番外 羽柴美命
――ふと、目を覚ました。
明かりの灯らぬ部屋は、深い闇に包まれている。
すっかりと寝入ってしまったらしい。
目の前――至近距離に翔ちゃんの寝顔がある。
ここ最近ではあまりなかったその距離にドキドキする。
いろいろと誤解されているのは自覚しているけれど、他の人の前だとあんまり動かない表情とは裏腹に、内心ではいろいろと感情に揺さぶられているのが自分なのである。
表現するのが不器用なだけで、感情そのものは豊かなのだ。
………翔ちゃんのおかげで。
規則正しい呼吸。穏やかな寝顔。
眠りを妨げないように、少しだけ身体の距離を開いて優しく彼の頭を撫でる。
翔ちゃんはいつも迷惑ばかりかけているわたしの面倒を、嫌な顔一つせずに見てくれる。
一般人――『普通』の枠の中では、高水準で文武両道を成立させている人で、必要な知識の蒐集と自己の研鑽を極めて自然に行う姿は、誰の目から見ても努力型なのだが、当の本人だけはそれを努力と認識していないみたいで、それが少し面白い。
まるで自分が奪ってしまった『誰か』の可能性の分までも生きようとしているかのように、いつだって一生懸命に頑張っている――『無自覚な秀才』。
そんな風に思ってる。
「………………」
翔ちゃんは優しいヒト。
その優しさがわたしに対する後ろめたさを育んでいたのだとすれば、今日は翔ちゃんの『誤解』を少しでも軽減できただろうか。
そうであって欲しいと思う。
自分の気持ちを伝えるのなんて、人と話すのが苦手で口下手なわたしには難しすぎるけど、一生懸命考えた言葉が少しは伝わっているといい。
「………わたし、ホントはとっても悪い子なんだよ」
子供の頃から、余計なものが見えていた。
その『瞳』を閉ざす術を持たなかったからこそ、彼女はゆっくりと己を磨り減らしながら、無自覚な悪意を周囲へと放散していた。
「中途半端に賢かったから、お父さんとお母さんに嫌われて、苛められて………」
――性根が捻じ曲がりそうな中で世界を憎んでいた。
他人の不幸を見たり、聞いたりしたら、「ざまぁ見ろ」って嗤っていた。
鏡に写った自分は泣きながら笑っているような虚無的なものだった。
底無しの穴へと堕ちているような気分だった。
そんな自分が大嫌いだった。
神様はとてもとても優しい『お願い』をしたから。
善悪を超越した無機的な法則で廻っているこの世界において、美命は非常に優秀な『資格』を有している。
「………………あの日、翔ちゃんに逢えなかったら、きっと凄く悪い子になってた」
雨の日に家から逃げ出して泣いていたわたしに、孤独ぼっちの少年が泣きそうな顔で『お願い』をしてくれた時に、とても――とっても綺麗な『光』を見た。
何一つとして得られるものはなく、真綿で首を絞めるように全てを失っていくだけだった世界で、ようやく生きる意味を見出せたような気がしたから。
冷たく凍りついた誰も彼もを鏖殺する憎しみではなく――
――暖かな希望で。
「あの日から、わたしはずっと嬉しい気持ちで満たされてるんだよ? わたしみたいな悪い子が誰にも迷惑をかけずに、大好きな男の子のために一生懸命頑張って生きていられる。こんなにも嬉しいこと他にないよ」
だから、今日という日をこんなにも穏やかに過ごせていることに深い安堵を抱く。
「………………」
悪い夢を視た。
とても、とても嫌な悪夢。
もしも本当にそうなったら、間違いなくわたしはそうするだろうと思わせられる――そんな夢だった。
わたしはその意味を知っている。
予め用意されていた物語は始まらなかった。
そのためにいろんな人が苦労をしたのかもしれないし、今もまだいろいろと頑張ってくれているのかもしれない。
だけど、だからこそ。
「……翔ちゃん。わたし、幸せだよ」
誰かへの感謝の気持ちを忘れずに、今という時間を大切にしたい。
翔ちゃんの傍にいたい。
暗闇から連れ出してくれた優しい男の子の傍で、彼と一緒に笑いながら生きたい。
そんな些細でちっぽけな、大切な『お祈り』を願い続けていく。
翔ちゃんが目を覚ますまでその寝顔を見続けたくはあったのだけど。
ある種の予感が警告する。
この手の予感は外れたためしがないので、名残惜しく思いながらもこっそりとベッドから抜け出す。転ばないように細心の注意を払いながら、ベッドから落ちていた薄手のタオルケットを翔ちゃんに掛けて、静かに自分の部屋へと足早に向かう。
マナーモードにしている携帯電話がブルブルと机の上で震えているのを発見した。
相手は登録名を『真っ黒』にしている人物。
「やっぱり……」
内心でちょっとうんざりしながら、通話ボタンを押した。
『こんばんは、愛しのマイフレンド(笑)♪』
「そろそろあなたが何か言ってくるんじゃないかと思ってた」
翔ちゃんには聞かせられない冷たい声で応じる。
『あらそう? いい勘してるわね?』
白々しいと思う。
覗き見していたとまでは言わないが、わたしたちの今日一日の行動をある程度以上の精度で予測していたのは疑いを挟む余地がない。
――舞台役者から降板させてくれたのは、おそらくは『彼女』の手腕によるものだろうと思っている。少なくても大部分に関わっているはずだ。裏で。
その結果として得られた今があるのだから、言葉で尽くせぬほどに感謝をするのが筋ではあるのだが、それを素直にするには相手の性格が悪すぎる。
絶対の確信で断言するが、わざわざ『彼女』が動いた理由に『善意』は微塵と含まれてはいない。
美命や翔悟の存在を、暇潰しの道具とすら見ていない相手である。
………まあ、下手に興味を持たれるよりも遥かにマシなんだけど。
この手の人間に対する対処法として最適なのは、そもそも認識されないことなのだ。
その点に関しては既に手遅れなのだが、それがまだ興味本位で手を出すレベルに達していないのが救いなのである。
『少なからず念願の叶った気分はどぉ?』
「………………天にも昇りそうなぐらいに幸せよ」
嘘偽りのない気持ちを素直に告白する。
本来の道筋からすると天国と地獄ぐらいの差があるので、なおさらである。
『じゃあさ、そのままの勢いでエッチに突入した?』
「………どうしてそういう方向に、思考がシフトするの」
『エロゲなら王道よ』
「………いやいやいやいや、展開速すぎるから」
『その年頃の男の子ってのはケダモノなのよ』
「………それは、まあ、否定はしないけれど………」
そういうのを翔ちゃんも、ちゃんと隠したりしているわけだし……。
『油断はしないことね。今日辺りは、双方ともに意味もなく理由もなく唐突に気分が盛り上がる可能性は非常に大よ。変転現象の中には可能性を招き寄せる性質もあるからね』
「あのね。自分が知ってることを、他の人も当然のように知ってると思いながら会話をするのはよくないことだよ」
頭がいいのは知ってるけど、逆に頭悪く感じちゃうからね――という感想は、こっそりと心中に秘めておく。
『理解してもらおうとは思ってないし、単にたまには誰かに知ったかぶりをしたいと思う時もあるのよ。あたしの本性を知ってる人ってそんなにいないから、今回は都合のいいあんたに白羽の矢が刺さったのよ』
「刺さないで欲しいなぁ」
『まあ、何はともあれ、当初の予定を回避したとは言っても、楔をたった一つだけ外したに過ぎないのは、ちゃんと理解しているわよね?』
「………………」
『あいつらの脚本は、いくらでも修正が可能よ』
「………………」
『昔から悲劇を演出するための手法として効果的だと判断されているものがあるわ。
――曰く、奪うためにはまず与えなければいけない』
彼女が言うには、巨大な改竄点の影響があるのは確かなのだが、翔ちゃんと私の関係に『連中』の思惑は絡んではいなかったらしい。けれど、そうした事情とは裏腹に、翔ちゃんの存在の価値は大きなものと認識されている。
覚醒の『鍵』として。
『今の世界の歯車を廻しているロクデナシどもの薄汚い思惑からはそう簡単には逃げられないわよ? あんたの存在は連中にとってこの上もなく都合がいいものね。破滅的な方向を向いた時にこそ真価を発揮する性質も、その覚醒へと至る手順が明確に発覚している点もね。
そうでしょ、鏖殺の女王様?』
「わかってる。うん。ちゃんとわかってるよ」
言われるまでもなく、ちゃんと理解している。
黒を超越した『闇』が己の中で眠っているのは自覚している。
それが決して、絶対に、何があろうと、目覚めさせてはならない類のものだということも。
「でも――」
『ん?』
「黒幕な人には、あんまり言われたくないかも」
『多少の誤解が含まれているようだから、敢えて言葉にしておくけれど、あたしは『脚本家』に過ぎないのよ。演者に相応しい舞台を用意するのが主な目的で、全てが思い通りになるわけじゃないわ』
「………………」
『不確定要素は常にある。『脚本』は常に修正されながら、演者はアドリブを強いられる。『神の見えざる手』――存在するだけでただただ純粋な『悪意』を撒き散らすような輩も存在しているわけだしねぇ~』
「………あんまり関わりあいたくないタイプの肩書きだね」
『とっくに手遅れよ』
「え?」
『でも、あんまり悲観する必要はないわ。あんたに少なからず負い目があるのは、最初に話をした時に伝えたとおりだしね。あたしが連中の手を逃れたからこそ、あんたは『第二次計画』として連中に目をつけられてしまったわけだしねぇ』
「途方もなく不本意な話だよね」
『だ・か・ら。フォローなら可能な限りしてあげるわよん♪』
「………ありがとう………」
お礼をいう場面なのかは甚だ疑問なのだけれど、巨大な悪意から身を守る手段を持ち得ぬ身としては、藁にもすがる気持ちで頼らざるをえないのである。
『………今回の配役変更は、その後に何らかの影響を出すわ』
「具体的には?」
『それがわかれば苦労はしないわね――と言っておきたいところだけど、おそらくは夏休みくらいにまた『一騒動』が起きると予見しているから、その時に何らかの形で関わってもらうことになると思うわ。
干渉値の帳尻は合わせておかないと面倒なことになるからね。
特に今回の『遊戯』には数多の不確定要素が混ざりこんでる。ここから新世界へ至るための大きな流れが始まるといっても過言じゃないからこそ、あたしも調整には途轍もなく気を使ってるのよね。
余計な真似をした人たちが多いし、さらに輪をかけて迷惑な来訪者も多いから。
………………そろそろ次の動きがある頃合ね。忙しくなりそうだから、もう切るわね』
「うん」
『………全てはまだ始まってすらいないのだから、せめて、この束の間の薙ぎの期間を大事にしなさいね』
「………うん。ありがと」
『おやすみ。バイバイ』
通話を終える。
面と向かって言う機会はないだろうし、きっとその言葉を素直に受け入れてはくれないだろうけれど。
「おやすみ。愛しのマイフレンド」
友達の言葉を借りて、その耳には届かない言葉を口にした。
● ● ●
それから数分の後。
コンコンとノックの音。
欠伸をしながら、翔ちゃんが部屋の中に入ってきた。
「………いやぁ、すっかりと寝入っちゃったな。美命が抜け出したのにぜんぜん気づかなかったよ」
眠気を色濃く残した顔で、苦笑しながら言う。
「可愛い顔でよく寝てたよ。
さっき、友達から電話がかかってきたの」
「可愛いって言われても複雑だよ」
「ふふっ」
「これから夕食の支度をするから、先にお風呂をすませてくれ。もうすぐ沸くからさ」
「うん。わかったよ」
着替えの用意のためにタンスに向かう。
「たまには――」
「うん?」
「こんな風にゆっくり過ごす休日もいいもんだね」
素直な感想を口にしているのだと思った。
五月三日。
この日が、本来の予定ならば、どのように始まり、どのような終焉を迎えたのかを、美命は朧気ながらに察している。
この何気なく過ぎた一日は、本来ならば存在しない奇跡のような一日。
自分たちを関わらすまいとした『誰か』が与えてくれたものなのだと、誰に言われるまでもなく理解している。
それを翔ちゃんが知る必要はない。
絶対に知られてはいけない。
陽だまりで生きるべき人には、ほんの一欠片であっても『闇』を覗かせてはいけない。
だから――
「そうだね」
美命は微笑みながら、うなずいた。
――穏やかな日々はこれからも続く。
続いていくのだと、信じている。
次からは、本編の再開です。




