19 岸本爽馬―① 『邂逅前』
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――これから、あんたに逢いにいく。
● ● ●
時刻は午後五時を少し過ぎた頃合。
ようやくと言うべきなのか、世羅はその場所に到着した。
生命を癒し、また生命が永き眠りへと至る生と死の混在する施設。
名前の削られた総合病院。ロクに病気にもならない健康体であったし、付け加えて魔術師として少なからず身体を弄っているために、そうした医療機関には縁がなかったのでよくわからないのだが、街にあるものに比べてもかなり立派なところのように思える。
敷地も広く、駐車場もかなり広い。
放置、あるいは配置された車の数も多い。
それが健全な場であれば、多くの人が集うであろうその十数階建ての病院は、しかし、一切の照明が灯っておらず、まるで巨大な墓標のように聳えているだけだった。なまじ建物そのものに痛みがないように見えるだけに、余計に冷たい薄気味悪さを放散している。
「ここね」
そんな病院が一望できる場所で、世羅は仁王立ちしながら言った。
到着したと前述したが、まだ敷地の内側には足を踏み入れていない。
――というか、より正確にはまだ少し離れた場所に立っている。
世羅が足を止めたのは、能力者である爽馬が展開している『知覚圏』の一歩外側である。
「………………」
戒と悠が一戦交えていた頃に、ここでも行われていた戦闘の名残が存在している。この周辺一帯が莫大な熱で焼き払われたような痕跡を見せている。焦げて、溶けて、まだわずかに熱が燻っているかのように少し気温も上昇している。
「そこから先に進むと、彼に勘付かれますよ」
「能力者でもないのに、大した感覚してるわねぇ~」
香澄先輩が感心したように言う。
言うまでもなく、香澄先輩も察知してたみたいだけど、世羅が忠告をしたのは無造作な足取りで進もうとしていたエイジさんである。何だかんだ言いながらも、付いて来てくれたのだが、警戒心がないのが危なっかしい。
それだけ自身の実力に自信があるのかもしれないのだけど、その自分の口から爽馬は手強いと言っていたのに、その無防備さはどうなのだろうか。
「………………」
眠たげに欠伸しながら手をヒラヒラと振り、数歩手前で足を止める。
「むしろ、爽馬の『知覚圏』の広さに驚嘆するべきですね」
あまりに『力』が巨大で強大なので、隠し切れていないというのが正確だ。
目の前に巨大な壁があるかのようだ。
最大にしてキロ単位を誇る彼の『知覚圏』――その内側に侵入すれば、能力者としても桁外れの情報処理能力を持つ彼に一挙手一投足を把握される。
文字通りの意味で、それは死地への境界線。
それを間違いなく理解しておきながら、胸中に畏れは微塵も存在しない。
明らかな脅威であると認識しておきながら、爽馬の『刃』がこの身に傷をつける可能性をほんの少しでも想像できないのである。
無意味な確信。
だが、それは意味の在る確信でもある。
「………………」
この『特異点』の特性を把握したからか、不思議と世羅は、爽馬の能力をある程度まで理解していた。
知識を先取りするかのような感じで。
所詮は『特異点』にいる間の一時的なものに過ぎないのだから、利用できるものは躊躇無く利用すると決めている。
だから――
「まずは挨拶をするのが礼儀よね」
「あん?」
世羅の意図を理解できなかったエイジが、少し間の抜けた声を出すけれど説明はしない。
「耳、塞いでおいた方がいいですよ?」
悪戯っぽい笑みで告げる。
「あぁ、そゆことね」
さすがの香澄先輩は行動が早い。
まだ世羅の意図が理解できていない風のエイジさんが行動に移すよりも先に――
『逢いに来たわよ――――――っ! 岸本っ! 爽馬っ!』
桜堂世羅の『宣戦布告』が、凄まじい大音響として周辺一帯を揺るがせた。
当然、それを横で聞いたエイジさんはその場にぶっ倒れるのであった。
● ● ●
「――うるせぇな」
耳を押さえて、爽馬は不機嫌に呟く。
視覚がほとんど意味を成していない爽馬は、その分だけ他の五感の鋭敏さが増している。
つまり、先ほどの大音量の雑音は、下手をすれば気絶を招きかねないレベルで、彼の脳を揺さぶっていたのである。危うく寝床にしていたベッドから転げ落ちるところだった。
「………?」
何か懐かしい感じがしたのだが、それがなんなのかわからない。
別にあの声に対するものではない。
しばらく考えて、気づいた。
「………………あぁ、そうか」
誰かに名前を呼ばれたのが、随分と久しぶりだったのだ。
知覚圏内に複数の気配が侵入したのを感知する。
その全ての気配に覚えがあった。
どれも名前は知らないが、最近よく絡んでくる能力者二人とこの『遊戯』であいつと殺り合っている時に乱入してきた女だ。
「……面倒だな」
煩わしげに呟いてから、爽馬は重い腰を上げた。
歓迎するつもりはないが、それなりに広い場所で待つのが無難だろう。少なくても、穏やかな展開にはならないだろうし、それで済ませるつもりもなかった。
● ● ●
「それじゃあ、行きますね」
「ええ」
「………ああ」
香澄先輩が小さくうなずき、エイジさんも頭を振りながらうなずく。
「でも、本当にいいんですか? 付き合っても面白い展開にはなりませんし、多分、あたし一人の方が話は簡単ですよ?」
「後輩一人をむざむざ危険に晒せないわよ」
「単なる物見遊山だ。俺のことは捨て置け」
「なら、これ以上はもう何も言いませんけど……」
意を決して、一歩を踏み込んで境界線を越える。
「………う……くぅっ」
飲み込まれる――と表現をするべきなのだろうか。巨大な何かの内側に入り込んだような違和感が全身を包み込む。産毛が逆立ち、少しだけ気分が悪くなる。
だって、この中は他者に対する拒否感があまりにも強い。
ともすれば、それは廃絶の色さえも帯びている。
それが爽馬の他人に対する感情なのだ。
爽馬は――他人をそのように認識している。
自身の内側に触れようとするものは拒絶し、排除しようとしている。
「これはまた、手間のかかりそうなお子様ねぇ~」
どんな人生を歩んできたのかは知らないが、歩いていく過程で大切なものを落としてしまっているのは間違いない。
それは戒にも共通している要素なのだが、まだ彼に関してはある種のブレーキが存在している。だが、爽馬はそれが完全に壊れていると思って間違いない。
そんな二人をこのまま『再戦』させれば、その結果は火を見るよりも明らかだ。
それがあらかじめ定められていなかったとしても、どちらかの生命は消える。
そして、性格の悪い陰険な『誰かさん』が嗤うのだ。
「………そんなこと、させるもんか」
小さく呟きながら、重たい空気を掻き分けるように歩き出す。
こちらの存在は既に感知しているだろうに、爽馬に攻撃してくる気配はない。彼に付けた『目印』を探ってみる。移動はしているようだが、ここから離れる様子はない。面倒くさがって逃げの一手を取られるのが不安要素だったけど、どうやら杞憂に終わりそうだ。
――電気は通っているようで、入り口の自動ドアは遅滞無く開き、必要以上に冷たい空気が世羅たちを出迎えた。
「エアコン……?」
「………にしても、冷やしすぎよ。冷凍庫かっての」
急激な温度変化に不平を漏らす香澄先輩。
「どうして?」
些細な疑問を抱きながらエントランスを抜けた世羅を、嫌な臭いが歓迎した。
鉄錆めいたような、肉の腐ったような、より深い何かが渦巻くような、数多の臭いが混合した受け入れ難い嫌な臭い。
この場所に染み付いてこびり付いたような臭い。それは強いて言うなら、『死』の――
頭に浮かんだ嫌な連想を追い払いながら、眼を凝らす。
薄暗いエントランスホールは、まるで局地的な災害でも発生したかのような有り様だった。調度品が壊され、暴徒が暴れたかのように荒らされている。かつての原形を留めている箇所を探すのが困難に思えるほどに破壊の限りを尽くされており、足元には足の踏み場もないぐらいに瓦礫や何かの破片が散りばめられていた。
そして、荒れた広い空間には、夥しい数の人間がいた。
もっとも人間とはいっても、誰一人として動いてはいない。
全員がぐったりとしていて、多種多様な形で倒れている。
寝ているというには、明らかに様子が異なる。
遠目ではよくわからないが、誰にも生命の鼓動が感じられない。
大切な何かが欠けた、空っぽの器のような気がして――
「………ぅぐっ!」
唐突に込み上げてきた吐き気に、口元を手で覆う。
これは――全部、死体だ。
己を守るために、殺し合いを演じたのだろう。
改めて観察すれば、死体には刃物による切り傷や銃創があり、床や壁にも黒ずんだ血痕が散っている。
それは、人間の内に潜む醜悪を曝け出したものだったろう。
原始の域まで遡った殺し合いがどれほどの凄惨を露にしたのかは、体のあちこちが欠けた死体が語っているような気がする。
外傷の存在しない死体は、そのほとんどが腕輪をしており、恐らくは『罰』の執行条件を満たしたために致死毒で殺されたのだろう。苦悶に歪んだ死に顔が、絶命の瞬間の苦しみを訴えている。
首輪を爆破されたのか、首から上が無くなっている死体も散見される。
此処は、悪意の監獄に閉じ込められた哀れな被害者の展示会。
彼らは今回の『遊戯』で出た死者ではないだろう。
それにしては明らかに古い。
おそらくは、かつての『遊戯』の犠牲者を集めて、捨てたのだ。気温を低く保つことで――あるいは他の何らかの手段で――ある程度まで鮮度を保ち、この場所に迷い込んだ参加者に現実を見せ付けるために。
「つくづく、悪趣味ね」
文字通りの意味で、吐き捨てるような言葉が漏れる。
冷やされた死体が臭うというのも不思議だが、それはこの場に染み付いた呪詛や怨念のようなものだろう。濃縮された悪意を肌で感じ、それを臭いと錯覚しているのだ。
まともな神経の持ち主ならば、仄暗い怨念に飲み込まれて気が触れてもおかしくない。
「でも、これが『遊戯』なのよ」
「………正直、此処に長居はしたくないです」
此処は死者の念が彷徨っている。
お前も死んで、この葬列に加われ――と。
呪いのような悪意を撒き散らしている。
それは『外』も同じなのだが、此処は密度が違う。
「何処にいるかわかってるの?」
「――上、ですね。どうやら歓迎はしてくれるみたいですよ」
「あっそ。それにしても、よくもまぁ、こんな悪意の展覧会みたいな場所を、彼は寝床に出来るわね。正気を疑うわ」
「………多分、他人に興味がないんでしょうね。」
思わず、口調が吐き捨てる風になる。
「生きている人間がいないから、静かで都合がいいみたいな考えだと思いますよ。ベッドもたくさんあるし」
「………にしても、視覚効果だけで言っても相当だと思うけどね」
通路。階段。病室。半開きのエレベーター内。ナースステーション。その他諸々。
程よく保存された死体が文字通りの意味でゴロゴロしている。
ゾンビ化して動き出しても違和感はないし、死に方も種々様々だ。
「彼は死体を、死体として見てないんですよ。
彼の視ている世界はひどく単純で、死体も『物』として区別してるんですよ」
「どんな世界よ」
香澄先輩の表情に嫌悪が混じる。
「ただひたすらに単純なだけなんですよ。あたしたちにとっては当たり前のことを、爽馬はどこかに置き忘れてる。もしくは、本当に理解してないのかも知れません」
「つまり、どういうことなんだ?」
回りくどい言葉に、エイジさんが明快な解答を求める。
世羅は躊躇も一瞬に、小さく呟く。
些細な胸の痛みを抱いて。
「今の彼は、人間ですらないってことですよ」
――怪物。
きっと、そう呼ばれるべき生き物だ。
至高へと到達する『力』を有する心無き子供。
最初に逢った時は、荒んでるなぐらいにしか思わなかった。
しかし、この『特異点』の性質をある程度まで理解した今、爽馬に近づけば近づくほどに必要な知識が流れ込んでくる。それはほとんど無意識な理解であり、世羅が掴み取っているのはほんの一握りにしか過ぎないが。
それでも、世羅が望んだ未来を手繰り寄せるためには必要なものだ。
「そんなのに、何を好んで逢いにいく?」
――なんか、その手の疑問を大抵の人からされ続けているような気がする。
「そーゆーのを矯正してやるのが、一番面白いんじゃないですか」
唇の端を吊り上げながら、にやりと笑う。
「大した女だな、お前は」
呆れの成分が濃さそうな風情で、エイジさんは言う。
「さすがはあたしの後輩でしょ?」
「……あぁ、そうだな。良くも悪くもお前の後輩だ」
そんな二人の言葉を背中で受けながら、確かな足取りで爽馬との間に存在する物理的な距離を縮めていく。
今、一度の邂逅の刻。
「ようやく、逢えるわね」
一方的な約束を交わしてから、随分と長い時間が経過したような気がするけれど、まだ一日と少しに過ぎない。
その刻は目前に迫っている。
● ● ●
「………………」
ふと、何の気なしに戒は視線を巡らせた。
「どうかしたのかい?」
「いや……」
傍らを歩むノアールの問いに、言葉を濁す。
自分でもよくわからない感覚なのだが、何かが捻れたような気分になったのだ。明確な一本の線で結ばれていたはずの『運命』が歪んだような、そんな不可思議な感覚。
――何かが始まった。
そんな気がする。
それは、恐らく――
「桜堂世羅」
あいつが絡んでいる。
そう考えるならば、今この瞬間に何が起こったのかも察しがつく。
あの二人が出逢ったのだ。
いや、この場合は再会と言うべきか。
本来ならば、出逢うはずのなかった二人。この歪んだ現実だからこそ叶った邂逅。そこから始まろうとしている物語。曖昧に揺らぐ可能性の中で、桜堂世羅は何を望み、何を掴み取ろうとしているのか。
――ただ、戒に確信を持って言えるのはただ一つ。
それは間違いなく、余計なお世話に分類されるものだということだ。
「………………」
言葉にならない感情を持て余しながら、なんとなく桜堂世羅の気配を感じる方角をしばらく眺めていた。
「あのお嬢さんが気になるのかい?」
些細な呟きが聞こえていたのだろう。
ノアールが動きを止めたままの戒に、穏やかに問いかける。
それはまるで、心配ならば駆けつけるのもありだよと促すかのようだった。
苦笑に近い吐息が漏れた。
「気にならないといえば、それは嘘になるだろうな」
虚勢というと少し違うのだが、ノアールを相手に無闇に捻くれた返答をする気にはならなかったので正直な内心を告げる。
「遭ったならば、過程はどうあれ荒事になるのは確定している。五体満足で戻ってこられる可能性が低いのだから、少しは気にかかる」
――とは口にしているが、それを心配という言葉に置き換えるほど大きい懸念ではない。
奴――『静謐なる刃』は確かに厄介な『刃』を有する能力者だが、桜堂世羅はそれを踏まえた上で行動しているはずなので、何らかの対策を講じてはいるだろう。
「相手は相当の危険人物のようだが、彼女はただ逢いに行ったのだろう? 進んで火中に手を伸ばすような真似はしないと思うが?」
「奴に遭うという行為そのものが、既に宣戦布告と変わらない結果を生む」
そもそもまともな会話が成立するような相手ではない。
それをするならば、強制的に黙らせてからになるだろう。
ただし、あいつは能力者なので、力も使えぬほどに痛めつける必要が生じるわけだが。
「難儀な相手のようだね」
「それに、そもそも勘違いをしているな」
「勘違い?」
「桜堂世羅の目的だ」
「――というと?」
「これはあくまでも想像だが、事前の経験を踏まえると、桜堂世羅は奴と『友達』になりにいったのだと思う」
「へぇ。それは面白いというか、突飛な解釈だね。それが事実だとするとなかなかに普通じゃない」
言葉とは裏腹に、その顔は好感を抱いたような風情だ。
「そういう女だ」
「なるほど」
「だが、奴がそれに応じるはずがないのは確実だ。
そこまでを理解している桜堂世羅が、ただ逢うだけで済ませるはずがないのは明白だな」
「つまり、彼女の中では荒事での交渉は前提条件というわけなのかな」
「戦いになるかどうかまではわからないが、桜堂世羅は奴と『友達』になる前準備として、奴に喧嘩を売りに行ったんだ」
少なくとも、戒にはそうとしか思えなかった。
そして、その確信を証明するように、遠く離れた場所で切られた開戦の火蓋――解放された『静謐なる刃』の強大な『力』を感じていた。
随分な放置プレイを食らっていた岸本爽馬くん(主人公の一人です)が、ようやくセリフとともに再登場。物語に本格的に参戦です。いや、決して嫌っているわけではないのですよ。嫌っていたら、そもそも主人公の一角に加えたりしないし。要するに、アレですよ。苛めることが彼への愛。




