18 その頃の戒―③ 『抜剣』
「………………?」
不自然な違和感を覚えて、戒は瞬きをした。
一瞬、意識が揺らいだような気がする。
何かがあったような気がしないでもないが、その何かをノアールは穏やかに受け止めていられたようなので、追求するのも無粋だと判断した。自分の与り知らぬところで、何かがあって、それはきっと優しい出来事だったのだろうとしておく。
きっと、そうなのだろう。
ノアールはあんなにも嬉しそうな顔をしているのだから。
時間をかけて、ゆっくりとグラスの中に満たされた琥珀色の液体を減らしていく。
他愛のない会話とともに静かに過ぎていく時間。
それは決して不愉快なものではない。
やがて――
グラスの中身が、あと一口の量になった時にノアールが口を開いた。
「篠宮戒くん。ありがとう」
「礼を言われるようなことをした覚えはない」
グラスを合わせて、同時に最後の一口を飲み干す。
ノアールは本当に美味そうに、飲み干していた。
「…………」
だからだろうか。
ほんの少しだけ、それを羨ましく思った。
いつか、やがていつかは、そんな時が来るだろうか。
何かを肴に、酒を美味いと思うような――そんな時が。
そんな風に思っていたから、気づくのが少し遅れてしまった。
接近する歪められた狂気の存在に。
「――では、少しぐらいは君の手伝いをさせてもらおう」
乾いた銃声が響き、まだ中身が満たされていた酒瓶を砕いた。
「………………はぁ……」
戒はため息を吐く。
穏やかな時間を壊されたことに、不快な気分になった。
「客か」
「招かれざる、ね」
何か――ただの人間には持ち得ない気配が接近してくる。得体の知れない何かは、斉藤悠やミリオンの攻撃時に放散される『魔力』に近しいが、禍々しさの濃度が桁外れだ。制御の成された『力』ではなく、暴走するままに垂れ流しにされているかのような気がする。
「どうにも無粋な輩が多くて参るね」
「むしろ、呑気に酒盛りしている奴の方が貴重だと思うが」
「付き合ってくれた側が言うセリフじゃないと思うよ」
「客観的な意見だ」
やがて、彼らの眼前に現れたのは、一言で言ってしまえば、肉の塊だった。大きさは二メートル弱ぐらいだろうか。あちらこちらから裸の手や足を無数に生やしており、そんな手の一本が持った拳銃から放たれた弾丸が酒瓶を砕いたのだろう。付け加えるならば、髪の生えていない男女の顔も無数に存在している。そんなものがゴロゴロと転がりながら迫ってくるのである。端的に言って、悪夢的な光景ではあった。
「………………」
「………………」
想定外の異物の出現に思わず黙り込む。
「………なんだ、アレは?」
「崩れ堕ちてしまったようだね」
「?」
「この空間は特殊な『呪い』が仕掛けられている。殺した人間の魂が、殺した側に蓄積されるとでも表現すればいいのかな。魂の付加による質量の増大――人間という存在を強化する手段の一つだが、まあ外法の類だよ。
ある程度の資質が必要な上に、対象の魔力バランスが崩れてしまうと容易く暴走する魔物へと変貌する。その荒唐無稽ぶりは局地的な自然災害にも匹敵する」
「………少しはわかり易く説明してもらいたいものだが」
「世界観の違いから、知識の伝達も難しい。あとであのお嬢さんから聞くといい。彼女も必要な知識を得ている頃合だ」
「……………そうか」
「彼か彼女かが何人殺したかは知らないが、その結果としてのあの様だよ」
「つまり自滅したという解釈でいいのか?」
「ミもフタもない解釈だがね」
会話をしながらも、二人は同時に左右に跳ぶ。
肌色をした触手が十数本伸びて、絡め取ろうと襲い来る。それらを巧みな体捌きで回避する戒とノアール。
追尾してくる触手の群れが、どの程度の膂力を持っているのかも判然としないが、捕まればろくな末路は用意されていないだろうというのは想像に難くない。
闇の衣を展開して、剣を形作った戒は即座に触手を迎撃する。
斬撃で分断された触手は地面に落ちると溶けるように崩れた。
「しかし、これが元人間とはな」
肉の表面に浮かぶ人間の顔が悲鳴や絶叫、耳障りな叫びを上げる。ビジュアル的にも生半可な神経では、トラウマものの光景だろう。
生憎と戒はそんな繊細さを持ち合わせていないが。
「聖魔の狭間に存在する生命だからこそ、時に人間は突飛な形に変わることもある。良くも悪くもね」
ノアールは剣を抜かずに、単純な身体能力で回避を続けている。
お互いが邪魔にならないように移動を続けながら、数多の触手を迎撃し回避をする。その最中に交わされる会話は明らかに無駄口に分類されるものだが。
「こんな意外性は誰も求めてはいないだろう?」
「確かに。では、宣言通りに、コレは僕が引き受けよう」
「いいのか?」
「ああ。構わないよ。
君が殺す光景は見たくないし、僕の剣なら彼らを昇華してやれる。干渉値の消費も………まあ、許容範囲内だろう」
ノアールが剣の柄に手をかける。
「――抜剣――」
その小さな呟きと同時に、世界が変質した。
戒は正しくそんな錯覚を抱いた。
理性や正気といったものが存在しないであろう肉塊でさえも、何かを恐れるようにほんの刹那だけ硬直したほどの『何か』――
特別に何かが変わったという印象はない。殺気の類も存在しない。
強いて言うなら、ゆっくりと鞘から剣が抜き放たれているだけに過ぎない。
だが、それは――
抜かれてしまえば、誰にも防ぐ術などなく――
交えることすら赦さぬ至高の剣として顕現する■■■■■。
遂に抜き放たれた剣を無造作に下げて、ノアールはゆっくりと肉塊へと歩み寄っていく。
「………………」
あれは無理だ、と率直に戒は認めた。
あの状態になったノアールの前に立つという行為そのものが既に愚かだ。戦う戦わない以前の問題として、そもそも勝負が成立しない。
個の技の極致。
至高の御業。
あれは究極を示す一つの形だ。
「……死せる魂たちよ。
在るべき天へと還るといい」
怯えるように、畏れるように、数多の触手を伸ばす肉塊の攻撃を悉く最小の動きで回避したノアールの無造作に放たれた横薙ぎの一閃が通り過ぎた時、光が瞬いた。
反射的に手で視界を遮った戒が、その明滅の終わりと同時に眼にしたのは、直前まで存在していた肉塊が消滅した光景だった。
「あっさりしているな」
肉塊の放つ異質な気配が消失しているので、表現として適切なのかどうかはわからないが、倒したのだろう。
「無駄に長引かせる意味もないよ」
「……殺したのか?」
それが正しい表現なのかはわからない。
だが、ノアールが誰かの生命を奪うというのは、何故か戒には不自然な忌避感がある。
この男には、それだけはさせてはならない――彼に誰かを殺させるぐらいなら、この手を汚した方がまだマシなのだとすら思う。
「まさか。僕は誰かを殺せるほど弱くはないよ。
それに詭弁のように聞こえるかも知れないが、ああなった時点で『彼ら』は死んでいる。無へと還るべき魂を無理矢理に繋ぎ止めて、歪な形で肉体を変貌させているのが、アレの正体とでも言うべきものだ。
だから、魂を繋ぎ止めている呪詛の部分を斬ったんだよ。そうすれば、魂は解放されて在るべきところへと還ろうとする。もっとも、この空間はそれすらも阻む牢獄として構築されているから、『道』を開くために空間に穴を開ける必要もあったけどね。そうした諸々を含めても彼らは解放されたよ。心配は要らない。
それに下手に彷徨わせると、彼らに喰われかねないっていう懸念もあったしね」
未だに酒盛りが続いているであろう辺りを眺めて、ノアールは肩を上下させる。
相も変わらずに理解しづらい説明になっていない説明ばかりをするが、要するに戒が気を揉む必要はないのだと納得する。
「よくわからないが、大した業のようだ」
「……抜剣、という言葉に聞き覚えはあるかな?」
「確かミリオンがそんな言葉を口にしていたような気がするな」
「僕たちの世界における『力の解放』を示すような意味だ。全力を出すための自己暗示のようなものであり、同時にそれぞれの特殊な能力の発現を顕してもいる。僕の場合は文字通りの意味でね。抜剣=『剣』を抜くということになる」
「……ほう」
「その気になった僕に、斬れないモノは無い。理屈や常識を無視した不条理の剣戟。それが僕の抜剣――『■■■■■』だ」
「随分と口が軽いな」
「必要な情報だからね。
――さて、ここからが本題だ。僕の剣ならば、その左腕の『契約』も破棄させられる。それは君には必要の無いものだ」
「………………」
「大切なものを捧げて、自分を削って、それでも『力』が欲しいのかい?
失って得た『力』なんてものに、本当のところは価値なんて無いんだよ」
「………随分と見抜かれているな。個人情報が流出しているような気分だ」
「不本意ながら、無駄に『眼』はいいんだ。あえて付け加えるなら、君よりも経験を多く積んでいるだけに過ぎない」
少しだけ、ほんの少しだけ考える。
そうだ。確かに俺は削り落としてきた。
それ故に陥穽に陥った虚ろな生を歩みながらも、あの男に復讐をするために。
それだけが遺った、この躯に刻まれた憎悪を縁に。
「俺には、あいつを殺せる『力』が必要だ」
あの男には『闇の衣』だけでは届かない。
この左腕に宿る『力』ならば、あるいは……という程度に過ぎないが、みすみすと強力な手段を失うつもりはない。
――たとえ、使用の度に『代償』を求められるような『力』であったとしても。
「それじゃあ駄目なんだよ。今のままでは、絶対に届かない」
ノアールは哀れみを宿した言葉を告げる。
戒には見えていないものを視通す一つだけの『眼』で見据えながら。
「君が捨ててしまった本当の願いには、ね」
「………………」
「………少し早いが、やはりその『左腕』は君には必要ない。今この場で、斬り落としておいた方がいい」
「勝手な話だな。そっちの理屈で腕を落されるのは、流石に許容できない」
互いの狭間にある空気が張り詰めていく。
不思議な気分だった。
相手が憎いわけではない。厳密には戦わなければならない理由があるわけでもない。
それでも刃を交えなければいけないのは何故なのか?
「あんたとは、戦いたくはない」
胸中に湧いた気持ちの正体もわからぬままに、ただ衝動だけで言う。
「僕もだよ。だけどね。今の君を見過ごせば、君は『人間』に戻れなくなってしまう。君がそんな風に終わってしまうのは嫌なんだよ」
戒は闇を固めた剣を生み、ノアールも剣を正眼に構える。
高まる緊張感に押されるように、戒が踏み出そうとするその刹那に――
「そこまでにしておいてくれないかな、ノアールさん?」
銃を具現化させた悠が、虚空から降り立つ。
「お節介を焼きたくなる気持ちはわからないでもないけれど、限られた干渉値を浪費してまであなたがするようなことじゃない」
牽制するようにその銃口をノアールに向けて、悠は窘めるように言う。
「それを選ぶ権利は、僕にあるんだけどね?」
剣を降ろさぬままに、その片方だけの眼差しを戒に固定したままに言う。
「今のあなたは些か以上に感傷的になっている。ここはあなたがいるべき世界ではないということを忘れないで欲しい。物語を紡ぐのは、彼らだ」
「他の誰が口にしたとしても、君にそれを言う資格があるとでも………?」
秀逸な冗談を聞いたとでもいう風に、ノアールが軽く頭を振る。
「俺が言わなければ、他に誰が言うのさ」
馬鹿呼ばわりの所以の一つであるヘラヘラした軽薄な笑みではなく、戒の語彙では表現できない不思議な表情で悠が言う。
「………だが、あの『契約』がどういう形で結ばれたのかは知らないが、ロクなモノではないのは言うに及ばないと思うが?」
悠が横目で、戒の『左腕』を見る。
………今さら何の不思議でもないのだが、どうやら奴も見抜いて――あるいは知っている様子だった。
「それでも、信じてくれ。先輩は――大丈夫だよ。今の彼は『孤独』じゃない」
「………………」
どうにも心当たりのないことを他人に語られるのは、愉快な気分ではない。
悠が誰を差して口を開いているのか知らないが、まさか己や世羅を対象にしているのではないだろうな。
――だとすれば、それは下らない勘違いだ。
「当の本人を置き去りに、どいつもこいつも勝手な物言いを並べ立てるばかりだな」
愚痴のようなものが零れたが、誰も気に止めなかった。
「彼の言葉は信じられないが」
やがて、ノアールが嘆息する。
「おいおい」
「確かにお節介が過ぎるようだ。続きは無しにしておくよ」
「………そうか」
「残念そうに言わないでくれ。それじゃあ駄目なんだと言っているんだ」
そんなつもりはなかったのだが――むしろ、安堵しているほどだったが――ノアールは不満そうな顔でため息をつく。
「やれやれ。やはり少しぐらいのお節介は必要か」
懐から何かを取り出したノアールが、それをこちらに放り投げる。
それは綺麗な色彩の小さな球体だった。
「おいおい。それは――」
悠が驚きの声を上げるが、ノアールはそれをやんわりと遮る。
「いいんだ。僕にはもう必要のない物だ」
さっぱりとした口調で言い切る。
だが、その眼差しには、ほんのわずかな躊躇と未練が垣間見えた。
――きっと。それは彼の人生を左右するような代物だったのだろうと、不思議な確信を抱かせるほどに。
「これはなんだ?」
「その左腕の『契約』の代償の数回分は賄える代物だよ」
「………いいのか?」
綺麗なビー玉のようにしか見えないが、それが本人の心情とは別に、生半可な代物ではないというのは、その言葉と悠の反応から察せられた。
「それはもう僕の元での役目は終えたものだ。ならば、それを必要とする人に譲り渡すのが筋だろう?
それなりに大切にしてきた物ではあるんだ。君も大事にしてくれるとうれしいよ」
「………………わかった」
得体の知れない代物を、しかし慎重に懐に仕舞う。
「話がまとまったところで、二人とも剣を収めてくれないか。特にノアールさんは『抜剣状態』の剣をいつまでも下げてないでくれ。無自覚に変なものを斬って、『特異点』に変な影響を与えられたら困る」
「はいはいっと」
ノアールが苦笑しながら、長剣を鞘に収める。
戒もそれを見届けてから剣を崩した。
なにやら尾を引いた悲鳴が聞こえてきたのはその時だった。
「………なんだ?」
「嫌な予感がするなぁ」
「あなたが言うと不思議な信憑性があるから嫌だな」
「そうなのか?」
悠の胡乱な呟きを聞き、当の本人に確認を取る。
「残念ながらね。この手の勘はあまり外れないが、そう深刻になるほどでもなさそうだ。精々が頭の痛くなる程度だろう」
「それはそれで嫌だな」
どうでもいいような会話をしていると、悲鳴の元が落ちてきた。
「~~ぁぁぁぁぁぁああああああああああああっ!」
「よっと」
悲鳴を引き連れて、スタンと眼前に降り立ったのは、クワトロだった。
涙目で全身を震わせている少女を背中に背負っていたが。
「あ~、それが桜堂世羅嬢の言ってた………?」
事情が飲み込めない戒とノアールが傍観者に徹していると、悠が前に出た。
「そそ。明石琴音ちゃんだよ。それじゃあ、アフターケアをよろしく頼む」
常人離れしたクワトロの移動をその背中で満喫したであろう少女――明石琴音の顔は真っ青だった。
安全バーのないジェットコースターのようなものだったとは、後の彼女の供述である。
「わかったよ」
なにやら既に話がついているような素振りの会話をして、クワトロが即座に背を向ける。
「それじゃあ、私は彼女の元に戻る」
「はいはい。いってらっしゃい」
白いハンカチをヒラヒラさせる悠。
地を蹴り、虚空に舞い上がる跳躍をして、即座にその姿を点とするクワトロ。
「ほらね」と肩を上下させるノアール。
「………また面倒が増えた」
彼の予言のままに、軽い頭痛を覚えた戒の呟きが虚しく響いた。




