4 参戦
4
道化師は嗤う。
愚者を嘲笑う。
● ● ●
「ここね?」
「ああ」
世羅が確認すれば、遅滞なく戒がうなずいた。
「これはまた……」
目の前に広がる光景に呟いた声は、多分に呆れを含んでいる。
メールで指定された場所は、同区画内にある公園だった。
都会の街中にあって、そこだけが緑豊かで自然公園然としたその在り方は、遊歩道を歩くだけでも人々を楽しませられそうな完成度を誇っている。ほぼ中央に位置する噴水も見事な造形をしている。ベンチや外灯も各所に設置されており、相も変らぬ手の込み具合は勿体無いと言うしかない。
だが――
このような殺伐とした環境の中にさえなければ、憩いの場として十全に機能するであろう公園は、異様な空気に飲み込まれていた。
この『遊戯』の舞台として機能している虚構の街の規模からすれば、ほぼ無人に等しいレベルの人間しかいないのだが、それを差し引いても音が無い。まるで何かを恐れるように木々でさえざわめきを発していない。
あるいは、聴覚が麻痺してしまっているのか。
自身の鼓動の音さえ聞こえない。自身が発する音さえ耳に届かない。
それがある種の境界線だったのか。公園の敷地に一歩を踏み込んだ瞬間に、何かに飲み込まれたかのように全ての音が消えた。
「………………なによ、コレ?」
嗄れた声が、辛うじて声帯を震わせた――呟きではなく、囁きにすら劣る密やかな声量。
カタカタと身体が震えているのを自覚する。寒いわけでもないのに止まらないこの震えは、圧倒的な格差を持つ存在に対する畏れに他ならない。
本能が最大音量で警告している。
まだ姿を見せていない今のうちに、一歩でも遠くに、一瞬でも早く足を動かして、即座に逃げ出さなくては飲み込まれてしまう。
「………………っ」
奥歯を噛みながら、全身を這う悪寒に耐える。
逃げたい。逃げたい。逃げ出したい。ここにいちゃいけない。
もしも、一人だったならば、世羅は即座に転進している。
ギリギリの均衡を精神が保っているのは、傍らに立つ戒の存在ありきに他ならない。
「……かなりの大物が出迎えてくれるらしいな」
つまらなそうに呟く戒は、既に『闇の衣』を纏っている。
その表情は常と変わらぬある種の泰然さを有した無表情のままだが、それは無警戒という意味では断じてない。
いつでも動けるように細心の注意を払いながら、周囲に目を配っている。
「………演出にしても気張りすぎじゃない?」
意図的に発した軽口は、何も言わない方がマシだったと思うくらい冴えないものだった。
ケタケタ、ケタケタケタケタ、ケタケタケタケタケタ………と嗤う声が聞こえる。
耳ではなく、魂に響く幾重にも重なった虫の羽音のような不協和音。
――そら、もうすぐそこに。
戒から借りた『PDA』に表示されている地図情報上で点滅する光点。それが指定された地点であり、場所的には公園の中央に位置する噴水がある場所――つまりは現在地である。
近くにある時計が八時を指したその刹那。
公園を包み込む異変は、一気に加速した。
空気が病み爛れて膿んでいく。
地面が腐り堕ちて穢れていく。
「―――ぅくっ」
「む。」
世羅と戒は同時に呻く。
息苦しいとかそういうレベルではない。毒でも撒き散らされたかのようだ。
汚染された空気を吸えば、肺腑が腐り落ちそうで――即座に編み上げた魔力を体外に放出し、即席のバリアーのようなものを展開する。
しかし、それでは足りないとでも言うように、傍らに立った戒に引き寄せられる。ザワザワと蠢く『闇の衣』に包み込まれると、じわじわと磨り潰されるような不快感が軽減された。
「あ、あり――」
「気を緩めるな。お前はお前で身を守る手段を継続しろ」
「………わ、わかってるわよ」
「来るぞ」
視線の先に影が忽然と現れた。
距離は離れているので、まだ影としか認識できない。
だが、瞬きもしておらず、開けた視界の先にそれは、文字通りの意味で忽然と現れていた。そこに存在するはずの不条理を無視するように。
それまで存在していなかった何者かが、この世界に顕れていた。
「――っ!」
しかし、その瞬時の理解を世羅は即座に否定する。
いいや、違う。そうではない。惑わされるな。
この現象は――それまで存在していなかった世界に、こちらが飲み込まれたのだ。
ゆっくりと。
殊更にゆっくりと。
狂い果てるまで破綻した支離滅裂な精神を有する『墓の王』を自称する道化師が、影に見えていた虚空の裂け目から這い出してくる。
塗り替えられた世界は、魑魅魍魎が跋扈する死の世界だった。
髑髏の形をした人魂が漂い彷徨う。地を割り這い上がってくるのは腐敗した皮膚を滴らせる人形。周囲にあった全てが劣化し、腐敗し、崩れ落ちていく。噴水に溜まっていた水は濁り、ベンチは腐り、外灯は錆びついた。
「………霧?」
気づけば周囲を青白く染まった霧に包み込まれていた。
「演出過剰な奴だな」
戒はさしたる感慨もなさそうに呟いている。
理不尽な現実に慣れている分、こうした非常識への耐性が強いのだろう。
だが、これは違う。
理不尽な現実ではなく、現実そのものを改竄した不条理だ。
能力者の扱う『力』のようなわかりやすい異常よりも、ある種の法則を歪めた不自然は世羅の方が理解は深い。
これは『魔術』に類するもの――ことに寄れば、人外の操る『魔法』の域にある。
己が世界の内側では、己の理こそが全てと謳う――法則の改竄による異界創造。
「………少し、甘く考え過ぎたかしらね………」
いきなりここまでの人外を寄越してくるとは想定外にも程がある。
せいぜいが見た目は好青年で、腹の内が真っ黒な輩が口八丁で丸め込みに来るぐらいだと思っていた。
あんなのを抱え込んでいるとなると〝敵〟の深度は、世羅の最初の想定を遥かに越えるほどに世界に食い込んでいる。
まさかとは思いたいが、『夜』も関わっているのか?
目まぐるしく思考を重ねながら、世羅は近づいてくる何者かを凝視する。
次第にその輪郭が、細部が見て取れるようになるがまだ遠い。
ケタケタケタケタケタケタ………と彷徨う髑髏が怨嗟を吐く。嘆きと絶望と憎悪と嫉妬……様々な感情が混交された不協和音が耳障りで仕方がない。黒板に爪を立てて鳴らされる音の方が、よっぽど心を安らがせてくれそうだ。
「あれは……」
この世界に捕らわれたアレの犠牲者であり、己を喰らった悪魔を呪って叫喚している怨霊だ。
生者である世羅や戒を羨みながらも嫉妬し、同じところまで堕ちてこいと啼き嗤っている。
その嘆きの歌が祝福であるかのように、影は狂々と奇怪に踊っている。
「桜堂世羅」
小さく名前を呼ばれたので、横目で伺うと――
「飲み込まれるな。己を保て」
端的な助言だったが、要となるポイントを押さえた適切なものだった。
「余計なお世話よ。それぐらいわかってるわ」
「そうか」
たっぷりと痩せ我慢を含んだ世羅の強がりに、戒は小さく首肯するのみ。
異なる法則で編まれた世界――即ち、それが『異界』である。
眼前の異常がココでは当たり前なので、それが異常ではないのだと己の感覚が塗り潰されるように錯覚してしまう。
故に抗わねばならない。
これはそうした領域の戦いであり、取り込まれた瞬間に互いが信じる常識の鬩ぎ合いは始まっている。
「虚勢でも、そんな軽口が出るなら上等だ」
「戒も意外に心配性で、面倒見がいいのね」
借りていた『PDA』を半ば投げる形で戒に返した。
「――ふん。道化のお出ましだ」
その言葉に、意識の焦点をゆっくりと近づいてくるモノへと戻す。
いや、その姿は既に白日の下に晒されている。
狂々と踊る道化師。
率直な印象はそれに尽きる。
白と黒と赤の奇抜な衣装。
凶々しくも禍々しい。凶なる禍を笑みの形で塗り固めたような仮面。
腐臭と血臭を凄まじい密度で漂わせながら、怨霊を纏わり付かせて狂い踊るその様は夥しいまでにおぞましい。
一瞥でさえ避けたい悪意と嫌悪で満ち満ちている。
――なのに、何故だろう?
己が瞳を通じて、世羅が感じたのは――
壊れて狂い尽くした嗤いが、擦り切れて疲れ果てた泣き笑いのようにも視えて、どこか哀れを誘う不思議な感情。
まるで、彼が――彼らが時間の流れに取り残された敗残者のようにも思えたのだ。
そんな思考も束の間。
直接的な距離にして、世羅の感覚では十歩分の間を置いて、道化師が足を止める。
「ようこそお出でくださいました、不測の迷い娘様。」
恭しくも慇懃な一礼をして、顔を上げる。
歪な笑みを象った仮面の奥――ドロドロに溶け崩れた凶気しか宿さぬ双眸が、世羅を見据えていた。
心臓が止まりそうだ。いや、心構えもなしに直視していれば、常人は当然として世羅でさえも意識を保てなかっただろう。
「わざわざご足労頂き、誠にありがとうございます。
些か息苦しいとは思われますが、これも邪魔が入らぬための措置でありますゆえご容赦を」
容認できるレベルを超えた息苦しさは、気を抜けば気絶しかねない程だ。
試されている。弄ばれている。
連中からすれば、自分など実験用のマウスに等しい扱いなのだと実感する。
「それで――」
嫌なお見合いを断ち切るように、傍らの戒が口を開く。
「俺はどうすればいい。席を外した方がいいのか?」
その発言があまりに唐突だったので、周囲の空気を一瞬でも忘れて目を剥いた。
「こら待て。置き去りにしようとすんなっ」
「最初から期待はしてなかったが、外見の特徴から期待外れだと確信した。
後はお前の話だ。俺がいる意味などないだろう?」
戒の目的でもある敵の『駒』が出てくる可能性を疑っていたようだが、どうやらものの見事に外れたらしい。だからというわけでもないのだろうが、この場の会合に同席する意義を見出していない素振りを隠そうともしていないのがやや腹立たしい。
この後の展開を彼なりに予想しているからなのだろうが、それにしてもひどいと思う。
「そりゃそうだけど、見捨てないでよ。こんなのと二人きりにしないでよ~」
我ながら情けない声が出た。
「ご安心を。危害を加えるつもりは毛頭ございません」
「だったら、初っ端から威嚇してこないでよ」
「これは失礼を。我々としましては演出も大事だと思いまして」
「失礼とか言いながら、やめないのね」
「なにとぞご容赦を」
纏わりつく死者と踊る道化師。
目が汚れるから、せめてそれだけでも止めろと視線で訴える。
「それで?」
「篠宮様はお好きなようにして下さって構いませんよ。よく彼女を連れてきてくれました。ご苦労様です。生還の暁にはボーナスポイントを加算させていただきましょう」
「そうか」
どうでもよさそうにうなずく戒の服の袖を間髪入れずに掴んだ。その刹那を逃せば、間違いなく背中を向けて歩き出していたはずだと確信している。
「ここにいて。見捨てたら恨むわよ」
「必要ならそれも容認するんじゃなかったか?」
「取り消すわ」
「…………いい性格をしているな」
「そんなに褒めないでよ。照れるじゃないの♪」
「やれやれだ」
やや嫌味の込められたため息を吐いてから、戒は近くのベンチに腰掛けた。
「一瞬でも気を緩めるな」
そんな加速度的に材質が錆びて腐った代物に座るのはどうかとも思ったが、それよりもすれ違い様に発せられた小声での警告にこそ意識を傾ける。
演技――というよりも、何らかの確認と言うべきか。
一連の戒の発言の意図は、この場を去るためではなく、相手側から何かを探っていたようだ。それからなんらかの確信を得た上での警告であるならば、それは――
身体を、生命を守るために必要なこと。
「………………。」
気づかれないように右腕を微細に一振り。袖に仕込んだおいた『晶石』を手のひらの内側に握り締め、思考と意識を戦闘用に切り替える。ついでに仕込みを一つ。
もっとも、誰かや存在かと戦った経験などないので、あくまでも心構えでしかないのだけれど……。
「さて――適度なトークで場も和んだ頃合でしょう? そろそろ本題に入りませんか?」
「その殺伐とした鬼気を静めてくれたら、もう少し場が和むんだけど?」
これまでの理性的な言葉とは裏腹に、道化師の不気味な踊りは終始一貫して続けられているし、立ち込める霧と同化しながらもケタケタケタケタと嗤いながら彷徨う怨霊の数は際限なく増えていく。
水と油が同居しているような不自然さは、彼の内側で渦巻く支離滅裂な混沌を象徴しているように思えなくもない。
「それでは、話を進めましょう」
聞く耳持たずで、さっくりと無視される。
「不測の迷い娘様――」
「桜堂世羅よ」
「了解しました。桜堂世羅様へのご提案です。
我々の不手際であなた様を巻き込んでしまった失態を謝罪すると共に、これより桜堂世羅様に安全に退場して頂ける準備がこちらにはあります」
「――へぇ?」
さも意外そうに聞き返す。
「あなたが知りえた情報を口外しないと約束して頂けるのならば、桜堂世羅様を日常にお還しすることを誓いましょう」
それは、とても魅力的な提案ではあった。
同じ立場に立った一般人ならば、一も二もなく即座にうなずいただろう。
だけど――
「あたしからも提案があるんだけど」
にっこりと微笑みながら、狂気で煮え滾る闇に病んだ双眸を見返す。
真っ向から、真っ直ぐに。
「なんでしょうか?」
「あたしがこのまま『遊戯』に参加するってのは可能なの?」
「おい、桜堂世羅」
やや鋭さの増した声を出したのは戒で、世羅はそれを手で制す。
「いいから、あんたは口挟まない。それからフルネームで呼ばないで。
それでどうなの?」
「可能です。そちらの可能性も想定し、準備を整えております」
「その抜け目のなさは流石ね」
「お褒めに預かり光栄です。
――では、桜堂世羅様は正式な参加者として、この『遊戯』に参加なさるのですね?」
「ええ」
「……承りました。あなたにその意志があるのならば、参加していただくように『上』からも指示を受けています」
「あっそ。お優しいことね」
「基本的な『遊戯』のルールは、篠宮様からお聞き及びと思いますが、細かな部分は後ほどお渡しする『PDA』で再度のご確認をお願いいたします」
「はいはい」
「桜堂世羅様は『獲物』としての参加をして頂きます。その上で一つ、これを装着して頂かなくてはなりませんのでご了承ください」
道化師の両手に顕れる金属製の輪。
左右で大きさが異なるそれを差し出してくる。
全く慣れる余地のない奇怪な踊りを続行しながら、目の前まで迫ってくる。蛇に睨まれた蛙の気分を存分に味わう。
「なによこれ?」
指差しながら問う。
「ルール自体は後に確認して頂くとしまして、そのルールに違反した場合に課せられるペナルティに関するものでございます。本来ならば選択の余地はないのですが、桜堂世羅様のイレギュラーな立場を考慮に入れまして、あなたの判断に委ねましょう。腕輪と首輪のどちらかを選び、装着をしてください」
「はいはい」
指先で摘むように――間違っても道化師には触れたくない――腕輪を取って、それを右手に嵌める。
そんなに重さを感じないが、慣れていない物を身につけると妙な違和感がある。右手を何度かブンブンと振ってから、違和感を調整する。
「その腕輪は一度装着をすれば、『遊戯』中に外すことは不可能となり、また外そうとする行為はペナルティの執行条件に該当します。また装着者がルール違反を犯した場合、あるいはクリア条件を満たせなかった場合、ペナルティとして装着者を確実に殺害する仕掛けが仕込まれているのでご注意ください」
「ハイぃ?」
イマ、コノ道化師ハナニイッタ? ――純粋に理解できずに首を傾げていると、戒が心底呆れた風に肩をすくめていた。
「言葉通りの意味だ。首輪なら爆破。腕輪は即効で死ねる類の毒針だ」
「………………………付ける前に言ってよね」
「言う間も与えなかったのはお前だろうが」
「仰るとおりですね」
「普通の『獲物』なら問答無用の拘束だ。選択の余地があっただけ、お前はまだマシだ」
「説明がなかったら同じでしょうよ」
そもそも選択もなにも、爆殺か毒殺かの死に方を選ばされる趣味なんかないのだけど。
そんなのはよっぽど人生に行き詰まりでもしない限りは、誰だってそうだろうと内心でブツブツと呟く世羅。
「即決即断も時によりけりということだ。自業自得なのだから、反省は一人でしろ」
「あーそーですね」
「準備は整ったようですね」
踊る道化師が手を叩く。パンパンと。手が合わされる度に、その間に挟まれた死霊が終わりの訪れない断末魔を上げている。耳が腐りそうだ。
「そうね」
「――では………」
道化師が仮面の奥で、その口を嫌らしく歪めたのを、世羅は直感で悟った。
「あなた様にその資格があるのかどうかを、簡単に確かめさせて頂きましょう」
そこから先は一秒未満。
爆発的に膨れ上がった威圧感は、視覚化された闇そのものだ。ドロドロに濁った汚濁を万遍なくぶち撒けるように、空間に糞便を塗りたくるように、人間の正気をかき消すような冒涜的な気配が膨張して襲い掛かる。
厳密に言えば、それは攻撃ですらない。
抑えに抑えていた自身の存在を、さらに一段階上にして解き放っただけのもの。
しかし、この世界の法則から外れた存在は、その質量が既に桁外れだ。総体の髪の毛一本にすら劣る端末しか送れ込めずとも、それだけで世界を削ることさえも可能な『化物』には、誰も抗えない。
「――――っ!?」
全身を蛞蝓が這い回るかのような不快感に、肌が粟立つ。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
殺されるとか。身の危険とか。この道化師が放つ気は、そうしたものを置き去りにただ気持ちが悪い。
ただ愛でる。弄ぶ。世界に満ち満ちた愚かで愛しい生命の一欠片を。
奈落の底に引き摺り込み、死者の手で掴んで解体し、怨霊に嬲らせて、骨の髄まで陵辱し尽くした後に葬列の一員として永遠に束縛する。
永遠に、永劫に、逃がしはしない。
君は永久に俺の世界を彷徨え。
僕のものだ。
死者を愛するがゆえに、お前たちは絶対に逃がさない。
滴り落ちる歪んだ悪意は、異常な濃度で道化師の全身から放散されている。周囲の全てを毒しながら悦楽に飢えた眼球が昂ぶり、睥睨している。
――そう。
それこそが道化師の求める資格の分水嶺。
この程度すらも凌げぬのであれば、その口の軽さを代償として我が率いる葬列に並べと百万言を要するよりも雄弁に語っている。
そして――
このような展開を予測していたからこそ、世羅は特定の条件に合わせて、身体が自動的に動くように魔力の『糸』を身体に通していた。
設定した条件は身の危険――意に沿わぬ体の強張りを感知すると同時に、右手が自動的に動き出す。
握り締められていた晶石の内側に蓄積された魔力を、前方に指向性を固定して解放する。
道化師からしてみれば、線香花火の火花程度の効果もないだろうが、それでも生じた閃光と爆発はその姿を寸時でも覆い隠し、魔眸から逃れた世羅の身体は本来の自由を取り戻す。
「ん――くぅっ!!」
一歩。
右足に魔力を通して、身体強化の魔術を発動。
一足飛びで数メートルにも及ぶバックステップ。
脳内に嫌でも想起させられた末路があまりにもおぞましかったからか、その一連の魔術運用は過去最高の精度で実現した。火事場の馬鹿力に通ずるものだろうが、それでも余命に猶予を得る。
爆煙の帳の向こうから、細い腕が伸びる。
文字通りの意味で一メートル、二メートル、三メートル………開いた五指が顔面を鷲掴みにせんと迫り来る。
刹那で迫った手を回避できたのは、ただの勘だ。
視認するよりも先に、身体が勝手に動いていただけであり、その結果のあとにゾッとするような悪寒と九死に一生を得た安堵を同時に感じる。
両立する矛盾を認識するよりも先に。
帳の向こうからさらに腕が伸びる。
一本。二本。三本。四本。コンマ以下の間を挟んで、次から次へと枯れ木のような腕が伸びる。腐った腕が伸びる。溶けるように爛れた腕が伸びる。ついでのように髑髏の形をした人魂――怨霊さえも弾丸のように突撃してくる。
上は論外。逃げ場がない。
横はどうだ。攻撃の範囲が広すぎる。
後ろならば。どこまでもい追いかけてくる隙間のない攻撃にはいずれ追いつかれる。
ならば、真っ向から迎え撃つしかない。
バックステップからの浅い浮遊感から、片脚が地面を踏みしめる。
前のめりに腕を一振り。袖の中に仕込んだ『晶石』を取り出す。とっておきには及ばないが、それでもそれなりに魔力を蓄積した『晶石』を握り締めて、魔弾と成して前方へと解放する。
薙ぎ払うのは無理だとしても、隙間がこじ開けられればいい。
攻勢に出た一撃は、迫り来る腕と怨霊に直撃する。
閃光と爆発。
新たに生じた爆煙を切り裂きながら迫る腕を、身体を捻ってギリギリで回避する。頬を掠めた爪先に不安定になっていた体勢がダメ押しを受け、無防備な体勢で地面に転がる。
「………くっ!」
先の攻撃の影響を受けなかった怨霊が、世羅に狙いを定めて迫る。
間に合わないと頭の中で悟りながらも、身体は勝手に抗い続ける。
一秒後に訪れる死よりもおぞましい末路を正面から見据えて、それでも抗うための一手へと腕を伸ばし――
「………やれやれだ」
耳に届いたのは、無感情な呟き。
そして、漆黒の剣閃が幾重にも放たれる。
迫り来る数多の腕が地面に落ちて溶け崩れ、怨霊が霧散して漂う青白い霧の一部となる。
トッ――と軽い音とともに、世羅の前に闇色の長剣を手にした戒が立つ。
「おや? あなたが手を出すのは反則なのでは?」
土煙の帳の向こうからゆっくりと歩みだしてくる踊る道化師は、如何にもわざとらしく首を傾げる。
「別にルールなど決めていないだろう」
剣を横凪ぎに一振りしてから、無造作に肩をすくめる戒。
「今の俺は桜堂世羅の保護者なんでな。勝手に殺されては困るし、そもそもあいつが試される理由もないはずだが……?」
「普通であれば、確かにその通りなのですがね。桜堂世羅様はイレギュラーな形でこの『遊戯』に放り込まれた御方ですからね。心配性な方々がその力量を見定めたいと思うのも、無理のないことではないでしょうかねぇ……?」
「成程な。使いっぱしり程度では、桜堂世羅の事情はわからんか」
「負フ腑ふ腑フ腐ふ。その通りですよ。文字通りの意味での異端ですからね。本来の『予定』が狂っているとはいえ、そこにさらに異端を加えられては、こちらの改めた『予定』まで狂ってしまいかねないのですよ」
「………は?」
一切の油断なく、細心の注意を払いながら身体を起こして行く世羅。
その最中に聞こえた道化師の芝居がかった嘆かわしげな物言いに、不可解な引っ掛かりを覚える。
「だから、手早く処分を目論んだ、と?」
胸中で疑問符を浮かべる世羅を置き去りに、戒が皮肉げに言う。
「なんのことでしょうか」
白々しいやり取りに世羅は抱いた疑問を忘れて、道化師を寄越してくるなと百通りの苦情を呟きまくる。
「試験は続行か?」
「いいえ。もう十分でしょう。
ご観覧している方々も、たっぷりと愉しめそうな逸材のようですしねぇ……」
「褒め言葉には聞こえないわね」
「いえいえ。最高の褒め言葉ですよ。
……精々、皆さんを愉しませて上げてくださいね」
悪意の滴る嘲笑を仮面越しに感じる。
観覧者を愉しませるために、惨たらしい死に様を晒せと言われたような気分だった。
「では、桜堂世羅様を歓迎します。
あなたの類稀なるご活躍を期待しております」
ゆらりと上に向けた道化師の手の上に『PDA』が顕れる。
「………………」
差し出されたそれを受け取れば、その瞬間から文字通りの意味での参戦となるのだろう。
ならば、その前にどうしても解消しておきたい問題がある。
「一つだけ、教えて」
「こちらの不手際の謝罪の意味も含めて、一つだけならあなたの疑問に嘘偽りなくお答えすると誓いましょう。無論、私に答えられるものならば、ですがね」
世羅の期待通りの反応だった。
その一つをどのように消費するかも、連中の計算の内に決まっている。
思惑に乗るのは癪だけど、この疑問はどうしても解消しておかなければいけないものだ。
「雪菜もこの『遊戯』に巻き込まれているの?」
「せつ、な。…………ああ、柊雪菜様ですか」
白々しい反応とは裏腹に、仮面の奥に在る凶眼――そこに宿る笑みの深みが増す。
安心させるような意図は微塵もなく、むしろ何かを侮蔑するような嫌な嗤いだった。
「ご安心ください。あのお方は、柊家のご息女であらせられますので、このような催しに参加して頂くような無礼はできません。『上』に叱られてしまうのでね」
「あたしは叱られもしない人間だったというわけね」
「そうなりますね。もっとも、こちら側には招待する予定もなかったわけですが」
悪びれないそのもの言いに失笑を漏らしながら、世羅は二つの鞄を放り投げる。
道化師が素直に受け取ったのを確認してから、世羅は『PDA』を手にした。
「では、次の『夜』を楽しみにしていますよ?」
死者と舞い踊る道化師が慇懃無礼な一礼をする。
「おい。待て」
立ち去ろうとするかのように向けられた背中を呼び止めたのは、傍らに立つ戒だった。
「如何いたしましたか、篠宮様?」
「運営の不手際で迷い込んだ足手まといの面倒を見た俺にも、お前に質問をする権利があるとは思わないか?」
「………………成程。そう来ましたか。
意外に抜け目のない方ですね。いいでしょう。お答えしましょう」
「この『遊戯』に『鮮血の殺戮者』はいるな?」
やたらと物騒に聞こえる肩書きを戒が口にした瞬間、ほんの刹那であったとしても青白い霧で包まれた道化師の世界が凪いだ。
嫌悪するように。
畏れるように。
「はい。どういう気まぐれか、戯れに参加をしておられますよ」
動揺とでも呼ぶべき感情の揺らぎはすぐに消えて、丁寧な猫撫で声で答える道化師。
「ならいい。俺が確認したかったのはそれだけだ」
「――これは篠宮様への私個人からのサービスになりますが、身の程知らずにもあの御方との遭遇を望むのでしたら、あの御方の興味を惹くだけの『何か』を魅せるのが最善なのだと助言をさせて頂きましょう。
それを成した者の前へとあの御方は顕れるでしょう」
「………………そうか」
「では、これにて失礼をいたします。お時間をとらせました」
芝居がかった一礼をしてから、道化師が指を鳴らす。
直後に。
パキン――と、道化師の世界がヒビ割れ、ガラスのように砕け散った。
● ● ●
瞬き一つ分の時間が経過すれば、そこは変わらぬ風景のままでありながら、常時漂っていた異様な空気は完全に払拭されている。
道化師の創造した異界から、元の世界へと還ってきたようだった。
死霊と戯れ踊る道化師の姿の既にない。
その事実に安堵を覚えかけた瞬間――
「……ぁ…はぁ………」
不意に全身から力が抜け、世羅は崩れ落ちるようにその場に膝を落とした。
四つん這いになり荒い息を吐く。今さらながらに全身に浮かんだ大量の汗が、ぽたぽたと地面に絶え間なく落ちる。
「……はぁ………はあっ…………はぁ…………は、ぁぅ………うっ……くぅ………」
貪るように深呼吸を繰り返す。
虚構の街の無味乾燥な空気でさえ美味しいと感じる。
それだけあの道化師の世界は、生ける者を拒み、死した者たちの怨念で渦巻いていた。
例えるならば、忘れ去られた地下墓地のようなものだ。生命は静謐に凍りつき、嘆きに満ちたままに彷徨う死者の怨念と呪詛で世界が満ちている。
――墓場の世界――
生者はただ在るだけで生命を削られる。
生命を失えば、飲み込まれて呪縛される。
「……はぁ……はぁ……して、やられたわね」
時間にすれば、三分程度の邂逅だったのに、すっかり消耗している。
あの世界は一言で言ってしまえば、敵の弱体化。
使う側としてはよく出来ており、やられる側としては厄介な『理』で編まれている。
仮に防御していたとしても、絶え間なく削られ続けている。逃げ場もないし、その効果から逃れようもない。タチが悪いにもほどがある。
心身ともにスタミナの欠ける世羅では、どうにもならない。あと一分も取り込まれたままならば、今この瞬間に立ち上がることすら出来なかっただろう。
「無事か?」
どこからともなく水の入ったペットボトルを取り出した戒が、それを放り投げてきた。
「かなり消耗はしたけど、なんとかね」
何度かお手玉をしてからなんとか受け取って、そのまま口に運ぶ。
からからに渇いていた喉を水が潤してくれる。
「………にしても、あんたは大して消耗してなさそうね」
「痩せ我慢だ」
真顔で言う戒。
戒も消耗しているのは間違いなさそうだが、世羅ほどではなさそうだ。
彼が纏う『闇の衣』で耐性が向上しているのだろう。
「あ、そう」
苦笑しながら、ゆっくりと立ち上がる。ふらふらと足元が酔っ払いのように覚束ない。頼りない足取りで歩いて、近くのベンチに腰を下ろす。
「………それにしても、あの道化師はなんなのよ」
こんなパシリにでも任せるような場面で、わざわざ顔見せ程度でも登場していいような奴では断じてない。
アレは一線を越えている。
格が違うし、次元が異なっている。
文字通りの意味での化物で、今の段階ではどう転んでも勝てる相手ではない。
そもそもまともな意味での人間でさえない。
外れているのだ。この世界の『法則』から。
「連中が主力として抱え込んでいる『駒』の一つだ。悪名高い噂ぐらいでしか聞いたことがなかったが、いざ遭遇してみれば噂の方がまだ大人しいと言うべきだな」
纏う『闇の衣』を解除した戒が、腕組みしながら言う。
「奴は化け物という他ないが、所詮は『伝言役』に過ぎん。少なくても、今回の『遊戯』で顔を合わせる機会はもうない」
「それはなによりね」
本心から呟く世羅。
仮にアレが今回の『遊戯』に参加していれば、永遠に弄ぶための玩具とするべく付け狙われるのは間違いない。
「ところで、あんな化物に遭遇しておきながら、あんたは大して動揺もしてないみたいだけど……。あんなのはあんたの常識の中では珍しくないの?」
「ああ。あそこまでのは稀だがな」
あっさりとうなずく戒。
「………………………………………世界の裏側って、イヤなものね」
「何を今さら」
「それもそっか」
しみじみとしたものが込み上げてきたので、ため息と一緒に吐き出した。
ズルズルと背中を背もたれから滑らしながら、何ともなしに視線を上向ける。
「………とにもかくにも、これであたしも正式な『遊戯』の参加者になったわけね」
無骨な鉄で覆われた空。
照明から降り注ぐ白い光に照らされた舞台の上で行われる『遊戯』に、世羅は自らの意思で参加した。
「お前は馬鹿だな。わざわざ引き返すチャンスをフイにしたのは、どういうつもりだ?」
責めるような口調だったが、それは減らない面倒に対するものではなく、単純に世羅を案じてのものだと素直に思えた。
真っ当に考えたならば、馬鹿げた選択だとは自分でも思う。
だけど――
『あなたが知りえた情報を口外しないと約束して頂けるのならば、桜堂世羅様を日常にお還しすることを誓いましょう』
そう告げた時に道化師の双眸に宿っていた凶々(まがまが)しくも禍々(まがまが)しい悪意が全てを物語っている。
今の状況が真っ当なものであるはずがない。
表の世界の常識などが重んじられるはずがない。
「馬鹿呼ばわりは心外極まりないわね。アレは絶対に殺る気満々だったわよ。どんなに楽観的に考えても闇に葬られる末路しか想像できなかったもん」
「む。」
そこで黙るのは、戒はその可能性も考えてはいたからなのだろう。
「だったら、この『遊戯』で生き残らないとダメでしょ? この手の連中が楽な逃げ道なんて用意してくれるわけがないわ」
大きく伸びをすると、体のあちこちが軋んだ音で悲鳴を上げた。
「あたしは、まだ死にたくはないのよ」
「お前らしい判断だ――とでも言っておくか」
「あたしらしいってなによ?」
「さぁな。そう思っただけだ」
「なによ、それ……」
苦笑いを浮かべる世羅だったが、不意に押し寄せた倦怠感に意識が飛びそうになった。
「…………あ、ダメだ、これ」
「どうした?」
「ごめん。無理。これもうすぐにでも倒れちゃう」
「おい」
自分の意思とは裏腹にぐらりと傾いていく身体。
戒は肩に手を伸ばして、そのまま倒れかかった世羅の身体を支えてくれた。
「……あはは。早々に足手まといになって、本当にごめん」
「お前が責任を感じる場面ではない。連中の出方に対する見積もりが甘かったのはお互い様だ。どちらにせよ、休息の必要性は感じていた」
「………あたしって、何気に寝てばっかよね」
「まったくだ。次に目覚めたなら、少しは役に立ってもらうぞ」
わずかに呆れの成分を含んで戒は言い、そのまま地面に片膝を付くと世羅に背中を見せた。
「背中を貸してやるから、さっさと乗れ」
「は?」
「それとも、お姫さま気取りの前がいいのか?」
きっと、それはかなり珍しいことなのだと思う。
その発言内容もさることながら、肩越しに振り返ったあまり動かない表情の口元のその端っこが微かにつり上がっている。笑みというには弱く、どこか意地が悪そうでもあったが、やっぱりそれは笑顔と呼ぶべきものなのだろう。
本人に自覚はなさそうだが。
「面白い冗談ね。戒ってば優しいじゃん?」
「最低限の面倒はみると言った」
「だから、優しいわねって言ってるのよ」
「五月蝿い。さっさとしろ」
「はいはい。背中を貸してください」
苦笑を浮かべて、意外に大きな男の子の背中に身体を預ける。
消耗はかなり深刻なレベルにまで達しており、回復を求める本能が即座に目蓋を重くする。
戒の背中には安心できる暖かさがあった。
不思議と懐かしさのようなものさえ感じる。
「………出来れば、お昼まで休ませて………それぐらい眠れたら………かなり回復………するから………」
「わかった」
「………おやす……み…」
言い終えるよりも先に、世羅の意識は眠りに落ちていた。
● ● ●
世羅はすぐに寝息を立て始めた。
「――目を覚ました後に待つのは、生き残りをかけた戦いだからな」
もっとも。
そんな言葉とは裏腹に、積極的に『遊戯』に関与しないという方針は変わらない。
頭の悪い『狩人』が仕掛けてくれば迎撃するが――基本的には、他の参加者の少ない区画で適当な拠点を探して、腰を据えての専守防衛だ。
そんなことを考えながら歩みを進めていると、戒と世羅の懐にある『PDA』から情報更新を通知する音が鳴った。
なかなかに思わせ振りなタイミングだと思った。
背中の世羅が目を覚まさないように気をつけながら『PDA』を取り出し、更新された情報に目を通す。
「………………やってくれる」
口の奥で噛み潰し損ねた言葉を、唾とともに吐き捨てる。
『参加数――『狩人』六十人。『獲物』が百九十七人。
合計人数――二百五十七人。
現生存者数――二百三十三人(『狩人』五十六人・『獲物』百七十七人)』
更新された情報は、参加者の数の増加。
ここには特に問題がない。
問題は――
『プレイヤーナンバー『197』――ボーナスプレイヤー。
この『獲物』を狩った者は、生還時の賞金を倍額とする。生死・手段は問わない』
『狩人』に新たに提示された報酬増加の条件。
言うまでもなく、対象となっているのは、新たに追加された参加者である世羅だ。
「――確かに、こいつを生かしておくつもりが連中にはないらしい」
世羅は正確に連中のタチの悪さを見抜いていたが、連中はより悪辣に彼女を追い詰めるべく手段を講じている。
先程の一幕もそうだった。
敵の思惑を伺うつもりでその場を去る素振りを見せれば、あの道化師はそれを歓迎するように乗ってきた。
聞いてもいないのに、報酬の上積みまで口にする始末だ。
正規の参加者を体よく追い払った後に、他に誰の目も届かないようにされた空間で何をするかなどは、疑問にすらなっていない。
そうした対処は、イレギュラーな要素があったとはいえ、不運にも巻き込まれただけの一般人にするものではない。
間違っても連中が、世羅を畏れていたりするわけではないだろう。
だが、どこかに逆恨みめいた執拗さがあるような気がする。
道化師の背後にいる連中の幼稚な悪意が垣間見える。
「………何者だ、こいつは?」
疑問の焦点は、背中で無防備な寝顔を見せている世羅にある。
よくよく考えてみれば、自分が追求しなかったという点を踏まえても、未だに『正体不明』のレッテルが剥がれていない。同じ学園に通う、隣のクラスの生徒というプロフィールは明らかになっているが、それだけであるはずがない。
桜堂世羅が、ただの一般人であるなどとはもう思っていない。
しかし、世界の『裏側』に浸っている者であるとも思えない。
そうだと判断するには、こいつは綺麗過ぎる。
「………そういえば――」
世羅は『アレ』に関しても知っているような口振りだったが――
「まさか、あの計画に関わって………いるはずがないか」
脳裏に浮かんだ可能性を、即座に打ち消す。
その筋の人間がこの『遊戯』に迷い込むなどありえないし、それならば噎せ返るぐらいの無機質な死の気配と血の匂いを漂わせている。
戒の嗅覚が、あいつらを誤認するなどありえない。
「………考えるだけ無駄だな」
視野の狭い自分に答えが得られるとは思えず、空回り気味の思考を打ち切る。
こうした疑問は直接聞くのが手っ取り早い。
「踏み込むなと釘を刺しておきながらなんだが――」
漏れ出でた苦笑を素直に表情に乗せて、
「少しお前に興味が湧いた」
戒は小さく呟いた。
それから何気なく、視線を上げる。
公園に植えられた木々の向こうに見えるのは虚構の街。
いくつも連なる造り物のビルの一つ。その屋上に誰かがいる。
互いを認識することなど出来ないぐらい開いた距離を挟んでおきながら、その誰かと目が合ったような気さえする。
脳裏に浮かんだのは、『静謐なる刃』と呼ばれている『能力者』の荒んだ顔。
「………………」
とても不愉快な気分になった。
向こうが仕掛けてくる前に、長居は無用と戒は踵を返す。
とりあえずは、昨夜を過ごしたビジネスホテルまで戻ることにした。
潜伏場所に同じホテルを使い続けるのは『遊戯』の性質上好ましくはないが、無防備に眠る世羅を背負ったままで別の潜伏場所を探すのもまた問題がある。
カモがネギを背負って歩いているも同然だ。
その程度でどうにかなりはしないが、面倒の芽は最初から摘み取っておくのが無難だ。
「今後のためにもいろいろと補充をしておく必要があるな」
世羅をホテルに放り込んだ後の事を考えながら、戒は公園を後にした。
● ● ●
――同刻。
ふと、誰かに見られているような気分になり、爽馬は何故だか無性にイラついた。
抑え目に展開した知覚圏で半径五百メートル以内に誰もいないのは確認済みだが、それを上回る距離からの視線を確かに感じたような気がする。本来ならば、知覚圏外なのであり得ないのだが、不自然なぐらいの確信があった。
さらに付け加えるなら、その視線の主もなんとなく連想してしまっている。
この『遊戯』で最初に遭遇した黒衣の男――あいつだ。
「………ちっ」
爽馬は乱立しているビルの一つ、その屋上で不愉快そうに舌打ちを漏らし、視線を逸らした。
視線が合っているかも知れないと思うだけで耐え難い嫌悪を感じる。
理由は判然としないが、あいつは嫌いだ。
最初に遭遇した瞬間、こいつは敵だと確信した。
不倶戴天の――あるいは前世からの宿敵の如く。
一度も逢った覚えのない奴を相手に、どうしようもないほどの敵意と殺意を抱いた。
まるでそれが当たり前のように。
「………気に入らないな………」
空腹を覚えたので食料調達のために動いていたのだが、普段のサイクルとは異なる時間帯に活動をしたからかロクなことが起こらない。
この場に長居をする理由もなく、したくもなかったので早々にビルの石畳を蹴り、爽馬は虚空へと飛翔した。
● ● ●
閉ざされた瞳。
逸らされ、すれ違う眼差し。
運命は未だに、始まりの鐘声を響かせない。
されど、既に廻り始めた歯車が予言を奏でる。
再びの邂逅の時――避けられぬ死闘への布石となる一幕を以って、序章の幕を引く。
とりあえず、序盤の終了。
意外と長くなりそうな感じなので、気長に付き合っていただけると嬉しいです。