ。


 話の裏側に垣間見える、傲慢を通り過ぎたその神様気取りの――いや、神すらも玩弄なさしめようとする思考に、世羅も吐き気を覚える。


「何事にも手順というものがあるのだよ。面倒極まりない話だがね」


 肩をすくめながら、ラスクは首を左右に振る。

 彼女もまた馬鹿馬鹿しいと思っているような口振りだった。


「放っておけば、世界をも飲み込むような『蠱毒の悪魔(カイブツ)』を放し飼いにするわけにもいかないだろう。もう少し扱いやすく、また強力な『駒』に改変する必要があるのさ」


 ラスクは目線を上向ける。


 高みの見物をしている連中を睨みつけるように、あるいはその愚かさを嘲笑うように、吐息のような笑い声を漏らす。


「それが――――『孤独の悪魔』と呼ばれる少女だ」


「………コドクの悪魔?」


 蠱毒とは異なる微妙な発音の違いに違和感を抱く。

 その言葉を――単語を聞いた瞬間、ドクンと心臓が大きく鼓動を鳴らした。


「独りぼっちという意味での『孤独』の悪魔だよ。言葉遊びのようなものだが、その性質は全く異なる。脆く繊細、哀れで脆弱な心を抱いた取るに足りぬ小娘の内側に潜む『悪魔』を、負の想念に塗れた『力』で刺激し、強引な覚醒を促す。それが連中の手で新たに書き直された『脚本』の流れであり、この『遊戯』の裏に隠された連中の真の目的だ」


「………………。」


「………………。」


 眉根を寄せる。眉間に皺ができるのを自覚する。


 今の戒と同じ表情になっているのだろうと思いながら、世羅は不自然なくらいの胸騒ぎを覚えていた。


 コドクノアクマ(・・・・・・・)


 知らないのに知っているような感覚。


「……ぁ……ぐっ……!?」


「世羅?」


 無知と既知の等価は『特異点』のもたらすもの。頭の中に流れ込むノイズだらけの断片的な知識に、脳が攪拌されたような痛みに襲われる。


 漏れてしまった苦鳴に不審を覚えた香澄に、なんでもないと手を振る。

 その最中にも、歪な幻想を幻視する。


 己が端役として、何の意味もなく果てた――かつての世界(まつろ)

 破滅の引き金を引いた処刑人は、そんな少女(アクマ)ではなかったか?


 それまで確かに存在していた世界が足元から崩れ去っていくような――既に手遅れになった致命的な見落としを、耳元で指摘されたような気がした。


 だからこそ(・・・・・)今度は間違えないで(・・・・・・・・・)

 間違えさせないで(・・・・・・・・)――とも。


 あなたはその舞台に立てたのだから――と、闇に寄り添う白の残影が、溶けて消えそうな淡雪を思わせる微笑とともに告げていた。


「………………………………………………その小娘の、名は?」


 ほんの一瞬でありながらも他所から与えられた不確かな情報を整理するのに、思考に空白が生じた世羅とは裏腹に、戒は不気味なぐらい平坦な声で問うていた。


 その声がわずかな怯えを孕んでいるような気がするのは、世羅の気のせいだろうか。


 戒もまた『特異点』がもたらす『何か』を得ているのだろうか?

 しかし、それに追求するよりも先に、戒の問いにラスクが応じていた。


「彼女に関しては干渉値の問題で、あまり詳しくは話せない。(まつ)わる関係者があまりに多いので、意図せずに連鎖反応が起こる可能性がある。これでもわりとギリギリなんだよ」


「………そうか」


 その返答に戒は安堵したのか、落胆したのか、世羅には判別が付かなかった。


「概ね連中の狙い通りに事は推移した……してしまったと言うべきなんだろうね。

 だが、一つだけ異なる展開もあった」


「それは………なに?」


 問いかけると、ラスクは苦笑しながら世羅を見た。


「他ならぬ君が成し遂げたことだろう。犠牲者たちの魂の解放による負の想念に塗れていた『力』の浄化――『孤独の悪魔』と成る少女の『心』を壊すための一手を、君が未然に防いだんだよ。『悪魔』としての『力』は覚醒してしまっただろうが、彼女の『心』が壊れていないのなら未来の選択肢に希望が持てる」


 淡い微笑みを浮かべるラスクは、その希望を信じ込もうとしているようにも見えた。


「それは、どういう………」


「言葉通りの意味だよ。この『夜』を越えた未来(サキ)で始まる――この世界を舞台にした『物語(タタカイ)』に影響を与える一手になりうる」


 そこでラスクは視線を世羅へと向けた。


「彼らの一件も含めて、君の成し遂げた偉業には頭が下がる。心からの感謝の言葉を捧げたいが、それは君がこの『夜』を越えてからにしよう」


「………………」


 その言葉の内に含まれた何かを知っているのか、戒が意味深な視線でラスクを見る。


「まだ何かあるって言うの?」


「君が改竄した『運命』は、正確には一時的な保留に過ぎない。事象を確定させるためには決定的な収束点を超えねばならない。つまり、この『遊戯』を生き延びるのが前提条件なのさ。何かの拍子に君が死ぬようなことがあれば………全ては元の木阿弥になるだろう。

 この『夜』を越えぬ限り、君たちに『明日(サキ)』はない」


「……巻き込まれただけなのに、何気に責任重大な立場になったものね」


 苦笑が浮かぶ。


 逃げるつもりはさらさらないが、世羅をこのような立場にした『誰かさん』は、ここまでを想定していたのかと思う。現時点で答えが出るような疑問ではないので拘泥はしないが、どちらにせよ、その『誰かさん』には手荒な挨拶をしにいこうと誓う。


 心当たりがありそうな奴がいたので、手掛かりはある。絶対に逃がしはしない。


「言われるまでもなく、死んでやるつもりなんてさらさらないわ」


「その意気だ。君には期待している」


「どぉも。」


 胸中にわだかまる重たい気持ちを吐き出しながら、世羅は軽く手を上げる。


 そして――


 沈黙の時間が生じる。

 誰も口を開かずに、際限なく重たくなった場の雰囲気に疲れた吐息を漏らすばかり。


「二つの『コドク』に纏わる悪魔について話せるのはこれぐらいだ。疑問も多々あろうが、不満は飲み込んでくれ」


 時計の秒針が数周し、頃合と感じたのだろう。

 締め括るようにラスクが言った。


「……ええ、そうね。とりあえずは、もういいわ」


 ラスクから話を聞くことでいくつかの疑問が氷解したが、それ以上に謎や疑問が増えたといわざるを得ない。その一つ一つを問い質したい気持ちはあったが、詰め込まれた情報の整理やら何やらでいい加減に頭がパンクしそうだった。頭痛もするし、いろいろと重なったせいで気分も悪い。


 精神的にも弱っているし、少し身体を休めたい。そもそも吐血もしている身なのだ。これ以上は心身に負担をかけるべきではない。


「………ちょっとだけ疲れちゃったから、少し眠りたいわ。いろいろと他にも気になるトコはあるけれど、続きはまた今度で」


 戒は無言でうなずき、香澄も傍観者の姿勢を崩さない。


「わかった。そうしよう」


 それが話の終了を決定した。

 薄暗い雰囲気が少しだけ和らぐ。


「――では、お開きの前に君を少し診ておこう。妙な瘴気(ドク)を感じるのでね」


「……お願いするわ」


 ラスクが床の上に降り立ち、世羅はベッドの上に横になった。



 ● ● ●



「………………………ぁ。」


 軽い意識の浮遊。浅い眠りから目覚めた世羅は、まるで何かを追い求めるように手を伸ばしていた。

 覚えてはいないが、嫌な夢を見ていたような気がする。


「これも……『特異点』の…………影響?」


 無意識に知識を欲しているのか。それとも『蠱毒の悪魔』に纏わる可能性を『幻想(ユメ)』でも求めているのか。


 知っているからこそ望んでしまう無意識(きもち)が、後ろめたいズルのように思えてため息を吐く。


 現実は変わらない。変えられない。

 起こってしまった事象の反転は、人間の手に余る。


 それがわかっていても、それでも望んでしまう心は残り続ける。


「………未練、だなぁ……」


 なまじ、魂で触れ合ってしまったために、間に合わなかった手の寂しさが浮き彫りになる。

 神様を気取るつもりも、そこまで傲慢にもなれないけれど、ただ悲しい。


 だから――


 届かないものに伸ばしていたその手が、温かな体温を宿す手に握られた時、ほんの少しでも救われたような安堵をしたのだ。


「………大丈夫か?」


 一拍遅れて覗き込んできた顔は、相も変わらない無表情なのに、その瞳だけはほんのわずかな不安に揺れている。


「…………戒?」


「ああ。」


 素っ気ない声だが、今も握り続けているその手は壊れ物を扱うように優しい。


「………………………あたし、どれだけ寝てた?」


「小一時間ぐらいだ」


「そう。ちょっと引っ張って」


 優しく引かれた力に乗るように上半身を起こす。


 寝起きのそれではない頭痛と倦怠感に意識がわずかに揺れるが、我慢できないほどではない。その消耗は身体の内側によくない瘴気(ドク)が溜まっていた影響だ。戒と爽馬を切り離した呪詛空間に入り込んだり、『蠱毒の悪魔』の内側に飲まれたりといった相当の無茶を重ねてきたのだから、原因の心当たりはいくらでもある。


 ラスクが診察ついでに取り除いてはくれたけれど、消耗した体力は休養でしか取り戻せない。

 ゲームみたいに一本のお薬で全快するほど、魔術や魔法は万能ではないのだ。


「心配性ね。ずっと見ててくれたの?」


「………。別に。交代でだ。さっきまで蓬莱寺が見ていた」


 ぺいっと世羅の手を離してから、部屋の隅で壁に背を預ける戒。


 軽く腕組みをして面倒くさそうな素振りを見せつつも、部屋を出て行こうとしない。

 そのツンデレが微笑ましい。


「そ。」


「この下らない『遊戯』ももう終盤だ。つまらないことで足を掬われるなよ」


「それはお互い様よ。

 ――必ず、絶対に生きてこの『夜』を越えるのよ」


「………ああ。そうだな」


「それはそれとして……」


 パンッと軽く手を合わせる。


「ねー、戒。ちょっとちょっと♪」


 こっちゃこいこっちゃこいと手招きをする。


「なんだ?」


 やや怪訝そうにしながらも、素直に応じる戒。


「もうちょっと寄って。あと頭も下げて」


「?」


 変な顔をしながらも素直に従ってくれる戒。

 そこまでの信用を得られたのだと思うと、かなり感慨深いものがあった。


 手を伸ばせば触れられる距離にある戒の頭に両手を伸ばし、ぐいっと抵抗するヒマを与えずに一気に引き寄せる。


「――――おいっ!?」


 驚きの声を無視して、胸元に押し付けるように戒の頭を抱きかかえる。


「あんた、なんかヤなの見たりでもしたんでしょ? さっきから、たまに迷子みたいな頼りない目をしてるのよ」


「………………………」


「何があったのかは聞かないけれど、ちょっとぐらい、ヒトの温もりに触れておきなさいよ」


「おまえはそればかりだな」


「心が寂しい時に必要なものは、わかってるつもりよ」


「それはそれとして、さっさと離せ」


 言葉とは裏腹に、戒は強引に世羅を振りほどこうとはしない。


「ちったー喜べっての。あんたのためじゃないけれど、お肌のお手入れはちゃんとしているし、胸だってそんなに大きくはないけれど貧しいサイズでもないし、なによりも美少女が抱擁してやってんのよ」


「少しは恥じらえ」


「やーよ。あたしはあんたが大好きだもん。なにを恥じらい、なにを隠せというのか。オープンにいくわよ。言いたいことは全部言うし、気に入らないことは正してやるんだからね」


「女として恥じらえと言っとるんだ」


 戒の心の底からの呆れを含んだ声だった。


「――ふん。特別サービスよ。感謝なさい」


「……鬱陶しいな」


 その言葉とは裏腹に、その声にはわずかなりとも友愛の響きが含まれていた。


 おっぱいの感触に惑ったわけではないだろうけれども。


 あぁ、もしもこのまま襲われたりしたらどうしようかなぁ~なんて、痴女みたいな見当違いな思惑が浮かぶくらいあたしは余裕だ。(←実はかなりテンパってます)


 一分か。二分か。三分か。少なくても五分ではあるまい。


「付き合いきれん」


「もういいの?」


 戒の漏らした一言に、世羅は抱擁を解く。


 解放された戒はやや荒い足取りで、部屋の外へと向かおうとする。

 ドアノブを握った彼の背中に声をかける。


「ねえ、戒」


 ――どうせ、あんたは自分に帰る場所があるなんて思ってないんでしょ?


 でもね。気休めでも思い込みでもいいから、そんな当たり前なものが人間(ヒト)には必要なの。そんなものまで切り捨てるようになったら、どんどん外れていって………最後には人間の皮を被った『ナニカ』に変質していくのよ。


 その『心』が。


 あんたはまだ取り還しがつくはずだから。

 仮初でもいいから。


 あなたが大切なものを思い出すなり、見出したりするまでは、あなたを迎えられる居場所の一つでありたい。


 だから――


 お願いだから、言わせて欲しい。

 お願いだから、言って欲しい。



「おかえりなさい」



 今の世羅に込められる精一杯の気持ちに、戒は虚を突かれたように目を丸くした。


 その表情に浮かんでいるのは戸惑いと逡巡と懐かしさ。遥か昔に落として、零して、無くしてしまった『感情(もの)』を取り戻した子供のように、わずかな間を置いてから口元を緩めた。



「ただいま」








 長くなった『蠱毒の悪魔』編もようやく終わりました。

 なんかじわじわと戒と世羅が夫婦化してるような気がするのは気のせいか。おい、どーするよ。白いの。このままじゃ掻っ攫われるぞ。

 ――とまあ、作者の自業自爆な危機感はさておき。

 あとはエピローグ含めて、大まかなところは三つの予定。

 なにはともあれ、振り返ってみると爽馬がわりと空気ですね。

 要所は締めているし、こいつがいないといろいろとピンチの連続なのに、目立った感じがまるで存在しない。戒と世羅には見せ場があるのに、爽馬には何故かそれもない。どころか、新顔にまで掻っ攫われる始末。

 むしろハブられてる?

 仲間になったら弱体化というのはよく聞く話ですが、仲間になったら空気になるのは如何なものかと思いますね。主人公の一人なのに。

 あ、爽馬はいつもそんな感じか。

 ………………いや、ごめん。悪気はないの。マジで。でも、大丈夫。この先の展開で君も刹那ぐらいは輝けるはずだから。多分きっとそうだといいなぁ……(遠い目)


 ちなみに⑦・⑧に関しては――というか、『孤独の悪魔』関係はいろんな話に影響がある大事な話だったりします。サブタイにもいくつか意味深なものを含めています。でも、現時点では全く意味がないので気にしないでください。ホントはまだ出す予定じゃなかったんだけど、ついでにやっちゃえとノリでつい。そんなのばっかだよ。


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